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宝来町と高田屋嘉兵衛

箱館市中細絵図
箱館市中細絵図
「函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ」より引用

年の瀬もいよいよ押し迫った2016年の12月28日、年末恒例の函館散策をすべく上野駅から”はやぶさ1号”に乗車して函館入り。今回は函館ゆかりの偉人で、司馬遼太郎の歴史小説「菜の花の沖」の主人公、高田屋嘉兵衛の足跡を辿りつつ、宝来町を中心に散策してみよう。

明和6年(1769年)淡路島の都志本村(現 兵庫県洲本市五色町都志)に生まれた高田屋嘉兵衛は、28歳の時に千五百石積の北前船”辰悦丸”を建造し、拠点を蝦夷地箱館に置き活躍した廻船商人。享和2年(1802年)幕府はロシアの南下政策に対応すべく東蝦夷地を直轄とし、高田屋嘉兵衛を定雇船頭に登用、嘉兵衛は千島列島方面の北方航路を開拓し、多くの漁場を得て一代で豪商にまで登り詰めた。通商を求めるロシアとその要求を拒否する日本の間で緊張が高まる中、文化8年(1811年)ロシアのディアナ号艦長ゴローニンが国後島で松前奉行配下の南部藩兵に捕縛され、松前で幽閉の身に。世に言うゴローニン事件である。翌年にゴローニンを救出すべく国後・択捉島沖に現れた副艦長リコルドは、嘉兵衛が乗る船を拿捕してカムチャッカへ連行する。嘉兵衛とリコルドは寝起きを共にして解決策を模索、両国の仲介役として尽力しゴローニンを釈放させ事件の解決を成し遂げた。

文化11年(1814年)嘉兵衛は兵庫の本店に戻り、その4年後には淡路島へ帰郷し、文政10年(1827年)に59歳で死去。高田屋の経営を継いでいた弟の金兵衛は、松前藩の御用商人等を務めて隆盛を極めるが、天保4年(1833年)にロシアとの密貿易の嫌疑をかけられたことを機にして財産や土地を失い没落。高田屋の罪が許されるのは明治になってからで、明治44年(1911年)には嘉兵衛の功績を称え正五位が贈られている。

函館市の宝来町(旧 蓬莱町)一帯は寛政13年(享和元、1801年)金兵衛が5万坪もの敷地を拝借し、その一角に大きな庭園を持つ豪壮な屋敷を構え、拝借地には数棟の米蔵や別荘、長屋敷、馬屋、道具庫などを設けて高田屋御殿とも称された。文政年間(1818年~30年)に作図された箱館市中細絵図(上図)の左上にその広大な敷地が見て取れよう。高田屋が函館を去って明治になると、山ノ上町から高田屋の拝借地跡に遊廓が移って蓬莱町遊廓が形成され、更に女子教育の機運が高まり、遊廓の一角にあたる屋敷跡には芸娼妓たちの教育を目的として女紅場(じょこうば)が設立される。しかし女紅場は明治11年(1878年)の開場からわずか10年で廃止、その後はビアホール等に利用されたらしいが、明治40年(1907年)の大火で建物は焼失したという。現在は高田屋屋敷や女紅場を偲ぶような遺構は見られず、「高田屋屋敷跡」の碑と解説板が建ち、近くの高田屋通中央分離帯には函館山を背にした高田屋嘉兵衛の銅像が凛として立ち、大きく姿を変えた函館の町並みを見守っている。




函館駅
東京から新幹線を使えば「はるばる来たぜー」とはならない函館駅。上野駅から”はやぶさ1号”に乗れば昼前には函館に着くのだから。時の流れを感じます。


函館駅と函館山
函館駅から朝市と函館山を望み。例年なら雪が積もっているのに、今年は雪が無い!


鮨処はこだて
朝市にある”鮨処はこだて”で昼飯にしよう。


イカ・うに・ホタテ丼
私の大好物、イカ・うに・ホタテの3品をチョイスして丼ぶりに。至福のひと時。


蟹商にて
朝市の蟹商で身入りの良さそうなタラバガニを選別して購入。これも年末の恒例行事。


十字街停留所
函館駅前から市電に乗車して十字街停留所へ移動。


十字街停留所
函館市電719号が停車する十字街停留所。


十字街停留所
昔ながらのチンチン電車。


坂本龍馬像
十字街停留所で降りてまず目に留まった坂本龍馬像。函館に龍馬が訪れた事実はないはずだが、「はるばる函館に来たぜよ」と言っているかのよう。


異国橋跡
十字街停留所東側の交差点が異国橋(永国橋)跡。セブンイレブンの駐車場に異国橋の案内板を設けている。


堀割(願乗寺川)と異国橋跡
異国橋(永国橋)跡より南方、堀割(願乗寺川)跡の 銀座通りを望む。


十字街停留所
十字街停留所で行き交う谷地頭行と湯の川行の函館市電。


恵比寿橋跡
銀座魚菜市場が角にある交差点が恵比寿橋跡。橋名は旧町名の恵比須町(現 函館市末広町)に由来。


恵比寿橋跡02
恵比寿橋跡の西袂から堀割跡を望む。かつては写真の交差点左右方向(銀座通り)が函館湾と蓬莱町遊廓を繋ぐ堀割、奥に向かって恵比寿橋が架けられ、その南詰(交差点の道路右辺り)で亀田川から分水された水路(願乗寺川)が流れ込んでいた。


堀割(願乗寺川)跡
恵比須橋と御蔵橋間の堀割(願乗寺川)跡。ここを亀田川から分水された願乗寺川が流れていたとは誰も思わないだろう。


御蔵橋跡
ここが御蔵橋跡。写真手前から奥にかけてが堀割(願乗寺川)跡、左右方向の道が交差する地点に御蔵橋が架けられていた。橋南詰に御蔵所があっとことに橋名の由来があるのだろう。御蔵所の元は高田屋の米蔵と思われる。


本願寺函館別院
本願寺函館別院。元は願乗寺があった場所で、入口前に願乗寺橋が架けられていた。


谷地坂
宝来町8交差点から函館山に向かって延びる道は谷地坂。谷地頭方面へ通じていることから坂名が付いた。


登仙橋跡
宝来町を通る道道675号。末広町7交差点から40m程南側にあたるこの辺りが遊廓堀割に架かっていた登仙橋跡で、遊廓正面入口をなしていたと思われる。かつては遊廓の周囲に堀割を巡らして区画し、登仙橋をはじめ5つの橋が架けられていた。


登仙橋跡02
登仙橋と遊廓掘割跡。”印度カレー小いけ”横の小路が掘割跡、 登仙橋は写真手前の道路上に架かっていたのだろう。


蓬莱町遊廓掘割跡
遊廓北辺の堀割跡。現在は埋め立てられ名も無い小路に。


小島橋跡
”ホテルWBFグランデ函館”の南側、銀座通りと高田屋通が交差する辺りが遊廓内にあった小島橋跡。写真交差点奥が高田屋屋敷跡で、明治初期に女紅場があった場所である。


明治11年開設女紅場(旧高田屋屋敷)
「異国橋」案内板より引用
明治11年(1878年)に開設された女紅場。建物は高田屋屋敷の別荘を補修して教場に再利用した。写真手前に見える木橋が小島橋なのだろう。


高田屋屋敷跡
小島橋跡より高田屋屋敷(女紅場)跡を望む。小島橋跡東袂にあたる場所に「高田屋屋敷跡」の碑と解説板が設けられている。


高田屋屋敷跡
高田屋屋敷(女紅場)跡より小島橋跡方面。現在の屋敷跡は高田屋通が東西に貫いている。


松源
割烹料理店”松源”。現在は営業をしていないが、数少ない蓬莱町の往時を偲ばせる建物を残す。


千秋庵総本家本店
旧蓬莱町の高田屋通沿いにある千秋庵総本家本店。創業が万延元年(1860年)という老舗和菓子店。

出てきた 出てきた 山親爺(やまおやじ)ー
笹の葉かついで シャケしょってー
スキーにのった山親爺ー
千秋庵の山親爺♪

道民ならこの曲を知らぬ者はいないであろう。札幌千秋庵製菓はここから暖簾分けされた。


高田屋嘉兵衛像と函館山
高田屋通の中央分離帯に立つ高田屋嘉兵衛像。函館山を背景に凛々しいお姿。


護国神社坂
高田屋通から護国神社に向かって上る護国神社坂。


茶房ひし伊
末広栄町通沿いにある”茶房ひし伊”。函館では珍しい袖蔵を持つ土蔵造りのような建物の元は入村質店。江戸時代から昭和初期にかけて多くの大火に遭った函館だけに、質入れの品物を守るため耐火建築を取り入れたのだろう。土蔵は明治38年(1905年)と大正10(1921年)に建造された2棟があり、喫茶店とアンティークショップに利用されている。


茶房ひし伊
”茶房ひし伊”の軒行灯。


茶房ひし伊
”茶房ひし伊”前の末広栄町通は、かつての遊廓堀割の西辺にあたる。


宝来町停留所03
蓬莱町遊廓跡にある函館市電の宝来町停留所。


あさり坂
宝来町20交差点から函館山へ向かって上る”あさり坂”。坂名の標柱上には小鳥の像を置いているのだが、これを捕らえたかのように本物のカラスが得意満面な感じで、何となく可笑しい。

”あさり坂”という名の由来は、明治11年(1878年)のこと。イギリスの地震学者とアメリカの動物学者が市中で貝塚を発掘、貝塚からアサリの貝殻が多く出たことから、付近を通っていたこの坂を”あさり坂”と呼ぶようになったという。坂の上り口には明治34年(1901年)創業の肉屋”阿さ利本店”があり、現在はすき焼きやコロッケの名店として知られる。


海峡通り
宝来町から海峡通りに戻り。


十字街停留所
再び十字街停留所へ。異国橋跡から函館湾側の川筋を辿ってみよう。


武蔵野楼跡02
ガソリンスタンド(池見石油店)がある場所が武蔵野楼跡。六ノ橋東詰にあった武蔵野楼は幕末から明治初期にかけて名を馳せた妓楼で、明治2年(1869年)新政府軍による箱館総攻撃の前日、榎本武揚をはじめとする旧幕府脱走軍の幹部たちが別杯を交わしたという。武蔵野楼は明治8年(1875年)に妓楼をやめて料理屋兼旅館に転身、台町と蓬莱町に移転した。


武蔵野楼古写真
「函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ」より引用
移転直前に撮影された武蔵野楼。写真に見える橋は”元橋”と思われる。


開拓使函館第16大区02
「函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ」より引用
開拓使函館第16大区の一部を抜粋。明治9年~12年の作図とされる。六ノ橋の袂、堀割角に武蔵野楼は大きな敷地を持っていることがわかり、武蔵野清次郎という名が見える。


函館港名家及実業家一覧地図(明治30年代)
「函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ」より引用
明治30年代の函館港名家及実業家一覧地図。蓬莱町繁華街の中心部に武蔵野という店があり、これが妓楼から料理屋兼旅館に転業した武蔵野楼と思われる。現在の”あさり坂”の道と銀座通りの交差点付近が武蔵野跡にあたる。


高田屋嘉兵衛資料館
旧船場町(現 函館市末広町)にある高田屋嘉兵衛資料館。ここは高田屋の造船所があったとされる場所で、現在は後に建てられた海産商の旧コンブ倉庫2棟を資料館として利用している。高田屋嘉兵衛の生涯を垣間見る資料が展示されており、中には遊女から高田屋宛てに書かれた恋文も。受取人が嘉兵衛ではないかといわれるが、真相は如何に。


箱館丸
今回の函館散策の最後は函館西埠頭に展示する箱館丸で。高田屋嘉兵衛の船大工だった続豊治により建造された西洋式帆船で、ここにあるのは昭和63年(1988年)に開催された青函博で復元展示されたもの。


箱館丸と函館山
箱館丸と函館山。


撮影日:2016年12月28日(水)

【 参考サイト 】
北方歴史資料館
http://takadayakahei.com/
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2016年の年末、沼牛駅

旧深名線の沼牛駅にとって大きな転機となった2016年も終えようとする12月30日(金)、復活を記念するお披露目会から早いもので約2ヶ月が過ぎ、豪雪の季節を迎えた沼牛駅がどうなっているのか気になり再訪することに。お披露目会での賑わいが幻だったのかと思えるほど、ひと気のない沼牛駅は雪に埋もれひっそりと佇んでいた。これからの展開に期待しつつ、沼牛駅から幌加内市街・政和・添牛内と、徐々に消えゆく深名線の名残りを辿りつつ、最後は”せいわ温泉ルオント”で冷えた心と体を温めて。




現役時代の沼牛駅
現役時代の沼牛駅
JR深名線資料展示室の展示パネルより引用


沼牛駅
沼牛駅はお披露目会から約2ヶ月が経ち、周りの風景は一変の冬景色に。


沼牛駅
駅舎は雪に埋もれ、北国の廃駅らしい雰囲気。


沼牛駅
駅舎入口の窓から中を覗いてみる。お披露目会で賑わったのが嘘のような静けさ。


沼牛駅
厳冬を迎えた沼牛駅。佇まいが何とも表現しがたい魅力を感じる。


沼牛駅前
沼牛駅前には工事現場仮設事務所のプレハブ小屋が設けられていた。


沼牛駅
さすがは豪雪地帯。


沼牛駅構内
沼牛駅構内。やはりキハ53形か54形、もしくはキハ40形気動車が展示してあれば絵になるのになあ。


沼牛駅前
沼牛駅前広場と旧駅前通り。


旧沼牛駅前通り
ほとんど車も人も通らない旧沼牛駅前通り。


幌加内町交流プラザ
沼牛駅から幌加内市街にある幌加内町交流プラザへ。


JR深名線資料館
幌加内町交流プラザにあるJR深名線資料館へ久々の見学に。


JR深名線資料館
ここは深名線の歴史を知れる唯一の資料館。


JR深名線資料館
深名線に関する貴重な史料を展示する。


JR深名線資料館
往時を偲ばせる貴重な品々。


JR深名線資料館
幌加内駅に掲示されていた発車時刻表と普通旅客運賃表。


JR深名線資料館
幌加内駅の乗車券箱。


JR深名線資料館
何度来ても飽きないJR深名線資料館。


小樽新聞
資料館に展示する昭和7年10月25日発行の小樽新聞。添牛内駅 ~朱鞠内駅間が延伸開業し、幌加内線(後の深名線)が全通したことを記事に書く。見出しは「祝 幌加内線全通 雨竜の山野に鉄輪のひびき」、当時の歓喜が伝わってこよう。


旧政和駅
幌加内町交流プラザから国道275号を北上、旧政和駅に。


旧政和駅
そば屋として再利用された旧政和駅駅舎。それも廃業して今は野ざらしに建物を残す。


旧政和駅
これからも長く残っていてほしい国鉄時代の駅舎。


旧政和駅構内
旧政和駅構内、幌加内方面。ただひたすらに雪原が広がる。


旧政和駅前
旧政和駅と駅前に残る農業倉庫。


旧政和駅構内
旧政和駅構内、朱鞠内方面。


旧政和駅前
かつて駅前にあった幌加内町開基七十周年の記念塔が懐かしい。


旧政和駅前のガソリンスタンド跡
旧政和駅前のガソリンスタンド跡。


旧政和駅前国道
旧政和駅前の国道275号、更に北上して添牛内まで足を延ばそう。


旧添牛内駅
そしえ旧添牛内駅へ。駅前の旧山前家とともに健在だったことに一安心。


旧添牛内駅
雪に埋もれる旧添牛内駅。


旧添牛内駅04
積雪に耐える姿には感動すら覚える。しかし、建物は歪みつつありこのままでは倒壊を免れないだろう。何とかしてあげたい。


旧添牛内駅構内
旧添牛内駅構内、朱鞠内方面。


旧添牛内駅前
旧添牛内駅前には旧山前家の1軒が残るのみ。


旧添牛内駅構内
旧添牛内駅構内、幌加内方面。


旧添牛内駅前
旧添牛内駅前。雪解けを待ってまた来よう。


現役時代の添牛内駅
現役時代の添牛内駅(JR深名線資料展示室の展示パネルより引用)

今も往時の姿をよく留めていることがわかる。


旧杉浦商店
添牛内駅があった新市街から旧市街へ移動。ここは国道沿いの旧杉浦商店。


添牛内神社入口
1年4ヶ月ぶりの再訪、真冬の添牛内神社。


添牛内神社
さて参道を歩いて添牛内神社へ…と思ったが、入口は雪の壁が遮り。


添牛内神社参道
正月を間近に迎えているにもかかわらず参道は雪に埋もれ。


添牛内神社
社殿後方から神社を拝むしかない。


浄念寺
添牛内神社入口向かいにある浄念寺。


浄念寺
添牛内地区の過疎化が進んで檀家が減少、半年前に残念ながら浄念寺は廃寺となってしまった…。


添牛内地区公民館
添牛内地区公民館も今は使われている様子はなく。


添牛内バス待合所
真新しい添牛内バス待合所に待つ人はいない。鉄道を無くすということは、こういうことなのだ。


せいわ温泉ルオント
”せいわ温泉ルオント”で心と体を温めて帰ろう。


撮影日:2016年12月30日(金)
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留萌本線(留萌駅~増毛駅間) 廃止されて大晦日を迎え

2016年は留萌本線にとって激動の年だったといえよう。12月4日の運行をもって廃止された留萌本線(留萌駅~増毛駅間)は、最終運行日が近づくにつれて廃線ブームが加熱、乗客が増加するとともに多くのテレビや紙面で取り上げられ、挙句の果てには予土線の半家(はげ)駅(高知県四万十市)から増毛駅まで鉄道で旅する頭髪ツアーまで現れた。そんな熱狂的に盛り上がった最終運行日から約1ヶ月を経た大晦日、留萌本線(留萌駅~増毛駅間)がどんな様子になっているのかを見たく訪ねてみることに。




旧瀬越駅
留萌駅の隣り、旧瀬越駅へ。


旧瀬越駅
柵が設けられ立入禁止に。


旧増毛道踏切
駅に隣接していた旧増毛道踏切。


旧増毛道踏切
旧増毛道踏切より留萌駅方面。道路上には鉄路が残るが、その先は雪に埋もれ。


旧瀬越駅
待合所の入口はベニヤ板で塞がれる。


旧瀬越駅
ホーム上にあった駅名標は見当たらない。


旧礼受駅
次は旧礼受駅。積雪で駅に近づくこともできず…。駅舎に掲げていた「ありがとう!!JR留萌線 留萌~増毛間 礼受駅」と書いた手作りの貼紙を思い出す。


旧阿分駅
礼受駅の隣り、旧阿分駅。


旧阿分駅
ホーム上には雪が積もり。


旧阿分駅
駅前の阿分小学校は3月に閉校、それから9ヶ月経って阿分駅も廃止に。


阿分トンネル
阿分駅と信砂駅間の阿分トンネル。入口は柵で閉じられていた。


信砂川橋梁
阿分トンネルを抜ければ信砂川橋梁。ここで事故に遭い命を落とした人たちは今に何を思うのだろう。


信砂川橋梁
信砂駅付近から信砂川橋梁を望む。


旧信砂駅
旧増毛妹背牛線踏切と信砂駅。板敷ホームは雪に埋もれ。


旧信砂駅
11月にここで下車したのが遠い昔のように感じる。


信砂駅前
信砂駅前。駅を失い過疎化が進むのだろうか。


旧舎熊駅
信砂駅からわずか800mの増毛方にあった旧舎熊駅。


旧舎熊駅前
旧舎熊駅前は雪捨て場となり。


旧朱文別駅
旧朱文別駅。列車1両分の長さしかない短いホームが印象的でした。


朱文別踏切跡
駅横にあった朱文別踏切跡。もう列車は通りません。


旧箸別駅
増毛駅の一つ手前、旧箸別駅。


旧箸別駅前
旧箸別駅前広場は資材置場に。


箸別川橋梁
箸別川橋梁。


箸別川橋梁
橋梁上には雪が降り積もる。いずれこれも撤去されるのだろう。


箸別川橋梁と箸別駅
箸別川橋梁と旧箸別駅。


旧増毛駅
留萌本線のかつての終着、旧増毛駅。


旧増毛駅
廃止後も駅名板が掲げられ、最終運行当日と変わらない様子。


旧増毛駅
年末年始で孝子屋は休みだったが、駅舎内にも大きな変化はない。


増毛駅ノート
増毛駅ノートも健在。


旧増毛駅構内
旧増毛駅構内。ホームや鉄路は雪に埋もれ、12月4日の賑わいが嘘のような静けさ。


旧増毛駅構内


多くの人が最後の列車を見送ったのも今や昔な感。


旧増毛駅構内
かつての終着駅を偲ばせる車止め。鉄路は剥がされても、これだけは残っていてほしい。


旧増毛駅前
増毛駅が廃止されるという激動の年となった2016年大晦日、多くの人で賑わった増毛駅前は静けさを取り戻していた。


旧増毛駅
旧増毛駅を後にして留萌へ戻ろう。


第10留萌川橋梁と福港橋梁
留萌駅の西側、どちらも廃橋となってしまった第10留萌川橋梁と福港橋梁。


第10留萌川橋梁
第10留萌川橋梁の横には道路橋の橋桁が残る。


港東踏切
第10留萌川橋梁と留萌駅の間、港東踏切。既に遮断機は撤去されていた。


留萌駅
留萌本線の終着駅となってしまった留萌駅。かつては羽幌線の起点で、乗換駅でもあったのだが。


撮影日:2016年12月31日(土)
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留萌本線 北秩父別駅と秩父別駅

留萌本線の廃線区間(留萌駅~増毛駅間)を訪ねた後、留萌本線を深川方面へ辿りながらから秩父別町に移動。町内にある北秩父別駅と秩父別駅をメインに記事に書いておこう。深川市の西隣に位置する秩父別町は、”秩父別”と書いて”ちっぷべつ”と読ませる難読地名、アイヌ語の「チックシベツ」(通路のある川)に由来があるといい、現在は人口2400人程の農業を基幹産業とする米の産地である。ふるさと納税をすれば納税額に応じて”ななつぼし”や”ゆめぴりか”といった秩父別産のお米が返礼されるので、興味のある方は秩父別町ホームページを参照してほしい。

そんな秩父別町内の中心をなすのが秩父別駅。明治43年(1910年)留萠線深川駅~留萠駅間の開通に伴い開業、当初は筑紫駅(ちくしえき)という駅名だったが、昭和29年(1954年)現駅名に改称した。当初は貨物・荷物を取り扱う有人駅で、昭和59年(1984年)に無人(簡易委託)化、現在は切符販売の簡易委託も無い完全な無人駅となっているが、国鉄時代の木造駅舎を残し往時を偲ぶ。その留萌側のお隣が田園地帯に佇む北秩父別駅、昭和31年(1956年)に北秩父別仮乗降場として開業し、昭和62年(1987年)国鉄からJR北海道に継承された際に駅へ昇格した。




第8留萌川橋梁
留萌駅から秩父別町へ移動する途次、第8留萌川橋梁(大和田駅付近)を走るキハ54形気動車を撮影。この1両編成が増毛まで行くことはもう無いのだ。


幌糠駅
幌糠駅に立ち寄り。


幌糠駅ノート
駅舎内にある幌糠駅ノートは健在でした。


恵比島駅前
恵比島駅前。NHK朝ドラ「すずらん」のセット、明日萌駅と中村旅館が昭和ノスタルジーを誘う。


明日萌(恵比島)駅
ドラマのセットである明日萌駅(中央)と本物の駅の恵比島駅(右端)。


北秩父別駅
田園地帯にポツンとある北秩父別駅。単式ホームに待合所を設けるだけの無人駅。


北秩父別駅
板張りに古さを感じさせる待合所。


北秩父別駅
運賃表や時刻表を掲示する待合所内。停車する列車は1日に深川方面4本、留萌方面2本のみ。なかなかの秘境駅。


北秩父別駅
昭和31年(1956年)開業、仮乗降場を出自に持つ北秩父別駅。


北秩父別駅
駅の横を農道が通り、線路との交差点には秩父別1丁目踏切を設ける。


秩父別駅
秩父別町の中心をなす秩父別駅。国鉄時代の木造駅舎を残し、時の流れが止まっているかのような佇まい。


秩父別駅
手書きの駅名板に味わいがある。


秩父別駅
厳寒地だけに駅舎内にはストーブを置く。


秩父別駅
かつての切符売場や荷物取扱窓口は板で塞がれている。


秩父別駅
「来たれ!深川東高校」のポスター。


秩父別駅構内
秩父別駅構内。


秩父別駅構内
秩父別駅を雪煙を上げながら除雪車が通過。


秩父別駅前
秩父別駅から延びる駅前通り。


秩父別駅前通り
駅前通りは商店街を形成するわけでもなく、民家が沿道に並ぶ。


秩父別温泉
駅近くにある秩父別温泉”ちっぷ・ゆう&ゆ”。ひとっ風呂浴びて帰ろう。ここの電気風呂はキテレツなのだ。


秩父別駅10
2017年元旦、秩父別駅に停車するキハ54形気動車。


秩父別駅付近
深川行列車が秩父別駅を後に。


撮影日:2016年12月31日(土)、記事最後の2枚は2017年1月1日(日)
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留萌本線 深川駅と北一已駅

留萌本線の起点、深川駅。函館本線の主要駅であり、かつてはここから深名線も分岐していた。開業は明治31年(1898年)、現駅舎は昭和35年(1960年)の改築。駅に併設の物産館で買える深川名物”ウロコダンゴ”は、明治43年(1910年)深川駅~留萌駅間が開通したことを記念して、大正2年(1913年)から販売がはじめられた、実に100年以上も続く北海道でも有数の歴史ある和菓子なのだ。現在も市内の高橋商事が製造販売を続け、高橋商事直営のウロコダンゴ本舗をはじめ、道の駅や旭川駅等で買うことができるので、機会があればご賞味を。子供の頃から慣れ親しんだ味だけに思い入れが深い。

深川駅から留萌本線の一駅目が北一已駅。この難読駅名は”きたいちやん”と読む。所在地の”一已”という地名は、アイヌ語の「イチャン」(ホリ・鮭マスの産卵場)に由来するという。留萌本線の開業から遅れること45年後の昭和30年(1955年)開業、駅舎は深名線の宇津内駅(昭和24年に仮乗降場へ降格)を解体移築したもの。当初は有人駅だったが昭和59年(1984年)無人駅に。平成26年度のJR北海道の資料によれば、乗車人員1日平均が1名以下だという。


深川駅
函館本線の主要駅であり、留萌本線の起点となる深川駅。


深川駅
昭和57年(1982年)頃の深川駅。現在の駅舎と構造は同じだが、外壁や駅名標が違い印象が随分と異なる。


深川駅舎内
元日だけに駅舎内は閑散。物産館も休店日で”ウロコダンゴ”は買えず…。


深川駅
函館本線の主要駅らしい風格の深川駅。


深川駅前通り
深川駅前から延びる駅前通りの道道284号(深川停車場線)。さすがに人や車も少ない。


深川駅前通り
駅前通りの先に音江連山が望める。


北一已駅
深川駅から留萌本線の一駅目、北一已駅。深名線宇津内駅の駅舎を移築したという木造駅舎が、北海道のローカル線らしい佇まい。


北一已駅構内
駅舎の構内側。かつては改札が設けられていたはず。1日に1人が乗降するかどうかの駅ながら、なかなか立派な駅舎である。


北一已駅
北一已駅の駅名標。


北一已駅
駅舎内は切符の販売窓口や荷物取扱窓口の面影を残す。


北一已駅改札口
駅舎内改札口。


北一已駅ノート
駅舎内にある北一已駅ノート(仮)No.3。何ゆえか(仮)となっている。せっかく縁あって元日に来たのだから、書き込んでおこう。


北一已駅ノート02
北一已駅ノートが(仮)となっている理由がここに。本物は何者かに持ち去られたらしい。いったいこんな物を盗んでどうするのか、ここを訪れた旅人の思い出を返してほしい。


留萌本線北一已駅~秩父別駅間03
厳冬の銀世界をひた走るキハ54形気動車(秩父別駅~北一已駅)。


撮影日:2017年1月1日(日)
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札沼線(学園都市線) 新十津川駅

留萌本線(留萌駅~増毛駅間)が廃止されて、次にJR北海道から切り捨てられるのはここではないかと、実しやかに囁かれるのが札沼線(北海道医療大学駅~新十津川駅間)である。現在、浦臼駅~新十津川駅間は午前中の9時台に1日1往復が運行されるのみで、もはや存続している意味があるのかと思うほど。つまり終着の新十津川駅で列車に乗り遅れると、次の列車がやってくるのは約24時間後なのだ。せっかくこれだけ空き時間があるのなら、別の利用法が無いのかと考えてしまう。例えば沿線の月形温泉の源泉を汲んで温泉列車を走らせて動く露天風呂にするとか、水郷潮来の嫁入り舟ならぬ”嫁入り列車”を運行するとか、それが難しいなら中国人旅行客の便を図るべく、駅名標や様々な案内板に中国語を付記するだけでも、何もない田園地帯に洗肺目的で中国人が訪れるかもしれない。ただ廃線を待つだけではなくアイデア次第で様々な活用法があるはず。

札沼線は昭和10年(1935年)に桑園駅を起点とする札沼南線の石狩当別駅と、石狩沼田駅を起点とする札沼北線の浦臼駅間が開通し、札幌市から沼田町を繋ぐ鉄道が全通して札沼線と改称された。路線名は札幌の”札”、沼田の”沼”から取って名付けられたものだが、昭和47年(1972年)の新十津川駅~石狩沼田駅間が廃止され、現在は札幌近郊の沿線に北海道教育大学札幌校や北海道医療大学当別キャンパスがあることから、学園都市線の愛称で呼ばれている。この路線の特徴は北海道医療大学駅を境に南側は札幌市圏の通勤・通学路線として利用客が多い黒字路線、その北側は特に都市や名所も無い北海道随一の赤字ローカル線と化していることである。まずは札沼線の終着駅、新十津川駅を訪ねてみよう。




新十津川駅
札沼線(学園都市線)の終着、新十津川駅。開業は札沼北線が当駅まで開通した昭和6年(1931年)、当初は中徳富駅という駅名だったが、昭和28年(1953年)現駅名に改称された。ここから直線距離で約2.5km、石狩川を挟んで対岸に函館本線の滝川駅があり、新十津川駅を利用するよりも、バスで滝川駅へ行った方が交通の便がよく現実的な選択肢。


新十津川駅
駅舎出入口には正月らしい飾り付け。新十津川駅は1日1往復しか列車がやって来なくとも、地元住民にとっては外と内を繋げる大事な場所なのだ。


新十津川駅駅舎内
駅舎内の旧改札口。


新十津川駅発車時刻表と運賃表
発車時刻表と運賃表。1日1往復、始発であり最終の列車が9:40発石狩当別行。


新十津川駅駅舎内
新十津川駅にて。終着駅到達証明書を発行してもらえるほど、ここに汽車で来るのは困難なのだ。新十津川駅特製のストラップを無料配布しており、旅行者には至れり尽くせり。


新十津川駅駅舎内
駅舎内に置く駅ノートにはここを訪れた旅人の思いがつづられている。2017年の元日、私も書き込んでおきました。


新十津川駅駅舎内
”新十津川駅「日本一早く最終列車出る駅」に 減便「好機」PR加速”の見出しで記事を書く新聞の切り抜き。新十津川駅にとってマイナスなことを、それを逆手にとって前向きに捉える姿勢が好印象、応援したくなる。


新十津川駅駅舎内
駅舎内には多くの写真が所狭しと掲示されている。ホントに地元住民に愛されているのだなあ。


新十津川駅スタンプ
新十津川駅スタンプ。


新十津川駅構内
新十津川駅構内側の駅舎。”歓 ようこそ新十津川へ 迎”の看板が旅人には温かい。


新十津川駅構内
新十津川駅構内。次の列車が来るのは明日。


新十津川駅駅名標
駅名標を共にして記念撮影。


新十津川駅構内
かつて石狩沼田駅まで続いていた札沼線。現在は2階建ての建物に阻まれ。


新十津川駅構内
線路の先には終着駅らしい車止めを設けている。


新十津川駅前
新十津川駅前。右手には空知中央病院がでんと構える。


新十津川駅
これからも地元の方々に愛される駅であってほしい。新十津川駅よ、末永く。


撮影日:2017年1月1日(日)
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札沼線(学園都市線) 下徳富駅・南下徳富駅

せっかくなので新十津川駅から少しだけ札沼線(学園都市線) を辿ってみることに。新十津川駅隣りの下徳富駅は、想像するに単式ホームと待合所がある程度の駅だと思っていたのだが、初めて訪れてみて少々驚いた。実に味わいのある駅舎を持っており、1日1往復の列車しかやってこない路線の途中駅とは思えないほど。往時には結構な乗降客がいたのだろう。しかし今や新十津川駅ほどに大事にされている様子も感じず、駅舎内の寂しい雰囲気は北海道のローカル駅ならではのものだろう。1日だけでも往時の活気を取り戻す日は来るのだろうか。

下徳富と書いて”しもとっぷ”と読ませる難読駅名。札幌方面の隣駅が南下徳富駅で、昭和47年(1972年)以前は新十津川駅の石狩沼田方面に上徳富駅と北上徳富駅が存在していた。これは昭和6年(1931年)札沼北線の開業当時、新十津川駅の名称が中徳富駅だったことの名残りである。中徳富駅の名は新十津川駅~下徳富駅間に新設された駅に引き継がれたが、利用客減少のため平成18年(2006年)に廃駅となっている。下徳富駅の開業は昭和9年(1934年)、当初は有人駅だったが、昭和54年(1979年)に切符販売が簡易委託されて無人駅となり現在に至る。




下徳富駅
雪原の中にポツンと駅舎を置く下徳富駅。新十津川町の花月という地域の最寄り駅で、近隣を通る国道275号沿いに集落を形成している。


下徳富駅
白壁が印象的な駅舎。


下徳富駅駅舎内
外壁と材質・色が同じな駅舎内。切符販売窓口の名残りがあり、往時を偲ばせる。


札沼線の旅ポスター
札沼線の旅ポスター。札沼線に乗りに来ようよと言っても、1日1往復では…。


下徳富駅駅舎内改札口
駅舎内の改札口。


下徳富駅発車時刻表と運賃表
改札口上に掲示する発車時刻表と運賃表。


下徳富駅駅名標
下徳富駅駅名標。札沼線ではなく学園都市線と書かれている。


下徳富駅構内
下徳富駅構内。


下徳富駅構内
ここに列車がやってくるのも新十津川駅同様、1日に上り下り1本のみ。


下徳富駅構内
下徳富駅構内より新十津川駅方面。


下徳富駅前
下徳富駅前。


下徳富駅前通り
下徳富駅前通り。これといって何も無いのがいいね。


南下徳富駅
下徳富駅から南へ約2km、南下徳富駅がある。駅周辺には数軒の農家がある程度で、これといって何もない。空気が澄んでいることは確かで、洗肺目的に下車するにはいいかも。


下徳富下9号踏切
南下徳富駅に隣接する下徳富下9号踏切。


南下徳富駅
単式ホームに駅名標を置くだけの南下徳富駅。ホーム入口にあった待合所は平成24年(2012年)に撤去され、今は運賃表と発車時刻表を掲示するのみ。利用客がほとんといないのだろう。ここは究極の無人駅と言っていい。


南下徳富駅
ホーム入口に運賃表と発車時刻表を貼紙する掲示板を置く。


南下徳富駅
南下徳富駅の運賃表と発車時刻表。


南下徳富駅
せっかくなので、ここでも記念撮影。


妹背牛温泉ペペル
南下徳富駅から旭川へ戻る途次、冷えた体を癒すべく妹背牛温泉ペペルに。


撮影日:2017年1月1日(日)
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根室本線 滝川駅・東滝川駅

函館本線の主要駅、滝川駅を起点に根室駅まで延びる根室本線。札沼線(北海道医療大学駅~新十津川駅間)ほどの危機的状況ではないが、こちらも滝川駅~富良野駅(54.6km) 、富良野駅~新得駅(81.7km)、釧路駅~根室駅(135.4km)の区間が 、JR北海道の「自社単独で維持困難」とする10路線13線区に指定され、このままでは近い将来に廃線となる日が来てしまう可能性が高い。鉄路が引っぺがされたら二度と元に戻ることは無い、地元自治体と道民の力で何とか存続してゆく道はないものだろうか。そんな根室本線の滝川駅から芦別駅までを途中駅に寄りながら辿ってみよう。

根室本線は滝川駅を起点に根室駅を終点とする路線距離443.8kmの長大路線。大正10年(1921年)滝川駅~根室駅間が全通して同区間が根室本線に改められた。途中駅に観光地の富良野駅をはじめ、帯広駅や釧路駅の主要駅があり、かつては道央と道東を結ぶ主要路線だったが、昭和56年(1981年)札幌から帯広・釧路方面を最短に繋ぐ石勝線が開業、滝川駅を経由していた特急などの運転系統が石勝線経由になり、滝川駅から新得駅間の旅客数が大幅に減少した。かつて”特急おおぞら”が走り抜けたこの区間は、今やJR北海道単独で維持困難な線区となるほどに赤字ローカル線となってしまった。




滝川駅
函館本線の主要駅であり根室本線の起点、滝川駅。開業は明治31年(1898年)、現在の駅舎は昭和37年(1962年)改築の3代目。


滝川駅
2017年1月現在、駅舎の改装工事をしている。


旧滝川駅駅舎
(滝川名勝)停車場通
「函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ」より引用

大正14年(1925年)改築の2代目滝川駅の駅舎と駅前通り。今では何の面白みも無い駅舎になっているように感じるが、先代の駅舎は絵になる趣きある佇まい。せめて駅で松尾ジンギスカンを堪能できれば滝川らしい駅になると思うのだが。


東滝川駅
滝川駅から根室本線の1駅目、東滝川駅。大正2年(1913年)幌倉停車場として開業、昭和29年(1954年)現駅名に改称された。


東滝川駅駅舎内
駅舎内には「語りつぐ郷土とともに」や「ほろくら むかしロマン」の表題を掲げ、大正から昭和にかけての風景や建物を描いた水彩画を展示する。ここも新十津川駅と同様、地元住民に愛される駅だということを感じる。


東滝川駅駅舎内
駅舎内にはカラフルな椅子を設けているが、客はいない。昨年(2016年)JR北海道が公表した資料によれば、乗車人員1日平均10名以下の「極端にご利用の少ない駅」に指定されている。


東滝川駅改札口
東滝川駅改札口。昭和57年(1982年)までは有人駅だった。


東滝川駅スタンプ
乗車人員1日平均10名以下ながら駅スタンプがある。


倖せの駅 幌倉停車場
「倖せの駅 幌倉停車場」という冊子を置く。今の根室本線の起点を滝川駅と砂川駅のどちらにするかの争いをはじまりに、幌倉停車場が開業するに至ったまでの歴史を書いている。


幌倉停車場
「倖せの駅 幌倉停車場」にあった大正2年(1913年)幌倉停車場開業時の記念写真。


ほろくら駅
駅舎内に掲示される幌倉停車場の水彩画。


東滝川駅構内
東滝川駅構内側の駅舎。


東滝川駅構内
東滝川駅構内、芦別・富良野方面。


東滝川駅構内
東滝川駅構内、滝川方面。


東滝川駅駅名標
東滝川駅の駅名標。


東滝川駅前通り
東滝川駅前通り。民家が並ぶが店らしきものはない。
次は赤平市内に入って赤平駅に、記事を改めよう。


撮影日:2017年1月2日(月)
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根室本線 赤平駅・茂尻駅

滝川市の東隣、赤平市は大正7年(1918年)茂尻炭鉱が開坑したことを皮切りに、昭和に入って豊里炭鉱や住友炭鉱、赤間炭鉱が開坑、同じく豊富な石炭鉱脈を持つ隣の芦別市と共に石炭産業で栄え、最盛期には6万人に及ぶ町にまで発展した。その町の中心たる赤平駅は石炭の運搬をはじめ、石炭採掘の従事者やその家族が利用して賑わった。しかし、戦後にエネルギーの主役が石炭から石油へと移り変わり石炭産業は衰退、昭和40年代から次々に炭鉱が閉山し、赤平市は衰退の一途をたどる。2017年1月現在、赤平市の人口は約1万人、最盛期の6分の1にまで減り、鉱業から工業へ産業構造の転換を図っている。

赤平市内を通る根室本線の駅は赤平駅と茂尻駅の二駅、市街にある赤平駅は大正2年(1913年)開業、それから遅れること5年後の大正7年(1918年)に茂尻駅が開業した。赤平駅には豊里炭鉱や住友炭鉱、赤間炭鉱の石炭を、茂尻駅には茂尻炭鉱の石炭が集積され、貨物列車が長大な列を組み全国に向けて発車した。そんな石炭景気に沸いたのも今は昔、赤平市は過疎・高齢化が進んで赤平・茂尻の両駅は利用客が減少、かつて急行”狩勝”の停車駅だった赤平駅は簡易委託化され、茂尻駅は有人駅時代の駅舎を残しながらも誰もいない無人駅、昭和から平成へと時代の流れを感じさせてくれるのだ。




赤平駅
近代的な駅舎の赤平駅、廃止という足音が忍び寄る駅とは思えないほどに立派だ。これは「赤平市交流センターみらい」と共同利用する建物で、平成11年(1999年)に改築された。


赤平駅構内
赤平駅構内。近代的な駅舎と旧態依然のホームや跨線橋に赤平駅の味を感じる。


赤平駅駅舎内
赤平駅駅舎内。立派な駅舎の赤平駅だが、正直なところ交流センターに間借りしている感じ。


赤平駅駅舎内
昨年(2016年)まで”みどりの窓口”がある有人駅だったが、現在は赤平市が切符販売等を受託する簡易委託駅に。


赤平駅構内
赤平駅構内。


赤平駅構内
2番線ホームと駅舎。新旧の対比がいい感じ。


=
赤平駅に停車するキハ40形気動車。


赤平駅構内
滝川駅へ向けて赤平駅を発車。


赤平駅駅前
赤平駅前の様子。人通りは少なく、石炭景気に賑わった面影は感じない。赤平で炭鉱遺産を巡る旅も面白そうだ。


茂尻駅
赤平駅から茂尻駅へ移動。高台上に駅舎があり駅前とは結構な高低差がある。


茂尻駅02
木造モルタル作りの駅舎。現駅舎の建築年がよくわからないのだが、もしかすると大正7年(1918年)開業当時の駅舎が改装されて今に残っているのかもしれない。だとすれば築100年近いことになり、石炭産業で賑わった茂尻駅を偲ぶ貴重な鉄道遺産になると思うのだが。


茂尻駅舎内
駅舎内には”雄別茂尻炭鉱風景”の絵画等を展示しているが、寒々しい雰囲気が漂う。


茂尻駅改札口
旧改札口横には鶴の日本画を置くスペースがあり、ちょい怖い…。正直言って日が暮れたらここに一人ではいたくない。


茂尻駅改札口
茂尻駅構内側の改札口。


茂尻駅構内
跨線橋上より芦別・富良野方面。


茂尻駅駅舎
跨線橋上より駅舎を望む。


茂尻駅駅名標
茂尻駅駅名標と跨線橋。


茂尻駅前
茂尻駅から見る駅前の景観。
石炭産業で発展を遂げた赤平、近いうちに炭鉱の歴史を巡ってみる旅をしてみたくなった。


撮影日:2017年1月2日(月)
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
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27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
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30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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