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根室本線 平岸駅・芦別駅

根室本線の茂尻駅から芦別方面へ向かう。空知川支流の高根川を渡れば赤平市から芦別市へ入り、平岸駅に着く。芦別市内にある根室本線の駅は市街にある芦別駅を中心に滝川側の平岸駅、富良野側に上芦別駅と野花南駅の4駅があり、今回は時間の関係から平岸駅と芦別駅だけの訪問に。上芦別駅と野花南駅については次の機会を設けて訪ねたい。まずは芦別市について。

芦別市は隣の赤平市同様、大正から昭和期にかけて石炭産業で賑わい、最盛期には人口7万人にも及ぶ都市にまで発展した。昭和15年(1940年)芦別駅を起点にして三井鉱山専用鉄道(後の三井芦別鉄道)が開業、昭和24年(1949年)には上芦別駅を起点に三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道が開業し、芦別市内の鉄道は赤平市と同様に石炭の積み出しで賑わった。昭和39年(1964年)には芦別と旭川・深川を結ぶ計画で芦別線(芦別~石狩新城間)が着工し、芦別は全盛期を迎えたかに見えたが、この時から衰退の道を歩むことになるとは誰しもが想像できなかっただろう。エネルギーの主役が石油に移って石炭の需要が急減、明治鉱業明治上芦別鉱業所の閉山を皮切りに炭鉱の閉山が相次いで人口が急減し、石炭産業から観光産業へと舵を切るべく昭和45年(1970年)芦別レジャーランドが開業する。しかし、衰退の歩みを止めることはできず、昭和47年(1972年)に芦別線は開通を見ずに工事が凍結され、昭和55年(1980年)になると人口は最盛期の半数以下となる約3万3千人にまで減った。平成2年(1990年)テーマパークの”カナディアンワールド”をオープンさせて再起を図るが、現在は更に過疎化が進んで人口14,456人(平成29年1月現在)、芦別レジャーランドの行く末がどうなったかが気になる方は、ググって調べてほしい。

<訂正>
記事中で平岸駅が芦別市に所在するとして扱っておりますが、同駅は赤平市に所在しており誤りでした。コメントでご指摘いただいた方、この場を借りて御礼申し上げます。記事は加筆訂正せず原文のまま掲載しております。(2018.2.24)





平岸駅
赤平市から根室本線で芦別市に入って最初の駅となる平岸駅。かつては空知川対岸の豊田炭鉱や大谷沢炭鉱といった中小炭鉱から石炭が集積し、ここも石炭産業で賑わった駅。それも今や昔の様相、駅付近に人を見ることはないほどに寂れてしまった。


平岸駅切符売場
平岸駅の切符売場。しっかりとその窓口を残している。


平岸駅駅舎内
駅舎内にはかつて付近にあった平岸小中学校の古写真を展示。


平岸駅駅舎内
平岸駅駅舎内。


平岸駅駅改札口
平岸駅構内より改札口。


平岸駅構内 赤平・滝川方面
平岸駅構内より赤平・滝川方面。ここに列車が到着するのは1日に上り(滝川方面)8本、下り(富良野方面)7本。


平岸駅駅名標
平岸駅の駅名標。


平岸駅駅名標と跨線橋
駅名標と跨線橋。


平岸駅前通り
平岸駅前通り。閑散と民家があるだけで店は無く、人や車の往来も無い。


平岸駅にて
記念撮影。


芦別駅
ミニ五重塔が駅前に建つ芦別駅。これは芦別レジャーランドの後身”北の都 芦別”にあった”ホテル五重塔”がモチーフになっているのだろうが、初めて訪れた人には何のことやら。


芦別駅駅舎
大正2年(1913年)開業の芦別駅。当初の駅名は下芦別駅で、昭和21年(1946年)現駅名に改称、その翌年に改築されたのが今の駅舎である。


芦別駅駅舎内
芦別駅駅舎内。間もなく13:24発滝川行の列車が到着するが、切符売場はカーテンが閉められたまま。昨年(2016年)3月に”みどりの窓口”が閉鎖、切符販売は簡易委託化された。


芦別駅にて
芦別駅にて。滝川行の列車を待つ私。


芦別駅構内
芦別駅構内。かつて三井鉱山専用鉄道(後の三井芦別鉄道)から石炭車が乗り入れ、石炭の積み出しで賑わったのも今は昔。


芦別駅構内
芦別駅に13:24発滝川行の列車が到着。これを逃すと次は16:22。


芦別駅構内
芦別駅に停車する滝川行のキハ40形気動車。


芦別駅構内
芦別駅から赤平駅まで乗車することに。


せっかくなので一昨年(2015年)8月に撮影したカナディアンワールドの様子を↓

赤毛のアンの世界をイメージし、19世紀のカナダの街並みと自然を再現したカナディアンワールド。三井芦別炭鉱の閉山により石炭から観光へと産業構造の転換を図るべく、芦別市の第三セクターが約52億円の巨費が投じて平成2年(1990年)にオープンさせたテーマパークなのだ。開園翌年に27万人の入場者を数えて以降、集客は右肩下がりとなり、平成9年(1997年)に閉園。現在は市営のカナディアンワールド公園として無料開放されている。




カナディアンワールド全景
カナディアンワールド全景。敷地面積約45万平方メートル、東京ドームの約10個分もの敷地を持つ広大な公園なのだ。


カナディアンワールド
カナディアンワールドの中心部、ファーマーズ駅(写真手前の建物)と街並み。


ファーマーズ駅
園内ミニ鉄道の乗降場、ファーマーズ駅。


ファーマーズ駅
ファーマーズ駅構内。鉄道は運行されていない様子。


カナディアンワールド
ファーマーズ駅から見る街並み。きっと19世紀のカナダっぽいのだろう。


カナディアンワールド
人っ子一人いないかと思いきや、一組の家族がいて少しだけ安堵感を覚え。


カナディアンワールド
ファーマーズ駅と街並み。異国の雰囲気はたっぷりなのだが、ひと気の無さが寂しい。


カナディアンロッキーの注意書き立て看板
線路脇に置かれる立て看板。「カナディアンロッキーが通ります 立入らないでください」の注意書きが空しい。


カナディアンワールド
誰もいない。ゴーストタウン感がハンパない。


カナディアンワールド
1軒だけ扉が開いていた家はPRセンター。


カナディアンワールド
PRセンター内に入ると大きなシロクマのぬいぐるみが迎えてくれる。過去に行われたキャンドルアートの写真などを掲示し、パンフレットが入手できる。


カナディアンワールド
PRセンター内にはこんな写真も。カナディアンワールドは「チロルの挽歌」というテレビドラマのロケ地に使われ、主人公を高倉健、その妻役を大原麗子が演じた。健さんはやっぱカッコいいし、大原麗子の美貌がさすがと、今更ながらに実感させる写真。


カナディアンワールド
どうです、この景観。北海道のど田舎の山中とは思えないでしょ。北海道へ旅行に行くと聞いたなら、ここに来ることをお勧めしたいほどの知られざるB級スポット。昭和から平成にかけて、北海道の辿ってきた歴史が凝縮されたここに。


BRIGHT RIVER
かつてのカナディアンワールド入場口、”BRIGHT RIVER”。赤毛のアンが 養父のマシューと出会ったブライトリバー駅をイメージしているのだろう。


BRIGHT RIVER
廃墟と化す”BRIGHT RIVER”。


BRIGHT RIVER
入園券の販売窓口。


BRIGHT RIVER
今でも入園のパスポート料金を掲示している。


BRIGHT RIVER
BRIGHT RIVERの入口。国破れて山河あり、城春にして草木深し…。


カナディアンワールド
”BRIGHT RIVER”を入ってすぐにある建物。かつてはレストランだったと思われる。


カナディアンワールド
旧レストランと思われる建物前には、熱帯植物園らしき建物と四角錐(用途不明)の建物が残存。


ガタタンラーメン
芦別スターライトホテル内の”レストラン ムーンライト”にて。芦別名物のガタタンラーメン!


撮影日:2017年1月2日(月)、カナディアンワールドは2015年8月5日(水)
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田中城址

【旧東海道歩き 第25日目】西焼津駅→田中城址→藤枝宿→岡部宿→岡部支所前停留所



【2016年12月24日(土)旧東海道 藤枝宿】
藤枝宿から南東に約1km、江戸時代を通して田中藩の藩庁をなす田中城があった。北に葉梨川、南に瀬戸川が流れる低地に築かれた平城で、天文6年(1537年)今川氏が築いた城が前身。今川義元が桶狭間に斃れて後は武田家の城となり、山県昌景や板垣信安が入城し改修を加えた。関ヶ原合戦で徳川が勝利を収めて翌年の慶長6年(1601年)、酒井忠利が田中城に入り城郭を拡張整備、今に見る本丸を中心に同心円状に外郭が囲む珍しい構造の城郭が形成される。二の丸や三の丸出入口には武田流築城術の特徴といわれる半円形の丸馬出と三日月堀が設けられ、今川・武田時代から徳川の世に至り、中世から近世城郭へと歩む変遷が見られる貴重な城郭遺構と言えよう。因みに徳川家康の死因は”鯛の天ぷら”による食中毒ともいわれるが、その”鯛の天ぷら”を食べたとされるのが、ここ田中城なのである。

私はここを訪れて興味深い歴史を知る。私の住んでいる柏市の北西部には行政区域名になっていないにも関わらず、田中と呼ばれる地域があり、”柏たなか駅”や”柏たなか病院”をはじめ”田中小学校”に”田中中学校”、JAいちかわ田中(旧田中農協)など、田中を名に付ける施設が多くあるのだが、その由来を特に気にすることはなかった。田中城下屋敷を訪ねた際、案内人の方に柏市から来たことを告げると、田中藩には柏市域に飛領があって陣屋を構えていたこと、その陣屋があった船戸地区とは祭りなどで交流があることなどを聞く。なるほど、柏の”田中”はここに存在した田中藩に由来があったのか!と、偶然ながらローカルな歴史を知り、何だか柏市民として縁を感じてしまう。案内人の方に説明を聞いた後、「柏から来てくださったことを知ればメンバーも喜びますので是非ご署名を」と言われ、私も嬉しい思いで来場者名簿に住所と氏名を記入したしだい。旅の面白さは遠くの観光地に行くことではない、こういった偶然の出会いにこそ醍醐味があるのだ。




西焼津駅
田中城址の最寄り駅、西焼津駅で下車。


六間川橋
西焼津駅からとぼとぼ歩いて、田中城内東側入口にあたる六間川橋に着く。江戸時代には新宿木戸が設けられていた。


田中城下屋敷
六間川橋から下流方向に向かって歩き、田中城下屋敷へ。ここは江戸時代後期に藩主の下屋敷があった所で、築山・泉水・茶室などが設けられていた。現在は当時の下屋敷の構造を復元すると共に、田中城ゆかりの建物を集めて一般公開している。入口には冠木門、その傍らには田中城本丸櫓が移築され城跡らしい景観を見せる。


田中城本丸櫓
田中城本丸櫓。本丸南東隅の石垣上にあった”御亭”と呼ぶ建物が、この櫓だとされる。本丸櫓は明治維新後に村山氏に払い下げられ、移築して長きに渡り住宅として利用されてきたが、近年に村山氏から寄贈を受け、再び田中城の地に戻ることになった。


田中藩牓示石
本丸櫓の傍らには田中藩牓示石を置く。この「従是西田中領」と刻む標石は、かつて東海道筋の”法の橋”袂(藤枝市仮宿)にあった。


田中城本丸櫓
本丸櫓1階内部。


田中城下模型
本丸櫓1階に展示する田中城下の模型。


田中城下模型
田中城模型の本丸。現在の本丸は西益津小学校の敷地と化し、その周辺を取り囲む二の丸・三の丸も宅地化されてしまった。


田中城本丸櫓
本丸櫓2階内部。


田中城本丸櫓より本丸方面
本丸櫓2階より本丸方面を望む。


田中城本丸櫓
澄み切った深い青空に本丸櫓が映える。


長楽寺村郷倉
長楽寺村郷倉。かつて長楽寺村(現 藤枝市本町1丁目)にあった年貢米や非常米(飢饉に備えた救済貸付用の米)の保管蔵で、明治10年頃に中西家へ払い下げられたもの。中西家より近年に寄贈された。


大溝跡
下屋敷泉水から旧六間川枝流路の大溝跡。


土塁跡
旧六間川本流と大溝の間に設けられていた土塁跡。


下屋敷庭園跡
下屋敷庭園跡の解説板。


下屋敷泉水
下屋敷泉水。かつては六間川の本流を利用した下屋敷庭園の池で、昭和時代には畑地と化していたが、近年に下屋敷が整備されるにあたり復元された。


仲間部屋と厩
仲間部屋と厩。大洲村(現 藤枝市大洲)の大塚家長屋門は田中城内から移された建物との言い伝えがあり、市が調査したところ付設する納屋が城内にあったものと判明、仲間部屋と厩を1棟に仕立てた建物で、板材の書付から安政6年(1859年)頃の建築と推定されている。近年に大塚家より寄贈された。


仲間部屋
仲間部屋。


馬場・馬見所跡
下屋敷から六軒川の対岸、馬場・馬見所跡。


六間川
下屋敷の北西辺を流れる六間川。


六間川橋
六間川筋を上流へ進み再び六間川橋に戻り。


作事役所跡
六間川橋から北西に約60m、作事役所跡。


新宿一之門三日月堀跡
新宿一之門跡前。住宅地と化した路傍には、新宿一之門前の三日月堀跡を示す標柱がひっそりと立つ。


新宿一之門跡
三の丸南東側入口の新宿一之門跡。西益津小学校の敷地一角にその跡地を示す標柱がある。


新宿二之門三日月堀(馬出曲輪)跡
新宿二之門前、三の丸に設けていた三日月堀(馬出曲輪)跡。わずかにその遺構と水を残している。


新宿一之門・二之門絵図
新宿二之門前の三日月堀跡に設ける解説板より。往時の絵図を見れば、その変遷を実感できよう。


三之堀跡東辺
三之堀跡東辺。かつての水堀は水田と用水路に化しているが、僅かに土塁を残している。


三之堀跡東辺の土塁
三之堀東辺に残る土塁(写真奥)。


三之堀跡の排水溝
田中城は平城といった立地条件だけに、水堀の所々から湧き水が出ていたとのことだが、鉄分が多く飲料には適さなかったという。排水溝の水底を見れば、今も水に多くの鉄分が含んでいることをうかがう。田中城で飲料等に用いる上水は、城西の姥ヶ池から城内まで水道管を敷設して引いていた。


家老重富代助屋敷跡
平島一之門前にあった家老の重富代助屋敷跡。


平島一之門跡
三の丸北東側入口の平島一之門跡。写真奥が本丸方面で、70m程先に二の丸入口となる平島ニ之門があった。元々はここが大手口で御成街道に通じていたが、江戸時代になると藤枝宿側へ大手口が移り、ここは開かずの門になったという。


三之堀跡と土塁
平島一之門跡の西側に残る三の丸土塁。


三之堀跡と土塁
三の丸土塁前にあった三之堀は田畑になっている。


家老遠藤俊臣屋敷跡
平島二之門跡前、原田動物病院の辺りが家老の遠藤俊臣屋敷跡。


平島二之門跡
平島二之門跡より一之門跡を望む。


本丸堀跡
本丸北東辺の本丸堀跡。かつて本丸を取り囲んだ水堀は道になり。


本丸跡
本丸跡には西益津小学校の校舎が建ち、中に入ることはできない。


本丸02跡
西益津小学校の敷地内を柵越しに覗くと、田中城の模型らしきものが見える。本丸らしき場所に天守があるのだが、田中城に天守は存在しなかったはず。


本丸堀跡
本丸堀跡より平島二之門跡方面。


大手二之門跡
二の丸北西側入口の大手二之門跡。二之堀に架かっていた木造の太鼓橋を復元している。


二之堀
太鼓橋上より二之堀を望む。


二之堀
田中城の水堀がほぼ埋め立てられてしまった中、二之堀の西辺は水を残し往時を偲ぶ。


西益津中学校
御殿跡に建つ西益津中学校。


大手一之門跡
三の丸北東側入口の大手一之門跡。沢医院の敷地内(写真右手)に土塁らしき土盛りが見られる。


大手一之門前の三日月堀跡
大手一之門前の三日月堀跡。痕跡は全くない。写真奥が大手一之門跡。


日知館跡
大手一之門の北側、三の丸にあった日知館跡。民家の敷地内に日知館跡の標柱がある。日知館は田中藩の藩校。


三之堀南西辺
大手一之門跡の南側、水堀を残す三之堀の南西辺。


三之堀南西辺
水堀と土塁の遺構が残り城跡らしい雰囲気。


三之堀にて
三之堀にて。


武家屋敷・石垣跡
三之堀の外側には武家屋敷の石垣跡。


三之堀と武家屋敷跡
土塁上より三之堀と武家屋敷の石垣跡を望む。


清水御門跡
清水御門跡。西益津中学校の校舎が建ち遺構は残っていない。


勤番長屋跡
清水御門前にあった勤番長屋跡。


南部屋跡
南部屋跡は西益津中学校のグランドやテニスコートに化している。


姥ヶ池
田中城の南西外れで水を湛える姥ヶ池。今も清水が湧き出している。江戸時代にはここから水道の木管を城内まで敷設して水を引き、飲料等の上水として利用した。


松原木戸跡
藤枝宿方面から城内への入口、松原木戸跡。ここで田中城址の散策は終わとし、藤枝宿へ向かう。


田中神社
松原木戸跡西側の観音山。かつての大手道はこの山の南西麓を通っていた。麓に田中神社と満願寺がある。


田中神社02
田中神社拝殿。裏手の観音山頂に本殿がある。


大手木戸口跡
旧東海道から大手道の分岐点、大手木戸口跡。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

藤枝から岡部に

【2016年12月24日(土)旧東海道 藤枝宿→岡部宿】
藤枝宿を東木戸から出た旧東海道は間もなく、葉梨川が大きく曲がる鐙ヶ淵(あぶみがふち)の川岸を通り、水守・鬼島の集落に至る。鐙ヶ淵は川筋の曲がり具合が馬の鐙に似ていることからその名が付いたとされ、江戸時代に刊行された「東海道分間絵図」や「東海木曽両道中懐宝図鑑」に見ることができ、「東海道中膝栗毛」 では狂歌で紹介している。

ここもとは 鞍のあぶみが ふちなれど 踏(ふん)またがりて 通られもせず

東海道中のちょっとした名所の鐙ヶ淵であるが、実は中世に身投げの名所でもあったらしい。それを見かねた浄土宗開祖の法然が、鐙ヶ淵の岸にあった柳の大木から観世音菩薩像を彫り、身投げを止めるべく祀ったとされる。残念ながら現在は河川改修によって鐙ヶ淵の姿を見ることはできない。しかしながら、法然が祀った観世音菩薩像を由来とする観音堂が、鐙ヶ淵跡の河岸段丘上に建ち往時を偲んでいる。

鬼島の集落を過ぎ、葉梨川を渡ってその左岸を北上して朝比奈川を渡れば横内の集落、直線道の東海道筋に松並木が続く横内縄手を通り抜ければ岡部宿加宿の新町に着く。




旧藤枝宿下伝馬町
大手木戸口跡から東へ、旧藤枝宿下伝馬町の町並み。


新護寺
成田山新勝寺(千葉県成田市)の直末寺院、新護寺。成田山不動明王の分霊を祀る。


浜小路
旧下伝馬町東海道から分岐する浜小路。その分岐点に「是より焼津湊まで一里余」と書いた標柱があり、藤枝から焼津へ至る生活道路がここから分岐していたのだろう。


藤枝宿東木戸門跡
東木戸門跡。ここがかつての藤枝宿江戸方出入口。


旧東海道 藤枝市本町4丁目
藤枝市本町4丁目の旧東海道。4本の若い松が並ぶ。


旧東海道 藤枝市水守
本町4丁目の松並木先で旧道は消失。かつての東海道は丸源ラーメンやモスバーガーの敷地を経て、 ”しずてつストア”西辺の道へ続いていた。


旧東海道 藤枝市水守
旧東海道消失地点、モスバーガー付近の静岡県道381号。


旧東海道 藤枝市水守
”ミスターぶんぐ”前から現れる旧東海道。ここから江戸方に向かって沿道の所々に松が残っている。


旧東海道 藤枝市水守
”しずてつストア”西辺に残る旧東海道と松。


水守中央公園
水守中央公園内に残る松並木。道が無くなって松並木だけが残るという珍しいパターン。


水守中央公園
この松並木の間を東海道が通っていたわけだ。


旧東海道 藤枝市水守
水守中央公園の東側で消失した旧東海道が、写真左手から奥に向かって現れる。


鐙ヶ淵跡
鐙ヶ淵跡を東側から望む。川は埋め立てられ住宅地と化し往時を偲びようもない。


鐙ヶ淵跡
鐙ヶ淵跡付近の葉梨川。


全居寺と須賀神社
鐙ヶ淵跡の北側、旧東海道沿いにある全居寺と須賀神社。


須賀神社のクス
須賀神社境内のクスは樹齢およそ500年という古木。


全居寺の観音堂
鐙ヶ淵跡の河岸段丘上に建つ観音堂。法然が祀った観世音菩薩像を由来とする。


渡御橋
青山八幡宮の参道、葉梨川に架かる渡御橋。


青山八幡宮大鳥居
旧東海道沿い、青山八幡宮参道入口に立つ大鳥居。


旧東海道 藤枝市鬼島
鬼島の集落を行く旧東海道。


秋葉神社跡地
鬼島の秋葉神社跡。


八幡橋
葉梨川を八幡橋で渡る。


八幡橋と葉梨川
八幡橋と葉梨川。


八幡橋南詰
八幡橋上から南詰方向。かつては南詰で旧東海道から田中城平島口へ至る御成街道が分岐していた。


八幡橋
八幡橋全景。


八幡橋北詰
八幡橋北詰から北へ延びる旧東海道。


旧東海道 藤枝市鬼島
相田橋西詰付近の旧東海道。


鬼島一里塚跡
鬼島一里塚跡。江戸日本橋から49里目(約192km)、京三条大橋からは66番目で実測約320km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。両塚とも現存しない。


旧東海道 藤枝市鬼島03
鬼島一里塚付近に残る松並木。


旧東海道 藤枝市八幡
八幡で県道381号と旧東海道(県道208号)が合流、旧道はすぐに右へ離れる。


旧東海道 藤枝市仮宿
橋名不明の橋を渡る。北袂に名残松。この付近の旧東海道のルートは少々違っていたようなので、記事初めのグーグルマップを参照してほしい。


従是田中領標石
橋名不明の橋北袂にある名残松。ここに「従是田中領」の復元標石を置く。本物は田中城下屋敷に移されている。


旧東海道 藤枝市仮宿
仮宿交差点の歩道橋上から京方を望む。写真左奥方向の道が旧東海道、右が現東海道の静岡県道208・381号。


旧東海道 藤枝市仮宿03
仮宿交差点の歩道橋上から江戸方。右が静岡県道381号、左に旧東海道が延び松並木が残る。


仮宿の松並木
仮宿の松並木。その入口は岩村藩領傍示杭跡にあたり、「従是東巌村領横内」と記す傍示杭のモニュメントが立つ。


旧東海道 藤枝市横内
松並木を抜ければ横内の集落に。かつて横内の旧東海道筋は西から橋向町・橋場町・仲町・油街途町に分けられていた。


はずれの家
旧横内村橋向町の旧東海道沿いにある”はずれの家”おそらくこの家が橋向町の西端だったのだろう。


松見軒
松見軒の屋号を掲げる家。


横内橋
朝比奈川に架かる横内橋。


旧東海道 藤枝市横内
横内橋東詰、旧横内村橋場町の町並み。


横内あげんだい
横内橋東袂に立つ”横内あげんだい”で使う竹籠。”あげんだい”は明治38年(1905年)から横内で行われてきた盆の送り火法要(毎年8月16日)で、戦後に途絶えていたこの行事を昭和53年(1978年)古老の意見をもとに試行錯誤して復元したという。木柱上の竹籠に向かって松明を投げ入れるらしい。


横内あげんだい
横内歴史研究会の”夏祭り川原供養祭”を案内するポスター。


陣屋小路
横内の陣屋小路。かつてこの先に美濃岩村藩の駿河領を支配する横内陣屋が設けられていた。


横内陣屋跡
横内陣屋跡は住宅や畑地と化して遺構を残さないが、陣屋跡最奥に御陣屋稲荷が残り往時を偲ぶ。


西村小路
西村小路と高札場跡。かつて小路沿いには横内村の郷倉があった。


慈眼寺
慶長4年(1599年)開創の西了山慈眼寺。横内陣屋三代目代官の田中清太夫を祀った代官地蔵尊がある。


慈眼寺宗吾霊堂
本堂脇には宗吾霊堂があり、義民佐倉宗吾を祀る。

千葉県佐倉市の宗吾霊堂については過去記事にあるので参照を↓
宗吾参道①
宗吾参道②


旧横内公会堂跡
慈眼寺の白壁塀前には旧横内公会堂跡の標柱を置く。


稲荷小路
慈眼寺境内の北辺を通る稲荷小路。


松乃茶屋
松乃茶屋の屋号を掲げる民家。昔は見事な枝ぶりの松を見ながら茶を嗜む、きっと風流な茶屋だったはず。


うなぎや
横内集落の江戸方端に鰻屋、その店名も”うなぎや”。


岩村藩領傍示杭跡
”うなぎや”前が岩村藩領傍示杭跡。、「従是西巌村領横内」と記す傍示杭のモニュメントが立つ。


これより東海道岡部宿碑
横内を出れば岡部宿は近い。


岡部宿の松並木
岡部宿の松並木。


岡部宿の松並木
かつて横内と岡部宿の道中は横内縄手と呼ばれる松並木の直線道だった。


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岡部宿

【2016年12月24日(土)旧東海道 岡部宿】
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東海道五十三次之内岡部 宇津之山
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「岡部宿」より引用

旧東海道の横内縄手を東へ進むほどに山々が左右に迫り、その直線道が途絶えれば岡部宿の町並みがはじまる。岡部宿は東海道難所の一つ、宇津ノ谷峠を控える山間の小さな宿場で、今も道筋の静かな町並みに往時の面影を偲ばせている。中でも大旅籠だった柏屋は江戸時代後期の佇まいが残存、内部には東海道を往来する旅人や女中の人形を配し、訪れれば当時の旅籠を存分に感じられよう。その南隣にあった内野本陣は建物の遺構こそ残っていないものの、跡地は史跡広場に整備され、当時の間取りを平面表示、旧東海道を旅する者にとっては実にありがたい配慮をしてくれている。旧宿場町は往時の様子を垣間見て、実感できることに興味をそそられるものだ。

岡部宿は江戸日本橋から東海道五十三次を21宿目、京都三条大橋から33宿目。横町・本町・川原町の3町で成り、南隣の内谷村新町を加宿とする。天保14年(1843年)当時、宿内町並み南北13町50間余(約1.5km)、人口と家数は加宿内谷村新町を含めて人口2322人に家数487軒、うち本陣2、脇本陣2、旅籠屋27軒。本陣の内野家と仁藤家は本町にあり、問屋場は本町と新町に置かれていた。名物は宇津ノ谷峠付近で売られていた十団子。広重は「東海道五十三次之内岡部 宇津之山」の題で険阻な宇津ノ谷峠越えの街道と、その脇を流れる岡部川の急流を浮世絵に描いている。




五智如来公園
岡部加宿新町の京方入口付近にある五智如来公園。


五智如来公園
公園入口には冠木門を設け、その奥に五智如来を安置する。


五智如来像
五智如来公園に安置する尊像は2組10体。元は誓願寺境内の街道に面して並んでいたが、寺が移転したため現在地に移された。古い1組5体は宝永2年(1705年)田中藩主内藤弌信(ないとうかずのぶ)家老の脇田正明が寄進したもの、新しい1組5体は明治中期の作。


岡部宿新町曲尺手
岡部宿新町京方入口の曲尺手。


荻原こうじや
岡部宿旧新町の街道筋にある糀を製造販売する”萩原こうじや”。


岡部宿新町
岡部宿新町(旧内谷村新町)の町並み。


岡部宿新町
光泰寺参道入口付近、岡部宿新町(旧内谷村新町)の町並み。


光泰寺参道
旧東海道から分かれる光泰寺参道。


岡部宿新町
宿場町らしい佇まいの家が見られる。


岡部宿曲尺手
新町と本町の境をなした曲尺手。


弘法大師堂と高札場跡
弘法大師堂と高札場跡(写真右手)。


岡部宿
旧宿場町の佇まいを残す街道筋。


姿見の橋
宿内の旧東海道に架かる姿見の橋。晩年の小野小町が、長旅に疲れ果て老いた自身の姿を水面に見て嘆き悲しんだと伝わる。


岡部宿
旧東海道は宿内で静岡県道208号に合流。


初亀醸造
岡部宿にある初亀醸造。寛永12年(1635年)創業という造り酒屋。


岡部宿本陣跡
内野九兵衛本陣跡。街道に面して本陣門と塀を復元する。17時から”宿場竹灯り”が催されるとの案内板があり、日が暮れてからが楽しみ。


岡部宿本陣跡
内野本陣当時の間取りを平面表示。袋井宿東本陣跡でも同様の手法が見られた。


大旅籠柏屋
内野本陣の北隣、大旅籠柏屋。岡部宿最大の見どころ。江戸時代後期の建築で、旅籠時代の状態をよく残す。柏屋を経営していた山内家末裔のお婆さんが、近年まで一人でここに住み建物を守ってきたという。お婆さん亡き後に藤枝市が管理し、現在は整備されて一般公開する。国の登録有形文化財。


大旅籠柏屋
柏屋の入口を入れば江戸時代にタイムスリップ!


大旅籠柏屋
「ようこそ、いらっしゃしました。」
そんな声が聞こえてくるのは気のせいか。


大旅籠柏屋
柏屋の台所。


大旅籠柏屋
台所では客をもてなす食事の準備が整う。


大旅籠柏屋
柏屋2階の客間。ほのかな灯りの中、客2人が晩酌を楽しんでいる様子。江戸時代に旅人は、こんな感じで旅の夜を過ごしていたのだろうな。


大旅籠柏屋
柏屋1階、次の間と本座敷。一人で家を守り抜いてきたお婆さんの生活空間だったのだろう。


仁藤本陣跡
柏屋・内野本陣向かいにあった仁藤本陣跡。岡部北交差点北西角辺りがその跡地で、往時を偲ばせるものは無い。


宿場竹灯り
柏屋を出ると日が暮れはじめ、本陣門と塀が竹灯りのイルミネーションに浮かび上がる。


宿場竹灯り
柏屋裏手の”ギャラリーなまこ壁”と”和食処一祥庵”。


宿場竹灯り
竹灯りに土蔵造り風の建物が浮かび上がり幻想的な光景を作り出す。


宿場竹灯り
内野本陣跡で静かに辺りを照らす竹灯り。


宿場竹灯り
本陣跡最奥に鎮座する将軍稲荷の鳥居と竹灯り。


宿場竹灯り
竹灯りに浮かぶ柏屋。


岡部町名店会
すっかり辺りは暗くなり、柏屋から宿内を戻り五智如来公園へ向かう。本日はクリスマスイブ、岡部町名店会のイルミネーションを見てそのことを思い出させる。


五智如来公園
五智如来公園もイルミネーションに彩られ。


五智如来公園
東京の豪華絢爛なイルミネーションより、こっちの方がよっぽどいい。


鯛めし
岡部宿から静岡駅へバスで移動、東京駅に向かう新幹線車内にて。東海軒の”特製たいめし”を食べながら帰途につく。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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