宝来町と高田屋嘉兵衛

箱館市中細絵図
「函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ」より引用
年の瀬もいよいよ押し迫った2016年の12月28日、年末恒例の函館散策をすべく上野駅から”はやぶさ1号”に乗車して函館入り。今回は函館ゆかりの偉人で、司馬遼太郎の歴史小説「菜の花の沖」の主人公、高田屋嘉兵衛の足跡を辿りつつ、宝来町を中心に散策してみよう。
明和6年(1769年)淡路島の都志本村(現 兵庫県洲本市五色町都志)に生まれた高田屋嘉兵衛は、28歳の時に千五百石積の北前船”辰悦丸”を建造し、拠点を蝦夷地箱館に置き活躍した廻船商人。享和2年(1802年)幕府はロシアの南下政策に対応すべく東蝦夷地を直轄とし、高田屋嘉兵衛を定雇船頭に登用、嘉兵衛は千島列島方面の北方航路を開拓し、多くの漁場を得て一代で豪商にまで登り詰めた。通商を求めるロシアとその要求を拒否する日本の間で緊張が高まる中、文化8年(1811年)ロシアのディアナ号艦長ゴローニンが国後島で松前奉行配下の南部藩兵に捕縛され、松前で幽閉の身に。世に言うゴローニン事件である。翌年にゴローニンを救出すべく国後・択捉島沖に現れた副艦長リコルドは、嘉兵衛が乗る船を拿捕してカムチャッカへ連行する。嘉兵衛とリコルドは寝起きを共にして解決策を模索、両国の仲介役として尽力しゴローニンを釈放させ事件の解決を成し遂げた。
文化11年(1814年)嘉兵衛は兵庫の本店に戻り、その4年後には淡路島へ帰郷し、文政10年(1827年)に59歳で死去。高田屋の経営を継いでいた弟の金兵衛は、松前藩の御用商人等を務めて隆盛を極めるが、天保4年(1833年)にロシアとの密貿易の嫌疑をかけられたことを機にして財産や土地を失い没落。高田屋の罪が許されるのは明治になってからで、明治44年(1911年)には嘉兵衛の功績を称え正五位が贈られている。
函館市の宝来町(旧 蓬莱町)一帯は寛政13年(享和元、1801年)金兵衛が5万坪もの敷地を拝借し、その一角に大きな庭園を持つ豪壮な屋敷を構え、拝借地には数棟の米蔵や別荘、長屋敷、馬屋、道具庫などを設けて高田屋御殿とも称された。文政年間(1818年~30年)に作図された箱館市中細絵図(上図)の左上にその広大な敷地が見て取れよう。高田屋が函館を去って明治になると、山ノ上町から高田屋の拝借地跡に遊廓が移って蓬莱町遊廓が形成され、更に女子教育の機運が高まり、遊廓の一角にあたる屋敷跡には芸娼妓たちの教育を目的として女紅場(じょこうば)が設立される。しかし女紅場は明治11年(1878年)の開場からわずか10年で廃止、その後はビアホール等に利用されたらしいが、明治40年(1907年)の大火で建物は焼失したという。現在は高田屋屋敷や女紅場を偲ぶような遺構は見られず、「高田屋屋敷跡」の碑と解説板が建ち、近くの高田屋通中央分離帯には函館山を背にした高田屋嘉兵衛の銅像が凛として立ち、大きく姿を変えた函館の町並みを見守っている。

東京から新幹線を使えば「はるばる来たぜー」とはならない函館駅。上野駅から”はやぶさ1号”に乗れば昼前には函館に着くのだから。時の流れを感じます。

函館駅から朝市と函館山を望み。例年なら雪が積もっているのに、今年は雪が無い!

朝市にある”鮨処はこだて”で昼飯にしよう。

私の大好物、イカ・うに・ホタテの3品をチョイスして丼ぶりに。至福のひと時。

朝市の蟹商で身入りの良さそうなタラバガニを選別して購入。これも年末の恒例行事。

函館駅前から市電に乗車して十字街停留所へ移動。

函館市電719号が停車する十字街停留所。

昔ながらのチンチン電車。

十字街停留所で降りてまず目に留まった坂本龍馬像。函館に龍馬が訪れた事実はないはずだが、「はるばる函館に来たぜよ」と言っているかのよう。

十字街停留所東側の交差点が異国橋(永国橋)跡。セブンイレブンの駐車場に異国橋の案内板を設けている。

異国橋(永国橋)跡より南方、堀割(願乗寺川)跡の 銀座通りを望む。

十字街停留所で行き交う谷地頭行と湯の川行の函館市電。

銀座魚菜市場が角にある交差点が恵比寿橋跡。橋名は旧町名の恵比須町(現 函館市末広町)に由来。

恵比寿橋跡の西袂から堀割跡を望む。かつては写真の交差点左右方向(銀座通り)が函館湾と蓬莱町遊廓を繋ぐ堀割、奥に向かって恵比寿橋が架けられ、その南詰(交差点の道路右辺り)で亀田川から分水された水路(願乗寺川)が流れ込んでいた。

恵比須橋と御蔵橋間の堀割(願乗寺川)跡。ここを亀田川から分水された願乗寺川が流れていたとは誰も思わないだろう。

ここが御蔵橋跡。写真手前から奥にかけてが堀割(願乗寺川)跡、左右方向の道が交差する地点に御蔵橋が架けられていた。橋南詰に御蔵所があっとことに橋名の由来があるのだろう。御蔵所の元は高田屋の米蔵と思われる。

本願寺函館別院。元は願乗寺があった場所で、入口前に願乗寺橋が架けられていた。

宝来町8交差点から函館山に向かって延びる道は谷地坂。谷地頭方面へ通じていることから坂名が付いた。

宝来町を通る道道675号。末広町7交差点から40m程南側にあたるこの辺りが遊廓堀割に架かっていた登仙橋跡で、遊廓正面入口をなしていたと思われる。かつては遊廓の周囲に堀割を巡らして区画し、登仙橋をはじめ5つの橋が架けられていた。

登仙橋と遊廓掘割跡。”印度カレー小いけ”横の小路が掘割跡、 登仙橋は写真手前の道路上に架かっていたのだろう。

遊廓北辺の堀割跡。現在は埋め立てられ名も無い小路に。

”ホテルWBFグランデ函館”の南側、銀座通りと高田屋通が交差する辺りが遊廓内にあった小島橋跡。写真交差点奥が高田屋屋敷跡で、明治初期に女紅場があった場所である。

「異国橋」案内板より引用
明治11年(1878年)に開設された女紅場。建物は高田屋屋敷の別荘を補修して教場に再利用した。写真手前に見える木橋が小島橋なのだろう。

小島橋跡より高田屋屋敷(女紅場)跡を望む。小島橋跡東袂にあたる場所に「高田屋屋敷跡」の碑と解説板が設けられている。

高田屋屋敷(女紅場)跡より小島橋跡方面。現在の屋敷跡は高田屋通が東西に貫いている。

割烹料理店”松源”。現在は営業をしていないが、数少ない蓬莱町の往時を偲ばせる建物を残す。

旧蓬莱町の高田屋通沿いにある千秋庵総本家本店。創業が万延元年(1860年)という老舗和菓子店。
出てきた 出てきた 山親爺(やまおやじ)ー
笹の葉かついで シャケしょってー
スキーにのった山親爺ー
千秋庵の山親爺♪
道民ならこの曲を知らぬ者はいないであろう。札幌千秋庵製菓はここから暖簾分けされた。

高田屋通の中央分離帯に立つ高田屋嘉兵衛像。函館山を背景に凛々しいお姿。

高田屋通から護国神社に向かって上る護国神社坂。

末広栄町通沿いにある”茶房ひし伊”。函館では珍しい袖蔵を持つ土蔵造りのような建物の元は入村質店。江戸時代から昭和初期にかけて多くの大火に遭った函館だけに、質入れの品物を守るため耐火建築を取り入れたのだろう。土蔵は明治38年(1905年)と大正10(1921年)に建造された2棟があり、喫茶店とアンティークショップに利用されている。

”茶房ひし伊”の軒行灯。

”茶房ひし伊”前の末広栄町通は、かつての遊廓堀割の西辺にあたる。

蓬莱町遊廓跡にある函館市電の宝来町停留所。

宝来町20交差点から函館山へ向かって上る”あさり坂”。坂名の標柱上には小鳥の像を置いているのだが、これを捕らえたかのように本物のカラスが得意満面な感じで、何となく可笑しい。
”あさり坂”という名の由来は、明治11年(1878年)のこと。イギリスの地震学者とアメリカの動物学者が市中で貝塚を発掘、貝塚からアサリの貝殻が多く出たことから、付近を通っていたこの坂を”あさり坂”と呼ぶようになったという。坂の上り口には明治34年(1901年)創業の肉屋”阿さ利本店”があり、現在はすき焼きやコロッケの名店として知られる。

宝来町から海峡通りに戻り。

再び十字街停留所へ。異国橋跡から函館湾側の川筋を辿ってみよう。

ガソリンスタンド(池見石油店)がある場所が武蔵野楼跡。六ノ橋東詰にあった武蔵野楼は幕末から明治初期にかけて名を馳せた妓楼で、明治2年(1869年)新政府軍による箱館総攻撃の前日、榎本武揚をはじめとする旧幕府脱走軍の幹部たちが別杯を交わしたという。武蔵野楼は明治8年(1875年)に妓楼をやめて料理屋兼旅館に転身、台町と蓬莱町に移転した。

「函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ」より引用
移転直前に撮影された武蔵野楼。写真に見える橋は”元橋”と思われる。

「函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ」より引用
開拓使函館第16大区の一部を抜粋。明治9年~12年の作図とされる。六ノ橋の袂、堀割角に武蔵野楼は大きな敷地を持っていることがわかり、武蔵野清次郎という名が見える。

「函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ」より引用
明治30年代の函館港名家及実業家一覧地図。蓬莱町繁華街の中心部に武蔵野という店があり、これが妓楼から料理屋兼旅館に転業した武蔵野楼と思われる。現在の”あさり坂”の道と銀座通りの交差点付近が武蔵野跡にあたる。

旧船場町(現 函館市末広町)にある高田屋嘉兵衛資料館。ここは高田屋の造船所があったとされる場所で、現在は後に建てられた海産商の旧コンブ倉庫2棟を資料館として利用している。高田屋嘉兵衛の生涯を垣間見る資料が展示されており、中には遊女から高田屋宛てに書かれた恋文も。受取人が嘉兵衛ではないかといわれるが、真相は如何に。

今回の函館散策の最後は函館西埠頭に展示する箱館丸で。高田屋嘉兵衛の船大工だった続豊治により建造された西洋式帆船で、ここにあるのは昭和63年(1988年)に開催された青函博で復元展示されたもの。

箱館丸と函館山。
撮影日:2016年12月28日(水)
【 参考サイト 】
北方歴史資料館
http://takadayakahei.com/

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