新居宿

東海道五十三次之内 荒井 渡舟ノ図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「新居宿」より引用
【2016年4月2日(土)旧東海道 新居宿】
まずは江戸時代の東海道名所記(万治年間刊行)より新居宿部分を抜粋して紹介。
「舟やうやうつきけれは 楽阿弥も男ものり手ミなミなあがらぬ。ここハ関所なり。女には手判のせんさくあり。其外鉄砲をあらためらる。楽阿弥かたりけるハ 此宿はづれの右の方に濵名のはしの跡あり 拾遺和歌集兼昌が歌ふ
汐みてる ほどに行きかふ 旅人や 濱名の橋と 名付初けむ
又続古今集正村朝臣の歌に
高師山 夕こえ暮て 麓なる はまなのはしを 月と見る哉
松山につづきて高師山あり。濵名納豆といふはここより初まれるにや 橋もとこれ濵名の橋もとなるべしといふ
男聞て歌よむ
遠江 はま名のはしは 名のミして 納豆バかりぞ 世にのこりける 」
*原文中の変体仮名は平仮名に変換
東海道名所記が書かれた万治年間(1658年~61年)の新居宿は中屋敷に西町・中町、大元屋敷に城町・関所があった草創期の宿駅。今に見る関所と宿場とは所在地が異なっていた。名所記は今切渡船と関所について書き、浜名の橋を歌枕に詠んだ和歌をいくつか紹介している。拾遺和歌集兼昌とは平安時代の歌人平兼盛のことで、おそらく筆者は同時代の歌人源兼昌と混同しているのだろう。続古今集正村朝臣とは鎌倉時代執権北条氏の一門北条政村を指す。文中にある高師山は浜名の橋と共に古くから歌枕に詠まれ、東海道名所記(寛政9年刊行)では次のように説明する。
「高志或ハ高石と書す 遠江記二云 白菅より続きて北山までの間をいふ 又或カ云 高師山は今天神祠より白須賀の辺まで続きし山をいふ 海邊の眺望旅中の奇観なり」
これによれば高師山は新居から西へ海岸沿いに続く山を指すようで、白砂の海岸と緑の山々が左右に延々と続く景色は、奇観と表現されるように他では見られない珍しい眺めだったと想像できよう。江戸時代には浜名の橋こそ無くなっていたが、往時を偲ぶに十分な景観が残されていたはず。しかし東海道名所記にある男が、浜名の橋は僅かに名が残るのみで、今では浜名納豆の方が有名であると歌に詠んでいるのが面白い。
江戸日本橋から東海道五十三次を31宿目、京都三条大橋から23宿目となる新居宿、古くは「荒井」とも書かれる。ここから江戸方隣りの舞坂宿へは今切の渡しによる渡船で浜名湖を渡り、その新居側渡船場に新居関所を置き通行人を取り締まった。関所は江戸初期から中期にかけて度重なる高潮や津波の被害に遭って2度移転しており、その度に今切渡船の距離が延びている。その辺りの経緯は「新居関所」の記事に詳述したので参照を。
天保14年(1843年)当時、新居宿の町並み長さ東西2町37間(約285m)・南北6町55間(約755m)、加宿分町並み7町50間(約855m)。人口と家数は加宿橋本村を含めて3474人、797軒。本陣は疋田弥五助家・飯田武兵衛家・疋田八郎兵衛家の3軒、脇本陣なし、旅籠屋26 軒。東から泉町・中町・高見町・西町と続く町並み。名物は鰻蒲焼、浜名納豆に鰹塩辛。広重は「東海道五十三次之内荒井 渡舟ノ図」の題を付け、新居宿と関所を背景に今切の渡しを数艘の船が往来する様子を描く。浮世絵最奥に見える山並みが中世以前に高師山とされた山並みだろう。

旅籠紀伊国屋と芸妓置屋小松楼の見学を終えた。さてさて、紀伊国屋から新居宿を散策しよう。

紀伊国屋向かい、旅籠尾張屋平吉跡。江戸中期の国学者鱸有飛(すずきありとび)、有鷹(ありたか)父子の生家。非常に珍しい鱸姓であるが、今も新居に見られるという。

紀伊国屋の西側4軒目にあった旅籠万屋五兵衛跡(写真左手前)。江戸時代にここの主、筒山五兵衛が所有していた船が難破し無人島に漂着、それから21年後になって水夫三人が無事帰郷したという。

旅籠万屋跡の左隣、旅籠伊勢屋長吉跡。今は金松酒店に。

新居宿旧泉町の中心部、伊勢屋の西隣り2軒目にあった八百屋喜三跡。旅籠屋から質屋、そして八百屋に生業を転じた。写真突き当りが飯田武兵衛本陣跡で、右が疋田弥五助家本陣跡。

八百屋の西隣りにあった旅籠高須屋弥太郎跡。ここの先祖が江戸時代初期にこの地で新田を開発、宝永の新居宿全町移転前まで弥太郎新田と呼ばれた。

高須屋向かい、堀部商店の場所が井桁屋清太郎跡。慶応3年(1867年)飯田武兵衛本陣に続いて井桁屋に”お札降り”があり、”ええじゃないか騒動”が遠州以東へ伝播していったという。

泉町交差点、旧東海道(国道301号)の突き当りに飯田武兵衛本陣跡(写真正面右)と旅籠伊勢屋忠右衛門跡(写真正面左)。飯田本陣は明治元年(1868年)と翌年、明治11年(1878年)に明治天皇行幸の行在所として利用された。向かって右隣に寺道の入口。

旅籠伊勢屋忠右衛門跡の左隣り、疋田八郎兵衛本陣跡。

泉町交差点から南へ延びる旧東海道。すぐ先、タカスペット店(写真右手、濃いピンクのシート屋根)が寄馬跡で、旧泉町と旧中町の境にあたる。

かつては写真手前から奥に向かって用水路が流れ、泉町・中町境をなした。写真突き当りが寄馬跡のタカスペット店で、その前を通るのが旧東海道。

寄馬跡(現 タカスペット店)。大名行列等の大きな通行があると、宿場で常備する人足と馬だけでは賄いきれず、近在の村(助郷村)から人馬を提供させて不足を補った。助郷制度という。ここはその助郷村から提供された人馬の溜り場になったところ。

新居宿旧中町の町並み。

旧中町東海道筋にあるスーパーマーケット”かきこや”。

昭和10年(1935年)創業の”いさごや”。どら焼きにオリジナルの焼印を入れてくれる”ロゴどら”が評判の和菓子店。

新居宿旧中町と旧高見町境付近。かつては横断歩道辺りに水路が横切り、彦十郎前橋という板橋が架けられていた。橋名の由来は中町の彦十郎家前にあったため。

旧高見町東海道筋から神社参道が延びる。

参道入口に神社名を記している板があるが、”田社”しか読み取れない。

参道の先には荒れた境内と小社がある。ここが如何なる神社で、どういった経緯で今に至るのか知りたいところ。地元の方に聞くしかないだろうが、その当てもないので参拝してやむなく退散。

旧高見町・旧西町の境に流れていた水路跡。かつては写真手前から奥が水路、横切る道が旧東海道で思案橋という板橋が架けられていた。その橋跡北袂にあるのが、その名もパブスナック思案橋。場末のスナック感たっぷりの店構えと店名にそそられ、その扉を開けたい衝動にかられるが、飲み始めるには時間が少々早いうえ店も開店前な感じ。後日改めて来る機会が作れればと思案の末に結論。ここに来れば思案橋の由来について聞くことができるかも。

思案橋跡近く、鷲栖院(じゅせいいん)に続く参道。

鷲栖院本堂。正保4年(1647年)から明暦3年(1657年)まで関所奉行を務めた佐橋甚兵衛の墓がある。

旧西町西側の愛宕山山麓に鎮座する若宮八幡宮。参道が愛宕山展望台登り口となっている。せっかくなので登ってみよう。

参道石段から旧西町を望む。

若宮八幡宮境内、猿田彦神社の横に登山道、愛宕山山頂へ続く。

山頂に鎮座する愛宕山大権現。

山頂から新居の町に向いて立つ子持ち観音像。

山頂には頼朝の歌碑も。
「都よりあづまへかへり下りて後、前大僧正慈鎮のもとへよみてつかわしける歌の中に 前右大将頼朝」
かへる波 君にとのみぞ ことづてし 濵名の橋の 夕ぐれの空

展望台より新居町を眺望。写真下に見える屋根は愛宕山大権現。

今切渡し跡、高層ビル群が並ぶ弁天島を遠望。江戸時代に今切渡しの航路を波除けするため、数万本の杭が打ち込まれたという。これに砂が堆積して砂洲を形成、今に見る弁天島のはじまりである。

愛宕山を下山して旧西町から新居宿散策を再開。ここが旧西町にあった新居一里塚跡。江戸日本橋から69里目(約271km)、京三条大橋からは49番目(実測で約238km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚で、両塚とも現存せず。跡地に解説板を設置する。

加宿橋本村との境、新居宿京方出入口の棒鼻跡。

棒鼻跡には花壇が設けられ旅人を出迎える。

前回同様平太郎に立ち寄り、たこ焼きとたい焼きを買い食い。ここで宿内を戻り寺道を歩いてみよう。
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