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深名線 白樺駅跡と蕗ノ台駅跡

幌加内町の最北部で朱鞠内湖の北側湖畔、深名線最北の駅だったのが白樺駅。グーグルマップを見ての通り、今や白樺駅跡やその隣りの蕗ノ台駅跡付近に人家は無い。白樺駅は昭和16年(1941年)初茶志内駅(後の天塩弥生駅)~朱鞠内駅間の延伸に伴い開業、原生林の中に設けられた駅は主に木材搬出に使われ、昭和30年(1955年)には林業関係者等で駅周辺に100名程の人口を数えた。当初は有人駅だったが、木材搬出が激減した昭和36年(1961年)には無人駅に。昭和62年(1987年)国鉄からJR北海道に民営化されるに伴い臨時駅(冬季は全列車通過)となり、深名線廃止より5年早い平成2年(1990年)廃駅となった。

白樺駅
現役時代の白樺駅
JR深名線資料展示室の展示パネルより引用

空中写真_白樺_1977年
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7710を基に作成
昭和52年(1977年)10月撮影の白樺駅付近




旧白樺駅前通り
道道688号線から延びる旧白樺駅前通り。


旧白樺駅前通り
旧白樺駅前通りの駅方向。


旧白樺駅前通り
旧駅前通り周辺には鉄パイプで組まれた足場が点在している。木を観察する目的のように見えたが、真相は不明。


旧白樺駅前通り
旧駅前通りより道道688号線方向。こんなところで本当に人が住んでいたのかと思ってしまう状態。


旧白樺駅前通り
鉄パイプの枠組みに架けて足場に使っているものだろう。


白樺駅跡
白樺駅跡。鉄パイプの枠組みがあるだけで何もない。ここに駅があったことをどうやって想像すればよいのだろう。


旧白樺駅跡にて
旧白樺駅前にて。何やら地面に…。


旧白樺駅跡にて
明らかにヒグマの糞。


旧白樺駅跡にて
そして足跡。今や白樺駅跡は自然へ還り、人に代わってヒグマが闊歩する場所のようだ。


白樺駅跡から深川方隣の蕗ノ台駅跡へ移動。蕗ノ台駅は白樺駅と同じく昭和16年(1941年)の開業。当初は林業関係者や駅員、日本通運の社員が駅周辺に居住、12、3戸で蕗ノ台の集落を形成する。昭和21年(1946年)以降に室蘭の日本製鋼所より開拓団が入植して人口が増え、昭和24年(1949年)蕗の台小学校が開校、この時期に260人程の人口があったらしい。しかし、農業には環境条件が悪く、輸入木に押されて林業も振るわなくなり昭和30年代後半からは人口が激減、昭和37年(1962年)蕗の台小中学校が閉校となり、開拓団も解散して集団離農し、3戸13人が残るのみとなった。昭和39年(1964年)蕗ノ台駅は無人化、昭和47年(1972年)蕗の台地区は無人地帯となり、昭和62年(1987年)国鉄からJR北海道へ民営化されるに伴い臨時駅(冬季は全列車通過)に。深名線廃止より5年早い平成2年(1990年)、白樺駅と共に廃駅となった。

蕗ノ台駅
現役時代の蕗ノ台駅
JR深名線資料展示室の展示パネルより引用

空中写真_蕗の台_1977年
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7710を基に作成
昭和52年(1977年)10月撮影の蕗ノ台駅付近




道道528号起点
道道688号から道道528号が分岐する地点。奥方向の砂利道が道道528号で、蕗ノ台駅跡へ向かう。


道道528号 蕗の台
蕗ノ台駅跡へ向かう途中、中の沢川に架かる橋(橋名不明)。かつては写真右手の高台上に神社があったようだ。


蕗の台の神社跡
上写真の橋南詰、写真中央の高台上辺りが蕗の台にあった神社跡。


中の沢川
中の沢川。


道道528号 蕗の台
蕗の台を行く道道528号。旧蕗ノ台駅前通りの分岐点には”ピッシリ山登山口”の看板がある。


旧蕗ノ台駅前通り
道道528号から蕗ノ台駅跡へ延びる旧駅前通り。


旧蕗ノ台駅前通り
旧駅前通りの道道方向。


蕗ノ台駅跡04
沿道に雑草雑木が生い茂る旧駅前通りを突き当たれば視界が広がる草地に。ここが旧蕗ノ台駅前。


蕗ノ台駅跡
蕗ノ台駅跡。建造物は何も残っていない。


蕗ノ台駅跡
駅跡の草は定期的に刈られているようで、人が入っている様子がうかがえる。


蕗ノ台駅跡

蕗ノ台駅跡
蕗ノ台駅跡にて。地面には駅舎構造物と思われる遺構も。


道道688号 蕗ノ台
道道528号の分岐点から道道688を北上。この先の左手に蕗の台小中学校があったなんて誰が信じよう。昭和37年(1962年)に閉校してから50年以上、どこにあったのか分らないほどに自然に還っている。


うぐい橋
昭和58年(1983年)完成の”うぐい橋”。


エビシオマップ川
うぐい橋下を流れるはエビシオマップ川。


道道688号 蕗の台
うぐい橋の先で道道688号は一般車は立入禁止。現在も遠別へ向けて延伸工事は続けられているようだ。


撮影日:2016年8月6日(土)
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テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

掛川から日坂に

【旧東海道歩き 第22日目】スマイルホテル掛川→掛川城下→日坂宿→金谷宿→金谷駅



【2016年7月17日(日)旧東海道 掛川宿→日坂宿】
遅ればせながら、梅雨明け間近の7月中旬に掛川宿から日坂宿を経て金谷宿まで歩いた道中を記事に。かつて掛川宿を出た旧東海道は逆川を渡り、東岸から馬喰町、成滝、薗ヶ谷、山鼻、本庄(本所)、伊達方(とのがい、ぬめり川)、塩井川原を経て日坂宿に着く。一里二十九町(約7.1kmの道程だった。




新町東伝寺入口バス停
掛川宿江戸方外れにある新町東伝寺入口バス停。ここから本日の旧東海道歩きを再開する。


馬喰橋西詰
馬喰橋西詰。左手に掛川名物の振袖餅を販売する”もちや”がある。かつての東海道は馬喰橋手前で右に曲がり、逆川左岸を少し行ったところで渡河していた。


もちや
馬喰橋西詰より掛川方向。右手が”もちや”。


振袖餅の石碑
”もちや”の敷地内に置かれる「掛川宿名物 振袖餅」の石碑。”もちや”は江戸時代後期創業の老舗和菓子店。名物の振袖餅は、当初の平たい形から着物の振袖に見立ててその名が付いたとされる。残念ながら開店前で現代の振袖餅は買えず…、詳しくはこちらから↓

菓子処もちや
http://mochiya-s.com/311580/


馬喰橋と葛川一里塚跡
”もちや”の向かい、逆川左岸に葛川一里塚があった。馬喰橋西袂に跡地を示す碑がある。


葛川一里塚跡
葛川一里塚跡は江戸日本橋から58里目(約228km)、京三条大橋からは59番目で実測約290km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。両塚とも現存せず。


馬喰橋と逆川
馬喰橋と逆川。


馬喰橋東詰
馬喰橋東詰の旧東海道。かつてこの辺りの旧東海道筋は馬喰町と呼ばれ、橋名だけにその名を残している。


旧東海道 掛川市成滝
成滝を行く旧東海道。


「記念 西山口村」碑
伊達医院近くの路傍にある「記念 西山口村」と刻む碑。上部が崩壊しているようで、何を記念したものかが分からない。西山口村は明治22年(1889年)葛川村、成滝村、薗ヶ谷村等が合併して成立、昭和26年(1951年)掛川町に吸収合併されるまで存在した。


夢舞台東海道「成滝」道標
本村橋交差点にある夢舞台東海道「成滝」道標。ここで旧東海道は静岡県道415号に合流する。


薗ヶ谷・成滝ふれあいロード
本村橋交差点付近は薗ヶ谷区と成滝区の境にあたり、沿道には薗ヶ谷・成滝ふれあいロードの看板を掲げ、路傍に設ける花壇が綺麗な景観を見せてくれる。


本村橋
ここが交差点名の由来、本村橋。車で通り過ぎたらまず気づかない。


溝橋
本村橋の次は溝橋。


静岡県道415号 掛川市薗ヶ谷
薗ヶ谷を行く静岡県道415号。左手に山が迫ってくる。


中橋
中橋を過ぎれば薗ヶ谷から千羽に。


静岡県道415号 掛川市千羽
千羽の静岡県道415号付近一帯は山鼻と呼ばれる集落を形成、立場が置かれていた。


静岡県道415号 掛川市千羽
現在はバス停や歩道橋に山鼻の地名を見ることができる。


榛葉鉄工所
千羽の東隣、本所に入ると右手に榛葉鉄工所。


岩橋
静岡県道415号の岩橋を渡り。


逆川と栄川中学校
右手を見れば逆川の向こうに栄川中学校を見る。


夢舞台東海道「本所」道標
夢舞台東海道「本所」道標。ここで静岡県道415号を旧東海道が分かれる。


六地蔵
本所の六地蔵。


旧東海道 掛川市伊達方
諏訪神社付近、伊達方の旧東海道。


諏訪神社
逆川右岸にある諏訪神社。社伝によれば貞観16年(874年)諏訪大社より祭神を勧請したことに起源があるという。相殿に祀る須佐之男命は牛頭村(現 掛川市逆川)の天王森にあったが、その祠前を通る旅人に不慮の事故が起こることから、元和元年(1615年)ここに合祀されたと伝わる。


旧東海道 伊達方
旧東海道は諏訪神社から再び静岡県道415号に合流、約150mを東へ進んだここで右に分かれる。


慶雲寺参道入口
横断歩道の左が慶雲寺参道入口。


慶雲寺道道標
参道入口に立つ慶雲寺道道標。


歌人石川依平翁出生地碑
慶雲寺道道標から参道を挟んで向かいには「歌人石川依平翁出生地」碑を置く。石川依平は江戸後期の国学者で歌人、少年期に冷泉為章の門人となり歌道を学び、22歳の時に同郷の栗田土満(真淵・宣長門下)へ入門し国学に精進する。後に多くの著書を残し多くの門弟を抱え活躍した。


大頭龍神社
伊達方に鎮座する大頭龍神社。


「西方村 堀ノ内駅 ニ通ズ」道標
大頭龍神社境内にある「西方村 堀ノ内駅 ニ通ズ」と刻む道標。大正2年(1913年)建立。


伊達方一里塚跡
大頭龍神社の向かいに伊達方一里塚跡(新東名の道路標識裏手)。江戸日本橋から57里目(約224km)、京三条大橋からは60番目で実測約294km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。両塚とも現存せず。付近に解説板を設置している。


旧東海道 掛川市伊達方
伊達方は中世の豪族伊達氏の知行地だったことが地名の由来とされる。


嵐牛蔵美術館
嵐牛蔵美術館。江戸時代後期から明治期にかけて活躍した俳人伊藤嵐牛の作品が展示されているようだが、見学には事前に予約が必要とのこと。ここは伊藤嵐牛の出生地で美術館は子孫の方が開設運営している。


旧東海道 掛川市八坂
塩井川原(掛川市八坂)を行く旧東海道。


塩井神社鳥居
旧東海道が静岡県道415号に合流する地点、逆川右岸に立つ塩井神社の鳥居。


塩井神社参道
塩井神社は鳥居から逆川の対岸にあるため、参道には心許ない板橋が架けられている。


塩井神社付近の逆川
参道の板橋上より逆川下流を望む。


塩井神社
塩井神社拝殿。


塩井神社境内にて
境内にはたくさんのハグロトンボが羽を休める。みんな同じ方向を向いていて面白い。


塩井神社境内にて
羽を広げた決定的瞬間。


塩井神社参道
塩井神社より参道を旧東海道に戻ろう。川が増水したらひとたまりも無さそうな板橋、雨天じゃなくてよかった。


八坂I.C交差点
塩井神社の鳥居を過ぎれは八坂I.C交差点に。


県道415号 掛川市八坂
中遠環境保全(写真左手)前の静岡県道415号。かつての東海道は中遠環境保全の敷地内を通っていた。


みどり茶屋
県道沿いにある石神農園の”みどり茶屋”。


県道415号 掛川市八坂
左右に山が迫ってくる。


宮村バス停
宮村バス停。


雄鯨山跡
事任(ことのまま)八幡宮の南、雄鯨山跡(写真右手)。現在は造成されて雄鯨山は無いが、道の駅掛川の北東に雌鯨山が現存する。竜王の命で嫁石権現の姫をもらい受けに川を遡ってきた雄雌二頭の大鯨、しかし権現に拒絶されたうえ事任八幡に碁石で撃ち殺されて山に姿を変えたと云う。大鯨が遡上する際、川が逆流しているように見えたことから、逆川の名が付いたと伝わる。


事任八幡宮
日坂宿の京方外れに鎮座する遠江国一の宮、事任八幡宮。右手に拝殿や本殿をはじめ社務所や摂社・末社、左手山中に本宮がある。


事任八幡宮のクスノキ
境内に聳える大楠。


事任八幡宮
事任八幡宮拝殿。古くより願い事を”ことのまま”に叶えてくれる神と伝わる。主祭神は己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと)。創建年代は不詳、大同2年(807年)坂上田村麻呂が桓武天皇の勅を奉じ再興したと伝わる。康平5年(1062年)源頼義が石清水八幡を勧請、八幡宮を称するように。江戸時代の通称は「誉田八幡宮」だった。


事任八幡宮境内
事任八幡宮境内。


事任八幡宮本宮入口
事任八幡宮本宮入口。ここから本宮山を登った山中に本宮がある。


事任八幡宮本宮参道
本宮へ続く石段。


事任八幡宮本宮
事任八幡宮本宮。坂上田村麻呂が再興するまではこちらが社地だった。


事任八幡宮本宮
本宮社殿の周りには白い石が敷き詰められる。この石を3つ選び1つ目は神様、2つ目がみんな、3つ目が自分のためにと願を懸けて布や紙で磨くと福があるという。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

日坂宿

Tokaido_Hoeido_26_Nissaka.jpg
東海道五十三次之内日坂 佐夜ノ中山
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「日坂宿」より引用


【2016年7月17日(日)旧東海道 日坂宿】
事任八幡宮を過ぎれば日坂宿。古くは”新坂”や”西坂”とも書く。”小夜の中山”と呼ばれる峠越えの難所が東側に控え、峠を往来する多くの旅人が旅装を解き、この宿場で足を休めたことだろう。広重は浮世絵「東海道五十三次之内日坂 佐夜ノ中山」の題で”小夜の中山”の急坂と道の中央に鎮座する夜泣石、それを珍しげに眺める旅人の様子を描いている。小夜の中山については次の記事に譲るとして、まずは東海道名所記(万治年間刊行)に書かれる日坂宿は読んで興味深いので下に紹介。

「新坂ハわらびもち名物なり 葛の粉にてつくり。豆の粉をまぶして旅人にすすむるに。往来の人ひだるさまぎれに蕨餅なりと思ひて。つゐに葛餅なりとハしらずかし。楽阿弥かくぞよミける
物の名も ところによるか 新坂の 蕨のもちハ よその葛餅
左のかたに山ふたつあり。鯨(おくじら)山 鯢(めくじら)山といふ。此山より碁石いづるなり。大なる木のしたに。洞あり。ほらのうちに清水あり。潮汐のさし引有といふ
左の方に八まんの宮あり
右の方に銀杏の木あり。その右は田なり。よめが田と名づく。道より五町バかり左のかたに。しうとが畑あり。これハむかし。よめあたりのつらきしうとめあり。
一畝の田を朝の間に。よめにうへさせしかば。石にこしかけてよめハ死けり。よめのこしかけ石 今にあり 塚につきて銀杏の木をしるしにうへたり。木も今 道バたにあり。しうとめハ畑に出て麻を見けるが にはがに雷なりければ影森といふ。在所ににげ入て終にいかつちにうだれて死ぬと申つたへし
くらぼねの池 左にあり なか橋 そね川」
*原文中の変体仮名は平仮名に変換

東海道名所記によれば日坂宿の名物は蕨餅なのだが、実のところ葛餅だったようだ。次に雄鯨山と雌鯨山の伝説に少しだけ触れ、続いて嫁田(よめがた)と姑畑(しゅうとがはたけ)の伝説を紹介している。今や日坂宿京方外れの街道筋にあったであろう嫁田と姑畑、嫁の腰掛石がどこにあったのかわからない。しかし東海道分間絵図を見れば、街道を挟んで「八まん めくじら山」の向かいに「よめ田有」の表記が確認できる。

日坂宿は江戸日本橋から東海道五十三次を25宿目、京都三条大橋から29宿目。天保14年(1843年)当時、宿の町並み長さ東西 6町半(約710m)、人口750人、家数168軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠屋33 軒。江戸方から上町(本町)・下町・古宮町と続く町並み。名物は蕨餅、飴の餅、子育飴。




日坂宿
事任八幡宮を過ぎれば日坂宿の町並みに。古宮橋から京方は古宮町と称していた。


秋葉常夜燈
古宮町の秋葉常夜燈。弘化2年(1845年)建立。常夜燈横に見える鳥居と小さな社は若宮神社。元々社殿は鳥居から参道を登った山中にあったようだが、最近になってここに移されたらしい。


岡パン
日坂にあるパン屋さん”岡パン”。正式名は岡田製パン。周りの雰囲気に溶け込んだ店構えがいい。”岡パン”のパンはここと道の駅掛川で買える。


賜硯堂成瀬大域出生の地
賜硯堂成瀬大域出生の地。文政10年(1827年)、ここ古宮町に生まれた成瀬大域は明治期に活躍した書家。明治天皇より楠木正成愛用と伝わる硯を賜り、自らと庵を”賜硯堂”と称した。


日坂宿古宮町
古宮橋南詰、古宮町の家並み。


糀屋
古宮町の旧家、糀屋。


古宮橋
古宮橋南袂。


古宮橋
日坂宿の古宮町と下町の境、古宮橋。下を流れるは逆川。


下木戸跡と高札場
古宮橋北袂は下木戸跡。他の宿場に見られるような見付石垣や門等は設けられず、逆川が木戸の役目を果たしていたらしい。ここは高札場跡でもあり、復元高札が設置されている。


下町の秋葉常夜燈
相伝寺入口にある下町の秋葉常夜燈。天保10年(1839年)建立。


相伝寺
下町にある相伝寺。


川坂屋
日坂宿最西端の旅籠だった川坂屋。現存する建物は嘉永5年(1852年)の日坂宿大火後に再建されたもの。


川坂屋
川坂屋の中へ。中庭に続く通り土間。


川坂屋
みせノ間。西郷従道(隆盛の実弟、明治期の軍人・政治家)がここに宿泊した折、揮毫した衝立を展示する。


川坂屋
みせおく。


川坂屋05
一ノ間(奥)と二ノ間(手前)。主屋の最奥にあたり通常時は襖で仕切られている。建築当初は上段ノ間だった。


川坂屋
川坂屋居間(家人の部屋)跡。往時は写真の建物左に続いてその居間があったらしい。


川坂屋
川坂屋の裏手。かつては裏庭や土蔵があったと思われるが、静岡県道415号が通り消失している。


川坂屋
二階座敷に展示する襖の書は、日坂出身の書家成瀬大域によるもの。


川坂屋
川坂屋二階より旧東海道を望む。


川坂屋
川坂屋を後に。


萬屋
次は旧旅籠”萬屋”。上段の間を持っていた大旅籠の川坂屋に対し、こちらは主に庶民が利用した旅籠。現存する建物は嘉永年間(1848年~54年)から安政年間(1854年~60年)にかけての建築と推定されている。


萬屋
入口から萬屋内部へ。


萬屋
街道に面するみせ部分。みせにわ、広敷、みせ、帳場からなる。


萬屋
ここが出入口。向かいは丸屋。


萬屋
萬屋の2階座敷。様々な旅人がここで酒と雑談で夜を過ごし、雑魚寝で朝を迎えたことだろう。


萬屋
>
萬屋2階からの眺め。最奥に見える建物が川坂屋。


法讃寺
萬屋と藤文の間に参道を延ばす法讃寺。


藤文
幕末に問屋役を務めた伊藤文七の商家藤文。主屋は江戸末期の建築、隣接する”かえで屋”部分が明治初期の建築。


藤文
藤文の通り土間とみせ部分。


藤文
通り土間と板敷の台所。


藤文
通り土間の最奥は炊事場。


藤文
主屋の裏手、土蔵が残っている。


藤文
萬屋(奥)と藤文(手前)。


日坂宿下町
日坂宿下町の旧東海道。


宮嶋酒店
日坂の酒屋、宮嶋酒店。


脇本陣黒田屋跡
脇本陣黒田屋跡。幕末に最後の脇本陣を務めた大澤富三郎家があった場所で、現在は山本屋という店がある。


問屋場跡
問屋場跡。


本陣扇屋跡
代々片岡金左衛門家が務めた本陣扇屋跡。敷地およそ350坪、建坪220坪の広大な本陣だった。嘉永5年(1852年)の大火で全焼、再建後の明治3年(1870年)に店を閉じ、明治12年(1879年)からは日坂小学校の敷地となり家屋が校舎として利用された。現在は広大な敷地を残すのみで、復元された本陣門だけが街道に面して建つ。


本陣扇屋跡
本陣跡前を通る旧東海道。


上町(本町)の秋葉常夜燈
本陣敷地の脇には上町(本町)の秋葉常夜燈。


日坂宿上町(本町)
日坂宿の江戸方端、家並みが途切れた先から”小夜の中山”の峠道がはじまる。


日坂宿上町(本町)
宿江戸方端より日坂宿を振り返って。


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小夜の中山

【2016年7月17日(日)旧東海道 日坂宿→金谷宿】
日坂宿と菊川村(中世の菊川宿)の間は”小夜の中山”と呼ばれ、東海道にあっては数少ない峠道、箱根峠や鈴鹿峠に並び東海道三大難所の一つに数えられた。その道中には往来の旅人を阻むが如く、道中央に夜泣石と呼ばれる大石があり、その様子は広重の浮世絵「東海道五十三次之内日坂 佐夜ノ中山」に見ることができる。残念ながら 夜泣石は旧地に無く、跡地に設ける碑文によれば、「明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。」と書かれてる。ここにある博覧会とは明治14年(1881年)東京上野で開催された内国勧業博覧会のこと。”現在の位置”と曖昧な表現になっているのには理由がある。現在、夜泣石と呼ばれる大石が二つあるのだ。博覧会に出品された後、どんな経緯を辿ったのか真相を知る由もないが、夜泣石は国道1号沿いの小泉屋付近と、久延寺(掛川市佐夜鹿)の境内にある。




沓掛の坂
日坂宿の家並みが途切れれば、静岡県道415号を渡った先から”小夜の中山”の登りがはじまる。ここから沓掛の集落に至る坂道は”沓掛の坂”とも呼ばれた。上を通る高架道路は国道1号の日坂バイパス。


沓掛の坂
登り口には広重が描いた狂歌入の浮世絵「東海道五拾三次 日阪」を掲げる。


沓掛の坂
少し登ったところで振り返り。日坂バイパスを往来する車が眼下に。かつてこの辺り、街道筋に茶屋が並び坂口町と称していたようだ。今や茶屋跡は茶畑と化している。


沓掛の坂
ここを右に入れば日乃坂神社が鎮座。


日乃坂神社
ひっそりと山中に鎮座する日乃坂神社。この辺りの旧地名は沓掛、草鞋や馬の沓を山の神に手向け、道中の安全を祈願したとの慣習から地名がついたという。同じ地名が中山道の沓掛宿をはじめ、全国の旧街道筋に見られる。


二の曲りと沓掛の解説板
神社参道入口の路傍には”二の曲りと沓掛”の解説板が横たわる。


二の曲り
かつて”二の曲り”と呼ばれた沓掛の坂。曲がりくねって急坂が続く。


沓掛の坂
”二の曲り”を過ぎれば緩やかな上りに。


沓掛の坂
沓掛の坂上。ここが沓掛と呼ばれた集落と思われる。


小夜の中山旧道
旧道は緩やかになって周辺には茶畑が広がる。


東海道五十三次浮世絵碑
路傍にある東海道五十三次浮世絵碑。


夜泣石跡
そしてここが夜泣石跡。ここの道中央に夜泣石はあったのだ。伝説を東海道名所記から要約して紹介。
昔、日坂に住む妊婦が金谷の親を訪ねる道中で強盗に襲われ殺される。近辺に住む法師が憐れんで妊婦の腹から子を取り出し育てることに。その子は15歳になったときに寺を出て、池田宿のとある家で使用人となり、常に「命なりけりさよの中山」と口ずさんでいた。これを主が疑問に思って子に理由を問うと、子は自身の壮絶な出生について語る。主は話を聞いて大いに驚き、佐夜の中山で起きたその事件の犯人は隣の家の主だと教える。その夜、子は主の助力を得て親の仇討ちを果たしたという。

この妊婦の霊が乗り移り、夜毎に泣いたとされるのが夜泣石、その子は久延寺の法師に飴を与えられて育てられたと伝わる。


夜泣石跡
夜泣石跡の路傍には往時を偲び碑を設けている。


Tokaido_Hoeido_26_Nissaka_20161117233550d98.jpg
東海道五十三次之内日坂 佐夜ノ中山
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「日坂宿」より引用

広重の浮世絵に描かれる夜泣石。


小夜の中山旧道
浮世絵に近いアングルで夜泣石跡を撮影してみた。浮世絵に見える急坂は、かなり誇張が入っているような…。しかしここを実際に歩いてみれば広重の気持ちがわかろう。


芭蕉句碑
草むらの中に芭蕉句碑。
馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり


涼み松広場
旧東海道右手には涼み松広場。


妊婦の墓と涼み松広場
涼み松広場の向かいには妊婦の墓がある。


妊婦の墓
夜泣き石に乗り移った妊婦の墓。「古懐妊女夜泣松三界萬霊等」と刻む。


小夜の中山旧道
涼み松広場方面を振り返って。


壬生忠岑歌碑
壬生忠岑歌碑。
東路の さやの中山さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん


小夜の中山旧道
小夜の中山旧道。


白山神社
路傍には白山神社が鎮座。


芭蕉句碑
芭蕉句碑。
道のべの 木槿は馬に くはれけり


鎧塚
雑木林の中にひっそりと佇む鎧塚。建武2年(1335年)北条時行が建武政権に対し挙兵(中先代の乱)、北条方の名越邦時と鎮圧軍足利方の今川頼国が小夜の中山で戦闘になり、邦時は壮絶な討死を遂げる。頼国は邦時の武勇を称えここに塚を造り葬ったという。頼国も続く相模川での戦いで討死した。


鎧塚付近の旧東海道
鎧塚付近の旧東海道。


佐夜鹿神明神社
佐夜鹿神明神社。


蔦屋
小夜中山の集落に。右の家は”蔦屋”の屋号を掲げている。


佐夜鹿一里塚跡
佐夜鹿一里塚跡。江戸日本橋から56里目(約220km)、京三条大橋からは61番目で実測約299km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。両塚とも現存しないが小公園として整備される。現地設置の解説板には「東海道分間絵図」(元禄3年、1690年)にある日本橋から日坂宿までの距離(52里30町)を参考にすれば52里、「東海道宿村大概帳」(天保14年、1843年)にある同間の距離(54里26町)を参考にすれば54里に相当する一里塚と説明。


小夜の中山旧道
佐夜鹿一里塚跡付近、小夜の中山を行く旧東海道。


松田屋
松田屋の屋号を掲げる民家。かつては茶屋だったのかもしれない。


小夜の中山公園
小夜の中山公園に。


西行歌碑
公園の旧東海道沿いにある円柱状の西行歌碑。文治3年(1186年)西行が欧州の藤原秀衡を訪ねる途次、小夜の中山の道中で詠んだという歌を掲げている。。

年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山


小夜の中山公園
小夜の中山公園。古そうな石塔が点在している。


小夜の中山公園
公園最奥、石の広場。


小夜の中山公園
石の広場から南東方向を望む。尾根伝いに茶畑が広がる。


ツマグロヒョウモン
小夜の中山公園にて。ツマグロヒョウモンという蝶らしい。


御上井戸
公園敷地東辺にある御上井戸。慶長5年(1600年)会津上杉攻めに向かう徳川家康を、掛川城主山内一豊がこの井戸で水を汲み茶亭を設けて接待したと伝わる。茶亭跡と伝わる場所は久延寺境内にある。


元祖扇屋
小夜の中山公園に隣接してある元祖扇屋。名物は夜泣石の伝説にある子育飴。


子育飴
せっかくなので子育飴を頂く。琥珀色の水飴は砂糖を使わず大麦ともち米を原料にして作られ、懐かしさを感じる適度な甘みが峠越えの疲れを癒してくれる。


久延寺
真言宗久延寺。ここの和尚が夜泣石伝説にある妊婦の子を、飴を与えて育てたと伝わる。


夜泣石
境内にある夜泣石。背後には小さな弘法大師像が立つ。弘法大師は夜泣石にまつわる話を聞き、妊婦に同情して石に仏号を刻んだとも。国道1号沿いの小泉屋(掛川市佐夜鹿)近くにも夜泣石があり、どちらが本物なのかを特定するのも野暮なこと。夜に泣いた方が本物ということで。


茶亭跡
久延寺境内。奥の雑木林は山内一豊が徳川家康を接待したと伝わる茶亭跡。


小夜の中山旧道
久延寺を過ぎれば道は下りに転じ。


阿仏尼歌碑
坂の途中にある阿仏尼歌碑。
雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月


小夜の中山旧道
菊川に向けて下る箭置坂(青木坂)。


箭置坂
下り坂は菊川手前で急カーブ。


箭置坂
急カーブ地点から箭置坂上方向、なかなかの急勾配。上りは大変。


箭置坂
旧東海道はここを直進、石畳の道が復元されている。


箭置坂
箭置坂登り口、石畳が先へ進む意欲を駆り立ててくれる。下りきった先から間の宿菊川の家並み。


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間の宿菊川と菊川坂石畳

【2016年7月17日(日)旧東海道 日坂宿→金谷宿】
小夜の中山を越えれば菊川、山間を流れる同名の菊川を跨いで東海道筋に町家が軒を連ね、間の宿として往来する旅人で賑わった。菊川は近世東海道では宿駅になることは無かったのだが、中世以前は菊川宿と称した宿駅で、鎌倉期には源頼朝が上洛の途次に宿泊をしている。承久3年(1221年)に起きた承久の乱で、鎌倉幕府方に敗れ捕縛されたれる後鳥羽上皇方の中御門中納言藤原宗行は、鎌倉に護送の途次で菊川に宿泊し、宿の柱に「昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命」という辞世の漢詩を書き残したという。それから110年後の元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を企んだ元弘の変で、首謀者の廷臣日野俊基は捕らえられ、鎌倉へ護送の途次に菊川を通り、宗行の故事に追懐して一首の歌を詠み残した。

いにしへも かかるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん

東海道宿村大概帳に書かれる菊川は次の通り。
「下菊川村矢根鍛冶有之、此所立場にて餅水飴を商ふ、此所之名物也」
矢根(やのね)鍛冶とは矢尻を作る職人のことで、菊川には硬くて鋭利な矢尻を作る優秀な鍛冶がいることで知られ、江戸時代初期より五條才兵衛家が菊川で矢根鍛冶を生業にしていたが、元禄年間に断絶。跡を清次郎という者が継ぎ”五條鍛冶”の名を残したという。「此所之名物也」と書かれる餅水飴は”飴の餅”とも呼ばれ、小さくちぎり平たく丸めた搗き餅を焼き、竹の皮にその焼き餅五個並べ水飴を添えて客に出したという。近いうちに元祖扇屋で買った子育飴を使って飴水餅を再現してみたい。




四郡橋
箭置坂(青木坂)を下りきったところで横に折れ、四郡(よこおり)橋を渡って間の宿菊川へ。


箭置坂(青木坂)石畳
箭置坂(青木坂)上り口より坂上方向を望む。少しだけ石畳が復元されている。


間の宿菊川
旧東海道筋の家並みは静かな佇まい。


宗行卿詩碑・日野俊基歌碑
宗行卿詩碑と日野俊基歌碑。生きた時代は違えど鎌倉幕府の倒幕を企んだ藤原宗行と日野俊基、両者ともここで死を前にし、無念の思いで眠れぬ夜を過ごしたのだろう。


菊川由来の石
菊川由来の石。昔、付近の川から菊花紋の石が数多く出たことから川は菊川と名付けられ、地名の由来にもなったという。


間の宿菊川
菊川の中心部、旧東海筋に残る字は”町”と言う。かつて写真右手前から塗師屋房吉、桶屋直吉と続き、その隣りに掛川藩藩医戸塚順伯の屋敷があった。順伯の屋敷は現存しないが、生活用水や投薬用に使っていたとされる井戸を残しているらしい。渇水期にも水を満々と湛え、覗くと乳白色に濁って見えたことから柳井戸と呼ばれたという。乳白色=柳というのが腑に落ちないが、猫柳であれば合点がいく。


井村製茶
現地設置の町割り図によれば井村製茶の場所が菊川本陣跡らしい。菊川は近世東海道で宿駅ではなかったので茶屋本陣だったと思われる。


昔の菊川町割り図
因みにこれが現地設置の菊川の町割り図。3~5代前の人名だという。本陣の他に問屋場や脇本陣の記載も見られ、正式な宿場ではなかったが、それなりの機能は備えていたようだ。


高麗橋
菊川の集落を分断して流れる菊川。そこに架かるのが高麗橋で、昔は菊川橋と称する土橋だった。菊川から東側の字は”川向”。


菊川の辻
菊川の辻。三差路の分岐点に岩松寺への道を示す道標がある。岩松寺は遠江三十三ヶ所の二十五番所。


菊川の辻の道標
菊川の辻の道標。上部を復元して付け足している。「みぎ 二十五ばん道 下菊川村」と刻む。


菊川坂上り口
菊川坂の上り口に。ここから石畳の上り坂がはじまる。


オタマジャクシ
菊川坂上り口付近、民家の水溜めにて。オタマジャクシがいっぱい。


マツモムシ
オタマジャクシに混じってマツモムシの姿も。オタマジャクシを獲物に狙っているのだろう。


菊川坂上り口
石畳の菊川坂を少し登って振り返り。


菊川坂石畳
菊川坂石畳と菊川の町並み。


菊川坂石畳
菊川坂旧道。


菊川坂石畳
菊川の上り口から約160mは江戸時代後期に敷かれた石畳。


菊川坂石畳
江戸時代後期の石畳は上に見える解説板のところまで。その先は平成13年(2001年)に復元された石畳が続く。


菊川坂石畳
菊川坂の復元石畳。


菊川坂石畳
路傍に石畳復元事業協力者の芳名板を設置する。


菊川坂石畳
アスファルトの舗装路に並行して石畳が敷かれる。


菊川坂石畳
往時を偲ぶ菊川坂石畳。


菊川坂石畳10
石畳はこの先で終わり。菊川坂上は諏訪原城跡。


旧東海道 諏訪原城跡付近
諏訪原城跡の南側を通る旧東海道。


二の曲輪大手馬出
二の曲輪大手馬出(写真右手)と空堀。諏訪原城は天正元年(1573年)、武田勝頼が遠江侵攻の拠点として馬場信房に命じて築かせた山城。戦国時代に築かれた縄張りの遺構をよく残している。特に空堀の深さは圧巻。


諏訪神社
二の曲輪大手馬出に鎮座する諏訪神社。城名の由来となった武田家の守護神を祀る。


内堀とカンカン井戸
二の曲輪大手馬出と二の曲輪を隔てる外堀。堀底にはカンカン井戸が残る。


カンカン井戸
カンカン井戸。石組みされた古そうな井戸、何ゆえ”カンカン”なのかが分からない。


大手曲輪
諏訪原城の前線、大手曲輪。ほぼ跡地は茶畑に化す。


今福浄閑戦死墓塚
茶畑の中に佇む今福浄閑戦死墓塚の碑。


二の曲輪中馬出
二の曲輪中馬出。武田流築城術の特徴といわれる半円形の丸馬出と空堀の遺構をよく残す。


二の曲輪中馬出
中馬出から二の曲輪を繋ぐ二の曲輪虎口。


二の曲輪
諏訪原城二の曲輪。


本曲輪虎口02
二の曲輪と本曲輪を繋ぐ本曲輪虎口。


内堀
本曲輪と二の曲輪を隔てる内堀。その深さには圧巻、見応えあり。


本曲輪虎口
本曲輪虎口。奥が二の曲輪。発掘調査から薬医門を設けていたと考えられている。


本曲輪
最重要区画の本曲輪。


諏訪原城より金谷・大井川を望む
本曲輪より金谷市街と大井川を望む。


アルム珈琲店
諏訪原城跡の旧東海道沿いにある”アルム珈琲店”。佇まいに旧街道の雰囲気があっていい。ちょっと休憩に寄りたいところだが、日没まで時間がない。先を急ごう。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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