浜松宿
【旧東海道歩き 第19日目】浜松駅→浜松宿→見付宿→磐田グランドホテル

東海道五十三次之内濱松 冬枯ノ図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「浜松宿」より引用
【2016年5月6日(金)旧東海道 浜松宿】
浜松宿から旧東海道歩きを続けよう。真田昌幸・信繁親子の宿敵、徳川家康が青年期から壮年期(29~45才頃)にかける17年間にわたって本拠とした浜松城。その城下町として浜松宿は発展し、6軒もの本陣と100軒近い旅籠が軒を連ねる東海道中最大級の宿場町だった。しかし広重は賑わう城下町をあえて描かず、それとは相反して城下外れの寒々しい枯れ野を舞台に、焚き火に暖をとりたむろする男たちを描く。背景には遥か遠くに浜松城、右奥に”颯々(ざざんざ)の松”の松林を配し浜松らしい景観を表現する。”颯々の松”は室町幕府6代将軍足利義教が、ここで浜風に騒めく松林の様を見て、「浜松の音はざざんざ…」と詠んだことに名の由来があるとされ、更にこの歌から浜松という地名が起こったとも。元々この松林は野口村(現 浜松市中区野口町)にあったが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失、現在は5代目の松と「浜松名称起源颯々之松」の石碑が八幡宮(浜松市中区八幡町)境内にあるとのこと。
江戸日本橋から東海道五十三次を29宿目、京都三条大橋からは25宿目にあたる浜松宿。宝暦9年(1759年)「遠州浜浜松各町書上」によれば往還通(東海道)は23町48間(約2596m)、うち東木戸から西木戸まで20町32間(約2240m)、西木戸外(七軒町・上新町)3町16間(約356m)。天保14年(1843年)当時の人口5964人、家数1622軒、うち本陣6軒、脇本陣なし、旅籠屋94軒。往還通筋の西(京方)から七軒町・上新町・成子坂町・塩町・旅籠町・伝馬町・連尺町・神明町・田町・新町と続く町並み。本陣は連尺町に1軒、伝馬町に3軒、旅籠町に2軒あり、中でも伝馬町の杉浦助右衛門本陣は本陣6軒の内で最も古く、建坪がおよそ272坪(約900㎡)ある浜松宿最大規模の本陣だった。連尺町と神明町境の北に大手門があり、ここで本坂通(姫街道)が分岐、大手門の前には高札場が設けられていた。名物は鯉鮒料理と自然薯、濱納豆等。

浜松駅に降り立ち、浜松のランドマーク的存在の浜松アクトタワーを駅向こうに眺めて。

旧東海道歩きを再開すべく、浜松宿の西木戸と西番所があった旧上新町・成子坂町の境、成子交差点へ。

成子坂町(現 浜松市中区成子町)にあるヤマヤ夏目商店。前回の旧東海道歩きで濱納豆を購入した店。

ヤマヤ夏目商店横には法林寺への参道が延びる。成子坂町ほか大工町(現 浜松市中区大工町)・本魚町(現 浜松市中区元魚町)には寺社が多くあり寺町とも通称された。

塩町・旅籠町の町並み。旧東海道は道路拡幅されて国道257号と化し宿場町の面影は薄い。塩町は塩商人が澄んでいたことに由来、毎月のうち10日ほど塩市が立った。旅籠町はその名が示す通り旅籠が多くあったことに町名の由来があり、2軒の本陣があった。

旅籠町の南端にある”かみゆい伽羅”。この辺りが伊藤平左衛門本陣跡と思われるが、解説板や標識等が無く判然としない。

旅籠町と元魚町・伝馬町の境をなす松尾小路。この道筋に松尾神社があることに道名の由来があるのだろう。写真は松尾神社前から旧東海道方向、写真右手が旅籠町北端にあった杉浦惣兵衛本陣跡。

松尾神社前に延びる松尾小路。

和銅年間(708年~15年)創建、元魚町に鎮座する松尾神社。白鬚大神を主祭神に祀る。

松尾神社境内。

伝馬町にあるホテル米久。今や近代的なホテルだが、元は旅籠だったのかもしれない。

ホテル米久から国道257号を挟んで向かいにある巌邑堂。明治初期創業の老舗和菓子店。建物は新しいが、うなぎの寝床な店舗がいかにも老舗らしい佇まい。
巌邑堂
http://www.ganyuudou.com/netshop/indexn.html

伝馬町の町並み。伝馬町は慶長6年(1601年)東海道に宿駅伝馬が整備されるに伴い十王町から改称、多くの旅籠と共に3軒の本陣と問屋場があり浜松宿で最も繁華な町だった。

大工町内、若宮小路筋に鎮座する若宮神社。

伝馬町交差点南東角(写真手前)は梅屋市左衛門本陣跡、その斜向かい北西角(写真奥)が川口次郎兵衛本陣跡。大通りが交わる交差点となり本陣遺構どころかその敷地も定かでない。川口本陣は本陣6軒の内で最も新しい本陣だった。

川口次郎兵衛本陣跡は浜松てんまビルの敷地と化す。浜松宿は近代化が進み、宿内を歩けば時流を感じるだろう。

伝馬町交差点より北へ100m程の国道左側、浜松信用金庫の場所が杉浦助右衛門本陣跡。信用金庫の裏手は時間貸駐車場に。杉浦助右衛門本陣は本陣6軒の内で最も古くから本陣を務めた家で、浜松宿最大規模を誇った本陣。天文22年(1553年)より引馬城主飯尾氏の御用を務め、徳川家康が浜松在城時に伝馬役を命ぜられている。

杉浦本陣の北側より西へ延びる五社神社・諏訪神社参道。

利町の北西一帯に境内地を持つ五社神社・諏訪神社。ここは常寒山(とこさむやま)と呼ばれた地で、天正8年(1580年)徳川2代将軍秀忠の産土神として五社神社を浜松城内から移したと伝わる。

五社神社・諏訪神社境内前、利町にある浜松復興記念館。太平洋戦争の空襲等で焦土と化した市街地の復興事業が完成したとことを記念して建てられた施設。元々は明治7年(1874年)に開校の浜松医学校があった。

諏訪神社の北側隣り、紺屋町にある心造寺。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母西郷局。

五社神社・諏訪神社参道入口より国道257号方向。国道向こうの参道突き当りは江馬殿小路跡、連尺町・伝馬町・肴町の境をなす小路で、永禄年間(1558年~70年)飯尾氏の家老江馬安芸守泰顕の屋敷が付近にあったことに道名の由来があるという。この小路入口北側に佐藤与左衛門本陣があった。

佐藤与左衛門本陣跡より五社神社・諏訪神社参道入口を望む。

連尺交差点辺りはかつて高札場があった所。

連尺交差点の北側、浜松城正面入口をなした大手門跡。ここから浜松城を少しだけ散策しよう。

浜松城本丸跡に立つ徳川家康像。

浜松城天守門と模擬天守。前回訪れたときには花見客で賑わっていたが、本日は雨天のためか訪れる人も少なく閑散とした雰囲気。

天守曲輪に建つ浜松城模擬天守。

天守曲輪の裏口にあたる埋門跡。

本丸・天守曲輪の北側一帯は低地になっており、かつては湿地帯だった。現在は浜松城公園日本庭園として整備されている。

浜松城公園日本庭園の大滝。

城域の北東外れ、浜松城時代に古城と呼ばれた引馬(曳馬)城跡。この切通しが玄黙口(元目口)跡で、三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れ敗走した徳川家康は、この城門から城内へ退却したと伝わる。

引馬城跡(古城)に鎮座する元城町東照宮。引馬城は江戸時代に浜松城の主要部から外れ、古城と呼ぶ一曲輪をなし米蔵などに使われた。明治19年(1886年)旧幕臣井上延陵が東照宮を勧請。

東照宮脇には”浜松時代の若き徳川家康公像”と”浜松時代の少年豊臣秀吉公像”。ここに家康像があるのはわかるが、少年秀吉像は何ゆえか。それは浜松で針行商をしていた少年時代の秀吉が、松下嘉兵衛に出会い連れられてきたのがここ引馬城。当時の城主で今川家直臣の飯尾氏に気に入られ、松下家に初めて武家奉公したという。ここは秀吉が出世の第一歩を踏み出した地でもあるわけだ。

古城より浜松城を望む。当時とは随分と景観が変わったのだろうが、家康もここから浜松城を眺めたことだろう。

東照宮へ延びる参道。

浜松城模擬天守を横目に眺めつつ城内を後に。

大手門前から東側、国道152号と神明町の町並み。町名の由来はこの地に鎮座していた神明宮にあるが、現在は三組町(浜松市中区)に移り今は無い。東隣の田町に向かって東海道は下り坂で神明坂や宮坂と呼ばれ、神明町・田町の境付近で曲尺手に曲げられていた。現在は曲尺手の道筋は失われているが、神明町から田町にかけての国道は緩やかな下り坂になっている。

田町交差点と田町の町並み。田町は馬込川支流新川西岸の低地に位置したことに町名の由来があるという。その立地条件から町が形成される以前は田だったのか、もしくは町家の裏手に田が多くあったのか。

新川に架かる万年橋。ここが田町と板屋町の境。

この辺りの新川はほぼ暗渠と化すが、万年橋より上流側にその川面を見ることができる。

万年橋の下流側は暗渠と化し遊歩道に。頭上を通るのは遠州鉄道。

国道152号と広小路が交差する板屋町交差点。板屋町は田町の東隣に位置し、板屋葺の家が多くあったことに町名の由来があるという。

板屋町と旧新町(現 浜松市中区中央3丁目)の境をなす交差点。その南東角(写真右手)には”ハーモニア新町”という大規模マンションが建つ。

旧新町の町域にあたる松江交差点。馬込川西岸に位置する新町は、板屋町に対して茅葺の家が多かったことから萱町(茅町)と称し、後に新町へ改称したという。浜松宿京方外れの上新町に対し下新町とも呼ぶ。

馬込橋西詰。かつて馬込橋西詰には見返りの松と鳥居松と呼ばれる名松があった。見返りの松は徳川家康が浜松から駿府へ移る際、馬込橋から名残惜しんで浜松を見返したことからこの名がついたという。鳥居松は街道を跨ぐように枝葉を延ばす松だったが、大正10年(1921年)付近の民家から出火があり焼失した。

馬込橋西詰に設置の解説板より。大正元年頃の見返りの松と鳥居松。橋袂の両脇に立派な松が聳えているが、どちらが見返りの松で鳥居松なのかがわからない。

上の古写真と同じようなアングルで撮影。現在の馬込橋と馬込川。

馬込橋東詰は浜松宿江戸方出入口の東木戸(外木戸)跡。路傍にその跡地を示す棒杭がある。

東海道五十三次之内濱松 冬枯ノ図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「浜松宿」より引用
【2016年5月6日(金)旧東海道 浜松宿】
浜松宿から旧東海道歩きを続けよう。真田昌幸・信繁親子の宿敵、徳川家康が青年期から壮年期(29~45才頃)にかける17年間にわたって本拠とした浜松城。その城下町として浜松宿は発展し、6軒もの本陣と100軒近い旅籠が軒を連ねる東海道中最大級の宿場町だった。しかし広重は賑わう城下町をあえて描かず、それとは相反して城下外れの寒々しい枯れ野を舞台に、焚き火に暖をとりたむろする男たちを描く。背景には遥か遠くに浜松城、右奥に”颯々(ざざんざ)の松”の松林を配し浜松らしい景観を表現する。”颯々の松”は室町幕府6代将軍足利義教が、ここで浜風に騒めく松林の様を見て、「浜松の音はざざんざ…」と詠んだことに名の由来があるとされ、更にこの歌から浜松という地名が起こったとも。元々この松林は野口村(現 浜松市中区野口町)にあったが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失、現在は5代目の松と「浜松名称起源颯々之松」の石碑が八幡宮(浜松市中区八幡町)境内にあるとのこと。
江戸日本橋から東海道五十三次を29宿目、京都三条大橋からは25宿目にあたる浜松宿。宝暦9年(1759年)「遠州浜浜松各町書上」によれば往還通(東海道)は23町48間(約2596m)、うち東木戸から西木戸まで20町32間(約2240m)、西木戸外(七軒町・上新町)3町16間(約356m)。天保14年(1843年)当時の人口5964人、家数1622軒、うち本陣6軒、脇本陣なし、旅籠屋94軒。往還通筋の西(京方)から七軒町・上新町・成子坂町・塩町・旅籠町・伝馬町・連尺町・神明町・田町・新町と続く町並み。本陣は連尺町に1軒、伝馬町に3軒、旅籠町に2軒あり、中でも伝馬町の杉浦助右衛門本陣は本陣6軒の内で最も古く、建坪がおよそ272坪(約900㎡)ある浜松宿最大規模の本陣だった。連尺町と神明町境の北に大手門があり、ここで本坂通(姫街道)が分岐、大手門の前には高札場が設けられていた。名物は鯉鮒料理と自然薯、濱納豆等。

浜松駅に降り立ち、浜松のランドマーク的存在の浜松アクトタワーを駅向こうに眺めて。

旧東海道歩きを再開すべく、浜松宿の西木戸と西番所があった旧上新町・成子坂町の境、成子交差点へ。

成子坂町(現 浜松市中区成子町)にあるヤマヤ夏目商店。前回の旧東海道歩きで濱納豆を購入した店。

ヤマヤ夏目商店横には法林寺への参道が延びる。成子坂町ほか大工町(現 浜松市中区大工町)・本魚町(現 浜松市中区元魚町)には寺社が多くあり寺町とも通称された。

塩町・旅籠町の町並み。旧東海道は道路拡幅されて国道257号と化し宿場町の面影は薄い。塩町は塩商人が澄んでいたことに由来、毎月のうち10日ほど塩市が立った。旅籠町はその名が示す通り旅籠が多くあったことに町名の由来があり、2軒の本陣があった。

旅籠町の南端にある”かみゆい伽羅”。この辺りが伊藤平左衛門本陣跡と思われるが、解説板や標識等が無く判然としない。

旅籠町と元魚町・伝馬町の境をなす松尾小路。この道筋に松尾神社があることに道名の由来があるのだろう。写真は松尾神社前から旧東海道方向、写真右手が旅籠町北端にあった杉浦惣兵衛本陣跡。

松尾神社前に延びる松尾小路。

和銅年間(708年~15年)創建、元魚町に鎮座する松尾神社。白鬚大神を主祭神に祀る。

松尾神社境内。

伝馬町にあるホテル米久。今や近代的なホテルだが、元は旅籠だったのかもしれない。

ホテル米久から国道257号を挟んで向かいにある巌邑堂。明治初期創業の老舗和菓子店。建物は新しいが、うなぎの寝床な店舗がいかにも老舗らしい佇まい。
巌邑堂
http://www.ganyuudou.com/netshop/indexn.html

伝馬町の町並み。伝馬町は慶長6年(1601年)東海道に宿駅伝馬が整備されるに伴い十王町から改称、多くの旅籠と共に3軒の本陣と問屋場があり浜松宿で最も繁華な町だった。

大工町内、若宮小路筋に鎮座する若宮神社。

伝馬町交差点南東角(写真手前)は梅屋市左衛門本陣跡、その斜向かい北西角(写真奥)が川口次郎兵衛本陣跡。大通りが交わる交差点となり本陣遺構どころかその敷地も定かでない。川口本陣は本陣6軒の内で最も新しい本陣だった。

川口次郎兵衛本陣跡は浜松てんまビルの敷地と化す。浜松宿は近代化が進み、宿内を歩けば時流を感じるだろう。

伝馬町交差点より北へ100m程の国道左側、浜松信用金庫の場所が杉浦助右衛門本陣跡。信用金庫の裏手は時間貸駐車場に。杉浦助右衛門本陣は本陣6軒の内で最も古くから本陣を務めた家で、浜松宿最大規模を誇った本陣。天文22年(1553年)より引馬城主飯尾氏の御用を務め、徳川家康が浜松在城時に伝馬役を命ぜられている。

杉浦本陣の北側より西へ延びる五社神社・諏訪神社参道。

利町の北西一帯に境内地を持つ五社神社・諏訪神社。ここは常寒山(とこさむやま)と呼ばれた地で、天正8年(1580年)徳川2代将軍秀忠の産土神として五社神社を浜松城内から移したと伝わる。

五社神社・諏訪神社境内前、利町にある浜松復興記念館。太平洋戦争の空襲等で焦土と化した市街地の復興事業が完成したとことを記念して建てられた施設。元々は明治7年(1874年)に開校の浜松医学校があった。

諏訪神社の北側隣り、紺屋町にある心造寺。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母西郷局。

五社神社・諏訪神社参道入口より国道257号方向。国道向こうの参道突き当りは江馬殿小路跡、連尺町・伝馬町・肴町の境をなす小路で、永禄年間(1558年~70年)飯尾氏の家老江馬安芸守泰顕の屋敷が付近にあったことに道名の由来があるという。この小路入口北側に佐藤与左衛門本陣があった。

佐藤与左衛門本陣跡より五社神社・諏訪神社参道入口を望む。

連尺交差点辺りはかつて高札場があった所。

連尺交差点の北側、浜松城正面入口をなした大手門跡。ここから浜松城を少しだけ散策しよう。

浜松城本丸跡に立つ徳川家康像。

浜松城天守門と模擬天守。前回訪れたときには花見客で賑わっていたが、本日は雨天のためか訪れる人も少なく閑散とした雰囲気。

天守曲輪に建つ浜松城模擬天守。

天守曲輪の裏口にあたる埋門跡。

本丸・天守曲輪の北側一帯は低地になっており、かつては湿地帯だった。現在は浜松城公園日本庭園として整備されている。

浜松城公園日本庭園の大滝。

城域の北東外れ、浜松城時代に古城と呼ばれた引馬(曳馬)城跡。この切通しが玄黙口(元目口)跡で、三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れ敗走した徳川家康は、この城門から城内へ退却したと伝わる。

引馬城跡(古城)に鎮座する元城町東照宮。引馬城は江戸時代に浜松城の主要部から外れ、古城と呼ぶ一曲輪をなし米蔵などに使われた。明治19年(1886年)旧幕臣井上延陵が東照宮を勧請。

東照宮脇には”浜松時代の若き徳川家康公像”と”浜松時代の少年豊臣秀吉公像”。ここに家康像があるのはわかるが、少年秀吉像は何ゆえか。それは浜松で針行商をしていた少年時代の秀吉が、松下嘉兵衛に出会い連れられてきたのがここ引馬城。当時の城主で今川家直臣の飯尾氏に気に入られ、松下家に初めて武家奉公したという。ここは秀吉が出世の第一歩を踏み出した地でもあるわけだ。

古城より浜松城を望む。当時とは随分と景観が変わったのだろうが、家康もここから浜松城を眺めたことだろう。

東照宮へ延びる参道。

浜松城模擬天守を横目に眺めつつ城内を後に。

大手門前から東側、国道152号と神明町の町並み。町名の由来はこの地に鎮座していた神明宮にあるが、現在は三組町(浜松市中区)に移り今は無い。東隣の田町に向かって東海道は下り坂で神明坂や宮坂と呼ばれ、神明町・田町の境付近で曲尺手に曲げられていた。現在は曲尺手の道筋は失われているが、神明町から田町にかけての国道は緩やかな下り坂になっている。

田町交差点と田町の町並み。田町は馬込川支流新川西岸の低地に位置したことに町名の由来があるという。その立地条件から町が形成される以前は田だったのか、もしくは町家の裏手に田が多くあったのか。

新川に架かる万年橋。ここが田町と板屋町の境。

この辺りの新川はほぼ暗渠と化すが、万年橋より上流側にその川面を見ることができる。

万年橋の下流側は暗渠と化し遊歩道に。頭上を通るのは遠州鉄道。

国道152号と広小路が交差する板屋町交差点。板屋町は田町の東隣に位置し、板屋葺の家が多くあったことに町名の由来があるという。

板屋町と旧新町(現 浜松市中区中央3丁目)の境をなす交差点。その南東角(写真右手)には”ハーモニア新町”という大規模マンションが建つ。

旧新町の町域にあたる松江交差点。馬込川西岸に位置する新町は、板屋町に対して茅葺の家が多かったことから萱町(茅町)と称し、後に新町へ改称したという。浜松宿京方外れの上新町に対し下新町とも呼ぶ。

馬込橋西詰。かつて馬込橋西詰には見返りの松と鳥居松と呼ばれる名松があった。見返りの松は徳川家康が浜松から駿府へ移る際、馬込橋から名残惜しんで浜松を見返したことからこの名がついたという。鳥居松は街道を跨ぐように枝葉を延ばす松だったが、大正10年(1921年)付近の民家から出火があり焼失した。

馬込橋西詰に設置の解説板より。大正元年頃の見返りの松と鳥居松。橋袂の両脇に立派な松が聳えているが、どちらが見返りの松で鳥居松なのかがわからない。

上の古写真と同じようなアングルで撮影。現在の馬込橋と馬込川。

馬込橋東詰は浜松宿江戸方出入口の東木戸(外木戸)跡。路傍にその跡地を示す棒杭がある。

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