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遠江国府

【旧東海道歩き 第20日目】新通町バス停→見付宿→袋井宿→袋井駅



【2016年5月7日(土)旧東海道 見付宿】
宿泊先の磐田グランドホテルを出発、前日に夜間の強行軍となってしまった見付宿を散策すべく、磐田営業所バス停から遠鉄バスに乗車、新通町バス停で下車して旧東海道歩きを再開する。まずは見付宿京方外れの遠江国分寺跡を見学に。

奈良から平安時代にかけて律令国家における地方支配を担った国府。政務を司る国衙を中枢に、天平13年(741年)以降には国分寺・国分尼寺や国府八幡宮、平安時代になって総社が付随して設けられ、日本各国に1ヶ所ずつ存在した。鎌倉時代以降に武家が政権を握るようになると国府は衰退、室町時代には機能どころか建造物も消滅して所在不明の状態だったらしい。近代の発掘調査によって多くの国府遺構が明らかになっており、磐田市の中泉・見付地区の一帯にかけて存在した遠江国府もその一つ。昭和26年(1951年)の発掘調査により国分寺の主要建造物の遺構が見つかり、昭和27年(1952年)国の特別史跡に指定された。国分寺の東側に国府八幡宮(現 府八幡宮)、北東約1km地点に総社の淡海國玉神社があり、遠江国府の全貌が明らかになりそうなもの。しかし肝心の国衙がどこにあったのかが判明しておらず、JR磐田駅南側一帯の御殿・二之宮遺跡が推定地の一つになっている。




磐田グランドホテル
宿泊先の磐田グランドホテルを出発。旧東海道にアクセスしやすく、天然温泉もあって旧東海道ウォーカーにはおすすめの宿。ここから近くの磐田営業所バス停から遠鉄バスに乗車し見付方面へ。


新通町バス停
新通町バス停で下車、見付宿をぶらぶらしながら先ずは遠江国分寺跡へ。


遠江国分寺想像図
遠江国分寺想像図(磐田市教育委員会文化財課設置の解説板より)。国分寺は天平13年(741年)聖武天皇の命により、国家鎮護のため日本各国60数ヶ所に造立させた寺院、国分僧寺と国分尼寺からなり、国分僧寺を単に国分寺と通称する。奈良の東大寺が総国分寺。遠江国分寺は南大門を正面入口にして敷地を築地塀で囲い、中門・回廊・金堂・講堂・七重塔等の伽藍を配していた。


遠江国分寺 南大門跡
国分寺正面入口にあたる南大門跡。


遠江国分寺 回廊跡
回廊と中門跡。写真右奥、生垣の切れ間が中門跡でその左右から金堂にかけて回廊が巡らされていた。


遠江国分寺 中門・金堂跡
中門跡より金堂を望む。本尊を安置した金堂は国分寺の中心をなす仏殿で、重層入母屋瓦葺きだったと推定されている。ここに想像図に見るような荘厳たる伽藍を想像できようか。


遠江国分寺 講堂跡
金堂の裏手、講堂跡より南大門方方向。講堂は経典の講義等に使われた建物で、周辺に堂舎や僧坊、経蔵、食堂、政所、鐘楼等の建物が配されていた。


遠江国分寺 七重塔跡
七重塔跡。15m四方の基壇に高さ66mに及ぶ七重塔が聳え、金光明最勝王経十巻(国分寺経)を納めていたと推定される。


七重塔跡の中心礎石
七重塔跡に残る中心礎石。今から1200年以上前に七重塔をこの石が支えていたんだと、平安の昔に思いを馳せて。


遠江国分寺 築地塀跡
遠江国分寺西側面の築地塀跡。土塁が築かれその跡地を示す。


参慶山国分寺
遠江国分寺跡の一角にある参慶山国分寺。遠江四十九薬師霊場の第一番。


国分寺礎石の手水石
この手水石の元は遠江国分寺の礎石。1200年以上の時を経てリサイクルされたわけだ。


参慶山国分寺参道
遠江国分寺跡の東側面を入口とする参慶山国分寺参道。


府八幡宮社務所
遠江国分寺跡の東隣り、府八幡宮へ参拝に。府八幡宮は奈良時代に遠江国司の任に就いた桜井王が建立したと伝わる。


神宮寺の築地塀
社務所前にある神宮寺の築地塀。社務所辺りは明治元年(1868年)に廃寺となった神宮寺跡、この築地塀だけが残されている。


府八幡宮 楼門
寛永12年(1635年)建立の楼門。本来ならば江戸時代初期製作の木造随身像2体が楼門左右に座っているのだが、解体修理中のため不在。


府八幡宮 中門
拝殿前にある中門は楼門と同時期の建立だが、文化年間(1804年~18年)再建の記録があるという。


府八幡宮 拝殿
府八幡宮拝殿。寛永12年(1635年)の建立で、現建物は正徳4年(1714年)の再建。拝殿最奥にある本殿が元和3年(1617年)の建立で、府八幡宮で最古の建物のようだ。


東照宮
寛文年間(1661年~72年)建立の東照宮。元々は中泉の御殿山に鎮座していたが、明治6年(1873年)府八幡宮の境内へ移された。現社殿は昭和52年(1977年)の再建。


国分尼寺跡
この記事の最後は国分尼寺跡で。写真左手の台地が国分尼寺跡。現在は住宅地になり遺構は見られない。


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ジャンル : 旅行

見付宿

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東海道五十三次之内見附 天竜川図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「見附宿」より引用


【2016年5月7日(土)旧東海道 見付宿】
見付宿は江戸日本橋から東海道五十三次を28宿目、京都三条大橋からは26宿目にあたり、西側に天竜川渡河を控えて往来の旅人で賑わった宿場町。古くは”見附”とも書く。京方から東海道を来るとここで初めて富士山が望めたといわれ地名の由来になったとも。つまり「富士山を見つけたぞ!」というわけだが、白須賀宿付近の潮見坂上で富士山が望めるようだし、広重も”東海道五十三次之内舞坂”の浮世絵に富士山を描いており、この説は怪しい。遠江国府が存在した古代、見付宿の南側一帯は今之浦という入り江になっており、海付(うみつけ)の地だったことに因むともいわれる。

元亀元年(1570年)徳川家康は遠江侵攻を本格化すべく、三河の岡崎城から遠江の浜松城へ居城を移すが、実は見付が当初の居城候補地だった。実際に家康は浜松城の築城以前、城之崎城(現 磐田城山球場一帯)の築城工事に取り掛かっている。城之崎城は当時低湿地帯だった今之浦の東方丘陵上を城域とする要害地なうえ、中世には宿場町として発展していた見付宿を城下町に利用できたわけであり、遠江侵攻の拠点にはもってこいの地に思える。しかし、武田信玄が健在である武田家の全盛期、天竜川の東に位置する見付の地では、武田家に攻められたときに天竜川が背水となるうえ、織田家の援軍も得られにくくなることから、家康は築城工事の中止を決断、居城を浜松の地に変更したといわれる。もしこの決断がなければ見付宿は城下町になり、今に見る町並みも随分と異にしたことだろうが、それ以前に武田信玄の西上作戦(三方ヶ原の戦い)に臨む家康が生き長らえることができたかどうか…。歴史を見れば徳川家にとって運命を左右する決断だったと言えよう。

見付宿の天保14年(1843年)当時の人口3935人、家数1029軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋56軒。本陣は神谷三郎右衛門家(南本陣)と鈴木孫兵衛家(北本陣)、脇本陣が文化2年(1805年)から大三河屋新左衛門家が務めた。京方から横町、西坂町、馬場町、東坂町と続く町並み。横町・西坂町境で東海道から本坂通(姫街道)が分岐、見付から天竜川渡船の”池田の渡し”へ通じる近道だったことから池田近道とも呼ばれる。歌川広重は「東海道五十三次之内見附 天竜川図」の題を付け、池田の渡しの様子を浮世絵に描く。名物は粟餅等。




只来坂旧道
磐田郵便局前から只来坂旧道の下りに。


只来坂旧道
只来坂旧道。坂下より撮影、右が新道。


東福山西光寺
只来坂下にある東福山西光寺。元和6年(1620年)入内のため江戸城から京へ向かう途次の東福門院(後水尾天皇の妃、2代将軍徳川秀忠と江の五女)が休憩に立ち寄った。この縁で東福門院より七堂伽藍や山号、地蔵菩薩像等を賜っている。この地蔵菩薩像は日切地蔵尊と呼ばれ、日を限って願えば叶うと古くから信仰され、今も多くの信仰者が参拝に訪れる。


東福山西光寺
西光寺の薬医門。中泉御殿の表門を移築したものと伝わる。


東福山西光寺
東福山西光寺は阿弥陀如来を本尊とする時宗の古刹。文永2年(1265年)真言宗の寺院として創建、建治・弘安年間(1275年~87年)に時宗へ改宗し修行道場となった。鴨川道場と呼ぶ。


西光寺の大楠
西光寺の大楠。現在は並び立つナギの木と共に恋愛成就のパワーズポットらしい。


加茂川橋
見付宿京方端に架かる加茂川橋。


加茂川
加茂川橋下を流れる加茂川。


西木戸跡
加茂川橋北詰が見付宿京方出入口の西木戸跡。


本坂通(姫街道)見付起点
本坂通(姫街道)見付起点。


本坂通(姫街道)
見付起点より本坂通(姫街道)。東海道をショートカットして池田の渡しへ行ける近道だったが、旅人が正規の東海道を通らずこちらを頻繁に往来したため、寛政年間(1789年~1801年)道中奉行が往来禁止としている。


河原橋
本坂通(姫街道)の河原橋より見付起点を望む。


姫街道(本坂道)02
河原橋より池田方面を望む。正面の常夜灯を右に分岐し急坂を上る道が本坂通(姫街道)。


見付宿西坂町
旧西坂町の町並み。


西坂の梅塚
梅屋小路の入口にある西坂の梅塚。昔、旧暦8月初めに年番で怪物の犠牲として娘を供える風習があり、年番の家には白羽の矢が立てられたという。年番を務めた家にはその印として梅が植えられ、ここは西坂町で最後のものだったと伝わる。同様の梅塚が東坂町にもある。


栗田家土蔵群
梅屋小路奥にあったはずの栗田家土蔵群。近代に煙草業は磐田の産業の一つで、ここに旧栗田煙草合資会社があり、明治初期から昭和初期にかけて建築された5棟の土蔵があった。平成18年(2007年)この土蔵群が市登録文化財の第1号に指定されたが、維持管理が続けられなくなったのか、訪れたときには更地と化していた。


見付宿にて
街灯にはジュビロ磐田のフラッグがたなびく。


見付宿西坂町
江戸方より旧西坂町の町並み。


玄妙寺
旧西坂町東端北側にある玄妙寺。元中2年(1385年)日什上人により開創、本堂に安置する日蓮上人像は元和9年(1624年)の作。毎年11月12日にある”お命講”では鬼子母神の大祭も併せて行われ、参詣者に授与される”子育てぞうり”を子供に履かせると元気に育つという。


慈恩寺
玄妙寺裏手にある慈恩寺。こちらは臨済宗で、応永年間(1394年~1428年)の開創と伝わる。天文年間(1532年~55年)に中興、寛永11年(1634年)再中興され諸堂を整備、江戸時代末から寺子屋が開かれた。


脇本陣大三河屋門
いこいの広場に置く脇本陣大三河屋門。大三河屋ははじめ旅籠で文化2年(1805年)脇本陣に。現在の秀英予備校見付校が大三河屋跡にあたる。脇本陣門は中泉の中津川家に移築されていたが、平成19年(2007年)現在地に移築復元された。


脇本陣大三河屋門
ボランティアガイドの計らいで閉門の状態も見せてもらいました。


いこい茶屋
脇本陣門の奥にある”いこい茶屋”でお茶を頂き、しばし休憩。


旧見付学校
そして旧見付学校を見学に。右の鳥居は遠江国総社の淡海國玉神社。


旧見付学校
明治8年(1875年)建築の旧見付学校校舎。明治16年(1883年)に2階天井裏を改築して3階階部分を増築、今に残す校舎が完成した。木造擬洋風小学校校舎としては現存する日本最古のもので、国の史跡に指定。内部を一般公開している。


旧見付学校
教室では当時の授業風景を再現。


いろは図
いろは図。いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ…、近代まで使われてきた仮名の手習い手本。


旧見付学校教員室
こちらは教員室。先生がいかにも厳格そう。


磐田文庫
校舎裏手にある磐田文庫。元治元年(1864年)総社神官の大久保忠尚が創設にした。今に言う私設図書館で、一般人にも開放されたという。


旧見付学校4階
旧見付学校4階。校長室や応接室に使われたといわれるが、確たる記録が無いらしい。


旧見付学校5階
旧見付学校の5階は太鼓楼。児童登校の合図や正午の時報としてここで太鼓を打ち鳴らした。現在、太鼓は1階に展示されている。


旧見付学校太鼓楼からの眺め
5階太鼓楼から南側の眺め。見付宿を眼下に望む。


淡海國玉神社
北側を望めば眼下に淡海國玉神社の社殿。


鈴木孫兵衛家(北本陣)跡
鈴木孫兵衛家(北本陣)跡。


神谷三郎右衛門家(南本陣)跡
神谷三郎右衛門家(南本陣)跡。北本陣の斜向かい、北井上小路の突き当りに南本陣があったが、現在は本陣跡地を静岡県道86号が貫いている。


脇本陣大三河屋跡
脇本陣大三河屋跡。いこいの広場で見た脇本陣門は、かつてこの辺りにあったはず。


問屋場跡
静岡銀行見付支店の場所が問屋場跡。


井口製菓
見付名物の粟餅を製造販売する井口製菓。


粟餅
これが粟餅、箱のデザインに趣きがあっていい。後でゆっくり食べよう。


寺小路(御殿小路)
大見寺へ至る寺小路(御殿小路)。


大見寺絵図
元禄11年(1698年)の大見寺絵図(磐田市教育委員会文化財課設置の解説板より)
大見寺境内は中世に今川家が築いた見付端城の本丸跡にあたり、絵図には境内を取り囲む本丸土塁や御殿跡が描かれている。本丸北側に二の丸があり、現在は磐田北小学校の敷地になっている。


大見寺本堂
御殿跡に建てられている大見寺本堂。


見付端城の土塁
大見寺境内西側に残る見付端城の土塁。


中川橋
中川に架かる中川橋。


見付宿東坂町
中川橋上より旧東坂町を望む。


宣光寺
宣光寺の地蔵堂へ延びる地蔵小路。地蔵堂に祀る延命地蔵菩薩は鎌倉時代の作。三方ヶ原の戦いで見付は戦火に遭い、幼児に化身した地蔵が火傷を負いながらも火を消し回り、多くの被災者が難を逃れたとの伝説から”身代わり地蔵”の別称がある。


東坂の梅塚
東坂の梅塚。


天白さま
てんぱく小路筋にある天白さま。水野薬局駐車場の看板が立つここに、天白信仰の神様を祀っていたのか。道名の由来なのだろうが詳細不明。


熊野神社
権現小路筋にある熊野神社。江戸時代中期に熊野大権現を勧請し建立、周辺一帯は権現町と称した。


矢奈比売神社(見付天神)参道入口
矢奈比売神社(見付天神)参道入口。旧東海道から境内へ至る道は天神道と呼ぶ。


矢奈比売神社(見付天神)参道
上り坂の参道に鳥居が並ぶ。


悉平太郎像
見付天神に棲む妖怪を退治した伝説の霊犬、悉平太郎(しっぺいたろう)像。


矢奈比売神社拝殿
矢奈比売神社拝殿。拝殿前に雌雄2頭の願掛け牛が鎮座する。矢奈比売神社は矢奈比売命が主祭神、相殿に菅原道真公を祀ることから見付天神と通称される。


矢奈比売神社境内にて
矢奈比売神社境内にて。毎年9月に行われる見付天神裸祭は国の重要無形民俗文化財に指定される。


愛宕橋
見付宿江戸方端、蛇堀に架かる愛宕橋。かつては東詰に木戸を設けていた。写真右奥の山頂に見えるのが愛宕神社で、その左側を上る坂道が旧東海道(見付東坂)。


東木戸跡付近にて
東木戸跡付近の路傍にて。


木戸のモニュメント
東木戸跡近くに設ける木戸のモニュメント。


愛宕神社
見付宿東外れ、愛宕山上に鎮座する愛宕神社。


見付宿眺望
愛宕山より見付宿を眺望。


阿多古山一里塚
見付東坂の途中、阿多古山一里塚付近。両塚が現存しているようだが確認できず。北塚が民家の敷地内、南塚が愛宕神社裏手に現存している。江戸日本橋から62里目(約243km)、京三条大橋からは56番目で実測約272km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる一里塚。


元門と元天神道
元門と元天神道。旧東海道から見付天神に通じる裏参道で、江戸時代中期頃まではこちらが表参道だった。その参道入口の塚上に大正9年(1920年)銘の石碑があり、ここを元門と呼ぶ。


秋葉灯籠
見付東坂上にある大正4年(1915年)建立の秋葉灯籠。


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行人坂と三ケ野坂

【2016年5月7日(土)旧東海道 見付宿→袋井宿】
見付宿を東木戸から出た旧東海道は見付東坂を上って三本松を抜け、遠州鈴ヶ森(三本松)刑場跡を左に見れば行人坂の下り。かつてその坂下には行人(山伏)が多く住んでおり坂名の由来に。行人坂を下りきって間もなく、大久保の坂の上りに転じて立場を置いた三ヶ野(現 磐田市三ヶ野)へ。その東外れの台地突端(大日山)には大日堂があり、境内に「古戦場大日堂」の解説板を設ける。武田信玄の西上作戦による遠江侵攻の際、迎え撃つ徳川勢は三ヶ野・見付・一言坂で武田勢と戦闘になるのだが、大日堂の地は眼下に太田川から遠く袋井を一望、ここで本多忠勝が武田勢を視察したと伝わり、”本多平八郎物見の松”と呼ぶ大木が存在していたらしい。これらの前哨戦を経て三方ヶ原の戦いへと繋がっていく。三ヶ野坂で大日山を一気に下り太田川を渡河、西嶋村(現 磐田市西島)、木原村(現 袋井市木原)、川井村(現 袋井市川井)を経て袋井宿に着く。




旧東海道 富士見町
見付東坂上、富士見町を行く旧東海道。


三本松橋(なみだ橋)
三本松橋。別名を”なみだ橋”と言う。かつてこの先の街道筋に遠州鈴ヶ森(三本松)刑場があり、罪人を見送る縁者がここで涙を流し見送ったのであろう。


三本松御旅所
三本松橋の袂にある三本松御旅所。見付天神裸祭や祇園祭の神輿がここまで渡御し、御神酒の献上や祝詞の奏上が行われる有り難い場所なのだが、実のところ付近は江戸時代に三本松刑場の晒し場があった場所でもある。


遠州鈴ヶ森(三本松)刑場跡
静岡県道413号沿い、写真右手に見える雑木林が遠州鈴ヶ森(三本松)刑場跡。旧東海道の道路拡幅により跡地の大部分が削られてしまったように見える。


遠州鈴ヶ森(三本松)刑場跡
遠州鈴ヶ森(三本松)刑場跡。県道から急階段を上り雑草をかき分けて中には南無妙法蓮華経と刻む題目碑が残る。江戸時代中期に盗賊の棟梁として名を知らしめた日本左衛門はここで処刑されたと伝わる。日本左衛門は歌舞伎「白浪五人男」の一人、日本駄右衛門のモデル。


遠州鈴ヶ森(三本松)刑場跡
題目碑の隣りにある「妙法無縁之萬霊」と刻む供養塔。いかにも刑場跡らしい雰囲気。夜分には絶対来たくない。


行人坂
ここから行人坂の下りに。


行人坂
行人坂の松並木。


行人坂
松の根元には花壇が設けられ行人坂を彩る。


北向き地蔵
雲海寺跡にある北向き地蔵。明治29年(1896年)大久保村の住人等によって建立された。


大久保の坂
行人坂を下りきった先で、大久保の坂の上りに転じる。


大久保の坂の路傍にて
大久保の坂の路傍にて。小さな白い花が群生、何だろうか。


トキワツユクサ
調べてみたらトキワツユクサ(常盤露草)という花らしい。南アメリカ原産の帰化植物で、昭和初期に観賞用として持ち込まれ野生化したとのこと。


旧東海道 磐田市岩井
大久保の坂上、磐田市岩井を行く旧東海道。


磐田グランドホテル02
左手には遠州鉄道磐田営業所のバス駐車場、その向こうに昨日の宿泊先、磐田グランドホテルが見える。


旧東海道 磐田市三ケ野
旧立場三ケ野に。”田原歴史愛好会”が「立場跡」の木製看板を設置している。


三ケ野坂上
三ケ野坂上、江戸期の旧東海道(直進)と明治新道(左折)の分岐点。


三ケ野坂上
上写真の分岐点には「車井戸之跡」碑と「従是鎌田山薬師道」の道標がある。


三ケ野坂
江戸期の三ケ野坂はここを左折、右折の下り坂は鎌倉期の古道。直進すれば台地突端に大日堂がある。


三ケ野坂鎌倉の古道
三ケ野坂鎌倉の古道。


三ケ野坂江戸の古道
三ケ野坂江戸の古道。


三ケ野七つ道
「三ケ野坂の七つ道」案内地図(現地設置の解説板より)
三ケ野坂辺りは鎌倉・江戸・明治・大正・昭和・平成と時代別に順次作られた道と、桶ケ沼南辺を通り見付に抜ける間道の合わせて7つの道が集中して見られる。


大日堂
三ケ野坂上、大日山に建つ大日堂。ここは武田信玄の西上作戦で遠江に侵攻する武田勢と、それを迎え撃つ徳川勢が戦った古戦場、本多忠勝が敵情を視察した場所と伝わる。ここに”本多平八郎物見の松”と呼ぶ大木が存在していたという。


大日堂からの眺め
大日堂より袋井方面を望む。本多忠勝がここで武田勢の動きを物見していたと、戦国時代に思いを馳せて。


三ケ野坂江戸の古道
三ケ野坂江戸の古道。それらしい雰囲気が漂う。


三ケ野坂江戸の古道
三ケ野坂江戸の古道は坂途中で明治の道に合流。


三ケ野坂下
三ケ野坂下、太田川へ向かって延びる旧東海道。


三ケ野の松並木
三ケ野の松並木。


お食事処なぐら
太田川西岸、旧東海道筋にある”お食事処なぐら”で少々休憩。


お食事処なぐら02
”お食事処なぐら”の全景。訪れたときに店ややってなかったが、焼きそば・お食事・たばこの看板を掲げ、現代の茶屋といった風情。


旧三ケ野橋西詰
旧三ケ野橋西詰。旧道は太田川の堤防に阻まれるが、名残松が往時を偲ぶ。


三ケ野橋
太田川に架かる現在の三ケ野橋。旧橋より少し上流に架けられている。


旧東海道 西島
三ケ野橋を渡って西島へ。


須賀神社
西島に鎮座する須賀神社。


須賀神社大楠
須賀神社本殿後ろには市指定天然記念物の大楠が枝葉を延ばす。


非常貯水
西島の旧東海道脇に残る非常貯水。


西木橋
蟹田川に架かる西木橋。ここが磐田市と袋井市の境。


木原橋
西木橋から東へ100m程、木原橋を渡れば木原に入る。


木原大念仏
木原の旧東海道路傍にて。毎年8月のお盆に行われる木原大念仏は、戦国時代に木原村(現 袋井市木原)で発祥したとされる念仏踊り。天正6年(1578年)徳川勢の動向を探りに来た武田勝頼の家臣、笹田源吾は徳川に味方する村人らによって討ち取られてしまう。以来、村では疫病が流行り源吾の祟りではないかと恐れ、長命寺に供養塔を建て鎮魂念仏を始めたと伝わる。袋井市無形民俗文化財に指定。


笹田源吾供養塔
長命寺にある笹田源吾供養塔。


許禰神社
木原の許禰神社(木原権現社)。


徳川家康公腰掛石
許禰神社境内にある「古戦場木原畷」碑と徳川家康腰掛石。元亀3年(1572年)西上する武田信玄は木原付近に布陣、それを阻むべく徳川家康の家臣内藤信成は三箇野台(現 磐田市三ケ野)から偵察の兵を出したことで戦闘に。木原畷の戦いと呼ばれ、この後に徳川勢は三ヶ野・見付・一言坂と武田勢の追撃を受けるのだが、殿(しんがり)の本多忠勝が奮戦し、家康は浜松城へ撤退できたと伝わる。


木原の復元一里塚
木原の復元一里塚。本来の一里塚はここより約60m東にあったが、両塚とも現存せず。江戸日本橋から61里目(約240km)、京三条大橋からは57番目で実測約276km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。


旧東海道 木原
木原を抜けた旧東海道。この先で静岡県道413号に合流する。


松橋
静岡県道413号の松橋。かつて橋の両側には松並木の街道が続いていたのだろう。


県道413号 袋井市川井
川井交差点付近の静岡県道413号(東海道)。川井交差点で県道413号から右に分岐する県道253号が旧東海道、袋井宿へ向かう。


寺澤家長屋門
県道253号(旧東海道)沿いに建つ寺澤家長屋門。明治元年(1868年)に建てられたと伝わる。小ぢんまりとした長屋門だが、東海道沿いでは珍しいものだと解説されていた。


寺澤家長屋門
県道253号(旧東海道)と寺澤家長屋門。


旧澤野医院
寺澤家長屋門から旧東海道を東へ約200m、右手には旧澤野医院。現在は廃業しており記念館として一般公開している。旧開業医の一般公開は珍しい、改めて訪問の機会を設けたい。


袋井西小学校と旧澤野医院
袋井西小学校校門と旧澤野医院。門柱には”東海道どまん中西小学校”の表札を掲げる。


県道253号 袋井市川井
川井を行く県道253号(旧東海道)。


一木喜徳郎邸宅跡
明治から昭和にかけて政治家として活躍した一木喜徳郎の邸宅跡。一木喜徳郎は文部大臣や内務大臣、枢密院議長などを歴任した。現在の邸宅跡はヤマジ酒店になっているが、店前に「明治天皇御小休所跡」の碑を設けている。


県道253号 袋井市川井
袋井宿に隣接する川井の町並み。


小野宅跡の小広場
法多山別院の向かい、小野宅跡の小広場。故小野千代子氏より市に寄付された土地を広場として整備したもの。


御料傍示杭跡
御料傍示杭跡。川井村(旗本米津氏と掛川藩の相給)と袋井宿(幕府領)の境を示した傍示杭の跡である。


御幸橋
宇刈川に架かる御幸橋。かつては中川橋という土橋が架けられていた。


御幸橋東袂
御幸橋東袂、秋葉山常夜燈と高札場風の解説板を設けている。


袋井宿西本陣跡
袋井宿西本陣跡。


袋井宿中本陣跡
魚源という魚屋の場所が袋井宿中本陣跡。


袋井宿東本陣跡
袋井宿東本陣跡は公園に整備される。


どまん中茶屋
袋井宿東端、どまん中茶屋で本日の歩き旅は終いに。


袋井駅
袋井駅より帰途につく。


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袋井宿

【旧東海道歩き 第21日目】袋井駅→袋井宿→掛川宿→掛川駅



【2016年6月25日(土)旧東海道 袋井宿】
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東海道五十三次之内袋井 出茶屋ノ図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「袋井宿」より引用


江戸日本橋から東海道五十三次を27宿目、京都三条大橋からは27宿目、ちょうど五十三次のど真ん中にあたる袋井宿。江戸方の掛川宿へ2里16町(約9.6km)、京方の見付宿へ1里半(約5.9km)の里程。宿場の開設は元和2年(1616年)、見付宿と掛川宿間の距離が長くて不便なため、中間にあった茶屋をもとに宿場を成立させた。宿内町並み東西5町15間(573m)で、東海道53次で最も短い町並みの宿場町、西から川原町・本町・新町・茅町と続く。天保14年(1843年)当時の人口843人、家数195軒、うち本陣3軒、脇本陣なし、旅籠屋50軒。本陣は東本陣を壱番御本陣として田代八郎左衛門家、中本陣が大田八兵衛家、西本陣を大田八蔵家が務めた。周辺には法多山尊永寺、医王山油山寺、萬松山可睡斎の遠州三山と呼ばれる名刹があり、その門前町としても賑わう。名物は鰻、すっぽん、火縄等。




袋井駅
JR袋井駅に降り立ち。


静橋
静橋を渡って袋井宿へ向かう。


静橋北交差点
静橋北交差点で旧東海道に歩みを戻す。ちなみに原野谷川に架かる静橋からここまでの道は旧法多小路にあたり、遠州三山の一つ、法多山尊永寺へ至る道。原野谷川から先、尊永寺までは法多街道と称した。


澤野医院記念館
まずは川井にある澤野医院記念館を見学に。澤野家は享保12年(1727年)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に本道医としてその名が見え、江戸時代からこの地で代々医業を営んできた。昭和末期に廃業し10年程空き家になっていたとのこと、澤野家より建物が袋井市に寄贈され、平成11年(1999年)市指定文化財に。病棟と洋館は昭和初期、居宅が幕末から明治期の建築と考えられている。


旧澤野医院診察室
旧澤野医院診察室。机上に置く写真は最後の澤野院長だろうか。


旧澤野医院レントゲン室
こちらはレントゲン室。日立メディコ製のレントゲン装置が現存。


旧澤野医院手術室
機材を当時そのままに展示する手術室。


旧澤野医院居宅
旧澤野医院居宅。


御料傍示杭跡
袋井宿と川井村の境を示した御料傍示杭跡。


御幸橋
御幸橋(旧中川土橋)の両側は袋井宿の旧川原町。


高札場風解説板と復元見付石垣
御幸橋東詰、高札場風解説板と復元の見付石垣を設ける。


どまん中丸凧ギャラリー
旧川原町東海道筋にあるどまん中丸凧ギャラリー。袋井の丸凧は、二代目歌川広重が江戸末期に描いた浮世絵「諸国名所百景」の一枚、「遠州秋葉遠景袋井凧」に見られ、江戸時代に袋井で盛んに揚げられていたという。近年になって再現させる動きが活発になっている。


袋井宿西本陣跡
西本陣大田八蔵家跡。


袋井宿西本陣跡
西本陣跡前を行く旧東海道。


袋井宿中本陣跡
魚源(写真左手前)が中本陣大田八兵衛家跡。


袋井宿場公園
静橋北交差点、南東角にある袋井宿場公園。


袋井宿場公園
袋井宿場公園。青々と茂る芝生が眩しい。


袋井宿東本陣跡03
東本陣田代八郎左衛門家跡。壱番御本陣と呼ばれ、3軒ある本陣の中で最も格式が高かったようだ。


袋井宿東本陣跡
東本陣跡は冠木門のモニュメントを置き、小庭園として整備されている。


袋井宿東本陣跡
東本陣敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪が288坪もあり、規模の大きさをうかがう。敷石や芝生によって本陣の間取りがわかるようになっている。


白髭神社参道
旧新町より白髭神社の参道が延びる。


玄明小路入口の常夜灯
玄明小路入口にある秋葉山常夜燈。


玄明小路
玄明小路は北側の畑に通じる住民の道だった。


菅原小路
菅原寺へと通じていた菅原小路。


食堂坂口屋
袋井宿の旧茅町にある食堂坂口屋。江戸時代の茶屋が前身ではないかと感じる佇まいだが、残念ながら廃業してしまったように見える。


東海道どまん中茶屋
袋井宿東端には”東海道どまん中茶屋”。広重の浮世絵に描かれる出茶屋をよく再現している。茶屋の方にお茶を勧められたので立ち寄ることに。


どまん中袋井宿今昔マップ
どまん中茶屋で頂いた”どまん中袋井宿今昔マップ”。現在と江戸時代の袋井宿地図を長巻物の表裏に印刷し、観光ポイントと簡潔な解説を付けた秀逸のガイドマップ。これは使える。


ふくろい茶
お土産に”ふくろい茶”を購入。


天橋
袋井宿江戸方(東側)端に架かる天橋(阿麻橋)。


袋井市総合センター
天橋東詰、旧道は袋井市総合センター辺りで一時消失。


旧東海道 袋井市新屋2丁目
新屋2丁目で旧道が現れ北東へ向けて道を延ばす。


新屋の秋葉山常夜燈
新屋に残る木造屋形の秋葉山常夜燈。


新屋の秋葉山常夜燈
屋根に載せる鯱の愛らしい表情に思わず微笑んでしまう。


旧東海道 西新屋
新屋の旧道消失地点。「夢舞台・東海道 西新屋」の道標が立つ。


旧東海道 東新屋
新屋の旧道出現地点付近。こちらには「夢舞台・東海道 東新屋」の道標が立つ。


スズキ化石資料館
国本の旧東海道沿いにあるスズキ化石資料館。

スズキ化石資料館
http://www.geocities.jp/suzuki_kasekikan/


国本の旧東海道松並木
スズキ化石資料館を過ぎて間もなく、旧東海道の松並木がはじまる。


可睡三尺坊道標
可睡三尺坊道標(写真手前)と油山寺道標(右奥)。ここから北へ分かれる道は遠州三山の萬松山可睡斎、医王山油山寺へ至る旧道。


油山寺道標
油山寺道標。文政11年(1828年)建立。


可睡三尺坊道・油山寺道
遠州の古刹へと続く信仰の道だった可睡三尺坊・油山寺道。


袋井の松並木
国本に残る東海道松並木。


七ツ森神社
松並木の奥にひっそりと鎮座する七ツ森神社。桓武天皇の時代、日坂に棲む怪鳥退治で返り討ちにあい命を落とした7人を哀れみ、村人が7つの塚を造ってその霊を弔ったとの伝説がある。その七つの塚は残存していないが、七ツ森神社は一番大きな塚上に位置しているという。祭神に祀る久努国造 (くどのくにのみやつこ)は古墳時代にこの地方を支配していたとされ、七つの塚は古墳だったとも考えられている。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
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6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
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川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
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鶴ヶ城
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武蔵国千住宿を発ってから…
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【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
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【 中山道 旅の報告 】
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江戸日本橋を発ってから…
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京都三条大橋

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