金谷宿

東海道五十三次之内金谷 大井川遠岸
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「金谷宿」より引用
【2016年7月17日(日)旧東海道 金谷宿】
菊川から石畳の金谷坂を下れば間もなく金谷宿、次に「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と言われた大難所の大河が控える。広重は「東海道五十三次之内金谷 大井川遠岸」の題で大井川の渡しと、遠く対岸の山間に金谷宿の家並みを浮世絵に描く。金谷宿は江戸日本橋から東海道五十三次を24宿目、京都三条大橋から30宿目。川越し場がある金谷河原町を加宿とし、江戸方から八軒屋・市ヶ島町・薮屋町・中町・下十五軒町・上十五軒町・本町・上本町・田町・新町と続く町並み。天保14年(1843年)当時、加宿を含めた町並み長さ東西16町24間(約1.8km)、人口4271人、家数1004軒、うち本陣3、脇本陣1、旅籠屋51軒。西に小夜の中山、東に大井川の難所を控えた宿場町だけに規模が大きい。本陣は柏屋・河村八郎左衛門家(一番本陣)、佐塚屋・佐塚佐次右衛門家(二番本陣)、山田屋三右衛門家(三番本陣)が務めた。名物は菜飯田楽、今は新金谷駅近くの”よし善”で食べることができる。

金谷坂下り口。ここからはじまる下り坂には、平成3年(1991年)「平成の道普請」で復元された全長430mの石畳を敷く。

金谷宿に向かって下る石畳。

振り返って下り口を望む。

金谷坂石畳。

坂の途中、路傍に”すべらず地蔵尊”の幟が見えてくる。

滑らないよう敷かれた石畳に因む”すべらず地蔵尊”。

”すべらない”お地蔵さんとして、多くの受験生が願掛けに訪れている。

すべらず地蔵尊から少し下った所、鶏頭塚と庚申堂がある。この庚申堂は現地設置の解説板によれば「徳川時代の大盗賊日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている。」とある。日本左衛門は歌舞伎「青砥稿花紅彩画」(白浪五人男)の日本駄右衛門のモデル。

この石碑が鶏頭塚。江戸時代中期の俳人太田巴静は松尾芭蕉に師事、遠江に蕉風の俳諧をもたらし、多くの門人を抱えた。金谷の門人たちは巴静の死後にその徳を偲びこの句碑を建てた。当初は金谷坂入口の北側にあったが、道路工事等によって場所が変遷し、現在は金谷坂途中にある。
曙も 夕ぐれもなし 鶏頭華

鶏頭塚から少し下がった所にお足地蔵。足の病にご利益があるとされるお地蔵様なのだが、お足(お金)に困らないことにもご利益があるらしい。商品等の売れ行きがよいことを「足が早い」ということに因むのだろう。

石畳茶屋前で石畳は途絶える。

石畳茶屋。訪れた時間が18時近く、入口の門は閉じられ休憩に立ち寄ることはできず。

せめて外観だけでも。古民家風の素敵な店だ。

金谷坂は国道473号によって分断、いったん途切れる。

国道473号で途切れた旧東海道はすぐに現れ、金谷宿へ向かって下る。

金谷宿に近づくにつれ沿道には古い家が見え始める。

金谷宿の京方入口にあたる不動橋。江戸時代には土橋で、西入口土橋や金谷大橋と呼ばれる。橋の北袂に”たばこ屋善五郎"の休茶屋があり、金谷坂を下ってきた大名行列はこの休茶屋で身なりを整え宿場に入った。

不動橋南詰の金谷坂。

旧東海道は金谷駅に向かって途切れる。

金谷駅付近には金谷一里塚跡。その跡地はちょうど東海道本線が通って撤去されたのか、両塚とも現存しない。解説を書く立て札が跡地を示す。解説板によれば江戸日本橋から53里目(約208km)とあり、京方隣りの佐夜鹿一里塚が56里なのだから、そこから約1里(約4km)東側に位置するここは55里となるはず。江戸時代に東海道の所々でルートが変わっているのが原因と思うが、どこで距離に誤差が生じることになったのか、実測を図ってみて検証が必要だ。京三条大橋からは62番目で実測約303km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

定飛脚問屋浅倉屋何右衛門(三度屋)跡。江戸と京・大坂を定期的に往復する飛脚は”三都定飛脚”とも言われ、三都間を三回往復する飛脚を”三度飛脚”、取扱所を”三度屋”と呼んだ。金谷宿田町にはここと斜向かいに黒田屋重兵衛(治助)の定飛脚問屋があった。

お七里役所(七里継御状箱御飛脚小屋)跡。紀州徳川家専用の飛脚継立所で、江戸から和歌山の間、七里(約28km)毎に23ヶ所設けられたうちの一つ。ここから飛脚を使い京方は掛川宿、江戸方が丸子宿へ重要書類を継ぎ送った。幕府の継飛脚、民間の定飛脚に対して大名飛脚や七里飛脚とも呼ばれた。

金谷宿本町にあった柏屋本陣(一番本陣)跡。江戸時代初期より代々河村八郎左衛門家が務めた。嘉永7年(安政元・1854年)に発生した安政東海地震で半壊、本陣を廃業し後は旅籠屋を営んだ。

佐塚屋本陣(二番本陣)跡。江戸初期より佐次右衛門の名を継ぎ明治まで本陣を務めた。入口には対の鯱を屋根に載せる”鯱の御門”があり、佐塚屋本陣を象徴していたようだ。慶応4年(1868年)明治天皇が御東幸の折、お昼休みに立ち寄っている。現在は佐塚屋書店。

佐塚屋書店から1軒挟んで右隣、時計・メガネ・宝飾を扱う”オオツカ”という店がある場所が山田屋本陣(三番本陣)跡。江戸時代初期から中期にかけて山田屋は脇本陣格だったが、江戸後期には本陣格に格上げされていた。安政東海地震で佐塚屋本陣と共に全壊したという。

静岡銀行付近、金谷宿中町の町並み。

中町の旧東海道筋に鎮座する秋葉神社。

清水川に架かる清水橋。かつては志水土橋。

清水橋と大代橋の間は、金谷扇町の町並み。宿場時代には薮屋町と称した。

大代川に架かる大代橋。かつては大代土橋。

大代橋東詰、金谷泉町の町並み。宿場時代には市ヶ島町と称し、東端に宿場入口の見附土居を設けていた。

最後は大覚寺裏の跨線橋より。夕闇に沈みゆく金谷宿を一望。そろそろ帰ろう。
【旧東海道歩き 第22日目】スマイルホテル掛川→掛川城下→日坂宿→金谷宿→金谷駅 歩行距離約18km

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