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新居宿

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東海道五十三次之内 荒井 渡舟ノ図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「新居宿」より引用


【2016年4月2日(土)旧東海道 新居宿】
まずは江戸時代の東海道名所記(万治年間刊行)より新居宿部分を抜粋して紹介。
「舟やうやうつきけれは 楽阿弥も男ものり手ミなミなあがらぬ。ここハ関所なり。女には手判のせんさくあり。其外鉄砲をあらためらる。楽阿弥かたりけるハ 此宿はづれの右の方に濵名のはしの跡あり 拾遺和歌集兼昌が歌ふ
汐みてる ほどに行きかふ 旅人や 濱名の橋と 名付初けむ
又続古今集正村朝臣の歌に
高師山 夕こえ暮て 麓なる はまなのはしを 月と見る哉
松山につづきて高師山あり。濵名納豆といふはここより初まれるにや 橋もとこれ濵名の橋もとなるべしといふ
男聞て歌よむ
遠江 はま名のはしは 名のミして 納豆バかりぞ 世にのこりける 」
*原文中の変体仮名は平仮名に変換

東海道名所記が書かれた万治年間(1658年~61年)の新居宿は中屋敷に西町・中町、大元屋敷に城町・関所があった草創期の宿駅。今に見る関所と宿場とは所在地が異なっていた。名所記は今切渡船と関所について書き、浜名の橋を歌枕に詠んだ和歌をいくつか紹介している。拾遺和歌集兼昌とは平安時代の歌人平兼盛のことで、おそらく筆者は同時代の歌人源兼昌と混同しているのだろう。続古今集正村朝臣とは鎌倉時代執権北条氏の一門北条政村を指す。文中にある高師山は浜名の橋と共に古くから歌枕に詠まれ、東海道名所記(寛政9年刊行)では次のように説明する。
「高志或ハ高石と書す 遠江記二云 白菅より続きて北山までの間をいふ 又或カ云 高師山は今天神祠より白須賀の辺まで続きし山をいふ 海邊の眺望旅中の奇観なり」
これによれば高師山は新居から西へ海岸沿いに続く山を指すようで、白砂の海岸と緑の山々が左右に延々と続く景色は、奇観と表現されるように他では見られない珍しい眺めだったと想像できよう。江戸時代には浜名の橋こそ無くなっていたが、往時を偲ぶに十分な景観が残されていたはず。しかし東海道名所記にある男が、浜名の橋は僅かに名が残るのみで、今では浜名納豆の方が有名であると歌に詠んでいるのが面白い。

江戸日本橋から東海道五十三次を31宿目、京都三条大橋から23宿目となる新居宿、古くは「荒井」とも書かれる。ここから江戸方隣りの舞坂宿へは今切の渡しによる渡船で浜名湖を渡り、その新居側渡船場に新居関所を置き通行人を取り締まった。関所は江戸初期から中期にかけて度重なる高潮や津波の被害に遭って2度移転しており、その度に今切渡船の距離が延びている。その辺りの経緯は「新居関所」の記事に詳述したので参照を。
天保14年(1843年)当時、新居宿の町並み長さ東西2町37間(約285m)・南北6町55間(約755m)、加宿分町並み7町50間(約855m)。人口と家数は加宿橋本村を含めて3474人、797軒。本陣は疋田弥五助家・飯田武兵衛家・疋田八郎兵衛家の3軒、脇本陣なし、旅籠屋26 軒。東から泉町・中町・高見町・西町と続く町並み。名物は鰻蒲焼、浜名納豆に鰹塩辛。広重は「東海道五十三次之内荒井 渡舟ノ図」の題を付け、新居宿と関所を背景に今切の渡しを数艘の船が往来する様子を描く。浮世絵最奥に見える山並みが中世以前に高師山とされた山並みだろう。




新居宿泉町
旅籠紀伊国屋と芸妓置屋小松楼の見学を終えた。さてさて、紀伊国屋から新居宿を散策しよう。


旅籠尾張屋平吉跡
紀伊国屋向かい、旅籠尾張屋平吉跡。江戸中期の国学者鱸有飛(すずきありとび)、有鷹(ありたか)父子の生家。非常に珍しい鱸姓であるが、今も新居に見られるという。


旅籠万屋五兵衛跡
紀伊国屋の西側4軒目にあった旅籠万屋五兵衛跡(写真左手前)。江戸時代にここの主、筒山五兵衛が所有していた船が難破し無人島に漂着、それから21年後になって水夫三人が無事帰郷したという。


旅籠伊勢屋長吉跡
旅籠万屋跡の左隣、旅籠伊勢屋長吉跡。今は金松酒店に。


八百屋喜三跡
新居宿旧泉町の中心部、伊勢屋の西隣り2軒目にあった八百屋喜三跡。旅籠屋から質屋、そして八百屋に生業を転じた。写真突き当りが飯田武兵衛本陣跡で、右が疋田弥五助家本陣跡。


旅籠高須屋弥太郎跡
八百屋の西隣りにあった旅籠高須屋弥太郎跡。ここの先祖が江戸時代初期にこの地で新田を開発、宝永の新居宿全町移転前まで弥太郎新田と呼ばれた。


井桁屋清太郎跡
高須屋向かい、堀部商店の場所が井桁屋清太郎跡。慶応3年(1867年)飯田武兵衛本陣に続いて井桁屋に”お札降り”があり、”ええじゃないか騒動”が遠州以東へ伝播していったという。


飯田武兵衛本陣跡
泉町交差点、旧東海道(国道301号)の突き当りに飯田武兵衛本陣跡(写真正面右)と旅籠伊勢屋忠右衛門跡(写真正面左)。飯田本陣は明治元年(1868年)と翌年、明治11年(1878年)に明治天皇行幸の行在所として利用された。向かって右隣に寺道の入口。


疋田八郎兵衛本陣跡
旅籠伊勢屋忠右衛門跡の左隣り、疋田八郎兵衛本陣跡。


新居宿旧泉町・旧中町境
泉町交差点から南へ延びる旧東海道。すぐ先、タカスペット店(写真右手、濃いピンクのシート屋根)が寄馬跡で、旧泉町と旧中町の境にあたる。


旧泉町・旧中町境の用水路跡


かつては写真手前から奥に向かって用水路が流れ、泉町・中町境をなした。写真突き当りが寄馬跡のタカスペット店で、その前を通るのが旧東海道。


寄馬跡
寄馬跡(現 タカスペット店)。大名行列等の大きな通行があると、宿場で常備する人足と馬だけでは賄いきれず、近在の村(助郷村)から人馬を提供させて不足を補った。助郷制度という。ここはその助郷村から提供された人馬の溜り場になったところ。


新居宿旧中町
新居宿旧中町の町並み。


かきこや
旧中町東海道筋にあるスーパーマーケット”かきこや”。


いさごや
昭和10年(1935年)創業の”いさごや”。どら焼きにオリジナルの焼印を入れてくれる”ロゴどら”が評判の和菓子店。


新居宿旧中町と旧高見町境
新居宿旧中町と旧高見町境付近。かつては横断歩道辺りに水路が横切り、彦十郎前橋という板橋が架けられていた。橋名の由来は中町の彦十郎家前にあったため。


旧高見町の神社
旧高見町東海道筋から神社参道が延びる。


旧高見町の神社
参道入口に神社名を記している板があるが、”田社”しか読み取れない。


旧高見町の神社
参道の先には荒れた境内と小社がある。ここが如何なる神社で、どういった経緯で今に至るのか知りたいところ。地元の方に聞くしかないだろうが、その当てもないので参拝してやむなく退散。


パブスナック思案橋
旧高見町・旧西町の境に流れていた水路跡。かつては写真手前から奥が水路、横切る道が旧東海道で思案橋という板橋が架けられていた。その橋跡北袂にあるのが、その名もパブスナック思案橋。場末のスナック感たっぷりの店構えと店名にそそられ、その扉を開けたい衝動にかられるが、飲み始めるには時間が少々早いうえ店も開店前な感じ。後日改めて来る機会が作れればと思案の末に結論。ここに来れば思案橋の由来について聞くことができるかも。


鷲栖院参道
思案橋跡近く、鷲栖院(じゅせいいん)に続く参道。


鷲栖院本堂
鷲栖院本堂。正保4年(1647年)から明暦3年(1657年)まで関所奉行を務めた佐橋甚兵衛の墓がある。


若宮八幡宮参道
旧西町西側の愛宕山山麓に鎮座する若宮八幡宮。参道が愛宕山展望台登り口となっている。せっかくなので登ってみよう。


若宮八幡宮参道石段
参道石段から旧西町を望む。


猿田彦神社
若宮八幡宮境内、猿田彦神社の横に登山道、愛宕山山頂へ続く。


愛宕山大権現
山頂に鎮座する愛宕山大権現。


子持ち観音像
山頂から新居の町に向いて立つ子持ち観音像。


頼朝の歌碑
山頂には頼朝の歌碑も。
「都よりあづまへかへり下りて後、前大僧正慈鎮のもとへよみてつかわしける歌の中に 前右大将頼朝」
かへる波 君にとのみぞ ことづてし 濵名の橋の 夕ぐれの空


愛宕山展望台より
展望台より新居町を眺望。写真下に見える屋根は愛宕山大権現。


弁天島遠望
今切渡し跡、高層ビル群が並ぶ弁天島を遠望。江戸時代に今切渡しの航路を波除けするため、数万本の杭が打ち込まれたという。これに砂が堆積して砂洲を形成、今に見る弁天島のはじまりである。


新居一里塚跡
愛宕山を下山して旧西町から新居宿散策を再開。ここが旧西町にあった新居一里塚跡。江戸日本橋から69里目(約271km)、京三条大橋からは49番目(実測で約238km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚で、両塚とも現存せず。跡地に解説板を設置する。


棒鼻跡
加宿橋本村との境、新居宿京方出入口の棒鼻跡。


棒鼻跡
棒鼻跡には花壇が設けられ旅人を出迎える。


平太郎のたい焼きとたこ焼き
前回同様平太郎に立ち寄り、たこ焼きとたい焼きを買い食い。ここで宿内を戻り寺道を歩いてみよう。

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舞坂宿と今切の渡し

【旧東海道歩き 第18日目】弁天島駅→舞阪宿→浜松宿→浜松城址→浜松駅



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東海道五十三次之内舞坂 今切真景
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「舞坂宿」より引用


【2016年4月3日(日)旧東海道 舞坂宿】
舞坂宿は浜名湖東岸に位置する小さな宿場町、浜名湖を横断する今切の渡しの渡船場を設けていた。舞坂は「遠江国舞沢」の表記で吾妻鏡に初見されるという鎌倉期には存在した地名。元は浜名川東岸の砂洲上に街村を形成していたが、明応7年(1498年)に起きた明応地震の津波により水没、難を逃れた36戸が現在の舞阪町仲町辺りに移住して町を再興したと伝わる。慶長6年(1601)から東海道五十三次の整備がはじまり舞坂宿が成立、宿場西外れ東海道筋の坪井村と馬郡村を加宿とした。江戸日本橋から東海道五十三次を30宿目、京都三条大橋から24宿目に位置、天保14年(1843年)当時の宿内町並み東西6町(約655m)余り、人口と家数は加宿を含めて2475人に541軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋28軒。西から砂町・西町・仲町・新町と続く町並み。名物は鰻と蛤、魚料理等。

江戸方から東海道を来ればここで渡し船に乗って浜名湖を渡り、新居関所で関所役人の吟味を受けることになる。この今切の渡しには今切口から遠州灘の荒波が頻繁に打ち寄せ、渡し船の航行を妨害したため、舞坂側航路に数万本の波除け杭が打ち込まれた。この杭に砂が堆積して砂洲を形成、今に見る弁天島ができる起因になったとも。広重の浮世絵「東海道五十三次之内舞坂 今切真景」に波除け杭を見ることができる。東海道名所記(万治年間刊行)には今切の渡しを次のように書く。
「舞坂より舟にのるに、七つ時分よりまへには渡しあり、七つ時分過ればふねをいださずといふ、はやくのり給へとて、男と共にいそぎふねにとびのる、艫のかたひろくて、ゆるりとのりけり、船頭は舟に棹さし、櫓をたててをす、男たづねけるハ、いかに船頭殿このうミを今切と名付たるよしうけたまハりし、さだめて子細の侍べるやらんといふ、せんどうこたへていはく、むかしは山につづきたる陸地なりしが、百余年バかり以前に山の中より螺の貝おびただしくぬけ出て海へとび入侍べり、その跡ことの外にくづれて荒井の濱よりおくの山五里バかりひとつにうミに成たる故に、今切と申すなり」
*原文中の変体仮名は平仮名に変換

七つ時は日の出、日没の2時間前を指し、季節によってズレがあるが現在の午前・午後の4時頃にあたる。原文中の七つ時分は日没の2時間前を指しており、日没前には対岸へ着くよう最終の渡し船が出航していたということだろう。艫(とも)は船尾のこと。




弁天島駅
本日の旧東海道歩きは弁天島駅からスタート。


浜名湖弁天リゾート ジオーシャン
弁天島駅前にどっしりと構える”浜名湖弁天リゾート ジオーシャン”。ヤシの木が並び南国リゾートな雰囲気だが、建物前を通る国道1号辺りは、かつて今切渡しの航路だったところ。ここで江戸時代にタイムスリップすれば、無数の波除け杭と行き交う多くの船を見ることだろう。


中浜名橋
新弁天と弁天島を繋ぐ中浜名橋。湖西市と浜松市の境界に架かる。


弁天島海浜公園
弁天島海浜公園と湖中鳥居。最奥に浜名大橋が見える。


弁天島海浜公園
浜辺の小さなハンターが狙う獲物は?


湖中鳥居
湖中鳥居前を小型漁船が疾走。


弁天島海浜公園
釣果はまずまず、それとも今一つ?


弁天橋
弁天島と舞坂を繋ぐ弁天橋。


弁天神社
往古、天女が舞い降り三保の松原へ立ち去ったとの伝説が残る弁天島。ここに鎮座する弁天神社は今切渡船の安全を祈願し、宝永6年(1709年)に建立された。


舞坂宿
舞坂宿渡船場入口、常夜灯のモニュメントを置く。


舞坂宿・今切渡し渡船場
かつての渡船場は小型漁船の係留場に。写真左端に見える石垣が渡船場の遺構。


舞坂宿・今切渡し渡船場跡
舞坂宿今切渡しの渡船場跡。かつて舞坂宿の渡船場は北から北雁木(きたがんげ)・本雁木・渡荷場(とうかば、南雁木とも)と呼ぶ3ヶ所の船着き場を設けていた。写真左側石垣の切れ込んでいる所が北雁木で大名や幕府役人等が利用、本雁木は一般の旅人用、渡荷場が荷物用として使われた。


浜名大橋
渡船場跡より浜名湖を望む。


北雁木
宿場時代の石畳と石垣を残す北雁木。江戸時代に大名や幕府役人等が利用する公用の船着き場。往時の残影が見れよう。


北雁木
これまで多くの渡し場跡を見てきたが、当時の石畳を残しているのは非常に珍しい。それだけに駐車場に使われているのが残念。


北雁木
浜名湖の水辺に向かって続く石畳。茶色がかった石畳と石垣に歴史を感じよう。一部石垣の白い部分は昭和28年(1953年)の台風で石垣が崩れ積み直したもの。


北雁木にて
北雁木にて。養殖カキを陸揚げしているところ。漁師さんが輪についた牡蠣を黙々と外す。牡蠣は浜名湖名産の一つ、明治20年頃から浜名湖のカキ養殖がはじまったとされる。


那須田又七顕彰碑
北雁木近くにある那須田又七顕彰碑。又七は天明4年(1784年)生まれ、16歳の若さで舞坂宿問屋場の書記を務め、後に村・宿役人に就いて舞坂宿の運営に大きく貢献。海苔養殖の基盤を築く等産業振興にも尽力し、その功績により名字帯刀を許され”袱刀爺爺(ふくさがたなのやや)と呼ばれた。嘉永3年(1850年)没、安政5年(1858年)にこの顕彰碑が建立された。


舞阪養かき組合
北雁木の隣りにある舞阪養かき組合。


本雁木
一般旅人用の船着き場、本雁木。舞坂宿の渡船場を往来する通行人が最も多かったのはここだろう。


本雁木
本雁木より舞坂宿を望む。残念ながら本雁木の石畳は撤去されアスファルトが敷かれる。写真右手の石垣だけが往時のものか。


渡荷場(南雁木)跡
舞坂宿の今切渡し渡船場南端、渡荷場(南雁木)跡。主に荷物用の船着き場として使われた。


水神宮
渡荷場(南雁木)に鎮座する水神宮。


渡荷場(南雁木)跡
渡荷場(南雁木)跡は製氷・貯氷施設になっている。


舞坂宿・今切渡し渡船場
渡荷場(南雁木)跡より、往時に思いを馳せて渡船場跡を望もう。


西町常夜灯
舞坂宿京方出入口、西町常夜灯が旅人を出迎える。


旅籠角屋甚三郎跡
宿場入口北角は旅籠角屋甚三郎跡。現在は”電化のかどや”という電器店になり屋号を残している。その西隣りが高札場跡。


本雁木
旧西町より本雁木をズーム。渡し船に乗って関所へ向かう人は気を引き締めてここを去り、そして関所を無事通ってきた人は船を降り安堵の思いでここから舞坂宿に入ったことだろう。


舞坂宿脇本陣
旧脇本陣茗荷屋清兵衛。旧東海道で唯一残る脇本陣の遺構。ここの説明員に聞いた話によれば、ここは近年まで主屋棟部分を改築して医院に使われていて、廃業後に建物を調べたところ脇本陣時代の書院棟が残っていることを発見したという。平成7年(1995年)復元保存のため解体を行った結果、書院棟大棟鬼瓦の箆書(へらがき)や、上段の間の床の間落掛材にあった墨書から天保9年(1838年)の建築であることが判明した。


舞坂宿脇本陣前
脇本陣の向かいが相本陣源馬徳右衛門家跡、その2軒東隣りに本陣宮崎伝左衛門家跡。2軒とも遺構は見当たらず、宮崎本陣跡にその跡地を示す石碑を置く。脇本陣の説明員に本陣について聞いたところ、本陣家の家族は東京へ出て行ってしまい、建物は取り壊され残らなかったとのこと。


舞坂宿脇本陣・玄関
玄関から脇本陣の建物内へ。


舞坂宿脇本陣・店の間
主屋棟の街道に面する部分、店の間。写真奥が玄関。


舞坂宿脇本陣・主屋
主屋棟の六畳間(手前)と八畳間(奥)、坪庭の向こうが客間となる書院棟。


舞坂宿脇本陣・坪庭
主屋棟と書院棟の間、繋ぎ棟に設ける坪庭。風流ですな。


舞坂宿脇本陣・炊事場
勝手口から通り庭の奥にある炊事場、竈と井戸がある。


舞坂宿脇本陣・下湯殿
炊事場の一角には下湯殿がある。主に脇本陣家の家族が使った風呂場。


舞坂宿脇本陣・中廊下
主屋棟と書院棟を繋ぐ中廊下。


舞坂宿脇本陣・東一の間
手前から書院棟東一の間、奥に向かって二の間・三の間と座敷が並ぶ。


舞坂宿脇本陣上段の間
書院棟西側最奥の座敷、上段の間。脇本陣最上級の客室である。今更説明はいならいと思うが、他の座敷より1段高くなっており、身分の高い人が利用した。


舞坂宿脇本陣・土蔵
脇本陣敷地最奥の裏庭。左手が御厠、奥に土蔵がある。


舞坂宿脇本陣・上湯殿
お客様用の風呂場、上湯殿。お銀さんはいないようで。


舞坂宿脇本陣・御厠
客用のトイレの御厠。当然使用禁止です。


舞坂宿脇本陣・裏庭
裏庭より書院棟縁側・入側。


舞坂宿脇本陣・階段
主屋棟台所にある階段から2階へ。


舞坂宿脇本陣・二階
往時の主屋棟は失われたが、1階もさることながら2階部分も往時のものと見紛うほどに復元されている。


舞坂宿脇本陣・駕籠
2階に展示する駕籠。実際に使用されていたものだろう。


舞坂宿脇本陣二階より
2階より脇本陣入口を見下す。往時に大名行列が通っていたならば死罪もんの行為。


女手形
脇本陣見学の最後は主屋棟座敷に展示する女手形。これは舞坂宿問屋伝左衛門の娘を白須賀宿へ差し遣わすため、今切(新居)関所を通すよう西尾隠岐守(横須賀藩主)から関所宛に書かかれたもの。この女手形が無ければ女性は関所を通ることができなかった。


舞坂宿本陣跡
脇本陣斜向かい、宮崎本陣跡。文久2年(1862年)宿内絵図によれば建坪130坪、本陣らしい堂々たる建物を構えていたのだろうが、遺構は全く残っていない。


舞坂宿旧西町
旧西町より渡船場方面を望む。西町には2軒の本陣と脇本陣、問屋場があり宿場の中心をなした。


舞坂宿問屋場跡
うろこや酒店辺りが幕末に問屋場市兵衛家があった場所。


うろこ屋酒店
うろこ屋酒店より江戸方の町並み。


堀江三郎商店
丸三こと堀江三郎商店。”しらす”や”ちりめん”、”たたみいわし”等、舞阪名産を商う。昭和18年(1943年)創業。

浜名湖丸三 堀江三郎商店
http://www.maru3.biz/category/6/


舞坂宿旧仲町
旧仲町の町並み。


岐佐神社
延喜式神名帳に遠江国六十二座、敷智郡六座の一社として社名を載せる岐佐神社。千年以上の歴史を持つ古社だが、明応地震(1498年)の津波で流されて現在地に再建したと伝わる。


岐佐神社
岐佐神社の祭神は蚶貝比売命(きさがいひめのみこと、アカガイの神)と蛤貝比売命(うむがいひめのみこと、ハマグリの神)。古事記「因幡の白兎」の続く話によれば、大国主命(おおくにぬしのみこと、出雲大社の主祭神)は兄神たちから嫉妬を受け、赤猪に見立てる焼けた大石を落とされ、これを受け止め大火傷を負い絶命。懸命の救護で大国主命を蘇らせたのが両祭神だという。


赤猪石
大国主命に致命傷を負わせた大石。社殿横に祀られ赤猪石と呼ぶ。触れば御神徳を授かり厄払いの御利益があるという。


仲町常夜灯
寳珠院門前に立つ仲町常夜灯。文化6年(1809年)舞坂宿に大火があり、その4年後に火防を祈願してこの常夜灯が建立された。火防の神として信仰された秋葉大権現の銘を刻む。


寳珠院
ここ寳珠院は明治6年(1873年)舞阪町に初めて小学校が開設された場所。


仲町常夜灯
仲町常夜灯前を行く旧東海道。


舞坂宿旧新町
旧西町には店名と共に”しらす”や”のり”を看板に掲げる店が点在。


丸吉堀江商店
丸吉堀江商店に立ち寄り品定め。茹でたての釜揚げしらすを買いたかったが、これから浜松まで歩かなければならない旅人には鮮度的に少々荷が重い。無難に”味のり”を買う。

丸吉堀江商店ブログ
http://marukichi.hamazo.tv/


舞坂宿旧新町
旧新町の町並み。


新町常夜灯と舞坂一里塚跡
新町常夜灯と舞坂一里塚跡。江戸日本橋から68里目(約267km)、京三条大橋からは50番目(実測で約244km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚だが、実測すると京方隣りの新居一里塚へは約一里半(約6km)の距離がある。新町常夜灯は仲町常夜灯と建立のきっかけを同じくし、文化12年(1809年)火防を目的に建立された。


舞坂宿・見付石垣
舞坂宿江戸方(東側)出入口に残る見付石垣。


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舞坂の松並木から浜松城下へ

【2016年4月3日(日)旧東海道 舞坂宿→浜松宿】
舞坂宿東の見附を出れば浪小僧のお出迎え、その先から東隣の馬郡町まで松並木が続く。江戸時代に舞坂宿の加宿だった馬郡村(現 浜松市西区馬郡町)と坪井村(現 浜松市西区坪井町)を抜ければ立場(茶屋)本陣を設けた篠原村(現 浜松市西区篠原町)に。篠原村の先で東海道は蓮池(現 可美公園一帯)の北側を通り、高塚村(現 浜松市南区高塚町)・増楽村(同増楽町)・若林村(同若林町)・東若林村(同東若林町)の街村を経て、八丁畷(鳥井縄手)の直線道から浜松城下へ向かう。




新町交差点
舞坂宿東の見附を出れば新町交差点。その先に松並木が続く。


白王稲荷神社
新町交差点の北側にある白王稲荷神社。保存会設置の現地解説板によれば、地元では昔から”いなり山”の名で通称され、慶長9年(1604年)の史料にその名が見えるという。平成11年(1999年)現在地へ移転、翌年に京都伏見稲荷より分霊を迎えた。


舞阪町の東海道松並木
新町交差点からはじまる東海道松並木。


舞阪町の東海道松並木
舞阪町に残る東海道松並木。


浪小僧
松並木京方入口付近に置く浪小僧。昔、遠州灘の地引網漁で真っ黒な小僧がかかり、気味悪がった漁師たちが始末しようとしたところ、自分が浪小僧であることを名のり、命を助けてもらえば恩返しに海が荒れる前に海底で太鼓を叩いて知らせると言ったので、海に戻されたという。以来、海鳴りで天候の悪化を知らせるようになったと伝わる。遠州七不思議のひとつ。


舞阪町の東海道松並木
往時の東海道を偲ぶ松並木。やはり旧街道に松並木は似合う。


舞阪町の東海道松並木
松の保存には手間とお金がかかることを垣間見る。保存に携わる方々に感謝しながら松並木の旧東海道を歩こう。


舞坂橋跡
松並木の中に舞坂橋跡。古くは北に西長池という大池があり、南側から西長池に流れ込む小川がここで東海道を横切っていた。その小川を渡るために架けられていたのが舞坂橋、昭和10年頃まで存在していたらしい。


舞阪町の東海道松並木
舞阪町の東海道松並木。


舞阪町の東海道松並木
松並木の中に広重の浮世絵「舞坂今切真景」を刻む石碑を置く。


旧東海道 浜松市西区馬郡町
松並木を抜ければ馬郡町に。


春日神社
応永2年(1395年)奈良の春日大社より祭神を勧請し建立された春日神社。狛犬に代わり雌雄の狛鹿を置く。いかにも春日社らしい。


旧東海道 浜松市西区馬郡町
馬郡町の旧東海道筋は江戸時代に旧馬郡村の街村を形成、舞坂宿の加宿だった。


西本徳寺
永徳元年(1381年)開創、日蓮宗寺院の長久山西本徳寺。元の寺名は”大泉坊”。東海道分間絵図(元禄3年作成)には「大せん坊」の名で見られる。


東本徳寺
こちらが長久山東本徳寺。西本徳寺と宗派・山号も同じ。東海道分間絵図(元禄3年作成)には「せんかう坊」と記され、元の寺名”泉光坊”。大泉坊と泉光坊は本徳寺の一坊で、江戸時代中期以降に東西に分かれ改称したらしい。


旧東海道 浜松市西区馬郡町
馬郡東バス停付近の旧東海道。写真左手の道沿いに見える鞘堂には秋葉燈籠が納まっている。


馬郡の秋葉燈籠
馬郡バス停近くの秋葉燈籠。馬郡町から増楽町にかけて鞘堂に納まった秋葉燈籠が点在する。


旧東海道 浜松市西区馬郡町
旧家が所々に見られる馬郡町の旧東海道筋。


引佐山大悲院本尊観音堂跡
引佐山大悲院本尊観音堂跡。旧跡を示す碑が立つ。治安元年(1021年)定朝(平安時代後期の仏師)作と伝わる観世音菩薩像を安置していた御堂跡、東海道名所図会にも紹介があり往来の旅人から信仰を受けた。昭和42年(1967年)観音堂は老朽化のため解体、安住の場を失くした観音像は如意寺(浜松市西区馬郡町)に移し安置されている。


馬郡学校跡
観音堂跡の裏手に馬郡学校跡。馬郡学校は明治8年(1875年)創設、明治22年(1889年)篠原学校(後の篠原小学校)に合併した。


旧東海道 浜松市西区坪井町
馬郡町から坪井町へ。旧坪井村は東海道筋に街村を形成、馬郡村と共に舞坂宿の加宿だった。


坪井稲荷神社
坪井町に鎮座する稲荷神社。永享12年(1440年)伏見稲荷より勧請したと伝わる。


旧東海道 浜松市西区坪井町
坪井町を行く旧東海道。


愛宕神社
坪井町東端に鎮座する愛宕神社。文禄元年(1592年)京都愛宕社より勧請したと伝わる。


長里橋
篠原町に入って間もなく、長里橋を渡る。


旧東海道 浜松市西区篠原町
篠原小学校前の旧東海道。かつては松並木の街道。


篠原小学校前の名残松
篠原小学校前に残る名残松。倒れかけながらも絶妙なバランスを保って生き延びている。


旧東海道 浜松市西区篠原町
この辺りからが旧篠原村の街村。篠原村は舞坂宿の定助郷村、東側街道筋に大名等が休憩で利用する立場(茶屋)本陣があった。


篠原村高札場跡
篠原村高札場跡。


篠原一里塚跡
篠原一里塚跡。東海道宿村大概帳に「壱里塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原村地内」と記す。江戸日本橋から67里目(約263km)、京三条大橋からは51番目(実測で約249km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。両塚とも現存せず。


神明宮
篠原町の神明宮。


篠原村立場(茶屋)本陣跡
立場本陣跡(写真右手前)より旧東海道江戸方を望む。篠原村の立場本陣は鈴木家が務め、大名等の身分が高い人たちに休息場を提供した。明治元年(1868年)明治天皇が休憩に立ち寄っている。本陣向かいには浅田屋という茶屋があった。


立場バス停
ローソン近くにある立場バス停。この辺りの字名が立場、地名に往時を偲べよう。


国道257号 浜松市高塚町
旧東海道は国道257号に合流、篠原町から高塚町へ。沿道にちらほら名残松が見られる。


如法山高蔵寺
本堂前に色とりどりの花壇を添える如法山高蔵寺。


高塚熊野神社大鳥居
高塚熊野神社大鳥居と参道。


高塚熊野神社
高塚熊野神社は延久年間(1069年~74年)創建、紀州熊野本宮の神主が諸国行脚の途中に祭祀したのがはじまりと伝わり、熊野三社権現と称した。安政の大地震が起きる前、神主が夢に見たお告げの通りに高い丘を築き、津波から村人を救ったとの伝説が残る。高塚の地名の由来とされるが、一説には津波の犠牲者をこの地に葬り、砂浜から運んだ砂で高い塚を築いたからともいう。


源十道路
参道から国道を挟んで浜辺方向へ延びる源十道路。現地解説板によれば、道の東に住む高橋登氏と西に住む高橋みち氏の曽祖父が高橋源十という方で、この名をもらい道名を付けたといわれる。


麦飯長者跡
麦飯長者、小野田五郎兵衛家跡。五郎兵衛は明治初年頃まで街道を往来する旅人に湯茶や麦飯を出してもてなし、いつしか麦飯長者と呼ばれる有名人に。この善行が浜松城下まで知れ渡り、小野田姓を許されて後に村役人・庄屋を務めたという。


高塚村高札場跡
高塚村高札場跡。


堀江領境界石
堀江領境界石の標柱。宝永2年(1705年)高塚村は旗本大沢氏の堀江領となり明治維新まで続いた。この辺りに堀江領を示す領界石があったらしい。解説板によれば、高塚町の東端、国道257号の南側に住んでいた高橋長兵衛家の前庭に境界表示の礎石があるとのこと。

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浜松城の夜桜

【2016年4月3日(日)旧東海道 浜松城下】
日没を目前にして浜松宿に着いた。宿場散策は次回にと足早に宿内を通り抜け、浜松城へ夜桜見物に。浜松城は言わずもがな徳川家康が青年期から壮年期(29~45才頃)にかける17年間にわたって本拠とした居城。この時期は戦国時代の真っ只中、元亀3年(1572年)武田信玄が大軍を率いて西上作戦を開始、遠江・三河に侵攻する武田軍を家康は三方ヶ原で迎え撃つが、さすがの家康も戦に老練な名将には太刀打ちできず、大敗を喫して命からがら浜松城へ逃げ帰った。世にいう三方ヶ原の戦い。この時、自身への戒めとして浜松城で肖像画を描かせと云われ、苦渋の表情で片手を顎に添えて片足を組む家康の肖像画は、誰しも一度くらい目にしたことがあるだろう。秀吉が関白となった翌年の天正14年(1586年)、家康は浜松城から駿府城に居城を移し、天正18年(1590年)秀吉家臣の堀尾吉晴が入城する。




旧東海道 浜松市中区東伊場
西浅田交差点の先、旧道消失地点の東海道本線高架橋下から浜松城下へ向かって延びる旧東海道八丁畷(鳥井縄手)。


堀留ポッポ道
旧東海道を横切る堀留ポッポ道。この道は東海道本線の高架化以前に存在した国鉄浜松工場までの引き込み線跡。現在は遊歩道に整備される。


子育地蔵尊
旧東海道の八丁畷((鳥井縄手)北東端、菅原交差点一角のデニーズ前にある子育地蔵尊。浜松宿の京方出入口にあたる。ここにある地蔵の台座に享保八年の銘があるという。


成子交差点
成子交差点、旧東海道は左から奥方向(江戸方)。この辺りが七軒町(現 浜松市中区菅原町)と成子坂町(現 浜松市中区成子町)の境。


ヤマヤ夏目商店
成子町に入ってすぐ、ヤマヤ夏目商店。ここで浜松名物の一つ、鈴木醸造製の濱納豆を購入。


伝馬町交差点
浜松宿の中心をなした伝馬町交差点。


川口本陣跡
伝馬町交差点北西角、浜松てんまビルの場所が川口本陣跡。


杉浦本陣跡
杉浦本陣跡。現在は浜松信用金庫に。


浜松城大手門跡
連尺交差点の北側が浜松城大手門跡。ここから旧城内へ。


浜松城天守門
そそくさと浜松城に登城、天守曲輪入口の天守門へ。門脇の石垣左右に見られる巨石は鏡石と呼ばれ、意図的に巨石を用いることで城主の権力を示したとされる。天守門は平成26年(2014年)に復元再建。


浜松城天守曲輪
浜松城天守曲輪。浜松城は天守曲輪と本丸の一部に城跡らしい遺構を残すが、大部分が市街化して地形が改変されてしまった。


浜松城天守
浜松城天守。浜松城のシンボル的建造物であるが、現存する古図に天守を描いたものがないらしい。天守台の石垣だけは現代まで残り、昭和33年(1958年)模擬天守が建造された。徳川家康と堀尾吉晴のどちらかが天守を築いたと推測されているが、江戸初期の早い段階で失われたか、はたまた実際に存在することはなかったのか、浜松城に関する謎の一つである。


浜松城天守曲輪にて
最近、城郭巡りの際によく見かける武将隊。ここ浜松城でも運よく出くわす。赤い甲冑に身を包む女武将は、もしかして来年の大河ドラマの主人公、井伊直虎かも?


浜松城天守門
天守門と武将隊。


浜松城天守と天守門
浜松城天守と天守門。近年になって天守門が復元されたことで、天守曲輪は城の面影を取り戻した。


浜松城本丸跡
天守曲輪の東側下に本丸の一部を残す。本丸の東側半分が削り取られ、元城小学校と浜松市役所の敷地に化し消失している。


浜松城天守曲輪からの眺望
浜松城天守曲輪より二の丸・古城方向を望む。手前の建物が二の丸跡に建つ元城小学校校舎、その奥に見える森が引馬(曳馬)城跡の古城。天候等の条件が整えば図示した所に富士山が眺望できるらしい。ちなみにここから富士山までは直線距離で約116km。


浜松城天守
本丸の北側、芝生公園より天守を望む。辺りはだいぶ暗くなってきた。


浜松城天守と夜桜
浜松城夜桜。


浜松城天守と夜桜
浜松城天守と天守門の夜景。


浜松城夜桜
浜松城夜桜。


浜松城天守門と夜桜
天守門と夜桜。去年訪れた岡崎城の夜桜と比べれば、桜の数もライトアップも少なく物足りなさは否めないが、派手さの無い質素で慎ましい趣に美を感じよう。


浜松城天守門と夜桜
天守門と夜桜。


浜松城天守門と夜桜
天守門下の本丸跡では多くの花見客が酒を嗜みながら夜桜を楽しむ。


浜松城址にて
提灯のほのかな明かりに照らされる夜桜。


濱納豆・浜名湖産うなぎ・舞阪味のり
後日談、ある日の夕食。濱納豆と浜名湖産うなぎ、そして舞阪町の堀江商店で買った味のり。浜松ずくしのおかずである。しかし濱納豆は塩味がきつくご飯のおかずにはならないことが判明…。


濱納豆
そこで改めて濱納豆の炊き込みご飯を作ることに。1合の米に30粒程の濱納豆を混ぜ炊飯器で炊き上げます。


濱納豆・浜名湖産うなぎ・舞阪味のり03
そして出来上がったのがこれ、濱納豆の炊き込みご飯。美味しく浜松の食を堪能しました。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
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10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
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15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
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27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
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30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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