【旧東海道歩き 第16日目】豊橋駅→吉田宿→吉田城址→二川宿→二川駅

東海道五十三次之内吉田 豊川ノ橋
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「吉田宿」より引用
【2015年11月29日(日)旧東海道 吉田宿】
しばらく北海道の記事が続いた。そろそろ旧東海道歩きの記事を書き進めなければ。今回の記事に書く旧東海道歩きは昨年(2015年)11月、日の入りが最も早い時期であり、吉田宿と吉田城下の散策がメインとなり、次の二川宿までは少々足早に歩みを進めることに。道中の岩屋観音に登ったところで日没を迎え、二川宿へ着いた頃にはすっかり日が沈んで闇に包まれてしまう。なかなか遅々として進まない旧街道歩きだが、”ゆっくり、のんびり”をモットーにした旅なので、これからも焦らず急がずな感じで行こう。まずは吉田宿から。
吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振袖が華美な飯盛り女を多く抱え、里謡に歌われるほどに賑わった吉田宿。江戸日本橋から東海道五十三次を34宿目、京都三条大橋から20宿目、現在の豊橋市市街がその跡地となる。天保14年(1843年)当時、吉田宿の町並み長さ23町30間(約2564m)、人口5277人、家数1293軒、本陣は清須屋中西与右衛門、江戸屋新右衛門の2軒、脇本陣が桝屋鈴木庄七郎の1軒、旅籠65軒。さすがに吉田城の城下町だけあって規模が大きい。京方入口は豊川に架かる吉田大橋、その南詰から船町・田町・坂下町・上伝馬町・本町・札木町・呉服町・曲尺手町・下モ町と東海道沿道に町並みが続き、札木町に本陣・脇本陣・問屋場を置いた。名産物は煙草・火口(ほくち)・甘酒。

2ヶ月ぶりの豊橋駅に降り立ち。

豊橋市大橋通歩道橋より豊橋を望む。まずは吉田宿の京方出入口だった吉田大橋跡(現 豊橋)へ。

伊勢湾交通と物流で賑わった吉田湊跡。ここから吉田宿散策をはじめよう。

吉田大橋跡の南詰付近、豊橋市船町に建つ橋本山龍運寺。

豊橋南詰より船町の大橋通りを望む。”大橋通り”という道名の由来は江戸時代の吉田大橋にあるのだろうが、現在は豊橋から豊川を約600m上流、国道1号に架かる橋が吉田大橋と称しており勘違いしてしまう。国道の方は吉田新大橋とすべきだろう。

船町にある吉田宿船会所。朝の早い時間、今回も入口を眺めただけで通り過ぎ…。

船町交差点を左折して旧田町(現 豊橋市湊町)へ。

前回も参拝に訪れた湊神明社。

2017年(平成29年)に20年毎の式年遷宮を迎えるらしい。

池中の小島に鎮座する湊築島弁天社。戦国時代に琵琶湖の竹生島から弁財天を勧請したことにはじまり、天和3年(1683年)神明社境内に社殿が建立されたという。現社殿は棟札から寛政7年(1795年)の建築とされる。

湊町の旧東海道筋に建つ石碑。「松尾芭蕉吉田の宿の旅籠の記」と芭蕉の句を刻む。貞享4年 (1687年)松尾芭蕉は渥美郡保美の里(現 田原市保美町)に住む愛弟子坪井杜国を訪ねる旅の途次、吉田宿の旅籠に宿泊したことを碑に綴る。この時に芭蕉が聖眼寺(豊橋市下地町)に立ち寄り句を詠んだことは前の記事「
吉田湊」に書いたので参照を。

旧田町(現 豊橋市湊町)の東端付近、旧東海道。

旧田町と旧坂下町(現 豊橋市湊町)境辺り、旧東海道は写真右から奥へ鉤の手に曲がる。

旧坂下町(現 豊橋市湊町)にある千両屋銘木店。

吉田城下京方出入口、西惣門跡。モニュメントを設けて往時を偲ぶ。ここは江戸時代に坂下町と上伝馬町の境にあたり、西惣門は本興寺(静岡県湖西市鷲津)の惣門を参考に建造されたという。ちなみに現在の本興寺山門は延宝2年(1674年)に吉田城大手門を移築したもの。

西惣門から東へ100m程、総堀を廻らす吉田城外郭への西側出入口だった外天王門跡。酒井宝飾店がある辺りがその跡地。総堀は埋め立てられ門跡を示す標識すらなく、往時を偲ぶ術がない。

上伝馬町側より西惣門跡を望む。

上伝馬町を行く旧東海道。

上伝馬町の旧東海道は広い歩道が設けられ歩きやすい。

上伝馬町と旧本町(豊橋市新本町)の境、旧東海道は北から東(写真左から奥)へ鉤の手に曲がる。

鉤の手を曲がれば旧本町(現 豊橋市新本町)の町並み。

本日最大の目的はここ”きく宗”で名物の菜めし田楽を食べること。”きく宗”は文政年間(1818年~30年)創業の老舗料理店。まだ昼までには時間があるので、吉田宿の散策を終えてから再訪することに。
きく宗http://kikusou.jp/

”きく宗”近くの和菓子店、大正軒に立ち寄り。こちらも明治9年(1876年)創業という老舗。
大正軒http://www.arujan.net/taisyouken/

みたらし団子を注文し、店内の食事スペースで早速頂きました。

焼きたてのみたらし団子、見た目だけで美味さが伝わってくる。外は絶妙な焼き加減の焦げ目、中もっちりの食感がたまらない。これに奇跡とも思える程に甘辛のタレがマッチする。これを目的に豊橋へ来るものありだと思う。

吉田宿の中心だった札木町へ。高札場が設けられていたことが地名の由来。江戸時代に本陣・脇本陣・問屋場を置き、多くの旅籠が軒を連ねて賑わった。

前回の歩き旅で豊橋名物の和菓子”ゆたかおこし”を買い求めた若松園本店。

吉田宿本陣清須屋中西与右衛門家跡。現在は”うなぎ丸よ”の店舗が建っている。右隣にもう一方の本陣、江戸屋新右衛門家があった。

吉田宿本陣清須屋跡と江戸屋跡を望む。

NTT西日本豊橋ビル(写真右手のビル)辺りが問屋場跡。

札木町と呉服町の境から吉田城大手門へ続く道。

吉田城大手門跡。天正18年(1590年)池田輝政が吉田城を拡張整備した時、ここへ大手門を移したと伝わる。明治初年に取り壊されてしまった。

明治初年撮影の大手門(豊橋市教育委員会設置の吉田城案内図より)。吉田城の正面入口にふさわしい重厚な造り。

呉服町の旧東海道、札木町方面を望む。

呉服町と曲尺手町の境、旧東海道は左(写真左から奥方向)へ鉤の手に曲がる。

呉服町と曲尺手町の境をなす連続する鉤の手道(旧東海道)。

曲尺手町京方の町並み。地内の街道が曲尺のように曲げられていたことに町名の由来がある。

曲尺手町の街道沿いにある海鮮茶屋やまや。旧宿場町らしい佇まいの居酒屋。

曲尺手町から城内への入口、曲尺手門跡。

曲尺手町を行く旧東海道。

曲尺手町東側より旧東海道京方を望む。

曲尺手町から鍛治町へ。

鍛冶町にある東京堂装粧品店(写真左)。化粧品店のようだが、豊橋にあって東京堂という店名に少々気が引かれたので。

鍛冶町と旧下モ町(現 豊橋市鍛冶町)の境、旧東海道は左へ曲折(写真左から奥方向)。

旧下モ町に鎮座する造立稲荷大明神。

八町もちやの裏手辺りが吉田城東惣門跡。東海道の吉田城下江戸方出入口だった場所で、現在は東惣門をはじめ旧道の道筋も失われている。

八町もちやの店前、国道1号に面してある吉田城東惣門のモニュメント。

吉田城東惣門跡周辺は区画整理され、往時の道筋を残していない。

東惣門跡付近の国道1号。豊橋鉄道の路面電車が道中央を走る。

豊橋鉄道の東八町駅。

東八町駅付近、写真中央奥が東惣門跡。

東八町駅付近にある新町の大燈籠。文化2年(1805年)東惣門前に建立、以来吉田名物の一つとして地元住民や東海道を往来する旅人に親しまれる。昭和20年(1945年)三河地震で倒壊、昭和55年(1980年)豊橋公園内に復元され、平成13年(2001年)旧地付近に移設復元された。

旧東八町(現 豊橋市八町通)から城内への入口、柳生門跡。八町小学校南側、豊橋ファッション・ビジネス専門学校の左隣辺りがその跡地と思われる。

吉田宿の散策を終え、安久美神戸神明社を参拝に。
そろそろ腹が減ってきた。”きく宗”へ向かおう。
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