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浜松宿

【旧東海道歩き 第19日目】浜松駅→浜松宿→見付宿→磐田グランドホテル



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東海道五十三次之内濱松 冬枯ノ図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「浜松宿」より引用


【2016年5月6日(金)旧東海道 浜松宿】
浜松宿から旧東海道歩きを続けよう。真田昌幸・信繁親子の宿敵、徳川家康が青年期から壮年期(29~45才頃)にかける17年間にわたって本拠とした浜松城。その城下町として浜松宿は発展し、6軒もの本陣と100軒近い旅籠が軒を連ねる東海道中最大級の宿場町だった。しかし広重は賑わう城下町をあえて描かず、それとは相反して城下外れの寒々しい枯れ野を舞台に、焚き火に暖をとりたむろする男たちを描く。背景には遥か遠くに浜松城、右奥に”颯々(ざざんざ)の松”の松林を配し浜松らしい景観を表現する。”颯々の松”は室町幕府6代将軍足利義教が、ここで浜風に騒めく松林の様を見て、「浜松の音はざざんざ…」と詠んだことに名の由来があるとされ、更にこの歌から浜松という地名が起こったとも。元々この松林は野口村(現 浜松市中区野口町)にあったが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失、現在は5代目の松と「浜松名称起源颯々之松」の石碑が八幡宮(浜松市中区八幡町)境内にあるとのこと。

江戸日本橋から東海道五十三次を29宿目、京都三条大橋からは25宿目にあたる浜松宿。宝暦9年(1759年)「遠州浜浜松各町書上」によれば往還通(東海道)は23町48間(約2596m)、うち東木戸から西木戸まで20町32間(約2240m)、西木戸外(七軒町・上新町)3町16間(約356m)。天保14年(1843年)当時の人口5964人、家数1622軒、うち本陣6軒、脇本陣なし、旅籠屋94軒。往還通筋の西(京方)から七軒町・上新町・成子坂町・塩町・旅籠町・伝馬町・連尺町・神明町・田町・新町と続く町並み。本陣は連尺町に1軒、伝馬町に3軒、旅籠町に2軒あり、中でも伝馬町の杉浦助右衛門本陣は本陣6軒の内で最も古く、建坪がおよそ272坪(約900㎡)ある浜松宿最大規模の本陣だった。連尺町と神明町境の北に大手門があり、ここで本坂通(姫街道)が分岐、大手門の前には高札場が設けられていた。名物は鯉鮒料理と自然薯、濱納豆等。




浜松駅
浜松駅に降り立ち、浜松のランドマーク的存在の浜松アクトタワーを駅向こうに眺めて。


成子交差点
旧東海道歩きを再開すべく、浜松宿の西木戸と西番所があった旧上新町・成子坂町の境、成子交差点へ。


ヤマヤ夏目商店
成子坂町(現 浜松市中区成子町)にあるヤマヤ夏目商店。前回の旧東海道歩きで濱納豆を購入した店。


法林寺参道
ヤマヤ夏目商店横には法林寺への参道が延びる。成子坂町ほか大工町(現 浜松市中区大工町)・本魚町(現 浜松市中区元魚町)には寺社が多くあり寺町とも通称された。


浜松宿 塩町・旅籠町
塩町・旅籠町の町並み。旧東海道は道路拡幅されて国道257号と化し宿場町の面影は薄い。塩町は塩商人が澄んでいたことに由来、毎月のうち10日ほど塩市が立った。旅籠町はその名が示す通り旅籠が多くあったことに町名の由来があり、2軒の本陣があった。


かみゆい伽羅
旅籠町の南端にある”かみゆい伽羅”。この辺りが伊藤平左衛門本陣跡と思われるが、解説板や標識等が無く判然としない。


松尾小路
旅籠町と元魚町・伝馬町の境をなす松尾小路。この道筋に松尾神社があることに道名の由来があるのだろう。写真は松尾神社前から旧東海道方向、写真右手が旅籠町北端にあった杉浦惣兵衛本陣跡。


松尾小路
松尾神社前に延びる松尾小路。


松尾神社
和銅年間(708年~15年)創建、元魚町に鎮座する松尾神社。白鬚大神を主祭神に祀る。


松尾神社境内
松尾神社境内。


ホテル米久
伝馬町にあるホテル米久。今や近代的なホテルだが、元は旅籠だったのかもしれない。


巌邑堂
ホテル米久から国道257号を挟んで向かいにある巌邑堂。明治初期創業の老舗和菓子店。建物は新しいが、うなぎの寝床な店舗がいかにも老舗らしい佇まい。

巌邑堂
http://www.ganyuudou.com/netshop/indexn.html


浜松宿 伝馬町
伝馬町の町並み。伝馬町は慶長6年(1601年)東海道に宿駅伝馬が整備されるに伴い十王町から改称、多くの旅籠と共に3軒の本陣と問屋場があり浜松宿で最も繁華な町だった。


若宮神社
大工町内、若宮小路筋に鎮座する若宮神社。


伝馬町交差点
伝馬町交差点南東角(写真手前)は梅屋市左衛門本陣跡、その斜向かい北西角(写真奥)が川口次郎兵衛本陣跡。大通りが交わる交差点となり本陣遺構どころかその敷地も定かでない。川口本陣は本陣6軒の内で最も新しい本陣だった。


川口次郎兵衛本陣跡
川口次郎兵衛本陣跡は浜松てんまビルの敷地と化す。浜松宿は近代化が進み、宿内を歩けば時流を感じるだろう。


杉浦助右衛門本陣跡
伝馬町交差点より北へ100m程の国道左側、浜松信用金庫の場所が杉浦助右衛門本陣跡。信用金庫の裏手は時間貸駐車場に。杉浦助右衛門本陣は本陣6軒の内で最も古くから本陣を務めた家で、浜松宿最大規模を誇った本陣。天文22年(1553年)より引馬城主飯尾氏の御用を務め、徳川家康が浜松在城時に伝馬役を命ぜられている。


五社神社・諏訪神社参道
杉浦本陣の北側より西へ延びる五社神社・諏訪神社参道。


五社神社・諏訪神社
利町の北西一帯に境内地を持つ五社神社・諏訪神社。ここは常寒山(とこさむやま)と呼ばれた地で、天正8年(1580年)徳川2代将軍秀忠の産土神として五社神社を浜松城内から移したと伝わる。


浜松復興記念館(浜松医学校跡)
五社神社・諏訪神社境内前、利町にある浜松復興記念館。太平洋戦争の空襲等で焦土と化した市街地の復興事業が完成したとことを記念して建てられた施設。元々は明治7年(1874年)に開校の浜松医学校があった。


心造寺
諏訪神社の北側隣り、紺屋町にある心造寺。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母西郷局。


五社神社・諏訪神社参道入口
五社神社・諏訪神社参道入口より国道257号方向。国道向こうの参道突き当りは江馬殿小路跡、連尺町・伝馬町・肴町の境をなす小路で、永禄年間(1558年~70年)飯尾氏の家老江馬安芸守泰顕の屋敷が付近にあったことに道名の由来があるという。この小路入口北側に佐藤与左衛門本陣があった。


佐藤与左衛門本陣跡
佐藤与左衛門本陣跡より五社神社・諏訪神社参道入口を望む。


連尺交差点
連尺交差点辺りはかつて高札場があった所。


大手門跡
連尺交差点の北側、浜松城正面入口をなした大手門跡。ここから浜松城を少しだけ散策しよう。


徳川家康像
浜松城本丸跡に立つ徳川家康像。


浜松城天守門と模擬天守
浜松城天守門と模擬天守。前回訪れたときには花見客で賑わっていたが、本日は雨天のためか訪れる人も少なく閑散とした雰囲気。


浜松城模擬天守
天守曲輪に建つ浜松城模擬天守。


浜松城埋門跡
天守曲輪の裏口にあたる埋門跡。


浜松城公園日本庭園
本丸・天守曲輪の北側一帯は低地になっており、かつては湿地帯だった。現在は浜松城公園日本庭園として整備されている。


浜松城公園日本庭園
浜松城公園日本庭園の大滝。


玄黙口(元目口)跡
城域の北東外れ、浜松城時代に古城と呼ばれた引馬(曳馬)城跡。この切通しが玄黙口(元目口)跡で、三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れ敗走した徳川家康は、この城門から城内へ退却したと伝わる。


元城町東照宮
引馬城跡(古城)に鎮座する元城町東照宮。引馬城は江戸時代に浜松城の主要部から外れ、古城と呼ぶ一曲輪をなし米蔵などに使われた。明治19年(1886年)旧幕臣井上延陵が東照宮を勧請。


若き家康像と少年秀吉像
東照宮脇には”浜松時代の若き徳川家康公像”と”浜松時代の少年豊臣秀吉公像”。ここに家康像があるのはわかるが、少年秀吉像は何ゆえか。それは浜松で針行商をしていた少年時代の秀吉が、松下嘉兵衛に出会い連れられてきたのがここ引馬城。当時の城主で今川家直臣の飯尾氏に気に入られ、松下家に初めて武家奉公したという。ここは秀吉が出世の第一歩を踏み出した地でもあるわけだ。


古城より浜松城を望む
古城より浜松城を望む。当時とは随分と景観が変わったのだろうが、家康もここから浜松城を眺めたことだろう。


東照宮参道
東照宮へ延びる参道。


浜松城模擬天守
浜松城模擬天守を横目に眺めつつ城内を後に。


国道152号 神明町
大手門前から東側、国道152号と神明町の町並み。町名の由来はこの地に鎮座していた神明宮にあるが、現在は三組町(浜松市中区)に移り今は無い。東隣の田町に向かって東海道は下り坂で神明坂や宮坂と呼ばれ、神明町・田町の境付近で曲尺手に曲げられていた。現在は曲尺手の道筋は失われているが、神明町から田町にかけての国道は緩やかな下り坂になっている。


田町交差点
田町交差点と田町の町並み。田町は馬込川支流新川西岸の低地に位置したことに町名の由来があるという。その立地条件から町が形成される以前は田だったのか、もしくは町家の裏手に田が多くあったのか。


万年橋
新川に架かる万年橋。ここが田町と板屋町の境。


新川
この辺りの新川はほぼ暗渠と化すが、万年橋より上流側にその川面を見ることができる。


万年橋と新川
万年橋の下流側は暗渠と化し遊歩道に。頭上を通るのは遠州鉄道。


板屋町交差点
国道152号と広小路が交差する板屋町交差点。板屋町は田町の東隣に位置し、板屋葺の家が多くあったことに町名の由来があるという。


板屋町と新町の境
板屋町と旧新町(現 浜松市中区中央3丁目)の境をなす交差点。その南東角(写真右手)には”ハーモニア新町”という大規模マンションが建つ。


松江交差点
旧新町の町域にあたる松江交差点。馬込川西岸に位置する新町は、板屋町に対して茅葺の家が多かったことから萱町(茅町)と称し、後に新町へ改称したという。浜松宿京方外れの上新町に対し下新町とも呼ぶ。


見返りの松と鳥居松跡
馬込橋西詰。かつて馬込橋西詰には見返りの松と鳥居松と呼ばれる名松があった。見返りの松は徳川家康が浜松から駿府へ移る際、馬込橋から名残惜しんで浜松を見返したことからこの名がついたという。鳥居松は街道を跨ぐように枝葉を延ばす松だったが、大正10年(1921年)付近の民家から出火があり焼失した。


大正元年頃の見返りの松と鳥居松
馬込橋西詰に設置の解説板より。大正元年頃の見返りの松と鳥居松。橋袂の両脇に立派な松が聳えているが、どちらが見返りの松で鳥居松なのかがわからない。


馬込橋と馬込川
上の古写真と同じようなアングルで撮影。現在の馬込橋と馬込川。


馬込橋東詰・外木戸跡
馬込橋東詰は浜松宿江戸方出入口の東木戸(外木戸)跡。路傍にその跡地を示す棒杭がある。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

暴れ天竜を渡る

【2016年5月6日(金)旧東海道 浜松宿→見附宿】
浜松宿を出て旧東海道を東進する。浜松宿東木戸から天神町(現 浜松市中区天神町)、植松(現 浜松市東区植松町)、永田(現 浜松東区和田町)、橋羽(現 浜松市東区天龍川町)、薬師新田(現 浜松市東区薬新町)、安間(現 浜松市東区安間町)、萱場(現 浜松市東区中野町)、中野町(現 浜松市東区中野町)の街村を経る約6kmの道中を行けば、大河の天竜川に行く手を遮られる。諏訪湖に源を発する天竜川は、山間の伊那谷を流れて遠州灘へ注ぐ日本有数の急流河川。古くから”暴れ天竜”と呼ばれ、下流部では氾濫により度々大きな被害を受けた。

江戸時代を通して東海道の天竜川渡河は舟渡しで、上流部西岸に富田・一色の渡船場、東岸に池田の渡船場が設けられ、”池田の渡し”と呼ぶ渡船が運行、池田村(現 磐田市池田)と船越一色村(現 浜松市中区船越町)が独占権を与えられ渡船役を務めた。渡し場辺りの天竜川は通常時に中州を挟ん小天竜・大天竜と呼ばれる二股の流れになっており、旅人は中州で船を乗り換えて対岸に渡った。また、川の増水量に応じて渡船場が変わり、東岸池田側には上中下3ヶ所の渡船場があり、平常時は下之渡船場を使用、西岸中野町側にも3ヶ所程度の渡船場が設けられていた。天竜川は流れが太い本流を大天竜、細い支流を小天竜と呼称し、度々本流が変わり時代によって呼び方も入れ替わったようだ。元禄3年(1690年)の東海道分間絵図、天保13年(1842)の東海木曽両道中懐宝図鑑を見ると、どちらも西側が”大天龍”、東側が小天龍”と表記されている。明治7年(1874年)天竜川に船橋が架橋され池田の渡しはその役目を終えた。

天竜川東岸の渡船場池田から東海道は川下に向かって南進、立場の長森(現 磐田市長森)で東へ方向を変え森下(現 磐田市森下)、宮之一色(現 磐田市宮之一色)、万能(現 磐田市下万能)の街村を経て中泉に。中泉の東海道西側は坂道になっており、坂途中にあった山伏の修行寺から名をとって大乗院坂と呼ばれ、沿道に町家が並び立場を置いた。南側一帯には戦国時代末期に徳川家専用の休泊施設として中泉御殿が築かれ、その東側一角に陣屋を設け江戸期を通して遠江全域と駿河の一部を支配した。中泉御殿は寛文10年(1670年)に廃止、中泉陣屋は明治まで存続する。




国道152号 木戸町
馬込橋東詰、国道152号の木戸町から次の見付宿へ向けて歩こう。


柳川緑道(浜名用水)と東鎧橋
木戸町の東隣、相生町の浜名用水に架かる東鎧橋。旧東海道の浜松宿京方外れ、八丁畷(鳥井縄手)にある鎧橋に対して東鎧橋と名付けられた。


柳川緑道(浜名用水)
鎧橋より北側の浜名用水は暗渠となり緑川緑道になっている。


馬込一里塚跡
江戸日本橋から65里目(約255km)、京三条大橋からは53番目(実測で約258km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)にあたる馬込一里塚跡。遺構は残っておらず、跡地に解説板を設置する。


相生橋
交差点の一角に相生橋。ここに橋が架かっているとは誰も思わない状態。


天神町交差点
天神町交差点の国道152号。かつての天神町は向宿村の枝郷で、立場を置き足袋が名産だった。現在は道が拡幅され古い建物も無く旧街道の面影は薄い。町内北端に町名の由来となった天神社が鎮座する。


浜松酒造
天神町の旧東海道沿いにある浜松酒造。明治4年(1871年)創業、代表銘柄は「出世城」。


龍梅寺
北野山龍梅寺。焼き餅を供えれば願い事を叶えてくれるという”やきもち地蔵”がある。


国道152号 天神町
ここで浜松市中区から東区へ。天神町と植松町の境。


人形の館河田
植松町の街道沿いには”人形の館河田”。


国道152号 植松町
植松町を行く国道152号。天神町と同じく国道が貫き旧街道の面影を留めていない。


蒲神明宮一の鳥居
東海道(国道152号)に面して蒲神明宮一の鳥居が立つ。平安時代末期に藤原鎌足十世の子孫、越後守静並が伊勢神宮の神託を受け、ここ蒲の地(馬込川と天竜川の間)を開拓、蒲神明宮を創建したと伝わる。以来、静並の子孫が神官となり蒲御厨(かばのみくりや)を支配し蒲氏を名のった。源範頼(頼朝の弟)は蒲御厨に生まれたといい「蒲冠者」と称する。


芳川と琵琶橋
植松町内を縦断して流れる芳川。東海道(国道152号)には琵琶橋が架かる。


子安交差点(植松原)
子安交差点。植松原の案内道標を設置している。植松から永田(現 浜松東区和田町)にかけての東海道は蒲畷(かばなわて、かんまなわて)と呼ばれる松並木の畷道だった。


子安神社
子安交差点の南東に鎮座する子安神社。源範頼が娘の無事出産を祈願し創建したとの伝説も。


六軒京本舗
蒲畷の旧東海道(静岡県道312号)。左手に六軒京本舗という紫蘇巻きの店。江戸時代末期の創業で、六軒と通称されたこの地に茶店を開き、紫蘇巻きを出したことに始まりがあるという。和を感じる赤紫蘇色の塀が美しい。


大蒲八柱神社
大蒲町の八柱神社。


大蒲八柱神社の連理木
八柱神社本殿裏にある榊(さかき)。神棚に供えられるあの枝葉が榊で、古くから神事に用いられてきた。ここの榊は2本の木の枝が癒着結合する連理木という形態になっている。


浜松アリーナ
蒲畷筋に建つ浜松アリーナ。


蒲畷の名残松
蒲畷の名残松。


和田町バス停
和田町バス停付近。かつては松並木の合間に永田(長田)村の家が散在していた。


天竜川町西交差点
永田を出て天龍川町西交差点に差し掛かる。交差点南東角に名残松。


天龍川駅交差点
天龍川駅交差点。北西角に橋羽の六所神社が鎮座。この周辺一帯は橋羽(はしわ)と呼ばれた。


六所神社
橋羽の六所神社社殿。


お宮の松跡
境内南入口、お宮の松跡。かつて鳥居前辺りに橋羽のシンボル的存在の黒松が聳えていた。目通り直径3m、根回り4.5m、樹高17mという大木の松だったが、昭和54年(1979年)台風被害により致命的な損傷を受け翌月に伐採。推定樹齢260年前後だったという。


法橋の松
お宮の松が見れずに残念と思いきや、天竜川町西交差点から南へおよそ200mの場所に樹齢約700年といわれる”法橋の松”が元気に生き延びている。こちらは目通り直径約5m、枝張は最大で約18m、樹高約14mの大古松。ここより約200m東にある妙恩寺の開基、金原法橋(きんぱらほうきょう)の庭前にあった松と伝わる。


妙恩寺本堂
応長元年(1311年)日蓮の孫弟子日像を開山とし、金原法橋を開基として創建された妙恩寺。遠州最初の法華道場という日蓮宗の古刹。かつては塔頭寺院が並ぶ大寺院の様相だったらしい。


橋羽の松並木
橋羽の東、天龍川町と薬師町の境に残る松並木。


薬師町の名残松
薬師町の名残松。バランスが悪そうながら樹勢は衰えていない。


薬師町の松並木
薬師町に残る松並木。


和田尋常高等学校入口道標
和田尋常高等小学校入口道標。和田小学校の入口、旧東海道の路傍にひっそりと残る。


薬師町の松並木
薬師町の松並木。


薬師町八柱神社
薬師町の八柱神社。安間郷(現 安間・安新・薬師・薬新・北島町)の氏神。金原明善(天竜川の治水事業に尽力し功績を残した)の父、金原久右衛門が天保15年(1844年)に奉納した燈籠が鳥居脇と参道途中にある。


国道1号跨道橋下
国道1号を潜り抜ければ薬師町から薬新町に。


旧立場薬師新田
薬新町の旧東海道。この地は立場を置いた薬師新田が旧名、現町名はその短縮形なのだろう。


安間橋と旧東海道
薬新町と安新町の境をなす安間川に架かる安間橋。写真奥方向の道が安新町の旧東海道。薬新町と同様、安新町は安間新田の短縮形だと思われる。


安間一里塚跡
江戸日本橋から64里目(約251km)、京三条大橋からは54番目(実測で約262km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)にあたる安間一里塚跡。両塚とも現存せず。


本坂通(姫街道)安間起点
安新町にある本坂通(姫街道)安間起点。写真左右方向が旧東海道で、奥方向は旧本坂通。


金原明善生家
安間村(現 浜松市東区安間町)の名主を務めた金原家。天竜川の治水事業に尽力し、多大な功績を残した金原明善はここに生まれた。現在は金原明善生家として一般公開している。見学したかったのだが時間が16時過ぎ、本日の目的地見付宿はまだまだ遠く、泣く泣く外観を見ただけで通り過ぎることに。後日、機会を設けて再訪しよう。


金原明善記念館
金原明善生家の向かいには金原明善記念館。生家が展示施設として改修されるに伴い、こちらは閉めてしまったようだ。


萱場の東海道松並木跡
萱場(現 浜松市東区中野町)の松並木跡。


松林禅寺
臨済宗方広寺派の名刹、松林禅寺。境内の薬師堂は3代将軍徳川家光の命により建立されたものと伝わる。


松林禅寺薬師堂前にある庚申塔
松林禅寺薬師堂前にある庚申塔。


萱場高札場跡
松林禅寺の向かいは萱場村の高札場跡。


軽便鉄道軌道跡
軽便鉄道(中ノ町線)軌道跡。写真右手前から左奥にかけ横断歩道辺りを斜めに軽便鉄道が横切っていた。軽便鉄道(中ノ町線)は浜松から中野町までの11駅間を走っていた鉄道で、明治42年(1909年)開業、昭和12年(1937年)に廃止。中ノ町地区自治会館付近が終点の中ノ町駅があった。


旧東海道 中野町
中野町の旧東海道。中野町は江戸時代に中野町村や中ノ町村と称し、東海道の真ん中に位置することに地名の由来があるという。天竜川渡船を控え間の宿として賑わった。


東橋跡
中野町繁華街への入口をなした東橋跡。江戸時代に中野町村で最も東にあった橋で、ここより天竜川にかけての東海道筋には旅籠や料理屋等が軒を連ね町屋を形成、天竜川渡船の旅人相手に繁盛した。


旧東海道 中野町
明治時代後期から中野町は天竜川水運による木材の集積地に。堤防沿いに19軒もの製材所が建ち、旧東海道筋には旅館や芸者置屋、小料理、洋食屋、玉突き、カフェー等の店が軒を連ねた。現在は明治10年(1877年)創業のうなぎ・割烹料理”中川屋本店”が営業を続けている。


伊豆石の蔵
縞模様の入った伊豆石が使われ特徴ある石蔵。明治時代に廻船問屋で使われたもの。


天竜川橋紀功碑
中野町の旧道路傍にある天竜川橋紀功碑。明治27年(1894年)建立。明治元年(1868年)明治天皇行幸の折、天竜川を安全に渡河させるために舟橋を架ける等、天竜川交通に貢献した浅野茂平の功績を称える碑。


餃子の店かめ
旧東海道の突き当りに六所神社。その向こうは天竜川となる。ここに”餃子の店かめ”があり、生餃子をテイクアウトする餃子店らしい。冷凍の生餃子は歩きの旅人にとって少々荷が重い、食べてみたいけど…。


六所神社
六所神社は天竜橋跡西袂に鎮座している。


天竜橋跡
明治11年(1878年)完成の天竜橋跡。昭和8年(1933年)に現在の天竜川橋が架橋されるまで存続。646間(1175m)もの橋長を誇る名物木橋だった。


天竜橋の古写真
”中野町を考える会”設置の解説板より。在りし日の天竜橋。左奥にトラス橋の天竜川橋が見え、撤去直前に撮られた写真だろう。


天竜橋跡にて
天竜橋跡にて。アオサギが獲物を探す。


横町通り
六所神社に突き当たって左折すれば中野町の旧横町、現在は横町通りと呼ぶ。大正期から昭和初期にかけて天竜川水運が盛んになり、横町には船頭や筏師相手の船宿や小料理屋等が軒を連ね賑わった。江戸時代の東海道は横町を通って天竜川右岸を北上、現在の天竜川緑地辺りに渡船場があった。


横町通り
北側より横町通りを望む。左側に天竜川の堤防が迫る。
新新天竜川橋を渡って対岸へ。

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池田の渡し

時間が押して歩けなかった天竜橋から池田の渡船場間の旧東海道をカバーすべく、日を設けて歩いてきたので早速道中の様子を記事に書いておこう。詳細は前の記事に書いたので概説と補足を簡潔に。池田の渡しは明治7年(1874年)に天竜橋の前身である船橋が架橋されるまで東海道筋に存在した天竜川渡船、東岸の池田村とその対岸中野町に渡船場が設けられていた。また、池田から見付宿への東海道は南側に大きく迂回して長森立場や中泉町を通るルートだったため、ここをショートカットする池田近道と呼ぶ間道があった。ショートカットしてしまうのは現代人も変わらぬ人間の性、池田近道を旅人が頻繁に往来したため寛政年間(1789年~1801年)に道中奉行が往来禁止としている。なお、この池田近道は見付宿を起点とする姫街道の一部をなす。

東海道名所記(万治年間、1658年~60年刊行)より天竜川についての記載を下に抜粋。当時の渡船賃と新田義貞のエピソードを紹介している。
「小天龍 大天龍 舟渡しの川なり。武士には船賃なし 商人百姓には銭六文をとる ことさら物まうてのともからには 三疋五疋をかきましてとるなり むかし新田左中将義貞と 足利の高氏とかつせんあり  よし貞うちまけて都にのぼられけるとき 此川に浮橋を渡して 軍兵どもをわたしはてて後に みづから渡らんとし給ふに ながれつよくして 浮橋の中四五間きれて侍べりしを よし貞ことともせず よろひをもぬかずとびこえられし也 まことに奇特の名将なりき」
*原文中の変体仮名は平仮名に変換




天竜橋跡碑
明治11年(1878年)完成、昭和8年(1933年)に廃橋となった名物木橋、天竜橋跡の東袂。天竜橋跡碑が設置され往時を偲ぶ。


旧東海道 長森
天竜橋跡東詰の旧東海道を長森立場方面。前回訪れたときはこちらを進んだが、前回は振り返って池田方面へ。


旧東海道 長森
池田方面へ延びる旧東海道。


長森交差点
長森交差点から先、池田入口、小立野I.C交差点にかけて旧東海道は県道・国道の主要道と交差。かつてこの辺りは松並木の街道が池田へ向けて延びていた。


旧東海道 池田
池田の旧東海道入口に。


旧東海道 池田
黒板壁の長屋門が沿道に建ち旧街道の面影を残す。


池田の常夜灯
街道筋にある池田の常夜灯。寛政9年(1797年)建立。


旧東海道 池田
板塀の質感がいかにも旧家の趣き。


旧東海道 池田
池田を行く旧東海道。


下之渡船場跡
下之渡船場へ続く旧道。


天龍川渡船場跡碑
下之渡船場跡には天龍川渡船場跡碑が立つ。


粒見堂観音
天白神社参道入口にある粒見堂観音。永享6年(1434年)妙法寺二代目僧侶が夢に見たお告げにより天竜川で聖観世音を発見したと伝わる尊像を祀る。


天白神社
旧池田村の鎮守、天白神社。江戸時代には池田宿大名神と称す。古より池田近辺に住む力自慢の若者が集まり、天竜川を境に東西に分かれて角力(相撲)で競技、喧嘩角力と呼ばれ世に知られていたという。その風習が今も残り、毎年の祭礼で子供相撲が行われている。


中之渡船場跡
天白神社の境内西側が中之渡船場跡。


中之渡船場跡
中之渡船場跡へ続く旧道。


旧東海道 池田
上・中之渡船場間の旧東海道。食料品店”八百宗”や”かずや洋品店”が沿道にあり、池田の中心部らしい町並み。


旧東海道 池田
杉田屋製菓舗や太田薬局、仲屋商店等の店舗が沿道に並ぶ。


上之渡船場跡
上之渡船場跡への旧道。


上之渡船場跡
上之渡船場跡から池田市街への旧道。池田橋跡の東詰にあたり碑を設けている。池田橋は明治15年(1882年)天竜橋上流約1.5km地点に架橋の木橋、昭和初期に天竜橋と共に撤去された。


上之渡船場跡
上之渡船場跡。堤防外側にそれっぽい石畳を敷く。


池田の渡し公園
堤防の内側、河川敷は池田の渡し公園として整備される。


上之渡船場
現代の上之渡船場入口。


池田の渡し
現代の上之渡船場には船着場が設けられ、毎年4月中旬からゴールデンウイークにかけて開催される”池田熊野の長藤まつり”で池田の渡しを再現運行しているようだ。


池田の渡し
江戸時代に思いを馳せ、ここから渡し船に乗って対岸の中野町へ行ってみたい。


池田の渡しにて
池田の渡しにて。


池田の渡し歴史風景館
上之渡船場への旧道入口にある池田の渡し歴史風景館。


池田の渡し歴史風景館
こじんまりとした無人の資料館ながら、往時の池田の渡しを模型展示する。旧東海道歩きの旅人には休憩がてらに見学できる有り難い施設。


上之渡船場跡
池田の渡し歴史風景館前には常夜灯。渡し船で往来する旅人を見続けてきたのだろう。


池田の町並み
上之渡船場跡から東へ延びる道。


熊野の長フジ
行興寺境内にある”熊野(ゆや)の長フジ”。平安時代末期に平宗盛(平清盛の三男)に仕えた熊野御前が植えたとの伝承がある。熊野は謡曲熊野や平家物語に登場する人物。


熊野の長フジ
熊野の長フジは1本が国指定、5本が県指定の天然記念物。いずれも見事な枝を延ばすフジの巨木、これほどのものはなかなかお目にかかれない。4月下旬から5月上旬に見頃を迎える。


ゆやの墓・ゆやの母の墓
ゆやの墓・ゆやの母の墓。700年前のものとか。


行興寺門前
行興寺を後に。ここで池田の渡しの散策は終い。池田の渡しの散策前に見学した金原明善生家を追記しておこう。

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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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