二川宿

東海道五十三次之内二川 猿ヶ馬場
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「二川宿」より引用
京方から東海道を来れば三河国最後の宿場となる二川宿。その成立は東海道に伝馬制が定められた慶長6年(1601年)、当初は人馬継立を二川村と大岩村が分担する形態だったが、正保元年(1645年)二川村が12町(約1.3km)西へ移転して二川宿を形成、更に大岩村を東へ移転させてその加宿とした。天保14年(1843年)当時、二川宿の町並み長さ12町16間(約1340m)うち二川宿6町36間、大岩加宿5町40間、人口1468人、家数328軒、本陣は馬場彦十郎家の1軒、脇本陣1軒、旅籠38軒、二川宿・大岩加宿それぞれに問屋場を設けていた。二川宿は東から東町・新橋町・中町の3町、大岩加宿が中町・茶屋町の2町から成る町並みで、茶屋町西端に立場茶屋を置いた。名物は強飯。京方隣の吉田・御油・赤坂が飯盛女を多く抱えて賑わっていただけに、家数も旅籠も少なく地味さは否めない。歌川広重は「東海道五十三次之内二川 猿ヶ馬場」の題を付け、「名物かしハ餅」の看板を出す茶屋と、そこに差し掛かる瞽女(ごぜ、盲目の女旅芸人)たちを描くが、猿ヶ馬場は白須賀宿の西方、三河と遠江の国境近くだとされている。

約3ヶ月ぶりの二川駅に降り立ち。

駅前に立つ岩屋江八丁道標。元々は東海道と岩屋観音道の分岐点(現在の火打坂交差点辺り)にあり、東海道から岩屋観音への参詣道を示していた。弘化4年(1847年)建立。

二川駅近く、二川病院や高柳うば車店辺りの旧東海道。この辺りは北元屋敷・南元屋敷の地名に示す通り、江戸時代初期まで大岩村の街村旧地。正保元年(1645年)二川宿の新設にあたって大岩村の街村は東へ移転し二川宿の加宿となった。

大岩加宿(現 豊橋市大岩町)の京方入口、旧東海道の道幅が急に狭くなる。往時の道幅を残しているのだろう。二川宿西の見附が設けられていた。

大岩加宿旧茶屋町の立場茶屋跡。”おざき”という化粧品店辺りがその跡地で、「立場茶屋跡」と刻む碑が立てられている。


大岩神明宮の秋葉山常夜燈。文化4年(1807年)建立。

大岩神明宮社殿。

二川交番のある場所が大岩加宿の郷蔵跡。かつては交番左横辺りを宮川が流れ、旧東海道には橋が架けられていたが、現在は暗渠と化している。

大岩加宿旧中町を行く旧東海道。

二川宿問屋場2軒のうちの一つ、大岩加宿の西問屋場跡。現在はキング石鹸工業有限会社の看板を掲げる社屋に。

大岩加宿旧中町には建物が新旧入り混じって旧道沿いに並ぶ。

大岩町の旧東海道筋にて。

二川宿西の枡形跡にある”骨董ロマン陣屋本”と”中原屋”。陣屋本は江戸時代以降の陶磁器300点以上を展示する喫茶店、その東隣に老舗和菓子店の中原屋。ともに旧宿場町らしい佇まい。

中原屋前が二川宿高札場跡。

高札場が置かれた西の枡形はクランク状の道筋に往時の面影を残す。ここが大岩加宿と二川宿の境にあたる。

教科書販売店の春田屋は旧旅籠”伊勢屋”。

二川宿旧中町、本陣付近。本陣斜向かいに旧商家西駒屋の建物が残る。

西駒屋は明治42年(1909年)二川町新橋町にある商家”駒屋”から分家して味噌・醤油の醸造業を創業した。ここは江戸時代末期に店を構えていた旅籠壺屋・巴屋の跡地にあたる。

二川宿本陣。旧東海道で現存する本陣は草津宿とここ二川宿のみ。昭和63年(1988年)改修復元され内部を一般公開する。貴重な宿場遺構、次の記事で詳述しよう。

二川宿本陣前、西(京方)から江島屋・市川屋・橋本屋の旅籠が並んでいた。

二川宿脇本陣松坂屋跡。

二川宿中町江戸方端にあった東問屋場跡。写真左手前、変則四叉路の北西角にある”NEWJOYS日の出軒”が跡地。

二川宿新橋町に設けられた東の枡形。西の枡形と同様、クランク状の道筋を残す。

西の枡形にある商家駒屋。西駒屋に対して東駒屋と通称されていた。無料で内部公開しているので後ほど。

新橋川に架かる新橋。二川宿新橋町と東町の境を成し、新橋町という名の由来になったのがこの橋だと思われる。

新橋東詰にある二川八幡神社参道入口。白壁に囲われる特徴ある参道。創祀は永仁3年(1195年)に鎌倉鶴岡八幡宮から祭神を勧請したことに始まりがあると伝わる。江戸時代、毎年8月10日に行われていた例祭の湯立神事では幕府から薪が下付され、役人から庶民まで多くの人々が境内に集まり賑わったらしい。
ここから先の旧東海道は明日に。引き返して雛祭りを開催中の商家駒屋と二川本陣を見学しよう。
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