藤川宿

【2015年5月23日(土)旧東海道 藤川宿】
東海道五十三次37番目の宿場町、藤川。天保14年(1843年)当時の藤川宿人口1203人、家数302軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠36軒の小規模な宿場町。慶安元年(1648年)増大する東海道の通行量に対処するため、山中郷から住民を移して藤川村加宿の市場村が成立、ここを藤川宿東町として中町・西町の3町で宿場を形成した。しかしながら西隣が大宿の岡崎、東隣に飯盛女を多く抱えて賑わった赤坂宿があったため、藤川宿に宿泊する旅行客は少なく宿場の経営は苦しかったようだ。当初は2軒の本陣が置かれたが、江戸期を通して退転と交代を繰り返し、江戸時代後期には森川久左衛門の1軒が本陣を務め、大西喜太夫が経営する橘屋が脇本陣を務め本陣を補佐した。名産物は雲母、縄、網袋。雲母は藤川宿北側一帯の山中から産出、縄や網袋は宿場周辺で自生していたカラムシ(イラクサ科の多年草)から繊維をとり作られた。また、むらさき麦の産地としても知られており、松尾芭蕉がこの地を訪れた際、「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」の句を詠んでいる。歌川広重は「東海道五十三次之内藤川 棒鼻ノ図 」の題を付け、藤川宿出入口で御馬献進(毎年旧暦8月に幕府より朝廷に馬を献上する行事)の行列を迎える宿役人の様子を浮世絵に描く。




藤川の十王堂
藤川宿京方外れにある成就院の十王堂。冥土で死者の罪を裁く10人の王を安置する。創建年不明、十王の台座裏に「宝永7庚寅年7月」と記されており、江戸時代中期の建立と推定されている。


藤川の十王堂
十王は秦広王、初江王、宗帝王、五官王、閻魔王、変成王、平等王、太山王、都市王、五道転輪王の総称。


十王堂の芭蕉句碑
爰も三河 むらさき麦の かきつはた

十王堂境内に立つ芭蕉句碑。寛政5年(1793年)建立。松尾芭蕉がこの地を訪れた際に詠んだ句、藤川は”むらさき麦”の産地として知られる一面もあった。


西棒鼻跡
藤川宿京方(西側)出入口の西棒鼻跡。石垣や傍示杭を復元する。


藤川小学校
西棒鼻跡付近、藤川小学校前を行く旧東海道。


旧東海道 岡崎市藤川町西町南
藤川宿の町並み。


伝誓寺
旧東海道より延びる参道の先に伝誓寺。裏手の山は権現山と称し、徳川家康の仕えた内藤家長の居城(藤川城)跡と伝わる。


宿場橋
百田川を跨ぐ宿場橋。


関山神社参道
関山神社参道。関山神社は藤川宿北側の山麓に鎮座、古くは赤山大明神と称す。周辺一帯で雲母を産出、雲母は藤川宿の名産物のひとつだった。


旧東海道 岡崎市藤川町中町南
藤川宿の中心部、中町。薬師山北麓に町家を連ね、本陣や脇本陣が置かれた。


藤川宿脇本陣跡
脇本陣橘屋跡。江戸時代中期の建築とされる脇本陣門が残る。宿駅伝馬制度の廃止後は藤川村役場が置かれた。


藤川宿資料館
脇本陣跡に建つ藤川宿資料館。


藤川宿資料館
藤川宿資料館内部。藤川宿に関するパネルや復元模型をはじめ、宿場内に掲げられていた高札を展示する。


藤川宿模型
藤川宿模型の中町辺り。写真手前が薬師山、山腹に薬師堂があったことに名の由来がある。


藤川宿高札
藤川宿に掲げられていた高札。


むらさき麦と脇本陣石垣
脇本陣跡裏手に残る石垣。隣接する畑でむらさき麦が栽培されており、春風に紫の麦穂を揺らす。そろそろ収穫を迎えるのだろう。江戸期に藤川宿一帯で作られたむらさき麦は、戦後まで細々と栽培が続けられたがいつしか消滅、平成6年(1994年)地元の人々の努力により栽培が復活した。


藤川宿本陣跡
森川本陣跡。昨年(2014年)森川家より岡崎市へ土地が寄付され、藤川宿本陣跡広場として整備された。


藤川宿復元高札
本陣跡に設置される復元高札。元々はここより江戸方(東側)の中町と東町(市場村)の境に高札場があった。


藤川宿本陣跡
本陣跡より薬師山を望む。薬師山の山腹にあった薬師堂は、現在廃堂となり本尊薬師像は称名寺本堂内に移されている。後で登ってみよう。


カラムシと本陣石垣
本陣跡裏手に残る石垣。宿場の名産品、縄や網袋の原料として使われたカラムシ(写真手前)が自生している。


藤川宿本陣跡
本陣跡より北側の山々を眺望。


旧旅籠銭屋
佇まいに宿場時代の面影を残す旧旅籠銭屋。


旧商家米屋
天保年間(1830年~43年)建築と推定される旧商家米屋。その屋号が示す通り米穀商を営み、戦後に薬局へ転業した。近年にその薬局も廃業、空き家になっていた建物をリニューアルし、藤川宿の発信基地として”むらさき小町”という店がオープンした。


旧東海道 岡崎市藤川町中町南
藤川宿中町の町並み。


問屋場跡
小林商店の場所が問屋場跡。


稱名寺
中町東端にある巌松山柳田院稱名寺。京都誓願寺を本山とする浄土宗西山深草派、阿弥陀如来座像を本尊とする。永禄11年(1568年)創建。
武田成信の墓
武田信玄の異母弟、河窪信実の末裔にあたる武田成信の墓(写真右端の墓)。成信は藤堂和泉守の家中だったが、宝暦13年(1763年)藤川宿で没したという。墓の裏に解説板が横たわっているのが悲しい。


旧旅籠田口屋
稱名寺参道入口に建つ旧旅籠田口屋。


粟生(あおう)人形店
藤川宿中町と東町(現 岡崎市市場町)の境にある粟生(あおう)人形店。特徴ある印象的な建物だ。


粟生人形店にて
粟生人形店にて。ツバメは子育ての季節、無事に育ち巣立ってほしい。


高札場跡
粟生人形店の向かいが高札場跡。


明星院
粟生人形店の裏手にある弘法山明星院。真言宗醍醐派、本尊は不動明王立像で片目不動と呼ばれる。元は山中郷舞木(現 岡崎市舞木町)の地にあり熊野那智山の末寺だったが、藤川村加宿の市場村成立に伴い延宝3年(1675年)に現在地に移転、天和年間(1681年~83年)京都醍醐三宝院末に改宗したと伝わる。工芸「蔵王権現懸仏」と絵画「那智山参詣曼荼羅」は岡崎市指定文化財。


徳性寺
旧東海道から徳性寺へ延びる参道。僅か100m程の参道に名鉄名古屋本線、山綱川、国道1号が横切る。


旧東海道 岡崎市市場町東町
旧東町(現 岡崎市市場町)を行く旧東海道。


藤川宿駐車場
市場町に設けられる藤川宿駐車場。


津島神社参道入口
津島神社参道入口。


津島神社参道
旧東海道より延びる津島神社参道。名鉄名古屋本線に分断されており、現在はこの参道を通って津島神社には行けない。


市場町の秋葉山常夜燈
市場町の秋葉山常夜燈。寛政7年(1795年)建立。


市場町に残る鉤の手
旧東町の江戸方(東側)端付近に残る連続する鉤の手の道筋。


東棒鼻跡
藤川宿江戸方(東側)出入口、東棒鼻跡。左が宿内に入る旧東海道。


東棒鼻跡
東西の棒鼻跡は広重が描いた浮世絵の景観を復元している。


Tokaido37_Fujikawa.
東海道五十三次之内藤川 棒鼻ノ図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「藤川宿」より引用


旧商家米屋
東棒鼻跡から藤川宿内を戻り再び米屋前に。


薬師山登山口
薬師山西側に登山口らしき階段を発見。早速登ってみよう。


薬師山登山道
階段を登りきった先、しばらく人が入っていない感じの心細い登山道が延びる。クモの巣を払いのけながら先へ進む。


薬師山登山道
登山道の山頂側に平坦地、薬師堂の跡か?


薬師堂跡
薬師堂跡と思われる平坦地。江戸時代中期に藤川宿で流行した疫病の退散を祈願するため、薬師如来を本尊に祀って薬師堂が建立された。明治6年(1873年)藤川宿で没した江戸力士”江戸ケ嵜”の追善相撲が稱名寺境内で興行された夜、火災に遭って御堂は本尊もろとも焼失。後に石仏の薬師如来像を祀り薬師堂を再建、これも老朽化して廃堂となり本尊は稱名寺本堂内に移された。


薬師山山中
薬師山山中に残る朽ちつつある小屋。


薬師山の小祠
小屋に守られて小祠があるが、これが何なのかは不明。廃堂になった薬師堂に関係していると思うが、長い間放置されたのだろう廃墟感が漂って寂しい。


薬師山登山道
小祠から東側の登山道は見ての通りの状態。まともに歩けそうにない。


薬師山
下山して薬師山を望む。


藤川宿にて
大荷物と「ビールは何派」のメッセージをを背負って歩く旅人、その後ろをついて藤川宿内の旧東海道を西へ戻り。


藤川駅
藤川駅から帰途につく。


【旧東海道歩き 第13日目】東岡崎駅→岡崎宿→藤川宿→藤川駅 歩行距離約11km
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添牛内

ソバの花が咲き誇る8月上旬の幌加内町、昨年末に訪れた添牛内地区を約8ヶ月ぶりに訪れた。冬場には見ることができなかった添牛内という地名の由来地”早雲内の滝”や旧深名線の添牛内駅跡をはじめ、添牛内新市街と旧市街、両隣に位置する大曲と新富地区を歩き回ってみた。添牛内については前に書いた記事「深名線 添牛内駅跡」に書いているので、こちらを参照してほしい。まずは早雲内の滝と添牛内新市街と旧市街の様子から。




政和そばの花展望台
旭川から江丹別峠を越えてまずは政和そばの花展望台へ。


そばの花
そばの花の見ごろは7月中旬から8月上旬。可憐な白い花を咲かせる。


政和そばの花展望台にて
幌加内町のゆるキャラ”ほろみん”。ちょうど”幌加内町新そば祭り”PR用の写真撮影中。顔がそばの実というそばの妖精で、「身(実)を粉にするいきおいでがんばっちゃう努力家。」とのプロフィールが上手い。今年のゆるキャラグランプリにエントリーしているので、清き1票を投じよう。


ほろみん
撮影を終えて一休みの”ほろみん”。暑い中お疲れ様です。


政和のそば畑
展望台よりそば畑を一望。幌加内町はそばの作付面積、生産量とも日本一。


そば処きたむら
展望台に併設する”そば処きたむら”。


そば処きたむらのもりそば
そば畑を眺めながら食べる幌加内そばは格別。腹ごしらえを終えたところで政和そばの花展望台より国道275号を北上、添牛内へ向かう。


添牛内跨線橋
国道275号と国道239号(観月国道)の分岐点付近、添牛内跨線橋を渡り観月国道を霧立峠方面へ向かう。


ソーウンナイ川
観月国道横を流れるソーウンナイ川。


滝の上覆道
滝の上覆道の左下にソーウンナイ川があり滝があるはずなのだが…。


ソーウンナイ川
急斜面に藪が覆い川まで降りるのはちょっと厳しい。覆道を歩いて滝上へ行ってみることに。


早雲内の滝
覆道から早雲内の滝が見れた。ソーウンナイの川名はアイヌ語の「ソー・ウシ・ナイ」にあり、滝のある川という意味を持つ。添牛内という地名の由来はこのアイヌ語にあるという。


早雲内の滝
流木が掛かり激しく水しぶきをあげる早雲内の滝。


添牛内駅跡
早雲内の滝を見終え添牛内跨線橋まで戻る。跨線橋上より雑草に覆われた深名線廃線路と添牛内駅跡を望む。


添牛内駅跡
添牛内駅跡構内。雑草に覆われ旧駅舎が確認できるだけ。


旧添牛内駅
旧添牛内駅駅舎。平成7年(1995年)深名線の廃止に伴い廃駅に。


旧添牛内駅
駅前に残るのは1軒の民家のみ。旧駅舎はこの民家の物置として使われたことで残存していたのだが、現在民家が無住になっており、今後の動向が心配。この景観が見納めにならなければよいが。


旧添牛内駅駅舎
旧添牛内駅駅舎と左奥に農業倉庫。


旧添牛内駅構内
旧添牛内駅構内。藪に埋もれているがホームが残存しているらしい。


旧添牛内駅
駅舎南側に残る引き込み線の遺構。


添牛内跨線橋
添牛内駅跡より廃線跡と添牛内跨線橋を望む。


旧添牛内駅前通り
旧添牛内駅前通り。駅舎から50m程で国道に突き当たる。昭和29年(1954年)の地図によれば左角に森脇商店、突き当り国道向こうに右から阿部旅館、ツバキ理容院、モナコパチンコが並んでいた。


添牛内新市街
添牛内新市街。添牛内駅が開業して新たに市街が発達、従来からの市街(旧市街)に対して駅周辺は新市街と呼称された。


霧立亭
添牛内地区唯一の飲食店、新市街の国道沿いにある霧立亭。平成13年(2001年)に閉鎖された旧添牛内郵便局で、建物を改装して開店した手打ちそば処。


霧立亭
営業中だったので早速店内に。


霧立亭のざるそば
太めでこしがあり、そばの香りと味を堪能できる私好みのそば。美味しく頂きました。


旧農協倉庫
霧立亭より旧農協倉庫を望む。


旧添牛内農協と国道239号
旧添牛内農協。


故歳桃訓導殉職彰碑・故大川榮子弔碑
故歳桃訓導殉職彰碑(写真右)と故大崎榮子弔碑(写真左)。昭和13年(1938年)8月26日、雨竜川での水泳授業中に生徒の大崎榮子が溺れ、指導にあたっていた歳桃多吉先生が助けに行くが、二人とも溺死してしまったという。3回忌の昭和16年(1941年)に建立。


雨竜川
供養碑の裏手を悠々と流れる雨竜川。77年前にここで起きた教師と生徒の悲劇を思い、冥福を祈ろう。もし大川榮子さんがこの水難事故に遭わなければ、90歳近いお婆ちゃんだろうか。


添牛内踏切跡
添牛内駅の名寄側に残る踏切跡。線路部分が未舗装のため水溜りができている。左奥に旧市街を延びる国道。

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深名線 大曲仮乗降場跡

添牛内の北隣に大曲地区がある。地名の由来はこの地域で大きく曲がりくねる雨竜川にあると思われる。明治45年(1912年)御料地の貸付を受けて開拓民が入植したのがはじまり。以来、開拓が進められ昭和26年(1951年)頃には360人以上の人口を数え、昭和30年(1955年)深名線のレールバス運用を期に大曲仮乗降場が開業、大曲地区は最盛期を迎えた。しかし昭和30年代後半から幌加内町の人口減少がはじまり、特に大曲地区の過疎化は深刻で、昭和50年頃には自治集落を構成することができなくなり、南隣の添牛内自治区に吸収、利用客がほとんどいなくなった大曲仮乗降場は昭和51年(1976年)に廃止された。現在は地域一帯にそば畑が広がっている。


空中写真_大曲_1963
空中写真データ:国土地理院 地図番号NL-54-12-15を基に作成
昭和38年(1963年)6月撮影の大曲付近

大曲仮乗降場の跡地を確認しよう。仮乗降場が存在していた昭和38年(1963年)の空中写真を見ると、図示する深名線北側に建造物が確認でき、おそらくこれがホームと待合所に思われる。付近を通る農道から乗降場へアクセスする道が確認できず、畑の畦道を通っていたようだ。現在の地図に付近の旧国道と旧農道を記入し、大曲仮乗降場の跡地を推定。旧国道を分かれて大曲仮乗降場北西側を通り雨竜川右岸に出る農道を、便宜上ここでは”仮乗降場旧道”と表記する。下のグーグルマップと見比べてほしい。




旧国道と仮乗降場旧道の分岐点
まずは大曲仮乗降場へ至る旧道と旧国道の分岐点。写真は踏切跡より現国道方向を望む。旧国道右脇の草むらが窪んでいる辺りが仮乗降場旧道の痕跡で、現国道ルートの敷設により消失している。


大曲の旧国道
大曲の踏切跡から添牛内へ延びる旧国道。


大曲仮乗降場跡
国道を添牛内方面へ少んだ辺り。左奥の車が停まっている所が、雨竜川右岸を北東へ延びる農道。仮乗降場旧道はこの辺りで国道を斜めに通り、写真中央奥辺りに大曲仮乗降場があったと推測される。


大曲仮乗降場跡
現国道より雨竜川右岸沿いに延びる農道。


大曲仮乗降場跡
大曲仮乗降場跡のランドマークはこのトラクターの待避所らしき舗装面。上写真の農道と国道の分岐点付近にある。写真は朱鞠内方面を望んでおり、左手の藪が深名線跡。同じような舗装面が対向側にもあり、これは現国道の敷設工事中に仮乗降場道が現国道と直角に交差するよう仮乗降場道側ルートを改変した道路遺構のようだ。この改変ルートは農道から仮乗降場へアクセスする畦道を利用したのかもしれない。


大曲仮乗降場跡
ランドマークの待避所より深名線跡添牛内方面を望む。往時は大曲駅仮乗降場が写真中央の奥辺りに見えたはずだ。単式ホームとホーム上に待合所を設けるだけの仮乗降場、廃駅から40年近く経過し、深名線廃止からも20年経っており、駅跡は廃線跡ともに草むらに覆われ自然に帰す。遺構を見つけるのは無理だろう。


大曲のY字路
雨竜川右岸の農道を入ってすぐにあるY字路。


大曲のそば畑
大曲地区のそば畑をY字路地点から望む。満開に咲き誇るそばの花が視界一面に。


大曲地区
雨竜川右岸より川に向かって分かれる道が…。


雨竜川
トラクターかコンバインの踏み跡が川に向かって消える。ここで雨竜川を渡河して対岸に行っているようだ。”大曲の渡し”とも呼ぶべき渡河地点。


北海道電力設置の警告看板
雨竜川渡河地点付近には北海道電力設置の警告看板。


初瀬尾跨線橋
大曲地区の国道に残る深名線廃線跡を跨ぐ初瀬尾跨線橋。昭和55年(1980年)11月完成。跨線橋名の初瀬尾はこの周辺一帯に農場を持っていた初瀬尾家に由来があるようだ。


初瀬尾跨線橋横に残る旧国道
初瀬尾跨線橋横に残る旧国道。


初瀬尾跨線橋
初瀬尾跨線橋にて。貴重な深名線の遺構。


初瀬尾跨線橋と深名線跡
初瀬尾跨線橋下に深名線廃線跡が確認できる。


撮影日:2015年8月4日(火)、7日(金)
【 参考サイト 】
添牛内Web同窓会
ウィキペディア

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深名線 新富駅跡

添牛内の南隣が新富地区、元は豊富と称し明治44年(1911年)阿波(現在の徳島県)より12、3戸が入植したのがはじまり。大正5年(1916年)豊富小学校が開校、昭和30年(1955年)新富仮乗降場が開業し、翌年に駅へ昇格する。駅名を新富としたのは宗谷本線に同名の駅があったためで、昭和35年(1960年)に行政字名も新富に改称された。この時に小学校名も新富小学校へ改称されたと思われる。この時に4ヶ所の澱粉工場や製材所等を抱え最盛期を迎えるが、やはり新富も過疎化は免れず、昭和47年(1972年)新富小学校は廃校、同51年(1976年)に大曲地区とと共に添牛内自治区に吸収され、新富駅は深名線廃止より一足早い平成2年(1990年)廃駅となった。現在の新富地区は駅跡近くに古屋牧場の1軒が残るのみ、地区一帯にそば畑が広がる。

空中写真_新富_1977
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7713を基に作成
昭和52年(1977年)10月撮影の新富駅付近

新富駅の跡地を確認しよう。駅が存在していた昭和52年(1977年)の空中写真を見ると、図示する場所に駅舎とホーム、駅前の新富集荷所が確認できる。この当時に澱粉工場は跡形も無くなっていたようだ。現在と38年前の変遷を下のグーグルマップで見比べてほしい。




新富駅前通り
国道から新富駅跡に延びる駅前通り。


新富駅前通り
駅跡より駅前通りを望む。左の建物が新富集荷所。


新富集荷所
駅跡前に残る新富集荷所。今は本来の役割を終えているが、新富駅跡のランドマークとして役割を果たしている。


新富駅跡
新富駅跡。全く痕跡を留めていない。


新富駅跡裏に広がるそば畑
新富駅跡裏に広がるそば畑。


新富停留所
駅跡入口の国道沿いに、ジェイ・アール北海道バスの新富停留所。


古屋牧場
新富小学校跡を敷地にする古屋牧場。


旧新富小学校体育館
古屋牧場に残る旧新富小学校の遺構。元は体育館だったらしい。


古屋牧場裏の農道
古屋牧場西辺、南へ延びる農道。


新富のそば畑
古屋牧場西側に広がるそば畑。


新富の旧国道
新富駅跡北西側に残る旧国道。当時はS字カーブ状の国道で、その中心で深名線が交差していた。現在の国道は直線状に改修されているが、旧国道の路面が今も残っている。写真は幌加内方面を望み、車が停まっている辺りが踏切跡。


新富の旧国道
旧国道を添牛内方面に行くと、途中で通行止に。


新富の旧国道
車止めを越えて徒歩で旧国道を先に進む。かなり藪化が進んでいるが、追越禁止の黄色い中央分離線がしっかり見られる。


新富の旧国道
現国道に合流する手前で藪に阻まれる。ここで引き返す。


キバナオニグモ
廃道ではお決まりのクモの巣、ここで見つけたその主がキバナオニグモ。クモの巣に少し刺激を与え、獲物がかかったと勘違いし中心に現れたところを撮影。北海道に広く分布するオニグモで、あらゆる所でしばしば目にする。模様の入った黄色の腹部が特徴的。腹部が大きくなっており、これから産卵を迎えるのだろう。


空中写真_新富_1948
空中写真データ:国土地理院 地図番号NL-54-12-15を基に作成
昭和23年(1948年)7月撮影の新富神社付近

新富地区散策の締めに昭和35年(1960年)新富改称時にあったはずの新富神社を参拝しようと思い、鎮座地辺りを歩き回ってみた。その場所は十三線川の南、国道沿い西側の台地上。しかし付近にはそれらしき参道や社殿が見当たらず、他の神社に合祀されたのか、それとも自然消滅してしまったのか…。そこで昭和23年(1948年)撮影の空中写真を見てみよう。参道や境内らしきものが写っているが、有力な情報もなく鎮座地の特定ができず仕舞い。


新富神社跡
新富神社の参道入口があったと思われる場所。写真左手の高台上が新富神社の境内地と思われるが、国道に接する法面は藪に覆われ、昭和23年(1948年)撮影の空中写真に見えたらしき参道は確認できない。情報を求む。


撮影日:2015年8月4日(火)、7日(金)
【 参考サイト 】
添牛内Web同窓会
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深名線 上多度志駅跡

起点の深川駅から10.8km、深名線3駅目となる上多度志駅。以前に「深名線 多度志・上多度志駅跡」の記事で紹介したが、再訪する機会を得たので再度記事にしよう。上多度志駅は深川市多度志町字上多度志に設けられていた駅で、所在地名が駅名の由来。因みに多度志はアイヌ語の「タット・ウシ・ナイ」(白樺が茂る川の意)に由来する。上多度志の地内を道道98号旭川多度志線が通り、駅跡付近で道道875号多度志一已線が分岐。ここから深名線と道道875号は並走して南進し、多度志峠を越えて深川へ至る。深名線の峠越えは多度志トンネルが設けられていたが、道道875号は悪路の峠道で車にとっては相当な難所だったようだ。深名線廃止から5年後の平成12年(2000年)道道875号に多度志トンネルが開通、現在は上多度志から深川へ快適にドライブできる。

上多度志駅の始まりは昭和21年(1946年)、上多度志仮乗降場として開業し、同25年(1950年)駅へ昇格、同29年(1954年)貨物取扱いを開始する。全盛時に1面2線ホームに駅舎を有する有人駅だったが、上多度志地区に過疎化がはじまり、昭和49年(1974年)貨物取扱い廃止、昭和57年(1982年)無人駅となり、平成7年(1995年)深名線廃止に伴い廃駅に。駅付近にあった上多度志簡易郵便局は平成14年(2002年)に廃止、上多度志唯一の小売店だった藤本商店も近年に廃業した。現在は駅舎やホームは撤去されて残っていないが、旧駅前に農業倉庫の建物が残り、線路跡は農道となって往時を偲ぶ。

空中写真_上多度志_1977
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7727を基に作成
昭和52年(1977年)9月撮影の上多度志駅付近

上多度志駅が有人駅だった昭和52年(1977年)の空中写真を見ると、駅舎とホーム、駅舎右側に付属する建物(トイレ等?)が確認でき、道道98号沿いに藤本商店が見える。道道875号は旧道ルートで、旧大正橋より多度志川上流部に深名線の多度志川橋梁が架かっている。





上多度志簡易郵便局跡
道道98号沿いの上多度志集落。右手前の民家が上多度志簡易郵便局跡。


上多度志にて
上多度志の道道98号沿いにて。ドラえもんやアンパンマン、キティちゃんらしきキャラが…。


旧藤本商店
旧駅前通り入口前、道道沿いにある旧藤本商店。


旧上多度志駅前通り
上多度志駅跡より道道98号に向かって延びる旧駅前通り。突き当りの建物が旧藤本商店。


多度志町農業倉庫
駅跡前に残る多度志町農業倉庫。


上多度志駅跡
写真に見える建物の右隣辺りが駅舎跡。


上多度志駅跡
上多度志駅跡構内より駅前通りを望む。


上多度志駅跡
上多度志駅跡構内。かつてここにあったホームは撤去され、線路跡は農道と用水路に化している。


上多度志駅跡
上多度志駅跡より深川方面の廃線跡。農道と用水路に線路の面影を残す。


上多度志駅跡0
上多度志駅跡深川方より名寄方面の廃線跡と駅跡を望む。


上多度志の水田にて
上多度志の水田にて。


深名線廃線跡
駅跡より深川方面に少し行くと廃線跡は水田に消失。


上多度志の踏切跡
上写真の廃線消失地点。往時は踏切が設置されていたのだろう。


深名線廃線跡
踏切跡より深川方面、廃線跡は水田に消える。


上多度志部落会館
踏切跡付近にある上多度志部落会館。写真左奥に多度志町農業倉庫が見える。


上多度志の旧道道
多度志川北岸(右岸)より上多度志に向かう旧道道875号。道の右側に沿って深名線が通っていた。


大正橋
多度志川を渡る道道875号の大正橋。この架橋地点が深名線の多度志川橋梁跡。現在の大正橋は深名線廃止から6年後の平成13年(2001年)完成した。


多度志川
大正橋より多度志川下流を望む。平成13年(2001年)以前の大正橋は現架橋地点より約80m下流に架けられていた。


上多度志の旧道道
多度志川南岸(左岸)に残る旧道道875号。


上多度志の旧道道
大正橋南側、旧道道875号と現道道の分岐点。旧道道は車が入れないように障害物が置かれている。


多度志トンネル
多度志峠を潜り抜ける道道875号の多度志トンネル。写真に見えるトンネル入口の30m程左側に深名線の多度志トンネルの名寄側入口があった。夏の盛りだけに旧トンネル入口は薮に覆われて確認できず。現在も遺構が残されているようだが、雪が積もる直前の時期なら確認できるかも。


撮影日:2015年8月5日(水)
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深名線 円山駅跡

起点の深川駅から4.7km、深名線2駅目となる円山駅。深川市一已町開進に所在、多度志峠を越える多度志トンネルが北に控え、そのトンネルを抜ければ上多度志である。駅跡より南へ約1.5kmに駅名の由来と思われる丸山があるが、何ゆえ”丸山”を”円山”と表記したのかは不明。円山駅のはじまりは昭和30年(1955年)、深名線のレールバス運用を期に円山仮乗降場として開業。国鉄民営化によりJR北海道へ鉄道事業が引き継がれた昭和62年(1987年)、仮乗降場から駅へ昇格した。しかしながら単式ホーム上に待合所を設けるだけの簡素な無人駅で、駅前に開進会館、駅周辺には田園地帯に数軒の農家があるだけで、乗降客数は数人程度だったようだ。平成7年(1995年)深名線廃止に伴い廃駅に。円山駅は撤去されて遺構は残っていないが、旧駅前にある開進会館の建物が残り、線路跡は農道と化している。

空中写真_円山_1977
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7727を基に作成
昭和52年(1977年)9月撮影の円山仮乗降場付近

円山駅が仮乗降場だった昭和52年(1977年)の空中写真。円山仮乗降場ホーム上に設ける赤茶色屋根の待合所や青屋根の開進会館が確認できる。仮乗降場と開進会館の間、線路沿いに赤茶色屋根の建造物があるのだが、これが何なのか不明。





円山駅跡
円山駅跡と開進会館。鉄路跡は農道となり、会館裏手にあった円山駅跡は草地と化す。遺構は見られない。


円山駅跡
駅跡より名寄方面の廃線跡を望む。


円山駅付近深名線廃線跡
円山駅跡より深川方面、廃線跡が音江連山に向かって延びる。


円山駅跡前
駅跡より西側、そば畑が広がる。


丸山
円山駅跡より駅名の由来と思われる丸山へ。道道875号より丸山を望む。


丸山公園
丸山北西麓より丸山を登ろう。丸山は標高110m余りの低山、山域は丸山公園として整備される。


丸山公園
案内板で公園内の見どころと登山道を確認。


丸山登山道
丸山登山道入口。左右どちらの道を行っても頂上に辿り着ける。ここは西展望台を経て頂上に至る右の道を選択。


北原白秋の歌碑
登山道を登り、まずは西側山麓の西展望台に立つ北原白秋の歌碑に。大正14年(1925年)北原白秋は樺太からの帰途にここ一已(いっちゃん)の地を訪れ、下の歌を詠んだ。

一己の屯田兵の村ならしやゝに夕づくこの眺望を


丸山公園
丸山の頂上付近。最高点に建物を確認、何だろう?


丸山寺奥之院
丸山の頂上にあったのは丸山寺奥之院。丸山は南西麓に新四国霊場八十八ヶ所十番札所の丸山寺、頂上にはこの奥之院があり、ちょっとした霊山の様相を示す。


丸山公園
丸山寺奥之院の参道入口には救世観音像が立つ。


丸山展望台からの眺め
丸山展望台から深川市街と音江連山を望む。


丸山の石仏
頂上より丸山登山道入口に戻り、ここから北麓を通る新四国霊場八十八ヶ所の道を歩いてみることに。その入口付近には牛馬南無観世音菩薩」碑や「馬頭観世音」碑、石仏が並ぶ。北海道ではなかなかお目にかかれない馬頭観世音、建立年を確認し忘れたが、おそらく明治末期から昭和初期にかけてのものだろう。


カミキリムシ02
カミキリムシを捕獲!太くて長い立派な触覚をぶるぶる振るわせている。


丸山公園
石仏を沿道の所々に置く新四国霊場八十八ヶ所の道。林の地面はカタクリの群生地帯、5月上旬に見頃を迎えるという。一度見てみたいものだ。


丸山の石仏
丸山の石仏。苔の蒸し具合がたまらなく美しい。


ますお沼
丸山北東麓に水を湛える”ますお沼”。


ますお沼
ショッキングピンクに咲くハスの花が水面を彩る。


丸山公園
丸山散策を終えての道すがら、道の真ん中に明らかな異物を発見。


シマヘビ
シマヘビが道を横断中だったようだ。車にひかれないよう気を付けて。


丸山寺
丸山散策の最後は南西麓にある丸山寺へ。その歴史は北海道にあっては古い明治20年代、屯田兵がこの地に入植。未開の地にあって弘法大師はまさに神様仏様、多くの信者が集まり明治40年(1907年)に新四国霊場八十八ケ所の霊場として丸山寺を開基。以来、丸山は道北の弘法大師信仰の霊山となり、大正から昭和初期にかけて参詣客で大変な賑わいをみせたという。


丸山寺の石段
丸山寺より頂上の奥之院へ至る石段。ここは登っていないが、203段あるらしい…。


撮影日:2015年8月5日(水)
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深名線 名寄駅と廃線跡

深名線起点の深川駅から121.8km、その終着駅だったのが宗谷本線の名寄駅。現在は札幌駅~稚内駅間を走る特急スーパー宗谷やサロベツが停車する主要駅。かつては深名線と名寄本線(名寄駅から興部駅・紋別駅を経由して石北本線の遠軽駅へ接続、1989年廃止)が接続し、東西南北から鉄路が交わる乗換駅でもあった。その名寄駅を行き交う多くの旅客に親しまれてきたのが、地元の角舘商会が製造販売する駅弁。北海道ならではの食材で旅客に舌鼓を打たせてきたがそれも今や昔、平成21年(2009年)惜しまれつつ廃業した。駅名の由来である所在地の名寄市は、旭川市から国道40号を北へ向かって約73km、名寄盆地の中央に位置し、人口約2万9千人を擁する都市。もち米をはじめアスパラガスやカボチャが盛んに生産され、夏にはひまわり畑が多くの観光客を誘う。名寄川が天塩川に注ぐ地にあることから、アイヌ語でナイ・オロ・プト(川の・所の・口.)と呼ばれ、これが転訛して”なよろ”になったという。

空中写真_名寄_1977
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7712-C12B-11を基に作成
昭和52年(1977年)9月撮影の名寄市街

深名線や名寄本線が現役だった昭和52年(1977年)撮影の空中写真。名寄駅南側の公園通跨線橋は建設中、更に南側で深名線・宗谷本線・名寄本線が三つ又に分岐。深名線は北から西へ大きくカーブし、天塩川製紙工場への専用線を分岐させ、工場北辺を通ってストレートに西へ延びる。





道の駅 もち米の里なよろ
名寄駅に向かう途中、風連地区の国道40号沿いにある”道の駅 もち米の里なよろ道”へ寄ることに。


道の駅 もち米の里なよろ
色とりどりに咲くマリーゴールドの花壇に迎えられ。


十割そば屋
道の駅の敷地内にある十割そば屋で昼飯にしよう。


エゾシカみそ煮とひまわりオイルドレッシング
店内での待ち時間に道の駅で購入した土産を確認。もち米の里だけに普通なら餅菓子に目が行きがちだが、私の目に留まったのはこの2点。エゾシカみそ煮とひまわりオイルドレッシング。どちらも名寄ならではの一品。


十割そば屋にて
刻みのりがたっぷりかかった”ざるそば”を頂こう。


名寄駅
名寄市街の中心、名寄駅へ。北海道の清々しい青空に、緑屋根の駅舎が映える。


名寄駅
懐旧の念をそそる昔と変わらぬ佇まい。


名寄駅
現在の駅舎は昭和2年(1927年)改築の2代目。


名寄駅前
訪れる人を迎える駅前の歓迎塔。


名寄駅前
行き交う人も少ない名寄駅前通り。


名寄駅構内
名寄駅旭川方(南側)、公園通跨線橋より名寄駅構内を望む。


名寄駅構内
名寄駅構内。深名線は0番のりば(廃止)より発着していた。旧0番のりばと深名線廃線跡を写真に図示。


名寄駅構内
1番のりばで発着を待つ快速なよろ(旭川行)。


宗谷本線名寄駅付近
公園通跨線橋より旭川方面を望む。左の鉄路が旧名寄本線、右に現役の宗谷本線。深名線は宗谷本線の右に並行していた。旧名寄本線の鉄路は先で途切れている。


深名線廃線跡
宗谷本線と深名線の分岐点付近、深名線廃線跡。今もJR北海道の敷地らしい。


深名線廃線跡
上写真の撮影地点から少し場所を変えて撮影。写真左奥(名寄駅方面)から右手前にかけてが深名線廃線跡。鉄路跡がはっきりわかる。右奥に見えるSLは名寄市北国博物館に展示するSL排雪列車キマロキ。


深名線廃線跡
道道538号線の踏切跡より深名線廃線跡深川方面を望む。この辺りから左斜めに天塩川製紙工場(現 王子板紙名寄工場)への専用線が分岐していた。


深名線廃線跡
廃線跡を深川方面へ歩いてみよう。


深名線廃線跡
廃線跡より名寄駅方面を望む。


深名線廃線跡
民家の裏手に残る深名線廃線跡。路盤がしっかり確認できる。


深名線廃線跡
路盤にはバラスト(レールを支える枕木の下に敷く砕石や砂利)らしき小石も見られる。


深名線廃線跡
深名線廃線跡の路盤はここで途切れる。


深名線廃線跡
路盤が途切れた先は、幅広な芝生の中央分離帯に整備された道に。


新名寄橋
国道40号の豐栄川に架かる新名寄橋より名寄駅方面の深名線廃線跡を望む。かつての鉄路は写真に見える道の右隣を通り、ここで国道40号の跨線橋下を潜り抜けていた。この立体交差は平成18年(2006)に新名寄橋が完成し平面化された。


豊栄川
新名寄橋より豊栄川下流を望む。深川方面の深名線は豊栄川右岸に沿って天塩川橋梁へ向かっていた。


撮影日:2015年8月7日(金)
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深名線 天塩川橋梁と西名寄駅跡

旧深名線終点の名寄駅から深名線廃線跡を西へ行けば、最北の大地を悠然と流れる天塩川が行く手を阻む。深名線はここに天塩川橋梁を架け次の西名寄駅に汽車を通していた。東隣の名寄駅から4km、起点の深川駅から117.8kmの地点に位置した西名寄駅、その始まりは昭和12年(1937年)、名雨線の名寄駅~初茶志内駅(後に天塩弥生駅)間の開通に伴い開業、当初は有人駅だったが昭和36年(1961年)乗降客の増大が見込めなかったためか無人駅に。駅舎は無人化後に待合室だけが残されて撤去、平成7年(1995年)深名線廃止に伴い廃駅となった。平成4年度(1992年度)の1日乗降客数は2人。駅付近に店は無く、北西約300m地点に名寄市立曙小学校(昭和45年廃校、現 名寄西部地区集落センター)があったぐらい。現在の駅跡は上川ライスターミナルの物流センター倉庫敷地となっており、その一角に「西名寄」と書かれた停車場接近標識が残り往時を偲ぶ。駅名の由来は名寄市の西側に所在したことから。

空中写真_西名寄_1977_1
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7712-C12B-9を基に作成
昭和52年(1977年)9月撮影の西名寄駅付近

西名寄駅が有人駅から無人化された後の昭和52年(1977年)撮影の空中写真。この時には有人駅時代の駅舎がそのまま残されていたように見える。駅の東側を流れる天塩川に深名線最長の橋梁、天塩川橋梁が架かり、その全長はマップ上で計測したところ約330m程。正確にはわからない。





深名線廃線跡 箭原橋付近
箭原橋から天塩川橋梁へ向かう深名線廃線跡。豐栄川右岸に沿って鉄路が延びていた。


天塩川橋梁跡東詰
天塩川橋梁跡東詰。名寄方面から天塩川に向かって路盤が残る。


天塩川橋梁跡東詰
かつては天塩川の標識から左方向へ天塩川橋梁が架けられていた。


天塩川橋梁跡
天塩川橋梁跡を下流側(北側)から望む。河川敷の路盤跡はグランドゴルフ場に。


天塩川橋梁跡付近より天塩川下流を望む
天塩川橋梁跡付近より天塩川下流を望む。写真奥に見える黄緑色の橋は道道798号の曙橋、ここを渡って対岸へ行ってみよう。


天塩川橋梁跡西詰
天塩川橋梁跡西詰。水田の畦道に鉄路跡の名残を見るが、写真奥の堤防で途切れる。


天塩川橋梁跡西詰
天塩川橋梁跡より深川方面。水田の畦道(写真右から左奥)が鉄路跡。


天塩川橋梁跡
天塩川橋梁跡西詰。橋脚等が完全に撤去されて遺構らしきものは確認できず、どこに橋梁が架けられていたのかが全くわからない状態。現在は橋梁跡より上流に国道40号名寄バイパス(名寄美深道路)の”北のかけ橋”が架かる。


てしお川標識
北海道開発局設置のてしお川標識。この標識に書かれる解説によると、天塩川の名はアイヌ語の「テシ・オ・ペツ」に由来。簗の川という意味で、簗とは川の流れに木や石、竹等で仕切り、魚を追い込んで捕える漁法のこと。天塩川には岩が簗のような形に横断していたという。


旧西名寄駅前通り
天塩川橋梁跡から西名寄駅前へ移動。この砂利道が旧駅前通りで、道奥に西名寄駅があった。現在の駅跡は上川ライスターミナルの物流センター倉庫敷地の一角になっている。


旧西名寄駅前通り
旧西名寄駅前通り。


西名寄駅跡
西名寄駅跡。


西名寄停車場接近標識
駅跡には西名寄停車場接近標識が残る。


旧西名寄駅前通り
駅跡より旧駅前通りを望む。


西名寄駅前
西名寄駅前通りが突き当たる一般道の風景。どこにでもありそうな田舎の風景。


撮影日:2015年8月7日(金)
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
千葉県在住。

Flashカレンダー
現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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