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袋井から掛川に

【2016年6月25日(土)旧東海道 袋井宿→掛川宿】
袋井宿東外れで旧東海道は松並木を残す街道に。途中、久津部(現 袋井市国本)の家並みを経て再び松並木の街道を歩き、旧北原川村の名栗立場(現 袋井市国本)へ。久津部と名栗は花筵(花茣蓙)を名産とした。名栗を過ぎれば袋井・掛川市境の原野谷川を同心橋で渡河、その東袂から原川(現 掛川市原川)の町並みが続く。原川は原川薬師こと金西寺の門前町、薬師餅とタニシのむき身が名物で、こちらにも立場が設けられていた。原川東外れから松並木の街道、垂木川を越えて綱川(現 掛川市領家)、沢田(現 掛川市沢田)、細田(現 掛川市細田)、大池(現 掛川市大池)を通り抜け大池橋で倉真川を渡河、二瀬川まで来れば掛川城は近い。




旧東海道 袋井市国本・広岡
久津部(現 袋井市国本)西外れの旧東海道から。


油山寺道標
久津部に残る明治37年(1904年)の油山寺道標。「あぶら山ミち二十七丁」と刻む。


旧東海道 袋井市国本
久津部を行く旧東海道。旧久津部村は東・中・西の3組からなり、花筵(花茣蓙)が名産だった。


八幡社入口道標
国本の八幡神社参道入口。「八幡社入口」と刻む道標が残る。


村松・宇刈道標
同じく八幡神社参道入口にある村松・宇刈道標。大正4年(1915年)建立。


用行義塾跡
八幡神社へ向かう参道右側にある用行義塾跡。明治5年(1872年)民間有志の共同出資で設立した袋井で最初の学校で、郷学校と言われた。


久津部の秋葉山常夜燈
久津部の秋葉山常夜燈。昭和28年(1953年)久津部地区の村中安全を祈願して建立された。


油山寺道標
大正4年(1915年)建立の油山寺道標。


久津部一里塚跡
袋井東小学校前が久津部一里塚跡。江戸日本橋から60里目(約236km)、京三条大橋からは58番目で実測約281km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。


復元久津部一里塚
袋井東小学校の敷地一角にある復元久津部一里塚。小ぶりな復元一里塚だが、塚上に松を植えてそれらしい佇まい。


妙日寺
袋井東小学校の東辺に参道を延ばす妙日寺。日蓮宗の古刹。日蓮の先祖、豪族貫名氏の館跡と伝わる。


袋井の松並木
久津部と名栗(現 袋井市国本)の間に残る松並木。その根元には土盛りが見られる。


袋井の松並木
松並木の街道は何度歩いても風情が感じられていい。


富士浅間宮赤鳥井
富士浅間宮の参道入口に立つ赤鳥居。天正18年(1590年)地頭の本間源三郎重泰が建立した。


富士浅間宮赤鳥井
江戸時代には赤鳥居の向こうに富士浅間宮の社殿が見通せたとか。


袋井の松並木
名栗の西側に残る松並木。


松並木の路傍にて
松並木の路傍にて。梅雨時期だけに紫陽花が生き生きと。


名栗の花茣蓙
名栗京方入口、「名栗の花茣蓙」の駕籠風看板が旅人を迎える。


名栗の花茣蓙
花茣蓙(はなござ)は花筵(はなむしろ)とも呼ばれ、花模様などに織られた茣蓙。東海道を往来する旅人が珍しがって買って行ったという。ここ名栗と西隣り久津部の名産品だった。


旧東海道 袋井市国本
名栗の旧東海道筋にて。


旧東海道 袋井市国本
同心橋西詰、旧東海道は写真右方向に進み土手に消える。


同心橋
原野谷川に架かる同心橋。ここが袋井市と掛川市の境。


原野谷川の旧東海道跡
同心橋より右岸河川敷、旧東海道の消失地点を望む。


原野谷川土手にて
原野谷川土手にて。雑草と見紛うショウリョウバッタ。


旧東海道 掛川市原川
同心橋東詰、旧東海道出現地点より望む江戸方の旧東海道。


和田岡村・原谷村道標
和田岡村・原谷村道標。表面に「是従和田岡村 原谷村ヲ経テ森町ニ通ス 大正四年」と刻む。


北野天満宮
原川の北野天満宮。


北野天満宮
北野天満宮は学問の神様、入試合格・学業上達の絵馬が奉納されていた。


和田岡・原谷村道
原川より和田岡・原谷方面へ至る道。


割烹旅館椎の木
割烹旅館椎の木。


片浜屋
”方浜屋”と”割烹旅館椎の木”が並ぶ原川の旧東海道。かつての原川は間の宿で立場を置き、薬師餅とタニシのむき身が名物だった。


旧東海道 掛川市原川
原川の家並み。


原川薬師金西寺
原川薬師こと金西寺。薬師瑠璃光如来を本尊とする。門前には薬師餅を売る茶店や酒屋等が軒を連ね、行き交う旅人で賑わったという。


原川の松並木
原川東外れの松並木。


原川の松並木
松並木の合間向こうに田園が広がる。


原川の松並木
善光寺付近の松並木。


椎の木茶屋
松並木が途切れたところに椎の木茶屋。掛川藩主太田備中守の休息所を前身とする茶屋で、かつて同心橋袂に立っていた椎の木に因み屋号が名付けられたという。 旧東海道をウォーキングしてここで昼飯というのも乙なものだが、とっくに昼飯時を過ぎて眺めるだけで…。

椎の木茶屋
https://www.nande.com/siinoki/


岡津善光寺
同心橋西詰にある善光寺と仲道寺。現地解説板によれば享保18年(1733年)善光寺境内に堂を建て、正法寺(掛川市高御所)の和尚を招き開かれたのが仲道寺とのこと、つまり先に善光寺がここにあったらしい。信州の名刹善光寺と同名の寺が何故ここにあるのか沿革がはっきりしないが、阿弥陀堂に祀る阿弥陀仏は平安時代の武官、坂上田村麻呂の守り本尊と伝わる。


旧東海道 岡津
善光寺・仲道寺前を行く旧東海道。


善光寺橋
垂木川に架かる善光寺橋。東海道分間絵図には”つな川はし 十五マ”と記され木橋が描かれている。


善光寺橋東詰
善光寺橋東詰、垂木川に沿って旧東海道が延びる。


掛川聖書バプテスト教会
旧東海道より掛川聖書バプテスト教会と東名高速の高架橋を望む。


旧東海道 綱川
綱川公会堂付近、旧東海道と綱川(現 掛川市領家)の家並み。


旧東海道 沢田ICの消失地点
旧東海道は掛川バイパスで寸断。


沢田IC南交差点
寸断された旧東海道は沢田I.C南交差点で出現し東へ延びる。


高松神社
沢田I.C南交差点付近にある高松神社。旧沢田村(現 掛川市沢田)の鎮守。


旧曽我鶴酒造
旧曽我鶴酒造の酒造場。曽我鶴酒造は慶応3年(1867年)の創業で、平成9年(1997年)に休業。現在、曽我鶴のブランドは駿河酒造場(静岡市駿河区)が受け継いでいる。


旧曽我鶴酒造
旧曽我鶴酒造前を行く旧東海道。


平松商店
細田の旧東海道沿いにある平松商店。


平松商店02
平松商店は大正4年(1915年)創業、あられ・せんべいを専門とする製造販売店。手作りのあられを購入しました。


細沢公会堂
平松商店から旧東海道を江戸方へ約150m、細沢公会堂がある。この公会堂、付近の地名である細田と沢田を合わせて名付けられたと思われる。現在は西から沢田、細田の順なのだが、東海道名所記(万治2年、1659年頃刊)には東から鯖田(さばた、沢田村を指す)、狭井田(さいだ、細田村を指す)とあり、東海道分間絵図(元禄3年、1690年刊)には”さいだ”と表記されるのみだが、東海木曽両道中懐宝図鑑(明和2年、1765年初版)を見てもやはり東から沢田、さい田と家並みが描かれている。そこで文化3年(1806年)刊の東海道分間延絵図を見てみると、現在と同じく西から澤田、細田の順に描かれており、これだけ見れば江戸時代を通して何らか変遷があったようにみえる。しかし地名がそう転々とするだろうか、私的な推測に過ぎないが、細田・沢田は仮名で”さいだ”と”さハだ”に表記でき、”い”と”ハ”はくずし字で書かれると形がよく似ているため、誤読する可能性は高い。作者が誤読し混同したとも思える。


たばこや
細田の東端付近、たばこや商店。


旧東海道 和光橋北詰
和光橋北詰より江戸方の旧東海道。


大池の名残松
大池の名残松。


蓮祐寺
掛川市長谷の旧東海道沿いにある蓮祐寺。


大池一里塚跡
蓮祐寺の門前にある大池一里塚跡の道標。北塚は大池村内、南塚が長谷村地内に存在した一里塚だが両塚とも現存せず。江戸日本橋から59里目(約232km)、京三条大橋からは59番目で実測約285km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。


旧東海道 大池(末広町)
大池(末広町)の旧東海道。この辺り、元禄3年(1690年)の東海道分間絵図に”かわだ”という路村が表記されているが、付近に旧地名であろう”かわだ”を見出すことはできなかった。


津島神社
大池(末広町)に鎮座する津島神社。


宗心寺
大池(橘町)にある宗心寺。


白山神社
大池(橘町)に鎮座する白山神社。


西掛川駅前
西掛川駅前を行く旧東海道。


西掛川駅
天竜浜名湖線、西掛川駅。単式ホーム1面に待合所を設けるだけの無人駅。


旧東海道 大池(鳥居町)
大池(鳥居町)の家並み。


倉真川と大池橋
倉真川に架かる大池橋。この辺りの倉間川は古く二瀬川と呼ばれ、東海道の往来は土橋によるものだった。掛川誌稿(文化・文政年間編纂)には長さ二九間余り(約52m)、幅三間一尺余り(約5.7m)の土橋と記され、現在の大池橋より西袂を北向きに架けられていたと思われる。


大池橋西詰
大池橋西詰、大池橋交差点を橋上から望む。かつて大池橋西詰は旧東海道から秋葉山本宮へ至る秋葉道が分岐した場所で、秋葉道入口には明和6年(1769年)建立の常夜灯2基、安永9年(1780年)建立の青銅製鳥居があり、多くの参詣者が往来し賑わった。嘉永7年(1854年)常夜灯と鳥居が大地震により倒壊、後に木製の鳥居に建て替えられ、明治24年(1891年)掛川森往還の開通に伴い移転、昭和8年(1933年)道路拡幅により撤去された。


秋葉神社掛川遥斎所
旧秋葉道筋に設けられる秋葉神社掛川遥斎所。平成21年本宮御鎮座千三百年記念事業として社殿が改築された。


掛川一ノ鳥居の扁額
掛川一ノ鳥居の扁額。「正一位秋葉神社」の文字は徳川慶喜の揮毫。


秋葉神社掛川遥斎所
秋葉神社掛川遥斎所より大池橋。ここ道路上に二代目の掛川一ノ鳥居があったのだろう。初代はおそらく大池橋交差点の北側、掛川遥斎所の駐車場辺りが跡地。


旧東海道 二瀬川
倉真川を渡れば二瀬川の町並み。東海道分間絵図には”ふちのえ”とある。


岡嶋屋
二瀬川の旧東海道筋にある岡嶋屋。屋号の看板から察するに相当な老舗と見受けるが、何を商いにしていたのか。


旧東海道 二瀬川
遥か前方、掛川城天守が姿を現す。ようやく掛川城下へ。


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掛川宿

Tokaido26_Kakegawa.jpg
東海道五十三次之内掛川 秋葉山遠望
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「掛川宿」より引用


【2016年6月25日(土)旧東海道 掛川宿】
2006年の大河ドラマ”功名が辻”の主人公山内一豊とその妻千代、上川隆也と仲間由紀恵が主役を好演し、脇を固める信長役の舘ひろしと秀吉役の柄本明、そして家康が西田敏行、今思えば家康=西田敏行はハマり役だった。あれから10年も経つのだと、改めて時の流れの早さを実感する。
山内一豊が家康の関東移封後に居城とした掛川城、その城下町として発展してきたのが掛川で、逆川を境に右岸側が掛川城を中心にする武家町、左岸側に東海道が東西に通り宿場町を形成し、東海道五十三次26宿目の宿場町として賑わった。天保14年(1843年)当時の人口3443人、家数960軒、うち本陣が中町浅羽屋本陣と連雀町沢野屋本陣の2軒、脇本陣なし、旅籠屋30軒。家数に占める旅籠屋の割合が他の宿場と比して極端に少なく、飯盛女もほとんどいなかったらしい。京方より十九首町・下俣町・十王町(西町の付属)・西町・中町・連雀町・仁藤町・木町(喜町)・新町と続く町並みで、東海道に沿う表町の他に、瓦町・塩町・肴町・紺屋町・研屋町が裏町や横町を構成、宿場は13町で成立していた。歌川広重は「東海道五十三次之内掛川 秋葉山遠望」の題を付け、遠く秋葉山を背景に、二瀬川(現 倉真川)に架かる大池橋の様子を描いている。名物は白酒、名産は葛布(くずふ)と刺し足袋。




逆川橋
逆川に架かる逆川橋。大正期以前の逆川は橋の上流部から北方向に流れていたため、逆川橋は存在しなかった。


逆川と掛川城
逆川橋より掛川城を遠望。


掛川宿 十九首町
大タカ時計店前のY字路を左に分かれる道が旧東海道、ここから掛川宿西端の十九首町となる。かつては宿京方出入口の西見付が設けられていた。


掛川宿 十九首町
十九首町の家並み。地内に平将門をはじめとする19名の首が葬られたとされる塚があり、これが町名の由来。


東光寺門前
東光寺門前、十九首町東端の旧東海道。


東光寺と成田山遥拝所
十九首町にある東光寺と成田山遥拝所。東光寺の始まりは養老年間(717年~724年)行基が開基したと伝わる真言宗の草庵にあり、天慶の乱(940年)後に平将門をはじめ19人の首級がこの地に葬られ、この草庵をもとに平将寺を建立。天文年間(1532年~1555年)になって曹洞宗に改宗し、東光寺と名を改めた。本尊は将門の念持仏とされる薬師如来。

東光寺本堂の左隣りが成田山の御堂、明治10年(1877年)成田山新勝寺より不動明王尊を勧請して不動堂を建立、大正14年(1925年)新勝寺より遠州唯一の遥拝所として認可されたという。そもそも新勝寺は平将門を鎮圧するため、不動明王尊を奉じて不動護摩の儀式を行ったことに起源を持つ。関東では有名な話だが、将門を祭神に祀る神田明神を参拝した者は成田山新勝寺を参拝してはいけないとの迷信があるほどに因縁の関係。将門の首が葬られたとされる場所に、その祟りを恐れず成田山の遥拝所を設けた勇気には恐れ入る。ある意味ここは隠れたパワースポットなのかもしれない。


十九首塚
将門をはじめ19人の首級が葬られたことを伝える十九首塚。昔は19基の首塚があったが、土地開発のため徐々に数が減り、将門のものとされる一基だけが残っていたという。現在は将門の首塚を中心に18名の名を刻んだ石碑を周りに配している。平将門の首塚は大手町にあるものが有名だが、掛川にもあったとは。


血洗川
東光寺の南側を流れる小川。ここが将門をはじめ19人の首級を洗ったとされる血洗川なのだろう。


キネマ食堂
十九首町の東隣り、下俣町へ入る。右手にキネマ食堂。


掛川宿 旧十王町
下俣町の次は旧十王町。西町に付属する町で、旧東海道から南方にある十王堂に町名の由来がある。


十王橋
西町と十王町の境をなした十王橋。かつてはここが掛川城下への京方出入口、枡形を設け北側に西番所が置かれていた。


掛川城蕗の門
円満寺入口に建つ掛川城蕗の門。元は蓮池の畔にあった四脚門で、明治5年(1872年)円満寺が買い取り、現在地に移築された。


掛川城蕗の門
蕗の門より旧東海道を望む。


掛川宿 旧瓦町
瓦橋へ続く道。蛇行する白線に芸術性すら感じる。道筋は旧瓦町にあたる。


掛川宿 中町
ここから中町。


中町交差点
中町交差点。南東角付近が問屋場跡にあたる。


清水銀行掛川支店
中町交差点北東角にある清水銀行掛川支店。


清水銀行掛川支店
清水銀行の壁には山内一豊と千代。


清水銀行掛川支店
清水銀行は建物もさることながら、入口に「札差」の木札を掲げ、城下町を意識した粋な計らい。


掛川宿問屋場跡
中町より京方の中町交差点を望む。写真左手辺りが問屋場跡。


グランカーム掛川中町
中町に建つグランカーム掛川中町。中町にあった浅羽屋本陣跡がどこなのか、標識等が無くはっきりしないのだが、中町中央の東海道筋南側にあったことが東海道分間延絵図からわかる。推定地にあたる建物の敷地面積を地図で見る限り、ここが浅羽屋本陣跡と思える。


掛川宿 中町
グランカーム掛川中町前を行く旧東海道。


連雀西交差点
中町と連雀町の境、連雀西交差点。


掛川宿 連雀町
連雀町の町並み。


掛川本陣通り
連雀町の旧東海道筋北側にある掛川本陣通り。様々な飲食店の小店舗が集まり屋台村の様相。その名に示す通りここが沢野屋本陣跡とされる。

掛川本陣通り
http://honjin-douri.com/


掛川宿 連雀町
沢野屋本陣跡前の旧東海道。


連雀名店街
連雀名店街。シャッターを下ろす店が多く、行き交う人も少ない。


連雀橋
連雀橋上より、連雀町と仁藤町境を流れる小川。


掛川宿 仁藤町
仁藤町の町並み。


天然寺
仁藤町北側にある浄土宗泉洞山天然寺。


ゲイスベルト・ヘンミィの墓
天然寺にはゲイスベルト・ヘンミィの墓がある。この人はオランダ使節団の一員で、寛政10年(1798年)11代将軍家斉との謁見を終え、長崎に帰る途次に掛川宿で病気が悪化して死亡、天然寺に葬られた。


掛川宿 仁藤町
仁藤町東端、旧東海道は食堂割烹大和田がある交差点を右折。


桂花園
食堂割烹大和田の向かいには”くず湯”の老舗、桂花園。ここで製造販売する丁葛(ちょうくず)を何種類か購入する。桂花園と大和田前の交差点北東角辺りが高札場跡で、かつては札之辻と呼ばれた。


札之辻
北側より札之辻を望む。右手前の建物が桂花園、旧東海道は右から奥方向に曲がる。


掛川宿 木町(喜町)
仁藤町から木町(喜町)へ入る。旧東海道は手前からシミズ写真館を過ぎて左折。


掛川宿 木町(喜町)
木町江戸方の鉤の手。旧東海道は右から奥に進み城下出入口の木戸跡へ。


木町・新町境の木戸跡
木町と新町の境、江戸方城下出入口の木戸跡。枡形の道筋が残る。左手前辺りに番所が設けられていた。


東海道分間延絵図 木町・新町
東京国立博物館 東海道分間延絵図_13巻之内5(画像番号E0017463)を基に作成
東海道分間延絵図で木町・新町辺りを見てみる。矢印方向を撮影したのが上写真。何となく往時の様子をイメージできるだろうか。


掛川宿 旧新町
新町七曲がり。城下出入口の枡形から新町・葛川境まで七曲りと呼ばれ、旧東海道は連続して鉤の手に曲げられている。


掛川宿 旧新町
そねめん前、旧新町を行く旧東海道。


掛川宿 旧新町
秋葉常夜燈が残る鉤の手。旧東海道は手前から右(江戸方)。


東伝寺
旧新町江戸方端にある東伝寺。


掛川宿 旧新町
旧東海道は左から奥(江戸方)。この辺りが宿江戸方出入口の見付跡。


旧東海道 葛川
掛川宿を出て東進、葛川を行く。


掛川宿の散策を終えて、まだ日没までには時間があったので掛川城を見学しておくことに。

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掛川城

掛川城の前身は明応年間(1492年~1501年)に築かれたとされる守護大名今川家の城で、掛川城より約500m北東、天王山龍華院が建つ地がその城址にあたり、現在は掛川古城と呼ぶ。今川家の遠江支配が拡大するに伴い、永正年間(1504年~21年)新たに築かれたのが今に見る掛川城のはじまり。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が斃れると、武田信玄による駿河侵攻がはじまり、永禄11年(1568年)義元の嫡子氏真は遠江に逃げ掛川城に籠城、翌年に徳川家康が掛川城を攻めて開城させ、徳川家重臣の石川家成が入城し武田家の遠江侵攻に対する拠点とした。天正18年(1590年)家康が関東移封になると、代わって山内一豊が入城、天守を築いて城郭の拡張と城下の整備を行ない、現在に見られる縄張りの基本部分を完成させた。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後に一豊は土佐へ移封、後に徳川家康の異父弟松平定勝が入城し掛川藩が立藩する。

江戸時代末期の嘉永7年(安政元、1854年)太田資功が掛川藩主の時、安政東海地震により天守をはじめとする建造物の大半が損壊、二の丸御殿と太鼓櫓、蕗の門、玄関下門は修復再建されたが、天守等は再建されることなく明治維新を迎え廃城に。二の丸御殿は女学校や町役場などに用途を変えながら存続し、昭和47年(1972年)から3年かけて保存修理を行ない、昭和55年(1980年)国の重要文化財に指定、現在は内部を一般公開している。一方の天守は安政の大地震から約140年を経た平成6年(1994年)、木造建築3層4階の建物が復元され、続いて翌年に大手門を復元した。太鼓櫓は荒和布(あらめ)櫓跡に場所を変えて健在、蕗の門は円満寺(掛川市掛川)に、玄関下門は油山寺(袋井市村松)に移築され現存している。




松尾橋と掛川城
松尾橋より望む掛川城。独立丘陵上に立地していることがよくわかる。


こだわりっぱ
登城前に”こだわりっぱ”に立ち寄り、茶そばを食べて腹ごしらえ。


二の丸御殿・玄関
まずは国の重要文化財に指定される二の丸御殿を見学に。ここが御殿入口の玄関。城郭御殿は全国に4ヶ所(二条城二の丸御殿、川越城本丸御殿、高知城本丸御殿、掛川城二の丸御殿)しか残っていない。


二の丸御殿
まずは御殿周囲を回ってみる。ここは記念写真スポット。


二の丸御殿と天守
二の丸御殿と天守。


二の丸御殿・勝手台所井戸跡
御殿最奥部、勝手台所の井戸。勝手台所部分の建物は現存しておらず井戸だけが残っている。


二の丸御殿・物見の松
御殿敷地にある物見の松。塚上に三代目とある松の幼木を植えている。由来がよくわからいが、二の丸の二重櫓跡辺りにあり、何らか関連があるのかも。


二の丸御殿のカノコユリ
御殿敷地に咲くカノコユリ(鹿の子百合)。花言葉は”荘厳、慈悲深さ”だとか。


二の丸御殿・御談の間
玄関を入って広間の奥にある御談の間。来客の取次ぎ部屋で、談合や会議等にも使われた。


二の丸御殿・三の間
三の間。藩主や家老に用向きの場合、まずはここに通されて用件を済ませた。


二の丸御殿・二の間
二の間。藩主への用件取次ぎや身辺を警護する役人が控えた御用部屋で、三の間で処理できない重要な用件はここで取り扱った。


二の丸御殿・次の間
次の間。藩主に謁見できる身分の高い者だけが通された。右奥が三の間で、左奥は藩主が政を行う御書院上の間。


二の丸御殿・次の間と御書院上の間
次の間と御書院上の間。


二の丸御殿・小書院
藩主の休憩室にあたる小書院。


長囲炉裏の間
長囲炉裏の間。藩主やその奥方が使用した部屋。現在は御殿の西側最奥部であるが、往時は写真左奥に勝手台所へ続く通路があった。


長囲炉裏の間天井
長囲炉裏の間で天井を見上げると「桔梗」紋と「違い鏑矢」紋が彫られている。これは掛川藩最後の藩主家太田氏の家紋で、太田氏は2つの家紋を併用していた。


長囲炉裏の間
手前から長囲炉裏の間・次の間・小書院。


二の丸御殿・足軽目付
御殿東側最奥部の足軽目付。足軽の監督者が常駐した部屋。往時は写真左隣りに割場という場所があったが、現在は失われている。おそらく割場は足軽の仕事を割り振った場所かと思う。


二の丸御殿・大目付
藩内の監察・警備等を担った大目付の部屋。


二の丸御殿・御用人部屋
藩の経理や庶務関係を担う用人が使用した部屋。


二の丸御殿・賄方
二の丸御殿の最後は賄方で。ここは藩の経理事務を処理した部屋。木獅子等が展示されている。


三日月堀と掛川城天守
御殿を出て天守へ向かう途中。天守をバックに三日月堀。


掛川城本丸
掛川城本丸。クマとウサギにかたどられた植木を中心に花壇を設けている。


本丸より天守
本丸より望む天守。


本丸より天守
当初の御殿は本丸に設けていたが、老朽化や災害に遭ったことで二の丸に移されたという。おそらく御殿を再建するにあたり、敷地が手狭なため建物の拡張が難しく、二の丸に御殿を移すことにしたのではと、現場を訪れ勝手な私見。


掛川城天守
石段を登って天守へ。


掛川城天守
天守下門跡。前回訪問時には固く閉ざされていた冠木門、本日は開館時間に来れたので開門している。


霧吹き井戸
天守丸に残る霧吹き井戸。永禄12年(1569年)今川氏真が掛川城に籠城して徳川家康に抗ったとき、この井戸から発生した霧が一帯に立ち込め、徳川方の攻撃から城を守ったとの伝説がある。


天守より本丸
天守より本丸を望む。


天守より二の丸御殿02
天守より二の丸御殿。


掛川城大手門
平成7年(1995年)に復元された大手門。元位置より50m程北側に建つ。


掛川城大手門
大手門と大手門番所。


掛川城夕景
掛川城夕景。


掛川城夕景
ライトアップされ夜空を背景に映える天守。


掛川城夕景
太鼓櫓と月。


大手門夜景
大手門夜景。


掛川城夜景
薄く染まる茜空が戦雲急を告げるかのよう。


撮影日:2016年7月16日(土)
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北海道新幹線 新函館北斗駅

久々に北海道の記事を。今年3月26日、北海道新幹線(新青森駅~新函館北斗駅間)が開業、ようやく北海道と本州が新幹線で繋がった。思い返せば、私が旭川市から上京した25年前、陸路で帰郷したときには東北新幹線やまびこ号で上野駅から盛岡駅まで乗車時間約3時間半、盛岡駅で”特急はつかり”に乗り換えて函館駅まで乗車時間約4時間半、上野駅から函館駅までの全行程で所要時間が8時間以上の長旅だった。その当時、函館に宿泊するほど金銭的余裕が無かった私は、函館駅を23時半に出る快速ミッドナイトに乗車して、翌早朝に札幌駅に着く0泊2日の強行軍だったことを思い出す。それが今や上野駅から”はやぶさ号”に乗車すれば新函館北斗駅まで4時間7分で着いてしまうのだ。時代の流れを感じずにはいられない。


渡島大野駅を前身にする北海道新幹線の新函館北斗駅。新旧の変遷がわかるように、旧渡島大野駅の構造物を記してある。


はやぶさ1号
北海道新幹線開業から約4ヶ月経った7月31日、上野駅6:38発の”はやぶさ1号”に乗車し、定刻通りの10:58新函館北斗駅着。写真は新函館北斗駅に到着した”はやぶさ1号”。上野駅から4時間ちょっと、北海道にいる実感が湧かない。


はやぶさ1号
車体側面には「Treasureland TOHOKU JAPAN」のロゴマーク。


新函館北斗駅
新函館北斗駅より札幌方面の新幹線鉄路。この先は15年後の2031年に札幌駅まで延伸開業予定で、着々と工事が進められているはず。


新函館北斗駅
新函館北斗駅12番線ホーム。


新函館北斗駅駅舎内
改札を出て新函館北斗駅駅舎内を見物。


新函館北斗駅駅舎内
新幹線停車駅らしい近代的な雰囲気。


田んぼアート
駅北口の田んぼアート。色の異なる稲を使い北斗市公式キャラクターの”ずーしーほっきー”を描いてる。


新函館北斗駅駅前
駅南口側、道路が整備されただけの田舎な印象。これからどういった発展をみせていくのだろう。


新函館北斗駅新幹線用ホーム
駅舎内よりガラス越しに新幹線ホームを眺め。11・12番線が新幹線用ホーム。


新函館北斗駅駅舎
新函館北斗駅駅舎。元は函館本線の渡島大野駅というローカルな無人駅だった。今や近代的な駅舎が建設され、新幹線や特急が停車する主要駅に。


三橋美智也生誕の地碑
駅南口前にある三橋美智也生誕の地碑。


北斗おもてなしステージ
駅前に設けられた北斗おもてなしステージ。


北斗おもてなしステージ03
ステージ上では北斗浜分太鼓の子供たちが和太鼓を一生懸命に叩き、息の合った力強い演奏で観光客をもてなす。


北斗おもてなしステージ02
終盤では激しく打たれる和太鼓に合わせてピーヒャララと笛の音色、そして「らっせらー、らっせらー、らっせらっせらっせらー」みたいな掛け声に、ステージを下りて軽快なステップで踊る演者。北斗浜分太鼓のステージは最高潮に。


”どこでもユキちゃん”と”ずーしーほっきー”
北海道新幹線開業PRキャラクターの”どこでもユキちゃん”と、北斗市公式キャラクターの”ずーしーほっきー”。”どこでもユキちゃん”は雪だるまがモチーフの可愛らしいキャラだが、”ずーしーほっきー”は一見に薄気味悪さを感じるインパクトあるキャラ。”ホッキ貝の握り寿司”がモチーフだという。


ずーしーほっきー
観光客に愛嬌を振りまくをふりまく”ずーしーほっきー”。


北海道おもてなしステーション
北海道おもてなしステーションを後にして。


新函館北斗駅構内
本日の目的地、函館駅へ向かうべく新函館北斗駅の改札を入り在来線ホームに。函館行きの普通列車が出発を待つ。


新函館北斗駅構内
駅構内跨線橋より函館駅方面。


快速はこだてライナー
12:34発の”快速はこだてライナー”に乗車して函館駅へ向かう。


快速はこだてライナー
乗車時間15分ほどで函館駅に到着。


快速はこだてライナー
函館駅ホームに停車する”快速はこだてライナー”。前回訪れた8ヶ月前、緑の特急スーパー白鳥が停車する光景が思い出される。もうその姿を函館駅で見ることはできないのか…、と思いきや。


函館駅車両基地
函館駅構内より函館湾方向へ目を向けると、車両基地には見覚えのある緑の顔にシルバーの車両。


789系
現役時代に特急スーパー白鳥として活躍した789系。どんな転身を遂げるのだろうか。


函館駅
8ヶ月ぶりに訪れた函館駅。大谷翔平は今や北海道の顔。


山三道下商店
函館朝市の一角にある山三道下商店で昼飯に。


がごめイカ刺し丼
がごめイカ刺し丼を頂こう。”がごめ”とは函館近海に生育する昆布のことで、強い粘り気に特徴がある。これは”がごめ”に”イカ刺し”と、地元の食材を使ったご当地丼ぶり。函館へ訪れた際には是非ともご賞味を。


撮影日:2016年7月31日(日)
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函館市元町と末広町

函館駅前から市電に揺られて十字街へ。函館山北東麓、末広町・元町の坂道を散歩しながら函館の歴史を感じよう。




函館市国道元標
函館駅前交差点北角にある函館市国道元標。国道5号(赤松街道)、278号(漁火通)、279号(海峡通)の起点。


函館駅前停留所
函館駅前停留所から市電に乗車し。


十字街停留所
十字街停留所で下車。


十字街の操車塔
十字街の操車塔。交差点での電車信号現示とポイントの切り替えを遠隔操作する所で、昭和14年(1939年)に設けられた。昭和44年(1969年)当時に6基の操車塔があったが、現存するのはこの1基のみ。もちろん今は自動化され使われていない。


箱館ハイカラ號
操車塔横を行く箱館ハイカラ號。


箱館ハイカラ號
十字街停留所に停車する箱館ハイカラ號。


十字街
十字街停留所より末広町方面。函館市電はここで二股に分かれ、直進方向は函館どつく前、左折方向が谷地頭へ至る。
ここからは徒歩で元町・末広町方面に。


函館市文学館
石川啄木などの資料を展示する函館市文学館。


旧金森洋物店
旧金森洋物店。現存する建物は明治13年(1880年)の建築。文久3年(1863年)箱館へ渡り実業家として活躍した初代渡邉熊四郎により開店、煉瓦を使用した洋風不燃質店舗で、明治40年(1907年)の大火で周囲の建物が焼失する中、この店舗のみが難を逃れたという。大正14年(1925年)森屋百貨店に名を改め通り向かいに移転、現在は郷土資料館として一般公開している。


旧金森洋物店
旧金森洋物店1階店部分。舶来製の小間物や雑貨品を商った。


旧金森洋物店
旧金森洋物店2階。


旧金森洋物店模型
2階に展示する模型。往時の賑わいを再現。


旧金森洋物店
人力の荷物用エレベータ。2階は倉庫として使われたのだろう。


末広町停留所
旧金森洋物店の最寄り、末広町停留所。


日和坂
旧金森洋物店の西側、函館山に向かって上る日和坂。


日和坂
日和坂は坂上より港が一望でき、空模様をよく判断できることに坂名の由来がある。


箱館元町の宿 饗場
日和坂と基坂の間、弁天末広通沿いにある”箱館元町の宿 饗場”。建物は明治42年(1909年)住宅兼診療所として建築、大正6年(1917年)以降は住宅や寮、下宿として使われた。現在は建築当初の姿に復元され、宿泊施設になっている。


基坂
江戸時代、坂上に箱館奉行所があった基坂。当時は”お役所坂”や”御殿坂”とも呼ばれたという。明治になって坂下に札幌本道(明治初期に函館~札幌間に敷設された馬車道)の起点を示す道路元標が設けられ、基坂の名が付いた。


旧イギリス領事館04
基坂の途中にある旧イギリス領事館を見学に。

安政6年(1859年)箱館開港に伴い称名寺にイギリス領事館が開かれ、文久3年(1863年)元町にはじめて領事館が建てられた。火事によって度々焼失と移転再建を繰り返し、大正2年(1913年)に再建されたのが現在の建物。昭和9年(1934年)領事館を閉鎖、後は函館市立病院の付属施設として利用され、戦時中に憲兵隊が一時接収するが昭和54年(1979年)まで存続した。同年に函館市有形文化財に指定、現在は開港記念館として一般公開する。


旧イギリス領事館03
領事執務室。幕末から明治にかけて領事を務め、市民に”豆コンシロ(consul=領事)”の愛称で親しまれたリチャード・ユースデンのパネル展示がある。双眼鏡で外の様子をうかがう御仁はユースデン領事だろうか。


旧イギリス領事館家族居室
領事の家族が暮らしたのであろう家族居室。


旧イギリス領事館と函館山
旧イギリス領事館と函館山。


基坂
基坂上より函館港を望む。


箱館奉行所跡
基坂上にある元町公園が箱館奉行所跡。五稜郭に移されるまでここにあった。


旧函館区公会堂
元町公園の最奥に建つ旧函館区公会堂。明治42年(1909年)起工、翌年に竣工した建物で、明治44年(1911年)8月に皇太子殿下(大正天皇)行啓の折に宿舎として使われた。昭和32年(1957年)からは函館市公会堂となり、現在は市重要文化財に指定されて一般公開すると共に、コンサートホールとしても使われている。


旧函館区公会堂 大食堂
玄関を入って奥に大食堂。


旧函館区公会堂 商業会議所事務室
商業会議所事務室。


旧函館区公会堂 予備室
皇太子殿下(大正天皇)の御召替室として使用された予備室。


旧函館区公会堂 御寝室
皇太子殿下(大正天皇)の宿所に使われた御寝室と御座所(下写真)。平成元年(1989年)には天皇・皇后両陛下が行幸啓の際、休憩所に使用された。


旧函館区公会堂 御座所
こちらが御座所。家具・調度品・壁紙・シャンデリア・天井中心飾りは往時のもの。


旧函館区公会堂 大広間
2階の大広間。開館当時は公共の集会所で音楽会や舞踏会をはじめ講習会、美術展などに使用された。現在は年30回ほどコンサートを開催している。


旧函館区公会堂
2階バルコニーからの眺め。函館港を一望。


撮影日:2016年7月31日(日)
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
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川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
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新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
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鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
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【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
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日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
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京都三条大橋

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