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御油宿

【旧東海道歩き 第15日目】御油駅→御油宿→吉田宿→豊橋駅



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東海道五十三次之内御油 旅人留女
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「御油宿」より引用


【2015年9月22日(火)旧東海道 御油宿】
今年は5連休となったシルバーウィークの9月22日、幸か不幸か仕事が無かったおかげで少しだけ旧東海道の歩みを進める。敬老の日と秋分の日に挟まれたこの日は通常ならば平日なのだが、祝日に挟まれた平日は休日になるという有難い法律のおかげで国民の休日になり、大型連休が出現することとなった。ちなみに来年は3連休にしかならなく、このままの祝日制度でいけば次に5連休となるのは11年後の2026年だという。しかし多くのサラリーマンにとっては中間期末の9月、なかなかカレンダー通りに休めないというのが実状だろう。日本国民は他国に比して労働時間が長く働き過ぎということは新聞・テレビでよく目や耳にするところ、日本が観光立国を推進するならば、まずは観光を楽しみ創造できる国民性が必要であり、もっとこういった大型連休を増やせないものかとつくづく思う。

江戸日本橋から東海道五十三次を35宿目、京都三条大橋から19宿目となる御油宿、西隣の赤坂宿、東隣の吉田宿と並び多くの飯盛女を抱えて賑わった宿場町である。歌川広重は「東海道五十三次之内御油 旅人留女」の題を付け、強引に客引きをする宿場の女たちを浮世絵に描き、東海道中膝栗毛では弥次郎兵衛が客引きの女を振り切り足早に宿場を通り抜ける様子を描く。天保14年(1843年)当時、御油宿の町並み長さ9町32間(約1040m)、人口1298人、家数316軒、本陣は鈴木半左衛門家・林五郎大夫家・中村谷十郎家・橘屋弥左衛門家の4軒、脇本陣なし、旅籠62軒。家数の2割を旅籠が占めるのは赤坂宿と同等で、歓楽地として繁盛したことを物語る。京方より上五井・中上町・仲町・横町・茶屋町と続く町並み、江戸方外れの欠間追分で姫街道(本坂道)が分岐する。下り(江戸方)の継立のみを行う片継の宿駅で、上り(京方)の継立は赤坂宿が担った。名物は甘酒と饅頭。




御油駅
朝8時半、御油駅に降り立ち。


御油橋と彼岸花
音羽川土手を歩いて御油橋へ。川岸には彼岸花が咲き誇る。


音羽川
御油橋より音羽川上流を望む。


御油橋西詰
御油橋西詰。ここから旧東海道を京方へ向かって散策しよう。


若宮八幡社
御油橋西詰に鎮座する若宮八幡社。


音羽区掲示板
音羽区掲示板に若宮八幡社祭礼の案内があり目に留まる。しかし一昨日の9月20日が祭礼日だったようで…。


旧東海道 御油町美世賜(旧茶屋町)
御油宿旧茶屋町を行く旧東海道。


御油町旧茶屋町の更地にて
旧街道沿いの更地から、枯草にカモフラージュされた猫の熱い視線を感じ。


御油町旧茶屋町の更地にて
何だチミは!?


御油宿旧茶屋町・横町の鉤の手
旧茶屋町と旧横町の境をなす鉤の手。旧東海道はここを手前から右折、かつては曲り角に高札場が設けられていた。


高札場跡
鉤の手の北西角には高札場跡の解説板が設置されている。


旅籠戸田屋跡
高札場跡の解説板がある対面角は旅籠戸田屋跡(写真手前)。ここを生家とする熊吉の娘が花・ベルツという人。明治時代にドイツ人医師ベルツが渡日し近代医学の普及に尽力、その妻となったのが花・ベルツで国際結婚の先駆けになった。


問屋場跡
御油宿旧横町にある問屋場跡。解説板が立つ。


御油宿旧横町・仲町境の鉤の手
旧横町と旧仲町の境をなす鉤の手。写真左奥が旧横町、右が旧仲町、中央角は江戸末期に旅籠尾張屋があった。


旧東海道 御油町美世賜(旧仲町)
御油宿旧仲町の町並み。世賜堂という本屋が広く敷地を占める。


林五郎大夫家本陣跡
和菓子屋の”御油本店おふく”辺りは豆腐の尾島屋・飴菓子屋の伊東屋跡。その左隣辺りが林五郎大夫家本陣跡(写真左手前)。


茶店こくや
”御油本店おふく”の右隣にある”茶店こくや”。元は吉良屋という屋号の家があったようだが、当時も茶屋だったのだろうか。団子や五平餅が食べられる雰囲気のある茶店だが、見たところ暖簾を下ろしてしまったのかもしれない。


鈴木半左衛門家本陣跡
鈴木半左衛門家本陣跡(写真左手)。天保14年(1843年)に4軒あった本陣のうち最も格式の高い筆頭本陣だったと思われる。明治11年(1878年)ここを仮庁として宝飯郡役所が設けられた。現在その跡地は民家やイチビキ第一工場の敷地と化し往時の面影は留めていない。


イチビキ第一工場
イチビキ第一工場の敷地を通る旧東海道。かつては江戸末期に本陣を務めていた善十郎家をはじめ、大中小の旅籠が沿道に軒を連ねていた。


イチビキ第一工場
イチビキは醤油や味噌を主力に、ソースやつゆ等の調味料を製造販売するメーカー。本社は名古屋だが、関東でもお世話になっている方が多いのではないだろうか。


東林寺
ごゆ観音こと、招賢山東林寺。永享年間(1429年~41年)龍月日蔵和尚により開基、永正年間(1504年~21年)堂宇が建立され現寺号に改められた。徳川家康が二度立ち寄り休息したという。


東林寺
東林寺本堂。改装の最中のようだ。


角田畳店
角田畳店(写真左手前)。この辺りが御油宿の旧中上町と思われる。


旧東海道 御油町美世賜(旧上五井町)
御油宿京方端、旧上五井の町並み。家が途切れた先から松並木が続く。


御油の松並木
御油の松並木入口。


御関札立掛場跡
松並木入口前、御関札立掛場の解説板が立つ。ここは参勤交代等で御油宿に宿泊する藩主名や宿泊日、目的地を木札に記して掲示した場所。関札は宿場の出入口や大名が宿泊する本陣・脇本陣に掲げられ、往来の旅人や住民等に大名の来訪を周知させた。


十王堂
御関札立掛場から街道を挟んで向かいにある十王堂。


弥次喜多茶屋と松並木
前回の旅で再訪を期した弥次喜多茶屋に。


弥次喜多茶屋
しかし、弥次喜多茶屋は改修工事中のようで…残念。


御油の松並木
”日本の名松百選”に選ばれる御油の松並木。昭和19年(1944年)国の天然記念物に指定された。


御油の松並木
江戸時代の東海道を感じさせる御油の松並木。向こうから弥次喜多が歩いてきそうな気がしませんか。


御油の松並木後継樹
御油松並木公園に設けられる松並木後継樹の植樹場。何十年か後、この幼木たちが松並木を後世に残していくことになるのだろう。立派な松に育ってほしい。


音羽川
御油宿の東側を流れる音羽川。


音羽川岸の彼岸花
川岸を彩る赤と緑のコントラストが美しい。


音羽川河畔にて
音羽川河畔にて。


御油の松並木資料館
音羽川河畔、新御油橋西側にある御油の松並木資料館。御油の松並木や御油宿に関する資料を展示する。私が訪問したときには見かけなかったが、留チャン(とめちゃん)というゆるキャラがいるらしい。江戸時代、旅籠へ客引きをする女を留女(とめおんな)と呼び、おろらくゆるキャラ名はこれに因んでいるのだろう。

豊川市 「御油の松並木資料館」
http://www.city.toyokawa.lg.jp/shisetsu/bunkakyoiku/goyumatsunamiki.html


御油橋
音羽川土手を歩いて再び御油橋に。


御油橋東詰
御油宿を出で旧東海道を江戸へ向けて歩もう。


楠社道道標
御油橋東詰にある楠社道道標。碑面に「従是楠社道」と刻み、現在の八面神社へ至る参道を示す。


八面神社参道
細々と残る八面神社参道。


八面神社
八面神社。文安3年(1446年)八面山法林寺(御油町古御堂)の住職により創建、猿田彦命を祭神に、南北朝時代に南朝方の武将楠木正成の三男楠木正儀以下7名の将を祀ったといい、元は楠神社とも称した。明治4年(1871年)頃まで境内にはクスノキの大木があったらしいが、乞食が根元をねぐらとして焚き火を続けたため終には枯れてしまったという。


吉川屋本店
西欠間の旧東海道筋にある吉川屋本店。古くから肥料や飼料、雑貨商を営んだ商家、現在は丸吉商店となって事業を継続している。


欠間追分
旧東海道から姫街道(本坂道)が分岐する欠間追分。写真左右の道が旧東海道、奥に延びる道が旧姫街道(本坂道)。浜名湖南部の今切口に設ける新居関所は女人改めが厳しく、多くの女性が関所を避けて浜名湖の北側陸路へ迂回、そのためこの迂回路を姫街道と呼んだ。姫街道は欠間追分から浜名湖北側の本坂峠を越え、浜松宿や見附宿で再び東海道に合流するルート。


欠間追分の秋葉山常夜燈
欠間追分に残る秋葉山常夜燈。安永3年(1774年)建立。


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国府立場と伊奈立場

【2015年9月22日(火)旧東海道 御油宿→吉田宿】
欠間追分から御油一里塚跡を過ぎれば立場の置かれた旧国府村(現 豊川市国府町流霞)の街村に着く。国府村は近辺に三河国府の国庁が置かれていたことに村名の由来があるのだろう。国府駅東側にある曹源寺や三河總社(豊川市白鳥町上郷中)辺りが国庁跡、ここから東の地に三河国分寺(豊川市八幡町本郷)、更に北東へ行けば三河国分尼寺跡史跡公園(豊川市八幡町忍池)があり、奈良時代から平安時代にかけて三河国の中心がここにあったことを今に物語ろう。そんな歴史を持つ国府村は御油宿の定助郷村で、毎月4と9の日に六斎市が開かれ五穀やタバコ、縄・莚薪・青物などが売買され、東海道筋には立場が置かれて旅人や人足などが足を休め賑わった。国府立場を過ぎれば東海道は小田渕縄手の松並木、八枚橋(現 五六橋辺りか?)を渡って旧小田渕村(現 豊川市小田渕町)桜町の街村に至る。

桜町の街村を通り抜けて佐奈川を渡って間もなく、伊奈立場(現 豊川市伊奈町新町・茶屋)に着く。伊奈立場は寛永年間(1624年~45年)伊奈村の東海道筋に移住者が居を構え新町・八丁・茶屋の集落を形成、貞享4年(1687年)江戸方端の茶屋町に吉田藩主小笠原長祐が御馳走御茶屋を建てたことが立場としてのはじまり。そのため茶屋町立場と称するのが一般的だったようだ。後に茶屋本陣と俗称される立場茶屋の加藤家が”良香散”という腹薬を売り、この立場の名より知られる街道筋で評判の名薬だったという。この加藤家の生まれである俳人鳥巣は松尾芭蕉と親交があり、貞亨5年(1688年)鳥巣に会うため芭蕉が加藤家を訪れている。


 

欠間追分
欠間追分から江戸へ向けて旧東海道を歩こう。


御油一里塚跡
欠間追分から江戸方へ約200m、蒲郡信用金庫(がましん)の国府支店辺りが御油一里塚跡。江戸日本橋から76里目(約298km)、京三条大橋からは42番目(実測で約206km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。両塚とも現存せず。


旧東海道 豊川市国府町流霞
御油一里塚跡の少し先から旧立場国府の町並み。


大社神社
国府の東海道筋京方端に鎮座する大社神社。旧街道沿いに石垣と白壁が続く。江戸後期の安永・天明年間、国府村内には田沼意次の陣屋が置かれていたが、意次の失脚に伴って廃止されたという。この白壁の石垣はその陣屋から流用されたものと伝わる。


大社神社
大社神社社殿と社務所。大社神社は天元・永観年間(978年~985年)大江定基が三河守に着任の折、三河国の安泰を祈念して出雲大社より大国主命を勧請、合わせて三河国中諸社の神々を祭神に祀ったと社伝にあるという。幕末に徳川14代将軍家茂は長州征伐の戦勝を祈願して短刀を奉納している。


大社神社
大社神社は明治5年(1872年)国府村の総氏神となった。


大社神社と旧東海道
大社神社と旧東海道。


八平次記念館八の蔵
大社神社南側、旧東海道筋にある”八平次記念館八の蔵”。土蔵を改装した多目的ホールがあるらしい。


新栄町2丁目交差点
新栄町2丁目交差点の旧東海道。


藤原屋
藤原屋・旧豊川国府郵便局前を行く旧東海道。


旧東海道 豊川市国府町流霞
坂井洋品店や日用雑貨の伊川屋、河合宝石時計メガネ店などの個人商店が並ぶ。


旧東海道 豊川市国府町流霞
伊川屋と寝具店すずぜん前を行く旧東海道。


伊藤うば車店
伊藤うば車店。乳母車を専門に扱う店もあるんですね。


薬師堂(瑠璃殿)
国府町の商店に並んである薬師堂(瑠璃殿)。


吉文字屋
衣料用品店の吉文字屋。


旧東海道 豊川市国府町流霞
寿し・うなぎ屋の”だるま”辺りが旧国府立場の江戸方出入口。路傍に秋葉山常夜燈が残る。


国府村の秋葉山常夜燈
旧国府立場の江戸方出入口付近に残る秋葉山常夜燈。寛政12年(1800年)国府村の火除け、村中安全を祈願して建立されたもの。


大社神社御旅所
国府町薮下の旧東海道沿いにある大社神社御旅所。


国府交番
国府交番前で旧東海道は国道1号に合流。写真左の交番らしからぬ日本建築が国府交番。


国道1号 豊川市白鳥町
豊川市白鳥町を行く国道1号(旧東海道)。


旧東海道 豊川市白鳥町
国道1号の白鳥跨線橋横に残る旧東海道。道筋はこの先で名鉄名古屋本線により分断されている。


旧東海道 豊川市白鳥
白鳥跨線橋横、旧東海道を江戸方から京方を望む。


旧東海道 豊川市白鳥
白鳥跨線橋横の旧東海道は道路下を潜り抜けているが…。


旧東海道 豊川市白鳥
水没のため通行不能。


旧東海道 豊川市白鳥4丁目
白鳥跨線橋より。旧東海道を横切る名鉄名古屋本線線の列車。


名鉄豊川線
旧東海道の北側を走り抜ける名鉄豊川線の赤列車。


旧東海道 豊川市白鳥
かつての東海道はこの辺りから右方向へ向かっていたが、国道1号の白鳥跨線橋により消失。


旧東海道 豊川市白鳥町
白鳥5丁目西交差点付近、国道1号から旧東海道は直線に延びる。昔は松並木の街道で、小田渕縄手と呼ばれた。


山桃交差点
山桃交差点付近、小田渕縄手の旧東海道。


西古瀬橋
西古瀬川の旧東海道に架かる西古瀬橋。


西古瀬川河畔にて
西古瀬川河畔にて。地味なので蛾かと思ってしまうが、セセリチョウという蝶の仲間。


旧東海道 豊川市小田渕町
西古瀬川と白川の間、小田渕町の旧東海道。わたなべ珈琲店が素敵な佇まい。


五六橋
白川に架かる五六橋。


旧東海道 豊川市小田渕町02
白川を渡れば旧桜町(現 豊川市桜町)の街村が佐奈川辺りまで続いていた。桜町は小田渕村より旧東海道筋に移住して街村を形成、桜の名所だったことから桜町と名付けられたという。


稲荷神社
小田渕町不垂に鎮座する稲荷神社。慶安元年(1648年)小田渕村より桜町に移住した村民の鎮守として創建、宇迦御魂命を祭神に祀る。


稲荷神社境内
小田渕の稲荷神社境内。


若宮白鳥神社参道入口
桜町の旧東海道、若宮白鳥神社参道入口付近。


若宮白鳥神社遥拝所
若宮白鳥神社遥拝所。参道が国道1号に分断されたため、容易に参拝できなくなったために設けられたと思われる。同所に江戸中期の歌人冷泉為村(れいぜいためむら)の歌碑、桜町に訪れた際に詠んだ歌を刻む。

散り残る 花もやあると 桜村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ


若宮白鳥神社参道
若宮白鳥神社参道。国道の向こうに鳥居が見える。ここから神社は近いようで遠いのだ。


旧東海道 豊川市桜町
桜町を行く旧東海道。


旧東海道 豊川市桜町
かつて桜町の旧東海道筋には蕎麦切りを名物にする茶屋が多くあったようだ。


佐奈橋
桜町の江戸方外れ、旧東海道は佐奈橋で佐奈川を越える。

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吉田湊

【2015年9月22日(火)旧東海道 御油宿→吉田宿】
豊川放水路を越えて下五井から下地へ。吉田城下から豊川の対岸、豊川右岸に村域を持っていた下地村(現 豊橋市下地町)、東海道沿いに街村を形成し、京方端の四ツ屋(現 豊橋市下地町四ツ屋)には立場が設けられていた。村内と吉田城下を隔てる豊川には吉田大橋(豊川橋)が架けられ、吉田宿の京方出入口をなす。東海道名所図会によれば吉田大橋の長さ百二十間(約216m)、瀬田の唐橋や矢作橋と共に東海道三大橋に並び称され、。歌川広重は「東海道五十三次之内吉田 豊川橋」の題を付けて普請中の吉田城と吉田大橋を描く。その吉田大橋南詰、豊川河岸には伊勢湾海上交通の要衝だった吉田湊があり、奥三河から運ばれる産物の集散地として栄える一方、伊勢の江尻へ往来する舟運が出て伊勢参りの旅人で賑わった。




高橋
豊川放水路に架かる高橋を渡る。豊川放水路は水害対策のため昭和40年(1965年)に開通した人工河川。ここには江戸時代に江川支流の小河川が流れており、やはり高橋と称する小さな橋が架けられていた。現在の高橋は放水路開通時に架橋されたもので、歩道が無く車が通ると少々怖い。旧東海道歩きでここを渡る旅人も多くいるはず、車に対して注意標識を設置する等、もう少し歩行者に配慮がほしい。


旧東海道 豊川市・豊橋市境
豊川放水路を越えれば豊川市から豊橋市へ。


魚市場前センター
豊橋魚市場から旧東海道を挟んで向かいにある魚市場前センター。


旧東海道 豊橋市下五井町
下五井町を行く旧東海道。現在の豊川放水路と江川に挟まれた低地にあった旧下五井村は、東海道筋に町家を出し小さな街村を形成していたようだ。昔は下御油村とも称す。


鹿菅橋
江川に架かる鹿菅橋。鹿菅は弁慶が大雨で足止めを食らったという”しかすがの渡し”に因む地名で、明治22年(1889年)下五井村・清須新田・津田村・瓜郷村が合併、鹿菅村が成立した。


豊橋市横須賀町・瓜郷町
豊橋市横須賀町・瓜郷町を行く旧東海道。松並木の名残と思われる一本松が路傍に立つ。


瓜郷遺跡
旧東海道の東、江川南岸にある瓜郷遺跡。低湿地が囲む自然堤防上に弥生時代から古墳時代前期にかけてあった集落(ムラ)跡。東三河の弥生文化を示す土器や石器、骨角器、木製農具等が出土している。昭和28年(1953年)国史跡に指定。


瓜郷遺跡
弥生時代の竪穴式住居の遺構をもとに復元された竪穴式住居。


豊橋市横須賀町
横須賀町の旧東海道。かつては松並木の街道だったが、現在は見る影もない。


豊橋市下地町四ツ屋
立場だった下地町四ツ屋の家並み。


豊橋市下地町四ツ屋
街道筋は立場を置く街村の面影を残す。


ヤマサン
元禄16年間(1703年)創業のヤマサン。大豆・菜種の搾油業からはじまり、現在は米・大豆・油・飼料等を扱う卸売業の会社に発展、ここに本社を置く。おそらく創業地と思われる。


豊橋市下地町豐麻
下地町豊麻を行く旧東海道。


下地一里塚跡
下地交差点付近にある下地一里塚跡。江戸日本橋から74里目(約291km)、京三条大橋からは44番目(実測で約215km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。「下地一里塚跡」碑があるのみで両塚とも現存せず。


聖眼寺
真宗高田派聖眼寺。


松葉塚
聖眼寺境内にある松葉塚。芭蕉没後50年忌を記念して建立されたという古碑が残り、芭蕉が当寺に立ち寄った折に詠んだ句を刻む。他に明和6年(1769年)建立の再建松葉塚碑、宝暦4年(1754年)建立の標石があり、市史跡に指定される。

松葉(ご)を焚(たい)て 手ぬくひあぶる 寒さ哉



真光寺
聖眼寺の南東隣に真光寺。元々は真光坊と称し聖眼寺の塔頭(本寺の境内にある末寺院)、明治9年(1876年)専修寺直末となり寺号を真光寺に改めた。安置する木造阿弥陀如来立像は室町時代の作とされ、”災厄除の阿弥陀”として信仰を集める。


吉田大橋跡北詰
吉田大橋跡の北詰(豊橋市下地町側)辺り。


豊橋
吉田大橋跡から豊川上流約70mに架かる豊橋。


豊橋02
豊橋より吉田大橋跡南詰(豊橋市船町側)を望む。かつて川岸に吉田湊が設けられ、江戸廻船や伊勢や尾張への通船が往来し賑わったのも今は昔。


江戸時代後期の吉田橋と吉田湊
豊橋市教育委員会設置の解説板「船町と高札場」より、「三河国吉田名蹤綜録」に描かれる吉田橋と吉田湊。江戸時代後期の吉田大橋や吉田湊の様子がよくわかる。


吉田湊跡
護岸に石畳を敷き往時を偲ぶ吉田湊跡。


旧豊橋親柱
吉田大橋跡南詰にある旧豊橋の親柱。明治12年(1879年)吉田大橋に代わり架橋された旧豊橋の親柱で、大正5年(1916年)鋼製トラス橋に架け替えられた際、この親柱だけはそのまま流用されたという。昭和61年(1986年)現在の豊橋が竣工、役目を終えたこの親柱と共に鋼製トラス橋の一部が往時を偲びここに残る。


旧豊橋遺構
大正5年(1916年)竣工の鋼製トラス橋遺構。


旧豊橋遺構にて
鋼製トラス橋遺構から鋭い眼差しを向ける猫。関係者以外立入禁止!と言わんばかり。決して怪しい者じゃありませんので…。


豊橋南詰
現在の豊橋南袂。豊橋市教育委員会設置の解説板「船町と高札場」を設置する。かつては旧吉田大橋(現 豊橋より約70m下流地点)南袂に船町の高札場が設けられていた。


豊橋南詰
豊橋南詰の一帯は吉田城下二十四町の一つ、船町。豊川舟運の物資集散地、吉田湊を擁し賑わった。船町には地子(賦課した地代)免除された船番組が組織され、吉田湊から移出する18品目の物資と通船の往来者に対して上前銭徴収権の特権が与えられていた。


吉田宿船会所
吉田宿船会所。吉田の宿を考える会とあり、少々興味がそそられる。次の機会にもう1度訪ねてみよう。


船町交差点
船町交差点から旧東海道を京方の豊橋方面。旧東海道はここを右に曲がる。


湊神明社
豊橋市湊町に鎮座する湊神明社。白鳳元年(元号白鳳は通説で白雉(650年~54年)の別称)の鎮座と伝わる。戦国時代に今川義元やその嫡子氏真が神田を寄進している。


神明社02
湊神明社は江戸時代には田町神明社と称す。幕末から明治期にかけて神主を務めた羽田野敬雄は国学者平田篤胤の門人で、篤胤直筆の書「カムナガラ」(神の心のままにの意)を木扁額に作り、今も拝殿左側に見ることができる。


湊築島弁天社
湊神明社の東隣にある湊築島弁天社。社殿は寛政7年(1795年)の建築、豊橋市中心部にあって江戸時代から今に残す貴重な建築遺構である。


きく宗
文政年間(1818年~30年)創業のきく宗。江戸時代から今に至るまで、"菜めし田楽"ひと筋に変らぬ味を守り続ける老舗料理店。吉田宿散策に訪れた際には訪ねなければなるまい。次の機会には必ずやその味を堪能しよう。

きく宗
http://kikusou.jp/


吉田宿本陣跡
吉田宿本陣跡にある鰻料理店”丸よ”に着いたところで本日の旧東海道歩きは終い。


ヤマサちくわ本店
豊橋駅へ向かう途中、ヤマサちくわ本店で豊橋名産のちくわを購入。


若松園本店
ヤマサちくわ本店の次は若松園本店に。これまた豊橋名物の和菓子”ゆたかおこし”を購入。

若松園
http://wakamatsuen.net/


豊橋名産ちくわ
豐橋から東京へ向かう新幹線車内にて。豊橋名産のちくわを開封。

豊橋名産ちくわ
ちくわをつまみにビールをちびちび。至福の時です。


ゆたかおこし
せっかくなので”ゆたかおこし”も。昭和天皇がご即位の折に献上されたという和菓子で、しっとりしたおこしに上品な甘さの餡がマッチ、個人的には豊橋土産におススメの一品。


【旧東海道歩き 第15日目】御油駅→御油宿→吉田宿→豊橋駅 歩行距離約18km
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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