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山中郷 舞木と山中宿

【旧東海道歩き 第14日目】旧東海道歩き 藤川駅→藤川宿→赤坂宿→御油宿→御油駅



【2015年7月19日(日)旧東海道 藤川宿→赤坂宿】
そろそろ梅雨明けを迎えようかとする7月3連休の中日、藤川宿から次の赤坂宿・御油宿へ向けて歩くことに。7月初めにマーシャル諸島で発生した台風11号が3日前に高知県へ上陸、四国から中国地方を横断して前日に日本海で熱帯低気圧に変わった。今年はじめて日本列島に上陸した台風となる。空の具合と風の強さに台風の余韻が残るが天気は上々、7月らしい蒸し暑さでウォーキングには不適な気候だが、体脂肪率が20%を超えたことを最近の人間ドッグで知った私には体を引き締めるにちょうどいい。さすがに2日間連チャンで歩くのは体力的に厳しいので、行程は日帰りにした次第。

東棒端跡で藤川宿を出て東進、中世に山中郷と称した地域へ。山中郷は現在の岡崎市舞木町・羽栗町・山綱町・本宿町・池金町・鉢地町にあたり、中世には宿駅があったところで、東海道五十三次が整備された江戸時代にも山中宿の名が残っていた。室町中期の紀行文「覧富士記」に「山中の宿にて、御ひるまのほど、賑はゝしさもかぎりなし」と書かれ、当時の賑わいがうかがい知れよう。江戸期の東海道は舞木村(現 岡崎市舞木町)に入って山中八幡宮が鎮座する御身隠山の北麓を進み、舞木村の茶屋町(現 岡崎市舞木町茶屋河原・茶屋田)東外れで山綱川を渡って山中宿(現 岡崎市舞木町山中町)に。広重は行書版「東海道五十三次之内藤川」に「山中宿商家」の副題を付け、坂道の東海道筋に山中名物の麻縄や網袋類を商う店を浮世絵に描く。山中宿を出れば山綱村(現 岡崎市山綱町)の中柴(現 岡崎市舞木町中柴・山綱町中柴)や桐の木(現 岡崎市本宿町城屋敷辺り)を通り抜け本宿村に至る。




藤川駅と徳川家康公像
藤川駅に降り立ち、真新しい徳川家康公像に敬礼。


道の駅藤川宿
駅前にある”道の駅藤川宿”に立ち寄り、”むらさき麦の思い出”という和菓子を購入。
道の駅藤川宿
http://fujikawa37.com/


むらさき麦の思い出
”むらさき麦の思い出”は藤川特産のむらさき麦を使った生地でこしあんを包んだ饅頭、パッケージは愛知産業大学の学生がデザインしたという。地元の方々の努力と協力で生まれた”むらさき麦の思い出”、春風になびく紫の麦穂を思い出しながら味わおう。


藤川宿むらさき麦の畑
むらさき麦の畑を訪れてみたら、きれいに刈り取られていた。


藤川宿本陣跡
藤川宿本陣跡のむらさき麦畑も同様。


藤川宿本陣跡石垣
本陣跡裏のカラムシは青々と生い茂り。


本陣跡裏のカラムシとトンボ
カラムシの自生地で羽を休めるトンボ。夏ですなあ。


藤川宿東棒鼻跡
東棒鼻跡から次の赤坂宿へ向けて出発。


名古屋鉄道舞木検査場
旧道は間もなく国道1号に合流、左手に名古屋鉄道舞木検査場を見ながら東進。


御身隠山
前方に見える山は家康の故事にまつわり御身隠山(おみかくしのやま)と呼ばれる。山頂に山中八幡宮が鎮座。


山中八幡宮裏参道
山中八幡宮裏参道。


山中八幡宮裏参道
鳥居を潜り抜け裏参道の急勾配な階段を登る。ちょっとだけ根性が必要。


山中八幡宮奥宮
裏参道から登ってくると、まず目にするのが山中八幡宮奥宮。


山中八幡宮
山中八幡宮社殿。朱鳥14年(699年)創建と伝わる。毎年正月3日に五穀豊穣を祈願し、御田植神事のデンデンガッサリを催す。社殿付近に徳川家康が三河一向一揆で窮地に陥り、難を逃れるべく身を潜めたと伝わる鳩ヶ窟(はとがくつ)という洞窟が残る。


鳩ヶ窟
社殿の西側斜面にある鳩ヶ窟。一揆側の追手が家康を捕えるべくここを探していたところ、洞窟内から二羽の鳩が飛び立ったため、鳩がいる所に人がいるはずがないと洞窟内を探すことなく立ち去ったという。今に鳩ヶ窟と名を残す由来である。


鳩ヶ窟
私も家康がここにいないかと、一揆に加担する農民になった気持ちで鳩ヶ窟を覗いてみるが、激しいヤブ蚊の攻撃により一目散に逃げ出す。実感としてこんなところに家康が隠れているとは思わない。


山中八幡宮にて
山中八幡宮にて。青い尻尾を持つトカゲに遭遇。


山中八幡宮にて
すばしっこくて写真を撮るのも大変。


山中八幡宮参道
御身隠山へ延びる山中八幡宮表参道。


山中八幡宮鳥居とクスノキ
鳥居裏手に聳えるクスノキは推定樹齢650年、根回り14mの巨樹で岡崎市指定天然記念物(平成15年設置の解説板より)。見る限り樹勢旺盛で、現在はもっと成長しているのかもしれない。


舞木町西交差点
御身隠山の東山麓、舞木町西交差点で国道1号を分岐する旧東海道。


旧東海道 舞木町茶屋田・茶屋河原
舞木町茶屋田・茶屋河原を行く旧東海道。南側沿道に数本の松が残り、茶屋が並んでいたことを地名が物語る。


舞木橋
山綱川に架かる舞木橋。


旧東海道 舞木町堂山
舞木橋東詰に残る松並木の名残。旧東海道は緩やかな上りに。


舞木町ポケットパーク
旧東海道沿道にある舞木町ポケットパーク。冠木門のモニュメントと共に、山中八幡宮や山中城址、東海道や舞木町について記す解説板を設置。


興円寺参道入口
興円寺参道入口。


興円寺参道
民家の間に小路を残す興円寺参道。名鉄名古屋本線に分断され現在はぼの廃参道の状態。


旧東海道 舞木町山中町
舞木町山中町を行く旧東海道。山中町の旧東海道沿いが旧山中宿。藤川宿一帯に自生するカラムシで細工した早縄かんざしや麻縄、網袋等を製造販売し生計を立てる家が多くあった。


行書版東海道五十三次之内藤川 山中宿商家
行書版「東海道五十三次之内藤川 山中宿商家」(東海道藤川宿より)
浮世絵の左に描かれる商家は「山中名物 麻縄網袋類」や「仙女香」の看板を掲げる。仙女香とは、江戸京橋南伝馬の坂本家が製造販売していた白粉(おしろい)。


旧東海道 舞木町山中町
緩やかな坂道に山中宿の面影を感じよう。広重の浮世絵に描かれる景観はこの辺りかと想像しながら歩くのも楽しい。


上田屋
旧東海道沿いには上田屋という酒屋。看板には地酒”三河武士”。


山中簡易郵便局
山中町市街から少し外れた場所にある山中簡易郵便局。


旧東海道 舞木町狐山・山綱町天神
横を通り過ぎる名鉄の列車を眺めながら。


旧東海道 舞木町狐山
旧東海道はここで国道1号に合流。道の両側を自動車と名鉄の列車が忙しく走り抜ける。


国道1号 舞木町野添
国道1号に合流し東進。


国道1号 東海中学校入口交差点
東海中学校入口交差点付近。この辺り、東海道に面して中柴の町家が並んでいた。国道1号が貫き旧街道の面影は残っていない。


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山中郷 本宿と法蔵寺

【2015年7月19日(日)旧東海道 藤川宿→赤坂宿】
舞木町から旧山中郷の一村、本宿へ。本宿は中世に法蔵寺の門前町として形成されたのがはじまりという。当時の鎌倉街道は旧東海道の南側、法蔵寺の裏山辺りを通っていたといい、江戸時代に東海道が整備されてからはその沿道に町家が移り、近世本宿村の街村が形成されたのだろう。麻細工や瓢(ひさご)、草鞋が名産品で、法蔵寺門前の茶店で売られる”法蔵寺団子”は街道を往来する旅人に好評を得た。法蔵寺は大宝元年(701年)行基の開基と伝わり、元は法相宗で二村山出生寺と称し、南北朝期に浄土宗へ改宗、法蔵寺に寺号を改めた。室町時代初期に徳川家の始祖、松平親氏が伽藍を建立、以来松平家の菩提寺となり幼少期の徳川家康がここで学問や手習いに励んだと云う。境内入口には家康公手植えと伝わる御草紙掛松があり、現在の松は4代目。境内には新選組局長近藤勇の首塚や東照宮がある。




本宿の松並木
国道1号の山綱町と本宿町の境、国道を右に分かれる旧東海道筋には松並木。


本宿京方(西側)入口
本宿京方(西側)入口。「右東海道 左国道1号」と刻む道標と本宿村に関する解説板を設置する。


本宿の松並木
本宿京方(西側)入口に残る松並木。


本宿の松並木
本宿京方(西側)入口の旧東海道。


宇都野龍碩邸跡と長屋門
旧東海道筋にある宇都野龍碩(うつの りゅうせき)邸跡と現存する長屋門。宇都野氏は宝暦年間(1751年~63年)三代立碩が本宿村に開業したのが始まりと云う医家。七代龍碩はシーボルト門人の青木周弼に医学を学んだ蘭方医で、 安政年間(1854年~60年)感染力の強さと致死率の高さで恐れられた伝染病、天然痘の予防接種として植痘瘡(種痘)を施した。当時にあっては画期的な医療だったという。


宇都野龍碩邸長屋門と旧東海道
宇都野龍碩邸長屋門と旧東海道。


旧東海道 本宿町森ノ腰・城屋敷
本宿町森ノ腰・城屋敷を行く旧東海道。沿道には寄棟造の屋根を持つ古民家、茅葺屋根の名残だろう。


揚珠院
本宿町の旧東海道沿いにある揚珠院。


旧東海道 本宿町西木竹・広畑
本宿町は旧道を避けて北側に国道1号が通されたため旧街道らしい道筋を残す。


本宿一里塚跡
本宿一里塚跡。江戸日本橋から78里目(約306km)、京三条大橋からは40番目(実測で約197km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。両塚とも現存せず。本宿史跡保存会により「東海道一里塚跡」碑が建てられている。


本宿駅
左手(北側)道の先に本宿駅。


旧東海道 本宿町一里山・東木竹
本宿駅付近の旧東海道。


十王堂跡
欣浄寺参道入口。右に曲がる道が参道、昔は右手前角に十王堂(閻魔堂)があった。


欣浄寺
欣浄寺(ごんじょうじ)。天正7年(1579年)法蔵寺8代融翁洞文上人が洞元山の麓に庵を結び隠棲の地としたことが始まり。享保7年(1722年)東海道沿いの現在地に移転した。旧地の洞元山麓は法蔵寺から鉢地川対岸の本堂が見える地とのことだが、洞元山がどの山を指すのかがわからない。


旧東海道 本宿町後畑
本宿町後畑、旧街道沿いに火の見櫓が聳える。

 
本宿の秋葉山常夜燈
火の見櫓の根元には秋葉山常夜燈。寛政13年(1801年)建立。


本宿村道路元標
同じく火の見櫓の根元にある本宿村道路元標。道路元標は大正9年(1920年)施行の旧道路法により各市町村に設置、里程の基準とされた。各地に今も多く残されており、旧街道を歩いているとよく見かける。


神谷合名会社
旧アイチ味噌溜店舗(神谷合名会社)。明治37年(1904年)創業、味噌たまりの醸造元で屋号を”万十”。商品は”アイチ味噌溜”のブランド名で知られた。現在は日本レトルトフーズ株式会社が事業を継承している。


旧東海道 本宿町南中町・後畑
本宿町南中町・後畑の旧東海道。行き交う車は少なく人も猫ものんびり往来。


本宿陣屋跡入口
本宿陣屋跡入口。本宿町中町こども会の花壇に迎えられ。


富田病院
本宿陣屋跡は富田病院の敷地に。柴田勝家の子孫にあたる旗本、柴田出雲守勝門が元禄11年(1698年)ここに陣屋を構え知行地を支配、明治に至るまで存続した。陣屋代官職は代々富田家が世襲、文政10年(1827年)建築の旧代官屋敷が残る。


旧本宿代官屋敷
旧本宿代官屋敷。幾度かの改修を経ているのだろうが約190年前の建物が残っているのは凄いこと。


不動院
不動院前を行く旧東海道。


法蔵寺橋
法蔵寺橋で鉢地川を渡河。「大正九年十月架換」と刻む親柱が残る。


鉢地川
鉢地川の向こうに法蔵寺を望む。


御草紙掛松
法蔵寺参道入口にある御草紙掛松。法蔵寺は徳川家康が幼少期に学問や手習いに励んだと寺伝にあり、この松は家康公手植えと云う。”御茶屋の松”や”御腰掛の松”の別名も。現在の松は平成18年(2006年)植樹の4代目、周囲の石柵は文化12年(1815年)旗本木造清左衛門俊往の寄進。


来迎橋と法蔵寺山門
法蔵寺参道、鉢地川に架かる来迎橋。橋の向こうに法蔵寺山門が見える。


法蔵寺鐘楼門
法蔵寺鐘楼門。


賀勝水
鐘楼門前の石段横にある賀勝水。日本武尊が東征の折、勝利を祈願し鉾で岩を突くと冷泉が湧き出したという伝説の湧水。今や到底飲む気になれない状態であるが、昔は東海道を往来する旅人が有難く喉を潤したことだろう。


法蔵寺本堂
浄土宗西山深草派、三河三檀林の一寺である二村山法蔵寺。本尊は阿弥陀如来。大宝元年(701年)行基による開基と伝わり当初は出生寺と称し法相宗、後に空海が訪れ真言宗に改宗したという。至徳2年(1385年)京都円福寺より教空龍芸が浄土宗に改宗、現寺号の法蔵寺に改められた。徳川家ゆかりの宝物を多く所蔵する。


法蔵寺六角堂
法蔵寺六角堂。


近藤勇首塚
境内にある新選組局長近藤勇の首塚。幕末に幕府を守るため新選組を率いて抗戦した近藤勇、最期は新政府軍に捕らわれて板橋刑場(東京都板橋区)で斬首された。その遺骸である胴体は近親者により龍源寺(東京都三鷹市)に埋葬、首は京都の三条河原で晒し首とされた。三日目の晩に同志が勇の首を奪還、ここ法蔵寺に運ばれて密かに埋葬し、石碑は土砂で覆って隠匿したという。昭和33年(1958年)総本山の記録等に基づき調査したところ埋葬の由来が判明、現在は石碑を覆っていた土砂が取り除かれ、勇の胸像が建てられている。


近藤勇首塚
石碑の台座には土方歳三の名が見える。


法蔵寺東照宮
境内の高台に鎮座する東照宮。


法蔵寺境内
東照宮より法蔵寺境内を望む。


法蔵寺境内にて
法蔵寺境内にて。ハグロトンボ。


旧東海道 法蔵寺門前
法蔵寺門前の旧東海道。かつてこの辺りには立場が置かれ、名物の法蔵寺団子を売る茶店があった。法蔵寺団子は平たくした5個の団子を串刺しにして炙り、溜りで味付けしたものだという。昭和の初めまでこの団子は売られていたが、今は茶店も無くここでその味を堪能することはできない。


旧東海道 本宿町東浦
旧東海道はこの先で国道1号に合流。


本宿旧道入口
本宿江戸方の旧道入口には解説板や現代の道標が設置され旅人を迎える。


本宿江戸方(東側)入口
国道1号側道にある冠木門のモニュメント。この辺りは本宿村江戸方(東側)端にあたり、四ツ谷と呼ばれる集落が街道筋に形成されていた。法蔵寺門前と共に立場が置かれ、幕末期には旅籠屋2軒、茶屋7軒があったというが、現在は国道1号の大道が通りその名残は無い。


本宿町深田交差点
本宿町深田交差点を過ぎれば岡崎市から豊川市へ。


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長沢

【2015年7月19日(日)旧東海道 藤川宿→赤坂宿】
旧東海道を本宿から長沢へ。江戸時代に長沢村(現 豊川市長沢町)は東隣りに位置する赤坂宿の助郷村で、綿作が盛んに行われていたという。旧東海道は両側に山が迫る狭隘地を音羽川に沿って通され、元禄16年(1703年)の東海道分間絵図を見ると、一里塚を設ける松並木を挟んで東西に2つの街村を成していたことがわかる。戦国期には東西の三河を繋ぐ戦略上の要地であり、ここを見据えるが如く長沢松平家の居城長沢城や岩略寺城が築かれていたが、泰平の江戸の世になると、不要になった岩略寺城跡に隣接して将軍休泊用の長沢御殿が築かれた。現在はこの狭隘地に東名高速や国道1号、名鉄線が並進する現代交通の密集地、そんな状況下でも旧東海道は往時の道筋をよく残している。




旧東海道 豊川市長沢町関屋
国道1号から分かれる長沢の旧東海道入口。トラックや車の往来が激しい国道横に旧街道の道筋を残す。


千両橋
ここで千束川を渡る。架橋されている橋の名は千両橋、その名の由来は架橋費用が千両だったと言いたいところだが、真実は不明。


旧東海道 豊川市長沢町小佐町
長沢町小佐町を行く旧東海道。


唯心橋
唯心橋で再び千束川を渡河。


立信寺参道入口
唯心橋東詰から立信寺参道が延びる。参道入口の両側には石仏を安置する小堂と、「当所安全」を刻む安政6年(1859年)建立の常夜燈が置かれる。


立信寺参道
立信寺参道。門前で国道1号に分断されている。


長沢の観音堂跡
長沢の観音堂跡。入口に観世音菩薩碑、その奥に石仏を祀る。


長沢の観音堂跡
観音堂跡には雑草が茂る。


豊川市長沢町金山・大榎
長沢町金山・大榎の旧東海道。


豊川市長沢町金山・大榎
曲りくねる道と家の佇まいがいかにも旧街道らしい。


旧東海道 豊川市長沢町山口・ハシカ
豊川市コミュニティバス山口バス停付近。この辺りに”ハシカ”という珍しいカタカナ地名があり、その由来が気になるところ。調べてみたがわからない。


旧東海道 豊川市長沢町上市
入母屋造りの重厚な屋根を持つ民家。古民家らしい佇まい。


旧東海道 豊川市長沢町上市
長沢町上市を行く旧東海道。


近藤製材所
上市の旧街道沿いにある近藤製材所。


巓神社参道
巓(いただき)神社参道入口。寛政10年(1798年)建立の秋葉山常夜燈が残る。参道は北側山中の巓神社へ続いていたはずだが、現在は国道1号、名鉄線、東名高速に分断され参詣者を阻む。


音羽川
長沢町上市で旧東海道と音羽川が接する。


近藤酒店
御城山橋北詰の旧東海道。沿道に近藤酒店がある。


岩略寺城跡
上市の御城山橋から岩略寺城跡へアクセスする道。長沢小学校から音羽川対岸、長沢の地を見下ろす山頂一帯に岩略寺城が築かれていた。城跡の山を御城山と呼ぶ。岩略寺城は戦国期の縄張りを残す山城で、曲輪をはじめ土塁や堀、井戸等、良好な状態で残されているらしい。


音羽川と旧東海道
音羽川と旧東海道(写真対岸)。


旧東海道 豊川市長沢町下市
長沢町下市を行く旧東海道。


誓林寺
浄土真宗本願寺派、古谷山誓林寺。応仁年間(1467年~1469年)に山中郷よりこの地に移り、蓮如上人より寺号と山号(乙葉山、後に古谷山へ改称)を賜ったと伝わる。現本堂は文政7年(1824年)建立。


旧東海道 児子神社参道入口
児子社神社参道入口付近の旧東海道。


児子神社参道
児子神社へ延びる参道。入口に「村社兒子神社」と刻む標石が立つ。やはり巓(いただき)神社と同様、参道は国道1号、名鉄線、東名高速に分断されている。


長沢小学校前
長沢小学校の児童による作品。微笑ましい壁画です。


長沢小学校
長沢小学校の地は中世の長沢城跡。音羽川の対岸、御城山の山頂一帯には岩略寺城が築かれており、狭隘の平地にあった長沢城は平時に、山城の岩略寺城は有事に機能したのだろう。この地が戦略上いかに重要視されていたことがわかる。泰平の江戸の世となった寛永11年(1634年)、三代将軍家光上洛の際、長沢城跡に隣接して長沢御殿が設けられ、休憩所として使われたたという。


御殿橋と御城山
長沢小学校前、音羽川に架かる御殿橋と御城山。


御殿橋と長沢小学校
御殿橋より長沢御殿跡の長沢小学校を望む。


長沢一里塚跡
音羽川に架かる土橋の北詰、「一里塚跡」の標柱が長沢一里塚跡を示す。江戸日本橋から77里目(約302km)、京三条大橋からは41番目(実測で約202km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。両塚とも現存せず。


八王子橋東詰
愛知県道73号の長沢橋下を潜り抜け八王子橋で音羽川を渡河。八王子橋東詰には一里山庚申道道標が残る。


一里山庚申道道標
一里山庚申道道標。碑面に「一里山庚申道 是ヨ(以下土中に埋もれ判読不能)」と刻み、庚申講信仰の道を示していると思われるが、どの道がその行く先を示しているのかがわからない。


八王子神社参道入口
旧東海道から延びる八王子神社参道。


八王子神社の石段
八王子神社参道の苔生す石段。


八王子神社の石段にて
八王子神社の石段にて。頭隠して尻隠さずとは、正にこのこと…。


八王子神社
八王子神社社殿。創建年代不明、応永11年(1403年)造営の棟札が残るという。永禄10年(1567年)音羽川付近(現 豊川市長沢町八王子)より現在地に遷座したと伝わり、明治12年(1879年)村社列格、八王子神社に改称した。


栄善寺参道入口
八王子神社参道入口から旧東海道を江戸方に進んで300m足らず、栄善寺の参道入口がある。昭和6年(1931年)建立の「大日如来 弘法大師御自作」と刻む標柱が立つ。


栄善寺石段
栄善寺の参道石段。


栄善寺
文永9年(1272年)創建と伝わる大永山栄善寺。弘法大師の自作と伝わる大日如来像を安置する。


旧東海道 長沢町向谷
長沢町の江戸方端、向谷を行く旧東海道。


開運毘沙門天王尊
赤坂宿の手前、旧東海道沿いにある「開運毘沙門天王尊」と刻む標柱。ここを東に過ぎれば間もなく赤坂宿だ。


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赤坂宿

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東海道五十三次之内赤阪 旅舎招婦ノ図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「赤坂宿 (東海道)」より引用


【2015年7月19日(日)旧東海道 藤川宿→赤坂宿】

夏の月 御油より出でて 赤坂や

松尾芭蕉が赤坂宿で詠んだ句である。赤坂宿は西の藤川宿から約9km、東へ行けばわずか約2kmで御油宿に着く。赤坂宿と御油宿間は東海道五十三次で最も宿駅間が短く、夏に月が出でる短さを例えて芭蕉はこの句を詠んだ。東隣の御油宿や吉田宿と共に飯盛女が多く置かれた宿場で、多くの男どもが足を留めて賑わいを見せた。歌川広重は「東海道五十三次之内赤坂 旅舎招婦ノ図」の題を付け、旅籠で働く飯盛女と旅人がくつろぐ様子を浮世絵に描く。この浮世絵のモデルとなったとされるのが旅籠大橋屋、慶安2年(1649年)創業で元は「伊右エ門鯉屋」の屋号、現在の建物は享保元年(1716年)の建築とされる。最近まで旅館業を続けていたが、今年(2015年)3月、360年に渡る歴史に幕を閉じた。リアルに江戸時代の旅籠を実感できる宿泊施設だっただけに、廃業の報は実に惜しい。

天保14年(1843年)当時、赤坂宿の町並み長さ8町30間(約930m)、人口1304人、家数349軒、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠62軒。家数の2割が旅籠というのは他宿に比して多い。いかにここで旅装を解く旅人が多かったことが記録に残る数字からうかがえよう。当初の本陣は彦十郎家の1軒、江戸中期に庄左衛門家・弥兵衛家・又左衛門家が加わって本陣4軒となり、宿駅伝馬制度が廃止される直前の慶応4年(1868年、明治元年)には彦十郎家・長崎屋・桜屋の3本陣、輪違屋が脇本陣を務めている。宿内には赤坂陣屋が設けられ三河の天領支配の中心をなした。




音羽中学校
旧東海道は音羽中学校前で豊川市長沢町から赤坂町へ。


赤坂町西縄手の常夜灯
赤坂町西縄手の常夜灯。皇紀二千六百年と刻んでいることから昭和15年(1940年)建立なのだろう。


杉森八幡社参道入口
杉森八幡社参道入口。この辺りは赤坂宿の京方(西側)端にあたり、ここから少し京方の沿道に見附跡の標柱がある。


杉森八幡社社殿と大クスノキ
杉森八幡社拝殿と大クスノキ。杉森八幡社は大宝2年(702年)持統上皇が伊勢神宮領御厨跡に大神宮と八幡社を勧請し、両宮に神鏡を奉納したと伝わる古社。社殿前に聳えるクスノキは推定樹齢千年、2本の木の根株が一本化しており、夫婦楠とも呼ばれる。


赤坂の舞台
杉森八幡社境内にある赤坂の舞台。明治5年(1872年)に舞台開きをしたと伝わり、平成12年(2000年)改修復元。回り舞台を備えた芝居小屋で、現在も年1回10月に歌舞伎公演が行われている。


旧東海道 豊川市赤坂町紅里
二村編物教室前を行く旧東海道。


赤坂陣屋(大藪)跡
赤坂陣屋(大藪)跡。当初の陣屋は大藪地内にあったが、元禄2年(1689年)神木屋敷(現 赤坂保育園敷地)に移された。幕末に三河県役所に改められ、明治2年(1869年)再び大藪の地に移転した。明治5年(1872年)廃止。


御休処よらまいかん
旧東海道沿いにある”御休処よらまいかん”。平成14年(2002年)オープンの旅籠をイメージした休憩施設。当時の建築様式を再現しているというが、残念ながら訪れた時間が遅く入館できず…。


高札場跡
”御休処よらまいかん”の斜向かいが高札場跡(写真右手前)。


高札場跡
塀際にひっそりと高札場跡の標柱。ぼんやり歩いていたら見過ごしそう。


正法寺参道
正法寺参道。


正法寺本堂
太子山正法寺。聖徳太子が赤坂の地に太子堂を築いたことに起源があると伝わり、創建は弘仁7年(816年)、万巻上人の開基とされる。


正法寺の有楽椿
正法寺のワビスケ(有楽椿)。樹齢400年、1月上旬から3月下旬に花の見頃を迎える。


赤坂陣屋(神木屋敷)入口跡
大橋屋の右際が赤坂陣屋(神木屋敷)入口跡。元禄2年(1689年)大藪の地より移転した赤坂陣屋の入口がここにあった。現在の陣屋跡は赤坂保育園の敷地になっている。


大橋屋
赤坂宿最大の見どころ、旅籠大橋屋。慶安2年(1649年)創業、元は「伊右エ門鯉屋」の屋号で旅籠を営んだ。享保元年(1716年)の建築と伝わる店構え、江戸時代の佇まいを今に残す。


大橋屋
窓越しに内部を少々拝見。創業から約360年、今年(2015年)3月まで旅館業を続けていただけに廃業の報せは非常に残念。


大橋屋
江戸時代の旅籠を今に伝える大橋屋。一度だけでもここに泊まってみたかった。


大橋屋
大橋屋2階の壁面に掲げる絵。多くの飯盛女を抱えて賑わった赤坂宿、広重の浮世絵「東海道五十三次之内赤坂 旅舎招婦ノ図」はここ大橋屋をモデルにしたとされる。往時の様子を垣間見よう。


大黒屋商店
大橋屋から江戸方へ3軒隣、日用雑貨の大黒屋商店。


浄泉寺本堂と蘇鉄
浄泉寺本堂と蘇鉄。浄泉寺は天正16年(1588年)創建、境内の蘇鉄は広重の浮世絵「東海道五十三次之内赤坂 旅舎招婦ノ図」に描かれる蘇鉄とされ、明治20年頃に宿内の旅籠から移された。


尾崎屋
赤坂紅里信号の丁字路北角、明治元年創業(1868年)の尾崎屋商店。「曲輪 民芸品 製造卸問屋」の軒行燈を掲げる。曲輪とは”曲げわっぱ”のことで、桧や杉の薄板を円筒形に曲げて作った木製の箱、主に弁当箱を製造販売している。


尾崎屋
尾崎屋の軒行燈。


赤坂紅里交差点
赤坂紅里信号の丁字路突き当たり右手辺りが庄左衛門家本陣跡。


復元高札
赤坂紅里信号の丁字路南角に設ける復元高札。


彦十郎家本陣跡
彦十郎家本陣跡。江戸期を通して赤坂宿本陣を務めたのは彦十郎家の1軒だけで、最も格式の高い本陣だったと思われる。彦十郎家は宝永8年(1711年)町並図で確認できる本陣4軒の中で最も広い敷地を有し、問屋場も兼ねていた。


赤坂宿問屋場(伝馬所)跡
彦十郎家本陣跡の斜向かいに問屋場跡(写真左手前の民家)。


又左衛門家本陣跡
問屋場跡の右隣り、長福寺参道入口前に又左衛門家本陣があった。写真左手が又左衛門家跡、その奥隣に弥兵衛家本陣が並んでいた。幕末には両家とも没落したのか、本陣に両家の名は見られない。


伊藤屋酒店
又左衛門家本陣跡にある伊藤屋酒店。小店ながら老舗感たっぷり。


又左衛門家本陣跡
長福寺参道入口より又左衛門家本陣跡・問屋場跡を望む。


長福寺
うなぎ屋横に延びる長福寺参道。長福寺は平安時代中期に三河国司の大江定基が愛人力寿姫の死を悼み、その菩提を弔うために寄進した聖観世音菩薩立像を安置する。


長福寺本堂とヤマザクラ
長福寺本堂とヤマザクラ。境内で枝を延ばすヤマザクラは推定樹齢約300年、赤坂町内で最大級の桜の古木だという。


熊野谷観音
長福寺本堂の高台にある熊野谷観音。


うなぎ屋
赤坂宿中心部、京方面を望む。


旧東海道 豊川市赤坂町紅里
宿内には旧商家の建物が所々に残る。


河口社入口
旧東海道から分岐する小路角に河口社入口の標柱、その角にはハイカラな建物。元々は医院だろうか。


関川神社とクスノキ
赤坂宿江戸方(東側)に鎮座する関川神社。境内に聳えるクスノキは推定樹齢約800年、木の根元がえぐれている部分は慶長14年(1609年)の大火による焼け跡と云う。


関川神社の芭蕉句碑
関川神社の芭蕉句碑。


赤坂宿東の見附跡
赤坂宿江戸方(東側)出入口、東の見附跡。


御油の松並木
東の見附跡から先、沿道には御油の松並木。


御油の松並木
赤坂宿と御油宿の間、約600mに渡って松並木が残る。


弥次喜多茶屋
松並木の中で営業している弥次喜多茶屋。しかし時間が遅かったためか、閉店しているよう。いい雰囲気の店なので、次の機会には寄りたい。


御油の松並木
東海道中膝栗毛の一場面に描かれる御油の松並木。
御油の茶屋で松並木に悪狐が出没して人を化かすという話を鵜呑みにする弥次と喜多。次の赤坂へ先に宿をとりに行った喜多、弥次は薄暗い松並木の中を一人後を追う。しかし喜多は一人だと狐に化かされる不安におそわれ、松並木の土手で弥次を待つことに。そこに弥次が追付き、先に赤坂へ行ったはずの喜多がここにいるはずがなく、狐が化けているに違いないと勘繰り、ひと騒動を起こす。そんな物語がここを舞台に描かれている。

幸いに私は狐に化かされることもなく暗がりの松並木を通り抜けた。今でもそんな雰囲気を残す松並木の道である。


御油駅
御油駅に着、ここから家路につく。


【旧東海道歩き 第14日目】旧東海道歩き 藤川駅→藤川宿→赤坂宿→御油宿→御油駅 歩行距離約15km
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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高札場
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