山中郷 舞木と山中宿
【旧東海道歩き 第14日目】旧東海道歩き 藤川駅→藤川宿→赤坂宿→御油宿→御油駅
【2015年7月19日(日)旧東海道 藤川宿→赤坂宿】
そろそろ梅雨明けを迎えようかとする7月3連休の中日、藤川宿から次の赤坂宿・御油宿へ向けて歩くことに。7月初めにマーシャル諸島で発生した台風11号が3日前に高知県へ上陸、四国から中国地方を横断して前日に日本海で熱帯低気圧に変わった。今年はじめて日本列島に上陸した台風となる。空の具合と風の強さに台風の余韻が残るが天気は上々、7月らしい蒸し暑さでウォーキングには不適な気候だが、体脂肪率が20%を超えたことを最近の人間ドッグで知った私には体を引き締めるにちょうどいい。さすがに2日間連チャンで歩くのは体力的に厳しいので、行程は日帰りにした次第。
東棒端跡で藤川宿を出て東進、中世に山中郷と称した地域へ。山中郷は現在の岡崎市舞木町・羽栗町・山綱町・本宿町・池金町・鉢地町にあたり、中世には宿駅があったところで、東海道五十三次が整備された江戸時代にも山中宿の名が残っていた。室町中期の紀行文「覧富士記」に「山中の宿にて、御ひるまのほど、賑はゝしさもかぎりなし」と書かれ、当時の賑わいがうかがい知れよう。江戸期の東海道は舞木村(現 岡崎市舞木町)に入って山中八幡宮が鎮座する御身隠山の北麓を進み、舞木村の茶屋町(現 岡崎市舞木町茶屋河原・茶屋田)東外れで山綱川を渡って山中宿(現 岡崎市舞木町山中町)に。広重は行書版「東海道五十三次之内藤川」に「山中宿商家」の副題を付け、坂道の東海道筋に山中名物の麻縄や網袋類を商う店を浮世絵に描く。山中宿を出れば山綱村(現 岡崎市山綱町)の中柴(現 岡崎市舞木町中柴・山綱町中柴)や桐の木(現 岡崎市本宿町城屋敷辺り)を通り抜け本宿村に至る。

藤川駅に降り立ち、真新しい徳川家康公像に敬礼。

駅前にある”道の駅藤川宿”に立ち寄り、”むらさき麦の思い出”という和菓子を購入。
道の駅藤川宿
http://fujikawa37.com/

”むらさき麦の思い出”は藤川特産のむらさき麦を使った生地でこしあんを包んだ饅頭、パッケージは愛知産業大学の学生がデザインしたという。地元の方々の努力と協力で生まれた”むらさき麦の思い出”、春風になびく紫の麦穂を思い出しながら味わおう。

むらさき麦の畑を訪れてみたら、きれいに刈り取られていた。

藤川宿本陣跡のむらさき麦畑も同様。

本陣跡裏のカラムシは青々と生い茂り。

カラムシの自生地で羽を休めるトンボ。夏ですなあ。

東棒鼻跡から次の赤坂宿へ向けて出発。
。

旧道は間もなく国道1号に合流、左手に名古屋鉄道舞木検査場を見ながら東進。

前方に見える山は家康の故事にまつわり御身隠山(おみかくしのやま)と呼ばれる。山頂に山中八幡宮が鎮座。

山中八幡宮裏参道。

鳥居を潜り抜け裏参道の急勾配な階段を登る。ちょっとだけ根性が必要。

裏参道から登ってくると、まず目にするのが山中八幡宮奥宮。

山中八幡宮社殿。朱鳥14年(699年)創建と伝わる。毎年正月3日に五穀豊穣を祈願し、御田植神事のデンデンガッサリを催す。社殿付近に徳川家康が三河一向一揆で窮地に陥り、難を逃れるべく身を潜めたと伝わる鳩ヶ窟(はとがくつ)という洞窟が残る。

社殿の西側斜面にある鳩ヶ窟。一揆側の追手が家康を捕えるべくここを探していたところ、洞窟内から二羽の鳩が飛び立ったため、鳩がいる所に人がいるはずがないと洞窟内を探すことなく立ち去ったという。今に鳩ヶ窟と名を残す由来である。

私も家康がここにいないかと、一揆に加担する農民になった気持ちで鳩ヶ窟を覗いてみるが、激しいヤブ蚊の攻撃により一目散に逃げ出す。実感としてこんなところに家康が隠れているとは思わない。

山中八幡宮にて。青い尻尾を持つトカゲに遭遇。

すばしっこくて写真を撮るのも大変。

御身隠山へ延びる山中八幡宮表参道。

鳥居裏手に聳えるクスノキは推定樹齢650年、根回り14mの巨樹で岡崎市指定天然記念物(平成15年設置の解説板より)。見る限り樹勢旺盛で、現在はもっと成長しているのかもしれない。

御身隠山の東山麓、舞木町西交差点で国道1号を分岐する旧東海道。

舞木町茶屋田・茶屋河原を行く旧東海道。南側沿道に数本の松が残り、茶屋が並んでいたことを地名が物語る。

山綱川に架かる舞木橋。

舞木橋東詰に残る松並木の名残。旧東海道は緩やかな上りに。

旧東海道沿道にある舞木町ポケットパーク。冠木門のモニュメントと共に、山中八幡宮や山中城址、東海道や舞木町について記す解説板を設置。

興円寺参道入口。

民家の間に小路を残す興円寺参道。名鉄名古屋本線に分断され現在はぼの廃参道の状態。

舞木町山中町を行く旧東海道。山中町の旧東海道沿いが旧山中宿。藤川宿一帯に自生するカラムシで細工した早縄かんざしや麻縄、網袋等を製造販売し生計を立てる家が多くあった。

行書版「東海道五十三次之内藤川 山中宿商家」(東海道藤川宿より)
浮世絵の左に描かれる商家は「山中名物 麻縄網袋類」や「仙女香」の看板を掲げる。仙女香とは、江戸京橋南伝馬の坂本家が製造販売していた白粉(おしろい)。

緩やかな坂道に山中宿の面影を感じよう。広重の浮世絵に描かれる景観はこの辺りかと想像しながら歩くのも楽しい。

旧東海道沿いには上田屋という酒屋。看板には地酒”三河武士”。

山中町市街から少し外れた場所にある山中簡易郵便局。

横を通り過ぎる名鉄の列車を眺めながら。

旧東海道はここで国道1号に合流。道の両側を自動車と名鉄の列車が忙しく走り抜ける。

国道1号に合流し東進。

東海中学校入口交差点付近。この辺り、東海道に面して中柴の町家が並んでいた。国道1号が貫き旧街道の面影は残っていない。
【2015年7月19日(日)旧東海道 藤川宿→赤坂宿】
そろそろ梅雨明けを迎えようかとする7月3連休の中日、藤川宿から次の赤坂宿・御油宿へ向けて歩くことに。7月初めにマーシャル諸島で発生した台風11号が3日前に高知県へ上陸、四国から中国地方を横断して前日に日本海で熱帯低気圧に変わった。今年はじめて日本列島に上陸した台風となる。空の具合と風の強さに台風の余韻が残るが天気は上々、7月らしい蒸し暑さでウォーキングには不適な気候だが、体脂肪率が20%を超えたことを最近の人間ドッグで知った私には体を引き締めるにちょうどいい。さすがに2日間連チャンで歩くのは体力的に厳しいので、行程は日帰りにした次第。
東棒端跡で藤川宿を出て東進、中世に山中郷と称した地域へ。山中郷は現在の岡崎市舞木町・羽栗町・山綱町・本宿町・池金町・鉢地町にあたり、中世には宿駅があったところで、東海道五十三次が整備された江戸時代にも山中宿の名が残っていた。室町中期の紀行文「覧富士記」に「山中の宿にて、御ひるまのほど、賑はゝしさもかぎりなし」と書かれ、当時の賑わいがうかがい知れよう。江戸期の東海道は舞木村(現 岡崎市舞木町)に入って山中八幡宮が鎮座する御身隠山の北麓を進み、舞木村の茶屋町(現 岡崎市舞木町茶屋河原・茶屋田)東外れで山綱川を渡って山中宿(現 岡崎市舞木町山中町)に。広重は行書版「東海道五十三次之内藤川」に「山中宿商家」の副題を付け、坂道の東海道筋に山中名物の麻縄や網袋類を商う店を浮世絵に描く。山中宿を出れば山綱村(現 岡崎市山綱町)の中柴(現 岡崎市舞木町中柴・山綱町中柴)や桐の木(現 岡崎市本宿町城屋敷辺り)を通り抜け本宿村に至る。

藤川駅に降り立ち、真新しい徳川家康公像に敬礼。

駅前にある”道の駅藤川宿”に立ち寄り、”むらさき麦の思い出”という和菓子を購入。
道の駅藤川宿
http://fujikawa37.com/

”むらさき麦の思い出”は藤川特産のむらさき麦を使った生地でこしあんを包んだ饅頭、パッケージは愛知産業大学の学生がデザインしたという。地元の方々の努力と協力で生まれた”むらさき麦の思い出”、春風になびく紫の麦穂を思い出しながら味わおう。

むらさき麦の畑を訪れてみたら、きれいに刈り取られていた。

藤川宿本陣跡のむらさき麦畑も同様。

本陣跡裏のカラムシは青々と生い茂り。

カラムシの自生地で羽を休めるトンボ。夏ですなあ。

東棒鼻跡から次の赤坂宿へ向けて出発。
。

旧道は間もなく国道1号に合流、左手に名古屋鉄道舞木検査場を見ながら東進。

前方に見える山は家康の故事にまつわり御身隠山(おみかくしのやま)と呼ばれる。山頂に山中八幡宮が鎮座。

山中八幡宮裏参道。

鳥居を潜り抜け裏参道の急勾配な階段を登る。ちょっとだけ根性が必要。

裏参道から登ってくると、まず目にするのが山中八幡宮奥宮。

山中八幡宮社殿。朱鳥14年(699年)創建と伝わる。毎年正月3日に五穀豊穣を祈願し、御田植神事のデンデンガッサリを催す。社殿付近に徳川家康が三河一向一揆で窮地に陥り、難を逃れるべく身を潜めたと伝わる鳩ヶ窟(はとがくつ)という洞窟が残る。

社殿の西側斜面にある鳩ヶ窟。一揆側の追手が家康を捕えるべくここを探していたところ、洞窟内から二羽の鳩が飛び立ったため、鳩がいる所に人がいるはずがないと洞窟内を探すことなく立ち去ったという。今に鳩ヶ窟と名を残す由来である。

私も家康がここにいないかと、一揆に加担する農民になった気持ちで鳩ヶ窟を覗いてみるが、激しいヤブ蚊の攻撃により一目散に逃げ出す。実感としてこんなところに家康が隠れているとは思わない。

山中八幡宮にて。青い尻尾を持つトカゲに遭遇。

すばしっこくて写真を撮るのも大変。

御身隠山へ延びる山中八幡宮表参道。

鳥居裏手に聳えるクスノキは推定樹齢650年、根回り14mの巨樹で岡崎市指定天然記念物(平成15年設置の解説板より)。見る限り樹勢旺盛で、現在はもっと成長しているのかもしれない。

御身隠山の東山麓、舞木町西交差点で国道1号を分岐する旧東海道。

舞木町茶屋田・茶屋河原を行く旧東海道。南側沿道に数本の松が残り、茶屋が並んでいたことを地名が物語る。

山綱川に架かる舞木橋。

舞木橋東詰に残る松並木の名残。旧東海道は緩やかな上りに。

旧東海道沿道にある舞木町ポケットパーク。冠木門のモニュメントと共に、山中八幡宮や山中城址、東海道や舞木町について記す解説板を設置。

興円寺参道入口。

民家の間に小路を残す興円寺参道。名鉄名古屋本線に分断され現在はぼの廃参道の状態。

舞木町山中町を行く旧東海道。山中町の旧東海道沿いが旧山中宿。藤川宿一帯に自生するカラムシで細工した早縄かんざしや麻縄、網袋等を製造販売し生計を立てる家が多くあった。

行書版「東海道五十三次之内藤川 山中宿商家」(東海道藤川宿より)
浮世絵の左に描かれる商家は「山中名物 麻縄網袋類」や「仙女香」の看板を掲げる。仙女香とは、江戸京橋南伝馬の坂本家が製造販売していた白粉(おしろい)。

緩やかな坂道に山中宿の面影を感じよう。広重の浮世絵に描かれる景観はこの辺りかと想像しながら歩くのも楽しい。

旧東海道沿いには上田屋という酒屋。看板には地酒”三河武士”。

山中町市街から少し外れた場所にある山中簡易郵便局。

横を通り過ぎる名鉄の列車を眺めながら。

旧東海道はここで国道1号に合流。道の両側を自動車と名鉄の列車が忙しく走り抜ける。

国道1号に合流し東進。

東海中学校入口交差点付近。この辺り、東海道に面して中柴の町家が並んでいた。国道1号が貫き旧街道の面影は残っていない。

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