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根室本線 島ノ下駅

2017年3月3日、ダイヤ改正に伴って旅客扱いを廃止した根室本線の島ノ下駅。JR北海道の”ご利用の少ない駅”に指定された10駅のうちの一駅で、千歳線の美々駅(千歳市)、根室本線の稲士別駅(幕別町)と上厚内駅(浦幌町)、釧網本線の五十石駅(標茶町)、函館本線に至っては東山駅・姫川駅・桂川駅(森町)、北豊津駅・蕨岱駅(長万部町)と共に路線図から姿を消した。赤字の泥沼から抜け出せないJR北海道が、維持費の削減を目的に首を切った格好だ。利用客がいなければあっさりと廃止する。これでいいのか、北海道の鉄道は。そんな思いを胸に、廃止から1週間を経た旧島ノ下駅と、「104年間ありがとう!島ノ下駅展」を開催する”ハイランドふらの”を訪ねることに。

島ノ下駅は大正2年(1913年)釧路本線(後の根室本線)の一般駅として開業。昭和初期から島の下温泉の開発が進んで湯治客が増え始め、昭和30年頃には島ノ下駅を利用する旅客数は年間10万人を超えてピークを迎える。しかし、モータリゼーションが到来した昭和40年代、温泉の中心的存在だった五楽園が昭和49年(1974年)に火災で全焼して廃業。島ノ下地区の過疎化が進んだうえ、同56年に石勝線が開通し根室本線の滝川駅~新得駅間は、札幌と帯広・釧路を繋ぐ主要路線の座を奪われ島ノ下駅の利用客は激減、昭和57年(1982年)に無人駅となり現駅舎へ建て替えられた。それから26年後の2017年3月3日、この日の旅客営業を最後に島ノ下駅は104年間の歴史に幕を閉じる。




島の下会館
旧島ノ下駅前通りの小路。その入口には島の下会館が建つ。


旧島ノ下駅
島の下会館から小路を下った突き当りに旧島ノ下駅がある。


旧島ノ下駅
旧島ノ下駅舎。JR貨物のコンテナを駅舎横に置く。廃止から1週間しか経っていないので原形を留めている。


旧島ノ下駅
”JR島ノ下駅”の駅名標示は撤去されているが、しっかりその文字が読み取れる。


旧島ノ下駅
駅構内は立入禁止。


旧島ノ下駅
ホーム上の駅名標は撤去され、枠組みだけが残る。


旧島ノ下駅
キハ40形気動車が何事もなかったように通過。1週間前まで島ノ下駅を12:58に発車していた滝川行である。


旧島ノ下駅
島ノ下駅から線路沿い、もう1本の駅前通り。こちらが本通りのようで、車両の通行可。



島ノ下神社
雪に埋もれる島ノ下神社。島ノ下の盛衰を今日まで見守ってきたのだろう。


ハイランドふらの
島ノ下駅を最寄りとした宿泊・温泉施設の”ハイランドふらの”。かつて賑わった島ノ下温泉はここに引き継がれる。


島ノ下駅展
ハイランドふらの1階ロビーでは「104年間ありがとう!島ノ下駅展」を開催する。


島ノ下駅展
富良野駅の旧運賃表や国鉄時代の制服を展示。


島ノ下駅展
島ノ下に関する写真や新聞記事など、小規模ながら興味深く拝見。


島ノ下駅の無人化を報じる北海タイムス記事
島ノ下駅展のパネル展示より引用
昭和57年2月12日の北海タイムス記事。島ノ下駅の無人化を報じている。


滝里駅の廃止を報じる北海道新聞記事
島ノ下駅展のパネル展示より引用
滝里駅の廃止を報じる平成3年(1991年)10月12日の北海道新聞記事。滝里駅は島ノ下駅と野花南駅の間にあった駅で、滝里ダムの建設により水没し廃駅となった。ここは倉本聰の「北の国から’89」の舞台、蛍と勇次が滝里駅で降り、空知川河畔に立つ木の幹に、二人のイニシャルYとHを刻むシーンを覚えている方も多くいることだろう。このドラマシーンをきっかけに各地から多くの若者が訪れた。


旧島ノ下駅舎 正面
「旧島ノ下駅舎 正面」島ノ下駅展のパネル展示より引用
昭和40年頃の島ノ下駅。


改築直前の旧島ノ下駅舎
「改築直前の旧島ノ下駅舎」島ノ下駅展のパネル展示より引用
昭和57年(1982年)7月11日撮影の島ノ下駅。先代駅舎が取り壊される直前の写真。


旧島ノ下駅事務室にて駅員の仲間たちと
「旧島ノ下駅事務室にて駅員の仲間たちと」島ノ下駅展のパネル展示より引用
昭和29年頃の撮影。旧駅舎で働いてきた人たちの様子を垣間見る1枚。


ラジウム温泉松寿園
「ラジウム温泉松寿園」島ノ下駅展のパネル展示より引用
昭和4年頃撮影の富良野ラジウム温泉・松寿園。昭和3年(1928年)島の下地区の現市有林の沢で発見された鉱泉を元に開業した温泉。旭川第七師団の傷病者療養施設の指定を受け、軍関係者の湯治客で賑わったという。師団指定を解除され同16年(1941年)廃業。


島の下温泉みゆき荘
「島の下温泉みゆき荘」島ノ下駅展のパネル展示より引用
島の下温泉の”みゆき荘”。昭和6年(1931年)泉地区の中央部に開業した不動閣温泉がはじまり。後に経営者が転々と変わり昭和42年(1967年)佐々木温泉を受け継ぎ開業したのが”みゆき荘”である。滝里ダム建設に伴う根室本線の付替え工事により立ち退きを迫られ、昭和62年(1987年)廃業した。


島の下温泉五楽園
「島の下温泉五楽園」島ノ下駅展のパネル展示より引用
昭和40年頃に撮影された五楽園。ここは明治41年(1908年)に開業した渡辺温泉を前身とし、大正から昭和にかけて堀川温泉、坂田温泉と経営者を変え、昭和38年(1963年)旅館建物を改築して五楽園が開業。昭和49年(1974年)に焼失するまで島の下温泉の中心的存在だった。


坂田温泉(旧堀川温泉)の宿泊・温泉施設
「坂田温泉(旧堀川温泉)の宿泊・温泉施設」島ノ下駅展のパネル展示より引用
坂田温泉時代の五楽園。昭和30年頃の撮影。


旧ホテル万景
旧五楽園へ至る道入口にあるホテル万景。廃業してしまっているようだ。


ホテル万景付近
旧ホテル万景から山へ入って行く道。この先がかつて温泉客で賑わった五楽園跡。3月初旬だけに道は雪に埋もれ車でこれ以上進むことはできない。


撮影日:2017年3月11日(土)
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テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

根室本線 野花南駅

旧島ノ下駅から滝川方面に向かへば島ノ下トンネル・滝里トンネルを抜けて野花南駅に着く。この駅間の根室本線は平成3年(1991年)に滝里ダムが完成して現ルートへ付け替えられ、その間にあった滝里駅は町ごとダムの湖底に姿を消す。それから26年後の平成29年(2017年)島ノ下駅が廃止になったことで、富良野駅から滝川行列車に乗れば次の駅は19.4km先の野花南駅となり乗車時間約20分、関東でいえば快速列車並みの駅間距離になってしまった。滝里駅については現地を再訪してもう少し詳しく調べたいので、今回は野花南駅にスポットを当てて記事にしておく。

野花南駅は旧島ノ下駅と時を同じくして大正2年(1913年)釧路本線(後の根室本線)の一般駅として開業。昭和初期には滝沢木工所(現 滝沢ベニヤ)の専用線が分岐し、かつては石炭景気に湧いた芦別と共に木材の搬出入で多くの列車が往来し賑わったのだろう。しかし、島ノ下地区と同様に過疎化が進んだうえ、昭和56年(1981年)に札幌と帯広・釧路を最短に繋ぐ石勝線が開通したことで利用客が激減、昭和57年(1982年)に無人駅となり、島ノ下駅と同構造の現駅舎へ建て替えられた。




野花南駅
旧滝里駅の滝川側隣りの野花南駅。根室本線の平岸駅や旧島ノ下駅と同じ外観。


野花南駅舎内
野花南駅舎内。


野花南駅舎内
切符売場の窓口が往時のまま残る。切符販売が簡易委託されていた名残りなのだろう。


野花南駅構内
野花南駅構内。2面2線の単式ホームを持つが跨線橋は無く、1番ホームへは線路上を横断する。


野花南駅構内
野花南駅1番ホームの駅名標。


野花南駅構内
1番ホームから富良野方面の駅構内を望む。


野花南駅
島ノ下駅と同じ運命を辿らないことをつくづく願う。


野花南駅前通り
野花南駅前通り。


野花南駅前
駅前の旧商店らしき建物には国有林入林心得の看板を掲げている。


野花南駅前
野花南駅前。上写真の旧商店向かいには井上金物店が孤軍奮闘な感じで営業を続ける。


野花南駅
夕暮れ時、静寂に包まれる野花南駅。


野花南駅舎内
誰もいない駅舎内は斜陽が射し、野花南駅の行く末を物語っているかのようだ。


野花南駅駅ノート
切符売場に置かれる野花南駅駅ノート。


島ノ下駅駅ノート
廃駅に伴い島ノ下駅駅ノートはここに移されていた。


島ノ下駅駅ノート
島ノ下駅を訪れた人々の思いが綴られる。


島ノ下駅駅ノート
島ノ下駅最後の日に撮影された写真も。


野花南駅構内
野花南駅構内。


野花南駅構内
滝川方面からキハ40形気動車が野花南駅へ進入するところ。


野花南駅構内
16:12野花南駅で滝川行と新得行列車が行き交う。


野花南駅構内
一人の乗降客も無く、列車は過ぎ去り。


野花南駅付近
ディーゼルエンジン音を響かせながら富良野へ向けて。


野花南駅前
夕暮れ時の閑散とする野花南駅前。


ダムの湖底に沈んだ滝里駅と町を少しだけ↓

滝里ダム防災施設
写真右手に見える建物が滝里湖オートキャンプ場にある滝里ダム防災施設。その左手奥辺りの雪に覆われた湖底に滝里の町や滝里駅があった。


滝里神社
滝里ダム北岸の滝里湖オートキャンプ場入口付近に鎮座する滝里神社。ダムの湖底に沈んだ故郷を今も見守っている。


空知川
滝里大橋上より空知川を望む。かつては写真の左岸を根室本線が通っていた。


滝里ダム
滝里ダムに消えた滝里の町と駅、不本意にも故郷を離れることになった人々も多くいただろう。望郷の思いで斜陽が照らす雪原の湖面を眺めて。


撮影日:2017年3月11日(土)
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テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

岡部宿川原町と十石坂

【旧東海道歩き 第26日目】岡部宿柏屋前停留所→岡部宿→丸子宿→府中宿→静岡駅



【2017年3月19日(日)旧東海道 岡部宿→丸子宿】
3月になって2017年初めての旧東海道歩きである。旧東海道歩きをはじめたのが2013年5月、早いもので間もなく4年が経つ。遅々として進んでいないが、ようやく静岡県にまで到達した。今年はどこまで歩みを進めることができるのだろうか、関東地方に春一番が吹き木々や虫の息吹を感じ始めた頃、そんな思いで東京駅からひかり463号岡山行に乗車、静岡駅から”しずてつバス”で岡部宿柏屋前停留所へ移動し、前回の終着地岡部宿から丸子宿・府中宿へ向かう。

岡部宿本町の大旅籠柏屋から岡部川を渡れば宿場江戸方端にあたる川原町、北側一帯の山と南側を流れる岡部川に挟まれた山裾の僅かな平地に形成された宿場江戸方入口にあたる町だった。川原町の江戸方外れに山裾が岡部川に接する場所があり、ここを越える東海道の坂道を十石坂と呼び、東海道分間絵図にも描かれている。しかし現在は開削されて県道が通され、ほぼ平坦な道と化しており、十石坂観音堂だけが山裾に残り往時を偲ぶ。十石坂を過ぎた旧東海道は徐々に左右に山裾が迫りくる中、岡部川の右岸を進みながら横添や坂下の集落を経て、いよいよ宇津ノ谷峠越えの山道に。坂下からは戦国期以前の中世に使われた宇津ノ谷峠越えの道、”蔦の細道”が分かれる。




岡部宿本陣跡
約2ヶ月半ぶり訪れた岡部宿の内野九兵衛本陣跡。


岡部宿本陣跡
年末の竹灯りに照らされていた本陣跡とは随分と雰囲気が違う。


大旅籠柏屋
岡部宿最大の見どころ、大旅籠柏屋。率直な感想、ここに泊まれるなら泊まってみたい。


旧東海道 岡部町岡部
岡部宿本町の静岡県道208号から分かれる旧道。


専称寺
文禄4年(1595年)開基の専称寺。江戸時代に伝授された”一ト火灸(ひとひきゅう)”という灸療法を続けている。


岡部橋と岡部川
岡部川に架かる岡部橋。ここを渡れば岡部宿の本町から川原町に。


岡部川
岡部川の水は少ない。


岡部橋北詰
岡部橋北詰で旧道は右折。直進の道は三星寺の参道。


三星寺
曹洞宗三星寺。


笠懸松西住法師墓入口
笠懸松西住法師墓入口。


昭和49年頃の笠懸松
笠懸松へアクセスする登り口に設置の解説板より。昭和49年(1974年)頃の笠懸松、周囲の木々が低く、外から見てもひと際目立つ存在だった。


笠懸松登山道
笠懸松登山道から麓の解説板を望む。結構な急勾配の山腹を登っているところ。


笠懸松
これが笠懸松。西行の弟子だった西住という僧が、師の西行から破門されて途方に暮れる中、岡部で病に倒れこの松の木に笠を懸けて辞世の句を残し、この世を去ったと伝わる。破門とした訳は西行が武士から暴力を受けたときに、報復でその武士を杖で殴ってしまったことにあり、西行は自身を思ってとった行動だけに、その死を知って深く悲しみ歌を残したという。

西へ行く 雨夜の月や あみだ笠 影を岡部の松に残して
西住

笠はあり その身はいかに なりならむ あわれはかなき 天の下かな
西行


笠懸松
笠懸松の根元には西住の墓がひっそりと佇む。


笠懸橋
笠懸橋より笠懸松の山を望む。昭和49年には見えていた笠懸松は周囲の木々が育ち外からでは視認できない。


旧東海道 岡部町岡部
昭和49年に撮影された笠懸松の写真に写っていたガソリンスタンドらしき建物。現在も廃墟となりながら残っている。


静岡県道208号 岡部町岡部
岡部宿川原町の江戸方端あたり。かつては宿入口の木戸が設けられていたと思う。


静岡県道208号 岡部町岡部
十石坂に差し掛かる旧東海道。左手の山裾が岡部川にかかる地点で、現在は開削されてほぼ平坦な道と化している。


十石坂観音堂
十石坂の旧東海道筋に残る十石坂観音堂。ここは江戸時代に西行山最林寺の境内一角にあたり、文化5年(1808年)火災により本堂等が焼失してしまうが観音堂だけが残った。入母屋造りの観音堂は江戸時代末期の建立と推測されている。


十石坂
観音堂より十石坂の旧東海道岡部方面を望む。


岡部製茶工場
観音堂向かいにある岡部製茶工場。十石坂には江戸日本橋から48里(約188km)を示す一里塚があったのだが、今はそれがどこにあったのかがわからない。東海道分間絵図を見ると「一里塚両方榎一本づゝ、二つながら海道より左に有」と書かれており、十石坂から岡部川の対岸に一里塚があったのではないかと読み取れる。一里塚が築かれた江戸時代初期に東海道は岡部川の南岸を通っていたのかもしれない。


東海道分間絵図 岡部03
国立国会図書館デジタルコレクションより引用
東海道分間絵図の岡部宿付近。赤矢印が示すところに江戸日本橋から48里目の岡部(十石坂)一里塚が描かれており、どう見ても街道から岡部川を挟んで対岸にあったと思える。岡部(十石坂)一里塚は京三条大橋からは67番目で実測約325km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。


岡部川
十石坂付近を流れる岡部川。


静岡県道208号 岡部町岡部
十石坂を過ぎて間もなく、県道から旧東海道が左に分かれる。


岡部台
住宅地の岡部台入口前を横に見ながら。


静岡県道208号 岡部町岡部
左に岡部川、右に民家が並ぶ横添の集落の中を旧東海道は進む。


弥左エ門橋
横添の旧東海道に架けられる弥左エ門橋。


横添の名残松
横添の名残松。


静岡県道208号 岡部町岡部
横添の集落から徐々に上り坂となり。東海道分間絵図には”けへい坂”と記されている。


静岡県道208号 岡部町岡部
沿道にはかつての街道を思わせる建物も見え。


廻沢口交差点
廻沢口交差点で国道1号に合流。交差点手前で左に分かれる県道208号が、明治から昭和初期にかけて使われた東海道。


道の駅宇津ノ谷峠
道の駅宇津ノ谷峠。


旧東海道 岡部町岡部
道の駅の北側に現れる旧東海道。


旧東海道 岡部町岡部
国道1号の下を潜り抜け。


旧東海道 岡部町岡部
宇津ノ谷峠登り口、坂下の集落へ向かう旧東海道。左側は国道1号によって開削されているが、かつては両側に山裾が迫っていたのだろう。右脇を木和田川が流れ、奥に坂下集落の民家が見える。どこかで見たような風景。そう、ここが広重の浮世絵に描かれた景観によく似ているのだ。


東海道五十三次之内岡部 宇津之山
東海道五十三次之内岡部 宇津之山
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「岡部宿」より引用

上写真の場所がこの浮世絵のモチーフとなったのであれば、道の右脇を流れる川は岡部川ではなく、木和田川ということになる。


坂下地蔵堂
坂下集落を行く旧東海道。写真中央の建物が坂下地蔵堂。


坂下地蔵堂
坂下地蔵堂は東海道名所記にも書かれる御堂で、本尊の延命地蔵尊は鼻取地蔵とも呼ばれ親しまれる。建立年不明、元禄13年(1700年)岡部宿の住人3名が発願して再建し、新たに鐘楼を建立した。東海道名所記から坂下地蔵堂が登場する一文を紹介しておこう。
「宇都の山たうげハ、道せばく。一騎うちに通る難所なり。峠に地蔵堂あり。又、下り坂口にも、地蔵あり。清水ありて。夏旅をたすく、玉葉に、宗尊親王の哥(歌)に
茂りあふ 蔦も楓も紅葉して 木陰秋なる うつの山越


蘿経記碑
地蔵堂境内にある蘿経記(らけいき)碑。元は宇津ノ谷峠の京方登り口近付近に置かれていた。文政13年(1830年)中世以前の宇津ノ谷峠越えの道だった”蔦の細道”を名残り惜しみ、駿府代官の羽倉外記(簡堂)が建立した。


宇津ノ谷峠旧道
旧東海道と蔦の細道の分岐点。左を登る道が旧東海道、右の舗装された道が蔦の細道。


木和田川
蔦の細道の脇を流れる木和田川。


木和田川ニ号堰堤
木和田川二号堰堤。木和田川は明治43年(1910年)8月の豪雨により大規模な土石流が発生、下流域は土砂に埋まり15町歩に及ぶ田畑が埋没してしまう。後に災害対策としてオランダ人ヨハネ・デレーケが直接指導し、大小8基の石積砂防堰堤が築かれた。その形から兜堰堤とも呼ばれる。このニ号堰堤は平成15年の豪雨で崩壊、復旧復元工事により原形に近い形に戻された。


蘿径亭
中世以前の宇津ノ谷峠へ向けて延びる蔦の細道。左の建物は休憩施設の蘿径亭。いずれここに再び訪れ、この先を歩いてみたい。


蘿径亭
蘿径亭の内部は旧家の主屋を思わせる造り。


蔦の細道
蔦の細道を引き返し。


木和田川一号堰堤
木和田川最下流の一号堰堤を見て。そろそろ、旧東海道から宇津ノ谷峠を越えよう。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

宇津ノ谷峠越え

【2017年3月19日(日)旧東海道 岡部宿→丸子宿】
岡部宿と丸子宿間の旧東海道は南アルプスから駿河湾にかけて山の尾根が横たわり、古代から往来の旅人は難儀を強いられた。奈良・平安前期には駿河湾沿岸の焼津側から日本坂を越えたが、平安中期以降に蔦の細道と呼ばれる宇津ノ谷峠越えのルートが開かれ、戦国末期になって秀吉が小田原征伐の際に開通させたといわれる峠越えの新ルートが、江戸期を通しての東海道へと変遷する。江戸時代には薩埵峠と並び駿河を通る東海道の隘路の一つだったが、明治・大正・昭和・平成の4時代にかけて4本のトンネルが峠の下を掘削して通され、今やトンネルを潜り抜けて峠を意識せずに過ぎ去ってしまうが、ここは中世から現代に至るまでの交通史を見ることができる貴重な場所なのだ。峠の丸子宿側の登り口に形成する宇津ノ谷の集落は、かつて十団子を名物として往来の旅人で賑わった間の宿、今となっては名物十団子を売る茶店は無いが、旧東海道筋に並ぶ家々の佇まいが往時を偲ばせている。




宇津ノ谷峠旧道 岡部側登り口
坂下から宇津ノ谷峠旧道へ。この江戸時代に使われた宇津ノ谷峠越えのルートは、秀吉が小田原征伐の際に開通させたといわれる。


蘿径記碑跡
峠道を登り始めて間もなく、蘿径記碑跡。坂下観音堂の蘿径記碑は元々ここにあった。


宇津ノ谷峠旧道
宇津ノ谷峠旧道。


髭題目碑
右手斜面に髭題目碑が残る。


髭題目碑
碑面に「南無妙法蓮華経」を刻む髭題目碑。筆端を髭のようにはねて書く。天保6年(1835年)に再建されたもの。


宇津ノ谷峠旧道
明治のトンネルへ至る道が左方向に分かれる地点。明治のトンネルは明治7年(1874年)掘削工事がはじまり、2年をかけて完成した明治期の東海道ルート。


宇津ノ谷峠旧道
上写真の地点から峠に向かう旧東海道。宇津ノ谷トンネルの管理道となっているため舗装されている。


宇津ノ谷峠旧道06
ここでトンネル管理道から左に分けて旧道が現れる。管理道が通されたことで旧道が一部消失したことを解説する標が設けられている(下写真)。


宇津ノ谷峠旧道の解説標
宇津ノ谷峠旧道の解説標。往時の東海道ルートを写真で示している。有り難い配慮。


宇津ノ谷峠旧道
トンネル管理道を下に見ながら登る。


宇津ノ谷峠旧道
宇津ノ谷峠付近の旧道。


宇津ノ谷峠03
ここが標高170mの宇津ノ谷峠、旧道は下りに転じる。


地蔵堂跡
峠付近にある地蔵堂跡。かつて延命地蔵尊を安置する御堂があった場所で、明治44年(1911年)地蔵尊は宇津ノ谷の慶龍寺に移されている。現在、建物は消失しているが、境内の土台となる石垣だけが残り往時を偲ぶ。地蔵堂が健在だった頃の様子は東海道分間延絵図や明治期の絵馬等に見ることができる。


東海道分間延絵図 地蔵堂
『東海道分間延絵図(江戸時代後期:1806年)』現地設置の解説板より
東海道分間延絵図に描かれる江戸時代後期の地蔵堂。


地蔵堂の絵馬
『地蔵堂の絵馬(明治期)』現地設置の解説板より


宇津ノ谷峠旧道 地蔵堂跡下
地蔵堂跡下を通る旧道。


宇津ノ谷峠旧道 地蔵堂跡下
地蔵堂跡を下の旧道から望む。


地蔵堂石垣
地蔵堂境内を支える石垣がしっかり残る。


東海道分間延絵図 地蔵堂
『東海道分間延絵図』現地設置の解説板より
石垣だけは江戸時代当時と変わっていない。


宇津ノ谷峠旧道
地蔵堂下から階段が設けられた急斜面を下る。明治43年(1910年)この辺りの旧道は集中豪雨で山崩れが起きたことで地形が大きく変わり廃道と化したようだ。当時は宇津ノ谷峠にトンネルが通されていたので、峠越えの旧東海道は寂れて復旧させる必要もなかったのだろう。この階段は旧東海道が整備されるに伴い便宜的に設けたもので、江戸期の旧道は写真左手の斜面を緩やかに下っていた。


宇津ノ谷峠旧道
現地設置の解説板より
明治43年(1910年)集中豪雨による山崩れ以前の旧道を示している。


雁山の墓
江戸時代中期に活躍した雁山の墓。雁山は甲府と駿河に庵を結び俳諧の地盤を築いた。40代前半の享保12年(1727年)頃、旅に出て音信不通になったことから、駿河の文人たちが旅先で死んだものと思いこの墓碑を建てたと伝わる。実のところ雁山は長命で、明和4年(1767年)に82才で甲府に没している。


宇津ノ谷峠旧道
崩落地点に新設された旧道(地蔵堂方面)を望む。


宇津ノ谷峠旧道
宇津ノ谷の集落に向かって下る旧道。


宇津ノ谷峠旧道
旧道途中にある小さな平坦地。かつては茶屋があったのではなかろうか。


宇津ノ谷
上写真の場所からは宇津ノ谷の集落を一望。


宇津ノ谷峠旧道
現地設置の解説板。


宇津ノ谷峠旧道
宇津ノ谷の集落へ向かって一気に下る。


宇津ノ谷峠旧道
宇津ノ谷集落側の峠登り口に佇む馬頭観世音二体。今も花が供えられ道中の安全を祈る。


宇津ノ谷峠旧道 宇津ノ谷登り口
宇津ノ谷峠旧道の丸子側登り口。


旧東海道 静岡市駿河区宇津ノ谷
登り口から旧道筋に軒を連ねる宇津ノ谷の集落。


旧東海道 静岡市駿河区宇津ノ谷
集落内を旧東海道はつづら折れに下ってゆく。


宇津ノ谷
昔の佇まいを旧道筋に残す宇津ノ谷。かつては十団子を名物にする茶屋があり、難所の宇津ノ谷峠を控え旅人で賑わった。


角屋
旧東海道が曲折する角にある角屋。


宇津ノ谷03
角屋から丸子宿方面、旧東海道筋に軒を連ねる宇津ノ谷の集落。時間が静かにゆっくりと流れている。


御羽織屋
秀吉ゆかりと伝わる御羽織屋。秀吉が小田原征伐の際に休息し、ここの主人は戦勝祈願に馬の沓を献上した。秀吉は小田原の北条氏を降伏させての帰途、再びここに立ち寄り褒美に羽織を与えたという。


御羽織屋解説板
秀吉から褒美に与えられたという羽織が現存しているらしいが、本日休業の貼紙があり、お目にかかることはできなかった。


御羽織屋
御羽織屋の店先。


御羽織屋
御羽織屋から宇津ノ谷峠方面の町並み。


寿々屋
寿々屋。


くるま屋
くるま屋。


橋場
村中橋西詰、橋場の屋号を掲げる旧家。


村中橋
村中橋より宇津ノ谷を望む。


宇津ノ谷
ここで旧道は静岡県道208号に合流。


県道208号 静岡市駿河区宇津ノ谷
県道沿いに数軒の民家が並ぶ。


県道208号 静岡市駿河区宇津ノ谷
宇津ノ谷を後にして。


宇津ノ谷トンネル
更に県道は宇津ノ谷トンネルを抜けてきた国道1号に合流。


道の駅宇津ノ谷峠
道の駅宇津ノ谷峠。


道の駅宇津ノ谷峠にて
道の駅宇津ノ谷峠にて。ハクセキレイでしょうか。


道の駅宇津ノ谷峠にて
ぴょこぴょこと走り回るハクセキレイ。


宇津ノ谷口橋
国道1号に架かる宇津ノ谷口橋。


宇津ノ谷一里塚跡
江戸日本橋から47里(約185km)を示した宇津ノ谷一里塚跡。その跡地を示すものが無く位置不明だが、十石坂一里塚と丸子一里塚の中間地点にあたる”介護老人保健施設かりん”付近にあったと推定できる。ちょうど推定跡地に逆川口バス停があり、これを宇津ノ谷(逆川)一里塚跡にバス停名を変更してもよさそうだが。


国道1号 静岡県静岡市駿河区丸子
丸子赤目ヶ谷歩道橋より宇津ノ谷峠を望む。岡部宿から峠を越えてきた旅人は、この景色を後ろに見てほっと一息ついたことだろう。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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