函館市弥生町と船見町
函館は基坂を境に西側へ行くと観光客をほとんど見かけない。おそらく著名な観光スポットが外国人墓地ぐらいしかないためだろう。しかし、基坂の西から常盤坂・東坂・弥生坂・姿見坂・幸坂・千歳坂・魚見坂と函館らしい坂道が続き、幸坂上には山上大神宮が鎮座、幕末には坂本龍馬や武市半平太と親類関係にあった澤辺琢磨(旧名山本琢磨)が8代神職を務めている。また、船見町の坂上には実行寺や称名寺、高龍寺といった函館の古刹が集まり、寺町の様相を示す。函館に隠れた観光スポットは多い。

基坂西隣の東坂。明治12年(1879年)の大火まで弥生小学校の敷地東半分に浄玄寺(現 東本願寺別院)があり、そこから港に向かって2本の坂が下っており、西側の坂を”浄玄寺坂”、東側の坂を”白鳥坂”や”東の坂”と呼んだ。大火後に浄玄寺が移転、東の坂は上まで通され、その名を今に残す。

弥生小学校(明治15年開校)西側の弥生坂。小学校の名は坂名に因む。明治12年(1879年)の大火までは浄玄寺(現 東本願寺別院)や称名寺、実行寺が並び”寺町の坂”とも称した。函館の発展を祈念し、春をイメージする”弥生”を坂に名付けたという。

弥生坂上にある函館庵。

函館庵から更に上ったところが咬菜園跡。安政4年(1857年)堺屋新三郎が庵を建て、名花・名木を移植して庭園を築いた場所で、当時の函館で随一の名園だった。明治2年(1869年)3月14日、新政府軍との決戦を前に榎本武揚が箱館奉行並中島三郎助らとともに晩餐を開いた場所だという。

弥生坂の西隣、常盤坂。江戸時代後期、坂上に大石忠次郎の屋敷があり、奥州の”義経腰掛けの松”から種を取って植えたという”常盤の松”に因む。

常盤坂上を望む。かつて常盤坂の中程一帯に遊廓があり、客が遊女との別れを惜しんで坂上を見返したことから”見返りの坂”と言われた。坂上に芝居小屋があったことから”芝居町の坂”とも。

常盤坂から姿見坂へ向かう途中、堂々と道路を闊歩する猫。尻尾が短く曲がっている”尾曲がり猫”である。インドネシア・マレーシア周辺にルーツがあり、江戸時代にオランダ船で長崎に持ち込まれ広まったといわれる。そのため長崎では”尾曲がり猫”が多く見られるというが、はてさて函館の”尾まがり猫”のルーツは如何に?

首輪をしているだけに人慣れしている。

どこへ向かおうか、その眼差しの先には。

かつては遊女の姿が多く見られたという姿見坂。昔、弥生町(旧旅籠町・天神町)は山の上町と呼ばれ、明治4年(1871年)の大火まで遊廓があって繁栄した。

上り坂の突き当りに山上大神宮が鎮座する幸坂。明治8年(1875年)坂下の湾岸を埋め立て成立した幸町に坂名の由来がある。それ以前は山上大神宮の前身、神明社が坂上にあり”神明坂”と呼ばれた。

幸坂の途中にある旧ロシア領事館。現在の建物は明治40年(1907年)の大火翌年に再建されたもの。ロシア革命後にソ連領事館として機能していたが昭和19年(1944年)に閉鎖、昭和39年(1964年)から”道南青年の家”として利用されたが、平成8年(1996年)にその役目を終えた。現在は特に利用されている様子もなく、廃墟同然の状態。今後の動向が気になるところ。

旧ロシア領事館付近の幸坂。何故か路駐が多い。

旧ロシア領事館の少し坂上にある常盤小学校跡。現在は船見公園として整備されている。常盤小学校は大正11年(1922年)創立、昭和45年(1970年)幸小学校と統合され西小学校が創立し廃校に。更に西小学校は平成21年(2009年)弥生小学校に統合されて廃校になっている。

常盤小学校跡より望む旧ロシア領事館。

幸坂の最上部に鎮座する山上大神宮。社伝によれば室町時代初期、亀田赤井川村の神明山に伊勢神宮の祭神を勧請したことに始まるという。明暦元年(1655年)尻澤辺村(現 函館市住吉町)に移され、後に幸坂の中ほどに移転、鎮座地の山之上町(現 函館市弥生町)から社名をとり山上大神宮と改称した。現在地に移転したのは明治35年(1902年)のこと。

山上大神宮社殿。箱館戦争の時に旧幕府方の桑名藩主松平定敬の御座所となった。幕末に8代神職を務めた澤辺琢磨は元土佐藩士で、坂本龍馬や武市半平太と親戚関係にあり、新島襄が箱館から海外渡航を企てた際に力を貸したという。

幸坂上より函館港を望む。右手前が常盤小学校跡。

遠く五稜郭タワーが望める。

西中学校(写真左)横に延びる千歳坂。明治12年(1879年)の大火後にできた坂。当時、坂東側に神社があり、ここにあった”千歳の松”に因んで坂名が付けられた。別名を”松蔭坂”とも呼ぶ。

千歳坂上の突き当りにある東本願寺函館別院船見支院。

船見支院の右隣に実行寺。明暦元年(1655年)山之上町(現 函館市弥生町)に建てられた草庵に始まるといわれ、正徳4年(1714年)富岡町(現 函館市弥生町)へ移り、明治12年(1879年)大火後の同14年(1881年)現在地に。

正保元年(1644年)亀田村(現在の市内八幡町付近)に開かれた阿弥陀庵が始まり。宝永5年(1708年)富岡町(現 函館市弥生町)に移り、明治12年(1879年)の大火で焼失、同14年(1881年)現在地に移転した。現在の鉄筋コンクリート造りの本堂は昭和4年(1929年)に建てられたもの。境内には土方歳三と新選組隊士の供養碑をはじめ、享徳3年(1454年)に箱館へ渡来し基坂上に館を築いた河野政通の供養碑、高田屋嘉兵衛一族の墓などがある。

称名寺観音堂でくつろぐ。

称名寺の眠り猫。

函館最東端の坂、魚見坂。湾岸の魚群を見つけるに好適地だったことが坂名の由来とされる。右手に見える建物が西小学校の旧校舎で、ここは江戸時代後期に設けられていた津軽勤番所跡にあたる。

急崖と函館湾が迫る狭隘地に家がひしめく入船町。函館山北麓の山裾が波に浸食された海食崖が見られるが、現在はコンクリートの擁壁で覆われている。

船見町の寺町通り沿いにある高龍寺。寛永10年(1633年)亀田村(現 函館市万代町辺り)に建立されたことに始まる函館市で最も古い寺社。宝永3年(1706年)弁天町(現 函館市入舟町)に移転、箱館戦争時には箱館病院の分院に使われた。明治12年(1879年)大火後に現在地へ移転。本堂は明治33年(1900年)、写真の山門が同43年(1910年)の建築である。

高龍寺と寺町通り。

高龍寺から寺町通りを奥へ行けば外国人墓地に。写真はロシア人墓地。ロシア軍艦の乗組員25名など、43基の墓があり、最も古いものは1859年に葬られたアスコリド号の航海士ゲオルギィ・ボウリケヴィチのもの。

プロテスタント墓地。安政元年(1854年)来航したペリー率いる艦隊の水兵2名をはじめ、ドイツ代理領事やデンマーク領事など40基の墓がある。故郷を遥かに異国の地に没した人たち、函館湾を望み今も望郷の念にかられているのだろうか。

外国人墓地に隣接してある地蔵寺。元治元年(1864年)建立の有無両縁塔が入口左に建つ。かつて山之上町(現 函館市弥生町)には多くの遊女屋があり、安政5年(1868年)に箱館奉行が山之上遊廓として公認、翌年に箱館が開港されて商人や外国人で大層賑わったという。ここで働き没した遊女は引き取り手のない者も多く、そんな女性たちを供養するため建立されたのがこの有無両縁塔。今から約150年前のこととはいえ、明治の世が明けようとするときに遊廓で懸命に働き生涯を終えた女性がいたことを忘れてはならない、そんな証と言っていいだろう。

地蔵寺境内にある万平塚。万平は明治から大正にかけて函館にいた名物男。乞食でありながら函館の人々に愛され、石川啄木とも交流があり、啄木は「むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき」と短歌に詠んでいる。大正4年(1915年)死去、その訃報は新聞記事にもなった。この供養塔は大阪の鉄工場主藤岡惣兵衛という人が函館に来た際、万平の気概に感じ入り、死後に知人の協力を得て建てたもの。

南部藩士の墓。函館市内に散在していた南部藩士12名の墓が昭和12年(1937年)に集められた。江戸後期から幕末にかけて多くの南部藩士が蝦夷地を警備する任に就き、環境が厳しい異郷の地だけに志半ばで斃れる者も多かったのだろう。

地蔵寺付近より函館湾を望む。

明治18年(1885年)防疫体制の強化を図るため、当時の主要6港(函館、横浜、神戸、下関、長崎、新潟)に消毒所が設けられた。この建物は函館消毒所の事務所として使用されたもの。明治29年(1896年)消毒所は函館検疫所に改称、昭和20年(1945年)終戦により樺太方面からの引揚者がここで検疫を受けた。現在は”ティーショップ夕日”という喫茶店に利用されている。
撮影日:2016年7月31日(日)

基坂西隣の東坂。明治12年(1879年)の大火まで弥生小学校の敷地東半分に浄玄寺(現 東本願寺別院)があり、そこから港に向かって2本の坂が下っており、西側の坂を”浄玄寺坂”、東側の坂を”白鳥坂”や”東の坂”と呼んだ。大火後に浄玄寺が移転、東の坂は上まで通され、その名を今に残す。

弥生小学校(明治15年開校)西側の弥生坂。小学校の名は坂名に因む。明治12年(1879年)の大火までは浄玄寺(現 東本願寺別院)や称名寺、実行寺が並び”寺町の坂”とも称した。函館の発展を祈念し、春をイメージする”弥生”を坂に名付けたという。

弥生坂上にある函館庵。

函館庵から更に上ったところが咬菜園跡。安政4年(1857年)堺屋新三郎が庵を建て、名花・名木を移植して庭園を築いた場所で、当時の函館で随一の名園だった。明治2年(1869年)3月14日、新政府軍との決戦を前に榎本武揚が箱館奉行並中島三郎助らとともに晩餐を開いた場所だという。

弥生坂の西隣、常盤坂。江戸時代後期、坂上に大石忠次郎の屋敷があり、奥州の”義経腰掛けの松”から種を取って植えたという”常盤の松”に因む。

常盤坂上を望む。かつて常盤坂の中程一帯に遊廓があり、客が遊女との別れを惜しんで坂上を見返したことから”見返りの坂”と言われた。坂上に芝居小屋があったことから”芝居町の坂”とも。

常盤坂から姿見坂へ向かう途中、堂々と道路を闊歩する猫。尻尾が短く曲がっている”尾曲がり猫”である。インドネシア・マレーシア周辺にルーツがあり、江戸時代にオランダ船で長崎に持ち込まれ広まったといわれる。そのため長崎では”尾曲がり猫”が多く見られるというが、はてさて函館の”尾まがり猫”のルーツは如何に?

首輪をしているだけに人慣れしている。

どこへ向かおうか、その眼差しの先には。

かつては遊女の姿が多く見られたという姿見坂。昔、弥生町(旧旅籠町・天神町)は山の上町と呼ばれ、明治4年(1871年)の大火まで遊廓があって繁栄した。

上り坂の突き当りに山上大神宮が鎮座する幸坂。明治8年(1875年)坂下の湾岸を埋め立て成立した幸町に坂名の由来がある。それ以前は山上大神宮の前身、神明社が坂上にあり”神明坂”と呼ばれた。

幸坂の途中にある旧ロシア領事館。現在の建物は明治40年(1907年)の大火翌年に再建されたもの。ロシア革命後にソ連領事館として機能していたが昭和19年(1944年)に閉鎖、昭和39年(1964年)から”道南青年の家”として利用されたが、平成8年(1996年)にその役目を終えた。現在は特に利用されている様子もなく、廃墟同然の状態。今後の動向が気になるところ。

旧ロシア領事館付近の幸坂。何故か路駐が多い。

旧ロシア領事館の少し坂上にある常盤小学校跡。現在は船見公園として整備されている。常盤小学校は大正11年(1922年)創立、昭和45年(1970年)幸小学校と統合され西小学校が創立し廃校に。更に西小学校は平成21年(2009年)弥生小学校に統合されて廃校になっている。

常盤小学校跡より望む旧ロシア領事館。

幸坂の最上部に鎮座する山上大神宮。社伝によれば室町時代初期、亀田赤井川村の神明山に伊勢神宮の祭神を勧請したことに始まるという。明暦元年(1655年)尻澤辺村(現 函館市住吉町)に移され、後に幸坂の中ほどに移転、鎮座地の山之上町(現 函館市弥生町)から社名をとり山上大神宮と改称した。現在地に移転したのは明治35年(1902年)のこと。

山上大神宮社殿。箱館戦争の時に旧幕府方の桑名藩主松平定敬の御座所となった。幕末に8代神職を務めた澤辺琢磨は元土佐藩士で、坂本龍馬や武市半平太と親戚関係にあり、新島襄が箱館から海外渡航を企てた際に力を貸したという。

幸坂上より函館港を望む。右手前が常盤小学校跡。

遠く五稜郭タワーが望める。

西中学校(写真左)横に延びる千歳坂。明治12年(1879年)の大火後にできた坂。当時、坂東側に神社があり、ここにあった”千歳の松”に因んで坂名が付けられた。別名を”松蔭坂”とも呼ぶ。

千歳坂上の突き当りにある東本願寺函館別院船見支院。

船見支院の右隣に実行寺。明暦元年(1655年)山之上町(現 函館市弥生町)に建てられた草庵に始まるといわれ、正徳4年(1714年)富岡町(現 函館市弥生町)へ移り、明治12年(1879年)大火後の同14年(1881年)現在地に。

正保元年(1644年)亀田村(現在の市内八幡町付近)に開かれた阿弥陀庵が始まり。宝永5年(1708年)富岡町(現 函館市弥生町)に移り、明治12年(1879年)の大火で焼失、同14年(1881年)現在地に移転した。現在の鉄筋コンクリート造りの本堂は昭和4年(1929年)に建てられたもの。境内には土方歳三と新選組隊士の供養碑をはじめ、享徳3年(1454年)に箱館へ渡来し基坂上に館を築いた河野政通の供養碑、高田屋嘉兵衛一族の墓などがある。

称名寺観音堂でくつろぐ。

称名寺の眠り猫。

函館最東端の坂、魚見坂。湾岸の魚群を見つけるに好適地だったことが坂名の由来とされる。右手に見える建物が西小学校の旧校舎で、ここは江戸時代後期に設けられていた津軽勤番所跡にあたる。

急崖と函館湾が迫る狭隘地に家がひしめく入船町。函館山北麓の山裾が波に浸食された海食崖が見られるが、現在はコンクリートの擁壁で覆われている。

船見町の寺町通り沿いにある高龍寺。寛永10年(1633年)亀田村(現 函館市万代町辺り)に建立されたことに始まる函館市で最も古い寺社。宝永3年(1706年)弁天町(現 函館市入舟町)に移転、箱館戦争時には箱館病院の分院に使われた。明治12年(1879年)大火後に現在地へ移転。本堂は明治33年(1900年)、写真の山門が同43年(1910年)の建築である。

高龍寺と寺町通り。

高龍寺から寺町通りを奥へ行けば外国人墓地に。写真はロシア人墓地。ロシア軍艦の乗組員25名など、43基の墓があり、最も古いものは1859年に葬られたアスコリド号の航海士ゲオルギィ・ボウリケヴィチのもの。

プロテスタント墓地。安政元年(1854年)来航したペリー率いる艦隊の水兵2名をはじめ、ドイツ代理領事やデンマーク領事など40基の墓がある。故郷を遥かに異国の地に没した人たち、函館湾を望み今も望郷の念にかられているのだろうか。

外国人墓地に隣接してある地蔵寺。元治元年(1864年)建立の有無両縁塔が入口左に建つ。かつて山之上町(現 函館市弥生町)には多くの遊女屋があり、安政5年(1868年)に箱館奉行が山之上遊廓として公認、翌年に箱館が開港されて商人や外国人で大層賑わったという。ここで働き没した遊女は引き取り手のない者も多く、そんな女性たちを供養するため建立されたのがこの有無両縁塔。今から約150年前のこととはいえ、明治の世が明けようとするときに遊廓で懸命に働き生涯を終えた女性がいたことを忘れてはならない、そんな証と言っていいだろう。

地蔵寺境内にある万平塚。万平は明治から大正にかけて函館にいた名物男。乞食でありながら函館の人々に愛され、石川啄木とも交流があり、啄木は「むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき」と短歌に詠んでいる。大正4年(1915年)死去、その訃報は新聞記事にもなった。この供養塔は大阪の鉄工場主藤岡惣兵衛という人が函館に来た際、万平の気概に感じ入り、死後に知人の協力を得て建てたもの。

南部藩士の墓。函館市内に散在していた南部藩士12名の墓が昭和12年(1937年)に集められた。江戸後期から幕末にかけて多くの南部藩士が蝦夷地を警備する任に就き、環境が厳しい異郷の地だけに志半ばで斃れる者も多かったのだろう。

地蔵寺付近より函館湾を望む。

明治18年(1885年)防疫体制の強化を図るため、当時の主要6港(函館、横浜、神戸、下関、長崎、新潟)に消毒所が設けられた。この建物は函館消毒所の事務所として使用されたもの。明治29年(1896年)消毒所は函館検疫所に改称、昭和20年(1945年)終戦により樺太方面からの引揚者がここで検疫を受けた。現在は”ティーショップ夕日”という喫茶店に利用されている。
撮影日:2016年7月31日(日)

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