袋井から掛川に
【2016年6月25日(土)旧東海道 袋井宿→掛川宿】
袋井宿東外れで旧東海道は松並木を残す街道に。途中、久津部(現 袋井市国本)の家並みを経て再び松並木の街道を歩き、旧北原川村の名栗立場(現 袋井市国本)へ。久津部と名栗は花筵(花茣蓙)を名産とした。名栗を過ぎれば袋井・掛川市境の原野谷川を同心橋で渡河、その東袂から原川(現 掛川市原川)の町並みが続く。原川は原川薬師こと金西寺の門前町、薬師餅とタニシのむき身が名物で、こちらにも立場が設けられていた。原川東外れから松並木の街道、垂木川を越えて綱川(現 掛川市領家)、沢田(現 掛川市沢田)、細田(現 掛川市細田)、大池(現 掛川市大池)を通り抜け大池橋で倉真川を渡河、二瀬川まで来れば掛川城は近い。

久津部(現 袋井市国本)西外れの旧東海道から。

久津部に残る明治37年(1904年)の油山寺道標。「あぶら山ミち二十七丁」と刻む。

久津部を行く旧東海道。旧久津部村は東・中・西の3組からなり、花筵(花茣蓙)が名産だった。

国本の八幡神社参道入口。「八幡社入口」と刻む道標が残る。

同じく八幡神社参道入口にある村松・宇刈道標。大正4年(1915年)建立。

八幡神社へ向かう参道右側にある用行義塾跡。明治5年(1872年)民間有志の共同出資で設立した袋井で最初の学校で、郷学校と言われた。

久津部の秋葉山常夜燈。昭和28年(1953年)久津部地区の村中安全を祈願して建立された。

大正4年(1915年)建立の油山寺道標。

袋井東小学校前が久津部一里塚跡。江戸日本橋から60里目(約236km)、京三条大橋からは58番目で実測約281km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

袋井東小学校の敷地一角にある復元久津部一里塚。小ぶりな復元一里塚だが、塚上に松を植えてそれらしい佇まい。

袋井東小学校の東辺に参道を延ばす妙日寺。日蓮宗の古刹。日蓮の先祖、豪族貫名氏の館跡と伝わる。

久津部と名栗(現 袋井市国本)の間に残る松並木。その根元には土盛りが見られる。

松並木の街道は何度歩いても風情が感じられていい。

富士浅間宮の参道入口に立つ赤鳥居。天正18年(1590年)地頭の本間源三郎重泰が建立した。

江戸時代には赤鳥居の向こうに富士浅間宮の社殿が見通せたとか。

名栗の西側に残る松並木。

松並木の路傍にて。梅雨時期だけに紫陽花が生き生きと。

名栗京方入口、「名栗の花茣蓙」の駕籠風看板が旅人を迎える。

花茣蓙(はなござ)は花筵(はなむしろ)とも呼ばれ、花模様などに織られた茣蓙。東海道を往来する旅人が珍しがって買って行ったという。ここ名栗と西隣り久津部の名産品だった。

名栗の旧東海道筋にて。

同心橋西詰、旧東海道は写真右方向に進み土手に消える。

原野谷川に架かる同心橋。ここが袋井市と掛川市の境。

同心橋より右岸河川敷、旧東海道の消失地点を望む。

原野谷川土手にて。雑草と見紛うショウリョウバッタ。

同心橋東詰、旧東海道出現地点より望む江戸方の旧東海道。

和田岡村・原谷村道標。表面に「是従和田岡村 原谷村ヲ経テ森町ニ通ス 大正四年」と刻む。

原川の北野天満宮。

北野天満宮は学問の神様、入試合格・学業上達の絵馬が奉納されていた。

原川より和田岡・原谷方面へ至る道。

割烹旅館椎の木。

”方浜屋”と”割烹旅館椎の木”が並ぶ原川の旧東海道。かつての原川は間の宿で立場を置き、薬師餅とタニシのむき身が名物だった。

原川の家並み。

原川薬師こと金西寺。薬師瑠璃光如来を本尊とする。門前には薬師餅を売る茶店や酒屋等が軒を連ね、行き交う旅人で賑わったという。

原川東外れの松並木。

松並木の合間向こうに田園が広がる。

善光寺付近の松並木。

松並木が途切れたところに椎の木茶屋。掛川藩主太田備中守の休息所を前身とする茶屋で、かつて同心橋袂に立っていた椎の木に因み屋号が名付けられたという。 旧東海道をウォーキングしてここで昼飯というのも乙なものだが、とっくに昼飯時を過ぎて眺めるだけで…。
椎の木茶屋
https://www.nande.com/siinoki/

同心橋西詰にある善光寺と仲道寺。現地解説板によれば享保18年(1733年)善光寺境内に堂を建て、正法寺(掛川市高御所)の和尚を招き開かれたのが仲道寺とのこと、つまり先に善光寺がここにあったらしい。信州の名刹善光寺と同名の寺が何故ここにあるのか沿革がはっきりしないが、阿弥陀堂に祀る阿弥陀仏は平安時代の武官、坂上田村麻呂の守り本尊と伝わる。

善光寺・仲道寺前を行く旧東海道。

垂木川に架かる善光寺橋。東海道分間絵図には”つな川はし 十五マ”と記され木橋が描かれている。

善光寺橋東詰、垂木川に沿って旧東海道が延びる。

旧東海道より掛川聖書バプテスト教会と東名高速の高架橋を望む。

綱川公会堂付近、旧東海道と綱川(現 掛川市領家)の家並み。

旧東海道は掛川バイパスで寸断。

寸断された旧東海道は沢田I.C南交差点で出現し東へ延びる。

沢田I.C南交差点付近にある高松神社。旧沢田村(現 掛川市沢田)の鎮守。

旧曽我鶴酒造の酒造場。曽我鶴酒造は慶応3年(1867年)の創業で、平成9年(1997年)に休業。現在、曽我鶴のブランドは駿河酒造場(静岡市駿河区)が受け継いでいる。

旧曽我鶴酒造前を行く旧東海道。

細田の旧東海道沿いにある平松商店。

平松商店は大正4年(1915年)創業、あられ・せんべいを専門とする製造販売店。手作りのあられを購入しました。

平松商店から旧東海道を江戸方へ約150m、細沢公会堂がある。この公会堂、付近の地名である細田と沢田を合わせて名付けられたと思われる。現在は西から沢田、細田の順なのだが、東海道名所記(万治2年、1659年頃刊)には東から鯖田(さばた、沢田村を指す)、狭井田(さいだ、細田村を指す)とあり、東海道分間絵図(元禄3年、1690年刊)には”さいだ”と表記されるのみだが、東海木曽両道中懐宝図鑑(明和2年、1765年初版)を見てもやはり東から沢田、さい田と家並みが描かれている。そこで文化3年(1806年)刊の東海道分間延絵図を見てみると、現在と同じく西から澤田、細田の順に描かれており、これだけ見れば江戸時代を通して何らか変遷があったようにみえる。しかし地名がそう転々とするだろうか、私的な推測に過ぎないが、細田・沢田は仮名で”さいだ”と”さハだ”に表記でき、”い”と”ハ”はくずし字で書かれると形がよく似ているため、誤読する可能性は高い。作者が誤読し混同したとも思える。

細田の東端付近、たばこや商店。

和光橋北詰より江戸方の旧東海道。

大池の名残松。

掛川市長谷の旧東海道沿いにある蓮祐寺。

蓮祐寺の門前にある大池一里塚跡の道標。北塚は大池村内、南塚が長谷村地内に存在した一里塚だが両塚とも現存せず。江戸日本橋から59里目(約232km)、京三条大橋からは59番目で実測約285km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

大池(末広町)の旧東海道。この辺り、元禄3年(1690年)の東海道分間絵図に”かわだ”という路村が表記されているが、付近に旧地名であろう”かわだ”を見出すことはできなかった。

大池(末広町)に鎮座する津島神社。

大池(橘町)にある宗心寺。

大池(橘町)に鎮座する白山神社。

西掛川駅前を行く旧東海道。

天竜浜名湖線、西掛川駅。単式ホーム1面に待合所を設けるだけの無人駅。

大池(鳥居町)の家並み。

倉真川に架かる大池橋。この辺りの倉間川は古く二瀬川と呼ばれ、東海道の往来は土橋によるものだった。掛川誌稿(文化・文政年間編纂)には長さ二九間余り(約52m)、幅三間一尺余り(約5.7m)の土橋と記され、現在の大池橋より西袂を北向きに架けられていたと思われる。

大池橋西詰、大池橋交差点を橋上から望む。かつて大池橋西詰は旧東海道から秋葉山本宮へ至る秋葉道が分岐した場所で、秋葉道入口には明和6年(1769年)建立の常夜灯2基、安永9年(1780年)建立の青銅製鳥居があり、多くの参詣者が往来し賑わった。嘉永7年(1854年)常夜灯と鳥居が大地震により倒壊、後に木製の鳥居に建て替えられ、明治24年(1891年)掛川森往還の開通に伴い移転、昭和8年(1933年)道路拡幅により撤去された。

旧秋葉道筋に設けられる秋葉神社掛川遥斎所。平成21年本宮御鎮座千三百年記念事業として社殿が改築された。

掛川一ノ鳥居の扁額。「正一位秋葉神社」の文字は徳川慶喜の揮毫。

秋葉神社掛川遥斎所より大池橋。ここ道路上に二代目の掛川一ノ鳥居があったのだろう。初代はおそらく大池橋交差点の北側、掛川遥斎所の駐車場辺りが跡地。

倉真川を渡れば二瀬川の町並み。東海道分間絵図には”ふちのえ”とある。

二瀬川の旧東海道筋にある岡嶋屋。屋号の看板から察するに相当な老舗と見受けるが、何を商いにしていたのか。

遥か前方、掛川城天守が姿を現す。ようやく掛川城下へ。
袋井宿東外れで旧東海道は松並木を残す街道に。途中、久津部(現 袋井市国本)の家並みを経て再び松並木の街道を歩き、旧北原川村の名栗立場(現 袋井市国本)へ。久津部と名栗は花筵(花茣蓙)を名産とした。名栗を過ぎれば袋井・掛川市境の原野谷川を同心橋で渡河、その東袂から原川(現 掛川市原川)の町並みが続く。原川は原川薬師こと金西寺の門前町、薬師餅とタニシのむき身が名物で、こちらにも立場が設けられていた。原川東外れから松並木の街道、垂木川を越えて綱川(現 掛川市領家)、沢田(現 掛川市沢田)、細田(現 掛川市細田)、大池(現 掛川市大池)を通り抜け大池橋で倉真川を渡河、二瀬川まで来れば掛川城は近い。

久津部(現 袋井市国本)西外れの旧東海道から。

久津部に残る明治37年(1904年)の油山寺道標。「あぶら山ミち二十七丁」と刻む。

久津部を行く旧東海道。旧久津部村は東・中・西の3組からなり、花筵(花茣蓙)が名産だった。

国本の八幡神社参道入口。「八幡社入口」と刻む道標が残る。

同じく八幡神社参道入口にある村松・宇刈道標。大正4年(1915年)建立。

八幡神社へ向かう参道右側にある用行義塾跡。明治5年(1872年)民間有志の共同出資で設立した袋井で最初の学校で、郷学校と言われた。

久津部の秋葉山常夜燈。昭和28年(1953年)久津部地区の村中安全を祈願して建立された。

大正4年(1915年)建立の油山寺道標。

袋井東小学校前が久津部一里塚跡。江戸日本橋から60里目(約236km)、京三条大橋からは58番目で実測約281km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

袋井東小学校の敷地一角にある復元久津部一里塚。小ぶりな復元一里塚だが、塚上に松を植えてそれらしい佇まい。

袋井東小学校の東辺に参道を延ばす妙日寺。日蓮宗の古刹。日蓮の先祖、豪族貫名氏の館跡と伝わる。

久津部と名栗(現 袋井市国本)の間に残る松並木。その根元には土盛りが見られる。

松並木の街道は何度歩いても風情が感じられていい。

富士浅間宮の参道入口に立つ赤鳥居。天正18年(1590年)地頭の本間源三郎重泰が建立した。

江戸時代には赤鳥居の向こうに富士浅間宮の社殿が見通せたとか。

名栗の西側に残る松並木。

松並木の路傍にて。梅雨時期だけに紫陽花が生き生きと。

名栗京方入口、「名栗の花茣蓙」の駕籠風看板が旅人を迎える。

花茣蓙(はなござ)は花筵(はなむしろ)とも呼ばれ、花模様などに織られた茣蓙。東海道を往来する旅人が珍しがって買って行ったという。ここ名栗と西隣り久津部の名産品だった。

名栗の旧東海道筋にて。

同心橋西詰、旧東海道は写真右方向に進み土手に消える。

原野谷川に架かる同心橋。ここが袋井市と掛川市の境。

同心橋より右岸河川敷、旧東海道の消失地点を望む。

原野谷川土手にて。雑草と見紛うショウリョウバッタ。

同心橋東詰、旧東海道出現地点より望む江戸方の旧東海道。

和田岡村・原谷村道標。表面に「是従和田岡村 原谷村ヲ経テ森町ニ通ス 大正四年」と刻む。

原川の北野天満宮。

北野天満宮は学問の神様、入試合格・学業上達の絵馬が奉納されていた。

原川より和田岡・原谷方面へ至る道。

割烹旅館椎の木。

”方浜屋”と”割烹旅館椎の木”が並ぶ原川の旧東海道。かつての原川は間の宿で立場を置き、薬師餅とタニシのむき身が名物だった。

原川の家並み。

原川薬師こと金西寺。薬師瑠璃光如来を本尊とする。門前には薬師餅を売る茶店や酒屋等が軒を連ね、行き交う旅人で賑わったという。

原川東外れの松並木。

松並木の合間向こうに田園が広がる。

善光寺付近の松並木。

松並木が途切れたところに椎の木茶屋。掛川藩主太田備中守の休息所を前身とする茶屋で、かつて同心橋袂に立っていた椎の木に因み屋号が名付けられたという。 旧東海道をウォーキングしてここで昼飯というのも乙なものだが、とっくに昼飯時を過ぎて眺めるだけで…。
椎の木茶屋
https://www.nande.com/siinoki/

同心橋西詰にある善光寺と仲道寺。現地解説板によれば享保18年(1733年)善光寺境内に堂を建て、正法寺(掛川市高御所)の和尚を招き開かれたのが仲道寺とのこと、つまり先に善光寺がここにあったらしい。信州の名刹善光寺と同名の寺が何故ここにあるのか沿革がはっきりしないが、阿弥陀堂に祀る阿弥陀仏は平安時代の武官、坂上田村麻呂の守り本尊と伝わる。

善光寺・仲道寺前を行く旧東海道。

垂木川に架かる善光寺橋。東海道分間絵図には”つな川はし 十五マ”と記され木橋が描かれている。

善光寺橋東詰、垂木川に沿って旧東海道が延びる。

旧東海道より掛川聖書バプテスト教会と東名高速の高架橋を望む。

綱川公会堂付近、旧東海道と綱川(現 掛川市領家)の家並み。

旧東海道は掛川バイパスで寸断。

寸断された旧東海道は沢田I.C南交差点で出現し東へ延びる。

沢田I.C南交差点付近にある高松神社。旧沢田村(現 掛川市沢田)の鎮守。

旧曽我鶴酒造の酒造場。曽我鶴酒造は慶応3年(1867年)の創業で、平成9年(1997年)に休業。現在、曽我鶴のブランドは駿河酒造場(静岡市駿河区)が受け継いでいる。

旧曽我鶴酒造前を行く旧東海道。

細田の旧東海道沿いにある平松商店。

平松商店は大正4年(1915年)創業、あられ・せんべいを専門とする製造販売店。手作りのあられを購入しました。

平松商店から旧東海道を江戸方へ約150m、細沢公会堂がある。この公会堂、付近の地名である細田と沢田を合わせて名付けられたと思われる。現在は西から沢田、細田の順なのだが、東海道名所記(万治2年、1659年頃刊)には東から鯖田(さばた、沢田村を指す)、狭井田(さいだ、細田村を指す)とあり、東海道分間絵図(元禄3年、1690年刊)には”さいだ”と表記されるのみだが、東海木曽両道中懐宝図鑑(明和2年、1765年初版)を見てもやはり東から沢田、さい田と家並みが描かれている。そこで文化3年(1806年)刊の東海道分間延絵図を見てみると、現在と同じく西から澤田、細田の順に描かれており、これだけ見れば江戸時代を通して何らか変遷があったようにみえる。しかし地名がそう転々とするだろうか、私的な推測に過ぎないが、細田・沢田は仮名で”さいだ”と”さハだ”に表記でき、”い”と”ハ”はくずし字で書かれると形がよく似ているため、誤読する可能性は高い。作者が誤読し混同したとも思える。

細田の東端付近、たばこや商店。

和光橋北詰より江戸方の旧東海道。

大池の名残松。

掛川市長谷の旧東海道沿いにある蓮祐寺。

蓮祐寺の門前にある大池一里塚跡の道標。北塚は大池村内、南塚が長谷村地内に存在した一里塚だが両塚とも現存せず。江戸日本橋から59里目(約232km)、京三条大橋からは59番目で実測約285km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

大池(末広町)の旧東海道。この辺り、元禄3年(1690年)の東海道分間絵図に”かわだ”という路村が表記されているが、付近に旧地名であろう”かわだ”を見出すことはできなかった。

大池(末広町)に鎮座する津島神社。

大池(橘町)にある宗心寺。

大池(橘町)に鎮座する白山神社。

西掛川駅前を行く旧東海道。

天竜浜名湖線、西掛川駅。単式ホーム1面に待合所を設けるだけの無人駅。

大池(鳥居町)の家並み。

倉真川に架かる大池橋。この辺りの倉間川は古く二瀬川と呼ばれ、東海道の往来は土橋によるものだった。掛川誌稿(文化・文政年間編纂)には長さ二九間余り(約52m)、幅三間一尺余り(約5.7m)の土橋と記され、現在の大池橋より西袂を北向きに架けられていたと思われる。

大池橋西詰、大池橋交差点を橋上から望む。かつて大池橋西詰は旧東海道から秋葉山本宮へ至る秋葉道が分岐した場所で、秋葉道入口には明和6年(1769年)建立の常夜灯2基、安永9年(1780年)建立の青銅製鳥居があり、多くの参詣者が往来し賑わった。嘉永7年(1854年)常夜灯と鳥居が大地震により倒壊、後に木製の鳥居に建て替えられ、明治24年(1891年)掛川森往還の開通に伴い移転、昭和8年(1933年)道路拡幅により撤去された。

旧秋葉道筋に設けられる秋葉神社掛川遥斎所。平成21年本宮御鎮座千三百年記念事業として社殿が改築された。

掛川一ノ鳥居の扁額。「正一位秋葉神社」の文字は徳川慶喜の揮毫。

秋葉神社掛川遥斎所より大池橋。ここ道路上に二代目の掛川一ノ鳥居があったのだろう。初代はおそらく大池橋交差点の北側、掛川遥斎所の駐車場辺りが跡地。

倉真川を渡れば二瀬川の町並み。東海道分間絵図には”ふちのえ”とある。

二瀬川の旧東海道筋にある岡嶋屋。屋号の看板から察するに相当な老舗と見受けるが、何を商いにしていたのか。

遥か前方、掛川城天守が姿を現す。ようやく掛川城下へ。

スポンサーサイト