丸子(鞠子)宿
【2017年3月19日(日)旧東海道 丸子宿】

東海道五十三次之内丸子 名物茶店
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「鞠子宿」より引用
丸子と書いて”まりこ”と読み、”鞠子”とも書く。丸子宿は江戸日本橋から東海道五十三次を20宿目、京都三条大橋から34宿目にあたる山裾の小さな宿場町。天保14年(1843年)当時の宿内町並み東西7町(約764m)、人口795人、家数211軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠屋24軒。西に宇津ノ谷峠、東に安倍川の川越しが控える宿場町だけに、ここで旅装を解く人も多かったことは想像に難くなく、旅籠が満室のときには寺院や近隣の枝郷村に休宿させていたという。名物はとろろ汁、松尾芭蕉が「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」と句に詠んだことでも知られ、広重は「東海道五十三次之内丸子 名物茶店」の題で、”名ぶつとろろ汁”の看板を掲げる茶店の様子を描く。この茶店のモデルとされるのが丁子屋、現在も営業を続ける”とろろ汁”の名店で、江戸時代から引き継がれてきた味を守っている。

赤目ヶ谷西歩道橋から東へ。近藤鋼材前を通る旧東海道。

横を流れる丸子川に水が無い。写真に見える橋は赤目ヶ谷橋。明治24年発行の地図を見ると、この辺りの川の流れと旧東海道のルートは少々違っていたことがわかる。

赤目ヶ谷橋南詰で国道1号が旧道を分断。眼前には金色に輝く観音像、これは丸玄工芸のモニュメントで宣伝用のもの。

赤目ヶ谷中交差点に架かる丸子赤目ヶ谷歩道橋より丸子宿方面。国道の右を通る道が旧東海道、1本だけ名残り松が立つ。

赤目ヶ谷の名残り松。丸子宿から宇津ノ谷にかけての旧東海道は国道1号が通されたことで随分と景観が変わってしまったのだろう。松並木の1本だったはずの松は、一本松となりながらもまだまだ樹勢は衰えていない。

名残り松から丸子宿へ延びる旧道。沿道には赤目ヶ谷の集落が形成される。

赤目ヶ谷の京方入口、長源寺の境内に鎮座する起樹天満宮。明治初期にインドから紅茶製造の技術を持ち帰り、丸子に茶園を開いた多田元吉に由来があるらしい。長源寺境内には多田元吉の墓をはじめ、元吉が寄進したと伝わる起木天神碑や、インドより持ち帰った紅茶原木がある。

多田元吉が寄進したと伝わる起木天神碑。

長源寺本堂。

”日本の紅茶発祥の地”を看板に掲げる丸子紅茶。

赤目ヶ谷を行く旧東海道。

この辺り、道を間違える人が多いようで。

赤目ヶ谷を過ぎれば二軒屋の集落に。

二軒家公民館。横には御堂が建っている。

二軒家付近、完全に干上がっている丸子川。

もういいかい。まーだだよ。子供にとっては格好の遊び場に。

旧東海道は元宿に。

元宿を行く旧東海道。

元宿の旧東海道筋にある夢想庵。旧街道らしい佇まいの店舗に目を惹く。軽食喫茶の店のようです。

元宿より京方の宇津ノ谷方面。元宿は丸子川の西岸に位置し、江戸期以前に丸子宿の中心をなしていたと思われる。写真左手に見える山が元宿山。江戸時代に羽鳥家の先祖が大峰山(奈良県南部)で修行を終えて元宿に大日如来を祀り、そのご神体を力自慢の小玉爺さんが担いで元宿山山頂に移したとの言い伝えが残っている。

丸子宿京方入口、丸子川に架かる丸子橋。

丸子橋の西袂にある丸子宿御高札場。

丸子橋東袂には宿場を感じさせる丁子屋の佇まい。

広重が描いた浮世絵「東海道五十三次之内丸子 名物茶店」のモデルとなったとされる丁子屋。創業は慶長元年(1596年)という老舗中の老舗。400年以上前から代々受け継がれてきた名物とろろ汁を客にふるまう。

15時を過ぎていたのに20分以上待ってようやく着席。とろろ飯定食の”本陣”を注文。

まずは前菜、幻の山菜”むかご”の和え物と駿河湾産しらす。

主役の”とろろ”にご飯、むかごの揚げ団子”が登場。

ご飯にとろろをかけ、刻みネギをまぶしてとろろ飯の完成。美味そう!

腹ごしらえを終え丁子屋を後に。

丸子宿内の街道筋にて。春に旬を迎えるミカンのスルガエレガントが路傍で無人販売されていた。

お七里役所跡。ここは紀州徳川家専用の飛脚継立所で、江戸から和歌山の間、七里(約28km)毎に23ヶ所設けられたうちの一つ。金谷宿にも同様の跡地があったなあ、あれから約28km歩いてきたということ。

脇本陣藤波家跡。

横田三左衛門家本陣跡。

丸子宿問屋場跡。

脇本陣横田家跡。

杉玉を軒先に吊るす”しらい酒店”。

水神社付近、丸子宿の町並み。

丸子川畔に祀られる水神社。

丸子川を鎮め宿場を水害から守ってきたのだろう。

しかし水神社が鎮める丸子川に水は無い。

丸子宿江戸方端の町並み。

丸子宿を出て間もなく、丸子一里塚跡がある。丸子一里塚は江戸日本橋から46里(約181km)、京三条大橋からは69番目で実測約333km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

東海道五十三次之内丸子 名物茶店
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「鞠子宿」より引用
丸子と書いて”まりこ”と読み、”鞠子”とも書く。丸子宿は江戸日本橋から東海道五十三次を20宿目、京都三条大橋から34宿目にあたる山裾の小さな宿場町。天保14年(1843年)当時の宿内町並み東西7町(約764m)、人口795人、家数211軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠屋24軒。西に宇津ノ谷峠、東に安倍川の川越しが控える宿場町だけに、ここで旅装を解く人も多かったことは想像に難くなく、旅籠が満室のときには寺院や近隣の枝郷村に休宿させていたという。名物はとろろ汁、松尾芭蕉が「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」と句に詠んだことでも知られ、広重は「東海道五十三次之内丸子 名物茶店」の題で、”名ぶつとろろ汁”の看板を掲げる茶店の様子を描く。この茶店のモデルとされるのが丁子屋、現在も営業を続ける”とろろ汁”の名店で、江戸時代から引き継がれてきた味を守っている。

赤目ヶ谷西歩道橋から東へ。近藤鋼材前を通る旧東海道。

横を流れる丸子川に水が無い。写真に見える橋は赤目ヶ谷橋。明治24年発行の地図を見ると、この辺りの川の流れと旧東海道のルートは少々違っていたことがわかる。

赤目ヶ谷橋南詰で国道1号が旧道を分断。眼前には金色に輝く観音像、これは丸玄工芸のモニュメントで宣伝用のもの。

赤目ヶ谷中交差点に架かる丸子赤目ヶ谷歩道橋より丸子宿方面。国道の右を通る道が旧東海道、1本だけ名残り松が立つ。

赤目ヶ谷の名残り松。丸子宿から宇津ノ谷にかけての旧東海道は国道1号が通されたことで随分と景観が変わってしまったのだろう。松並木の1本だったはずの松は、一本松となりながらもまだまだ樹勢は衰えていない。

名残り松から丸子宿へ延びる旧道。沿道には赤目ヶ谷の集落が形成される。

赤目ヶ谷の京方入口、長源寺の境内に鎮座する起樹天満宮。明治初期にインドから紅茶製造の技術を持ち帰り、丸子に茶園を開いた多田元吉に由来があるらしい。長源寺境内には多田元吉の墓をはじめ、元吉が寄進したと伝わる起木天神碑や、インドより持ち帰った紅茶原木がある。

多田元吉が寄進したと伝わる起木天神碑。

長源寺本堂。

”日本の紅茶発祥の地”を看板に掲げる丸子紅茶。

赤目ヶ谷を行く旧東海道。

この辺り、道を間違える人が多いようで。

赤目ヶ谷を過ぎれば二軒屋の集落に。

二軒家公民館。横には御堂が建っている。

二軒家付近、完全に干上がっている丸子川。

もういいかい。まーだだよ。子供にとっては格好の遊び場に。

旧東海道は元宿に。

元宿を行く旧東海道。

元宿の旧東海道筋にある夢想庵。旧街道らしい佇まいの店舗に目を惹く。軽食喫茶の店のようです。

元宿より京方の宇津ノ谷方面。元宿は丸子川の西岸に位置し、江戸期以前に丸子宿の中心をなしていたと思われる。写真左手に見える山が元宿山。江戸時代に羽鳥家の先祖が大峰山(奈良県南部)で修行を終えて元宿に大日如来を祀り、そのご神体を力自慢の小玉爺さんが担いで元宿山山頂に移したとの言い伝えが残っている。

丸子宿京方入口、丸子川に架かる丸子橋。

丸子橋の西袂にある丸子宿御高札場。

丸子橋東袂には宿場を感じさせる丁子屋の佇まい。

広重が描いた浮世絵「東海道五十三次之内丸子 名物茶店」のモデルとなったとされる丁子屋。創業は慶長元年(1596年)という老舗中の老舗。400年以上前から代々受け継がれてきた名物とろろ汁を客にふるまう。

15時を過ぎていたのに20分以上待ってようやく着席。とろろ飯定食の”本陣”を注文。

まずは前菜、幻の山菜”むかご”の和え物と駿河湾産しらす。

主役の”とろろ”にご飯、むかごの揚げ団子”が登場。

ご飯にとろろをかけ、刻みネギをまぶしてとろろ飯の完成。美味そう!

腹ごしらえを終え丁子屋を後に。

丸子宿内の街道筋にて。春に旬を迎えるミカンのスルガエレガントが路傍で無人販売されていた。

お七里役所跡。ここは紀州徳川家専用の飛脚継立所で、江戸から和歌山の間、七里(約28km)毎に23ヶ所設けられたうちの一つ。金谷宿にも同様の跡地があったなあ、あれから約28km歩いてきたということ。

脇本陣藤波家跡。

横田三左衛門家本陣跡。

丸子宿問屋場跡。

脇本陣横田家跡。

杉玉を軒先に吊るす”しらい酒店”。

水神社付近、丸子宿の町並み。

丸子川畔に祀られる水神社。

丸子川を鎮め宿場を水害から守ってきたのだろう。

しかし水神社が鎮める丸子川に水は無い。

丸子宿江戸方端の町並み。

丸子宿を出て間もなく、丸子一里塚跡がある。丸子一里塚は江戸日本橋から46里(約181km)、京三条大橋からは69番目で実測約333km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。

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