丸子(鞠子)宿

【2017年3月19日(日)旧東海道 丸子宿】
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東海道五十三次之内丸子 名物茶店
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「鞠子宿」より引用

丸子と書いて”まりこ”と読み、”鞠子”とも書く。丸子宿は江戸日本橋から東海道五十三次を20宿目、京都三条大橋から34宿目にあたる山裾の小さな宿場町。天保14年(1843年)当時の宿内町並み東西7町(約764m)、人口795人、家数211軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠屋24軒。西に宇津ノ谷峠、東に安倍川の川越しが控える宿場町だけに、ここで旅装を解く人も多かったことは想像に難くなく、旅籠が満室のときには寺院や近隣の枝郷村に休宿させていたという。名物はとろろ汁、松尾芭蕉が「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」と句に詠んだことでも知られ、広重は「東海道五十三次之内丸子 名物茶店」の題で、”名ぶつとろろ汁”の看板を掲げる茶店の様子を描く。この茶店のモデルとされるのが丁子屋、現在も営業を続ける”とろろ汁”の名店で、江戸時代から引き継がれてきた味を守っている。




近藤鋼材
赤目ヶ谷西歩道橋から東へ。近藤鋼材前を通る旧東海道。


赤目ヶ谷橋
横を流れる丸子川に水が無い。写真に見える橋は赤目ヶ谷橋。明治24年発行の地図を見ると、この辺りの川の流れと旧東海道のルートは少々違っていたことがわかる。


赤目ヶ谷橋南詰
赤目ヶ谷橋南詰で国道1号が旧道を分断。眼前には金色に輝く観音像、これは丸玄工芸のモニュメントで宣伝用のもの。


国道1号 静岡県静岡市駿河区丸子
赤目ヶ谷中交差点に架かる丸子赤目ヶ谷歩道橋より丸子宿方面。国道の右を通る道が旧東海道、1本だけ名残り松が立つ。


赤目ヶ谷の名残り松
赤目ヶ谷の名残り松。丸子宿から宇津ノ谷にかけての旧東海道は国道1号が通されたことで随分と景観が変わってしまったのだろう。松並木の1本だったはずの松は、一本松となりながらもまだまだ樹勢は衰えていない。


旧東海道 赤目ヶ谷
名残り松から丸子宿へ延びる旧道。沿道には赤目ヶ谷の集落が形成される。


起樹天満宮
赤目ヶ谷の京方入口、長源寺の境内に鎮座する起樹天満宮。明治初期にインドから紅茶製造の技術を持ち帰り、丸子に茶園を開いた多田元吉に由来があるらしい。長源寺境内には多田元吉の墓をはじめ、元吉が寄進したと伝わる起木天神碑や、インドより持ち帰った紅茶原木がある。


起木天神碑
多田元吉が寄進したと伝わる起木天神碑。


長源寺
長源寺本堂。


丸子紅茶
”日本の紅茶発祥の地”を看板に掲げる丸子紅茶。


旧東海道 赤目ヶ谷
赤目ヶ谷を行く旧東海道。


旧東海道 二軒屋
この辺り、道を間違える人が多いようで。


旧東海道 二軒屋
赤目ヶ谷を過ぎれば二軒屋の集落に。


二軒家公民館
二軒家公民館。横には御堂が建っている。


丸子川
二軒家付近、完全に干上がっている丸子川。


丸子川
もういいかい。まーだだよ。子供にとっては格好の遊び場に。


旧東海道 元宿
旧東海道は元宿に。


旧東海道 元宿
元宿を行く旧東海道。


夢想庵
元宿の旧東海道筋にある夢想庵。旧街道らしい佇まいの店舗に目を惹く。軽食喫茶の店のようです。


元宿
元宿より京方の宇津ノ谷方面。元宿は丸子川の西岸に位置し、江戸期以前に丸子宿の中心をなしていたと思われる。写真左手に見える山が元宿山。江戸時代に羽鳥家の先祖が大峰山(奈良県南部)で修行を終えて元宿に大日如来を祀り、そのご神体を力自慢の小玉爺さんが担いで元宿山山頂に移したとの言い伝えが残っている。


丸子橋
丸子宿京方入口、丸子川に架かる丸子橋。


丸子宿御高札場
丸子橋の西袂にある丸子宿御高札場。


丁子屋
丸子橋東袂には宿場を感じさせる丁子屋の佇まい。


丁子屋
広重が描いた浮世絵「東海道五十三次之内丸子 名物茶店」のモデルとなったとされる丁子屋。創業は慶長元年(1596年)という老舗中の老舗。400年以上前から代々受け継がれてきた名物とろろ汁を客にふるまう。


丁子屋
15時を過ぎていたのに20分以上待ってようやく着席。とろろ飯定食の”本陣”を注文。


丁子屋
まずは前菜、幻の山菜”むかご”の和え物と駿河湾産しらす。


丁子屋
主役の”とろろ”にご飯、むかごの揚げ団子”が登場。


丁子屋
ご飯にとろろをかけ、刻みネギをまぶしてとろろ飯の完成。美味そう!


丁子屋
腹ごしらえを終え丁子屋を後に。


スルガエレガント
丸子宿内の街道筋にて。春に旬を迎えるミカンのスルガエレガントが路傍で無人販売されていた。


お七里役所跡
お七里役所跡。ここは紀州徳川家専用の飛脚継立所で、江戸から和歌山の間、七里(約28km)毎に23ヶ所設けられたうちの一つ。金谷宿にも同様の跡地があったなあ、あれから約28km歩いてきたということ。


脇本陣藤波家跡
脇本陣藤波家跡。


横田三左衛門家本陣跡
横田三左衛門家本陣跡。


丸子宿問屋場跡
丸子宿問屋場跡。


脇本陣横田家跡
脇本陣横田家跡。


しらい酒店
杉玉を軒先に吊るす”しらい酒店”。


丸子宿
水神社付近、丸子宿の町並み。


水神社
丸子川畔に祀られる水神社。


水神社
丸子川を鎮め宿場を水害から守ってきたのだろう。


丸子川
しかし水神社が鎮める丸子川に水は無い。


丸子宿
丸子宿江戸方端の町並み。


丸子一里塚跡
丸子宿を出て間もなく、丸子一里塚跡がある。丸子一里塚は江戸日本橋から46里(約181km)、京三条大橋からは69番目で実測約333km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。


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安倍川の渡し

【2017年3月19日(日)旧東海道 丸子宿→府中宿】
丸子宿を東見付跡から出て旧東海道を東に。佐渡(さわたり、現 静岡市駿河区丸子1丁目辺り)、手越(現 静岡市駿河区手越)を過ぎれば安倍川が行く手を阻む。現在は安倍川橋が架けられ難なく渡ることができるが、江戸時代には橋や渡船が無く、大井川や瀬戸川と同じように川越人足による徒歩渡し。左右両岸の弥勒町と手越村には川の水量で川越賃銭の決定や徴収などの業務を行なう川会所が置かれていた。往時の様子は歌川広重が描いた「東海道五十三次之内府中 安部川」に見ることができる。




旧東海道(静岡県道208号) 長田西小学校付近
丸子一里塚跡の先、長田西小学校付近の旧東海道(静岡県道208号)江戸方。右手前から奥方向。


静岡丸子郵便局
静岡丸子郵便局前を行く旧東海道(静岡県道208号)。


丸子4丁目の名残り松
丸子4丁目の名残り松。


丸子1丁目の名残り松
丸子1丁目の名残り松。


丸子1丁目の名残り松
根元はアスファルトに覆われながらも、現代にしっかりと生き延びる。


旧東海道 佐渡
かつての佐渡(さわたり)を行く旧東海道。現在は地名に佐渡の名を残していないが、交差点や公民館、バス停等にその名が見られる。


佐渡バス停
佐渡バス停。


子授地蔵堂
佐渡の子授地蔵堂。その昔、ここの地蔵一体を借りて家に持ち帰り信仰すれば子が授かると云われた。子に恵まれた人は新たに地蔵を作って奉納する風習があり、御堂には多くの地蔵が祀られている。


佐渡公民館
佐渡公民館。


さわたりの手児万葉碑
佐渡公民館にある”さわたりの手児万葉碑”。
さわたりの てごにい行きあひ 赤駒が あがきを速み こと問はず來ぬ


佐渡交差点
佐渡交差点の歩道橋上より京方・丸子宿方面を望む。宇津ノ谷峠がだいぶ遠のいた感じ。


手越原の名残り松
手越原交差点の歩道橋上より江戸方、手越原を府中宿へ向けて旧東海道が延びる。沿道に松並木の名残り。


手越原の名残り松02
手越原の名残り松


泉秀寺
泉秀寺参道。山号を小森山、曹洞宗の寺院で聖観世音菩薩を本尊とする。


君盃市川屋酒店
君盃市川屋酒店。


高林寺
御霊山高林寺。一条信龍(武田信玄の末弟、武田二十四将の1人)の孫、松井正近による開基。 門前に”元祖手越名灸所”と刻む碑があり、承応2年(1653年)頃に始まったという手越の灸は、江戸期に名を馳せた名灸だったという。


高林寺門前
高林寺門前を行く旧東海道。


安倍川橋西詰
安倍川橋西詰に残る旧道(右方向)。


安倍川橋西袂史蹟案内
安倍川橋西袂に掲げる史蹟案内。


安倍川橋
安倍川に架かる安倍川橋。現在の鋼トラス橋は大正12年(1923年)竣工で三代目。最初の架橋は川越制度が廃止されてから3年後の明治7年(1874年)、長さ280間(約504m)、幅2間(約3.6m)の木橋で、安水橋と名付けられていた。


安倍川
川幅は広いが水量が少なく川洲が目立つ。今でも徒歩渡しができそう。


安倍川
安倍川橋の下流部で新幹線が猛スピードで川を渡ってゆく。


安倍川
ここをかつて川越人足が旅人を背負い往来していたのかと思うと、感慨深い。


安倍川橋
安倍川橋より上流方向。左手の山は徳願寺山で、麓に康正3年(1457年)今川氏親(義元の父)の生母、北川殿が開基した徳願寺がある。


宮崎総五の碑
安倍川橋東袂にひっそりとある宮崎総五の碑。大正13年(1924年)建立。明治4年に安倍川の川越制度が廃止され、旅人は渡船や仮橋で川を渡らねばならくなった。この不便な状況を見かねて立ち上がったのが宮崎総五という人で、民間人でありながら多額の私財を投じ、初代安倍川橋となる木製の安水橋を架けるため尽力した。


安倍川橋東袂の供養塔
安倍川橋東袂の供養塔。左は関東震災横死者供養塔、右が溺死劔難者慰霊碑。


石部屋
安倍川もちの老舗、石部屋(せきべや)。時間が遅かったせいなのだろう、やってなかったー。マジで残念…。


安倍川の義夫の碑
石部屋隣りにある安倍川の義夫の碑。元文3年(1738年)安倍川の渡し賃をけちった紀州の漁夫が、自力で川を渡ろうとして着物を脱いだ際に持っていた150両もの大金を落としてしまう。偶然その近くにいて大金を拾った人夫(川原町に住む彦右衛門の息子喜兵衛)が漁夫の後を追い、宇津ノ谷峠で出会って金を返した。漁夫は礼金を渡そうとするが、「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前のこと」と受け取りを拒否して引き返したという。この碑は昭和4年(1929年)和歌山県と静岡県の有志によって建立された。


旧東海道 弥勒町
弥勒町を行く旧東海道。安倍川の川越し場の一つ。安倍川の川越し場は左岸のここ弥勒町と堤添町、右岸の手越村にあり、それぞれ川会所が設けられていた。かつては安倍川餅を出す茶屋が多くあり、往来の旅人相手に賑わった。


弥勒立場跡
弥勒町より安倍川橋方向。右手は弥勒緑地で、かつては町家が並んでいたはず。その奥に見える緑枠の掲示板辺りが立場跡で、”弥勒歩みの跡案内図”を掲示している。


安倍川架橋の碑
弥勒緑地にある安倍川架橋の碑。宮崎総五が安倍川に橋を架けるために尽力した顛末を後世に伝えるため、明治41年(1908年)に建てられた。


正念寺跡
弥勒緑地の北東側は正念寺跡。ここに寺があったなんて今では想像できない。


弥勒川会所跡
弥勒交番の辺りが川会所跡。
府中宿西見付跡
弥勒と川越町の境、ここが府中宿の京方出入口にあたる西見付跡。


新通り2丁目
府中宿に入り新通り2丁目の旧東海道を歩く。


駿河伏見稲荷神社
新通1丁目に鎮座する駿河伏見稲荷神社。


新通り整形外科
駿河伏見稲荷神社隣にある新通り整形外科。入口軒上のイルミネーションが洒落ていて、整形外科らしからぬ夜の佇まい。


田尻屋総本家
田尻屋総本家。わさび漬けの元祖という老舗。土産を買いたかったのだが、時間が遅く店はシャッターに閉められていた。


駿府城巽櫓と東御門
日が完全に沈んでしまったので一気に府中宿を通り抜けて駿府城へ。ライトアップされる駿府城巽櫓と東御門。


駿府城東御門
駿府城東御門。


駿府城東御門
ライトアップされて厳かな姿を浮かべる駿府城東御門。家康が晩年を過ごした城の威厳を感じよう。


駿府城東御門
東御門を内側から。


駿府城坤櫓
こちらは坤(ひつじさる)櫓。


静岡駅
府中宿と駿府城の再訪を期して静岡駅から帰途に。


安倍川もち
静岡駅で購入した安倍川もち。


安倍川もち
安倍川もちを食べながら約1時間の新幹線の旅を楽しもう。


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久能山東照宮

せっかく府中宿(静岡市街)まで辿り着いたのだから、久能山東照宮へ行ってみたいとの思いにかられ、ゴールデンウィークの終盤を迎えた5月5日の早朝に静岡入り。静岡駅南口から”しずてつジャストライン石田街道線”のバスに乗車し久能山下バス停で下車、ここから久能山下にある大鳥居までに歩いて移動し、表参道に敷かれた1159段もの石段を登り山頂付近に境内を広げる東照宮へ向かう。

東照宮といえば日光を思い浮かべる方が大半ではないかと思うが、本家本元の東照宮は静岡市の久能山にある。駿河湾に面して日本平に隣接する標高216mの久能山は、推古天皇(592年~628年)の頃に久能寺が建立され、奈良時代に行基をはじめ、円爾(聖一国師、静岡茶の始祖といわれる)など、多くの名僧が往来して隆盛を極めたという。戦国時代になり駿河を治めていた今川家が桶狭間の戦いを機に没落、武田信玄が駿河侵攻を開始して駿府へ進出し、要害地である久能山に城を築く。この際に久能寺は移され、現在の鉄舟寺(静岡市清水区村松)がその後身。戦国時代末期に織田信長の前に武田家が屈して滅亡すると、代わって徳川家康が領有することになった。

将軍の座を秀忠に譲り大御所となった家康は駿府城を居城として晩年を過ごし、元和2年(1616年)死を間際にして4つの遺言を残す。遺体は久能山に葬ること、増上寺で葬儀を行なうこと、三河の大樹寺に位牌を納めること、一周忌が過ぎて後に日光山に小堂を建てて勧請すること。駿府城で死去した家康の亡骸は遺言に従いここ久能山に葬られたことは事実、二代将軍秀忠の命により久能山に社殿の造営がはじまり翌年に東照宮は完成をみるのだが、4つ目の遺言に従って南光坊天海が総指揮をとり下野国日光へ向けて「神霊遷し」が盛大に行われたことも事実。この一事が家康の遺骸は日光に改葬されたとの根拠となり今の通説となっている。しかし、実際には魂(分霊)が勧請されたもので、家康の遺骸は久能山にそのまま残されているとの説も有力となりつつあり、日光に遺骸が移されたことが事実なのかは怪しい。真実は謎のままにしておいたほうが歴史は面白いのも事実。

久能山東照宮公式ウェブサイト
http://www.toshogu.or.jp/




東照宮表参道
久能山麓の大鳥居に向かって延びる東照宮表参道。


東照宮石鳥居
石鳥居の先から石段登りがはじまる。1159(いちいちご苦労さん)段あると言われている。


東照宮全景
東照宮全景。


徳音院
参道石段登り口にある徳音院。


徳音院
徳音院には元三大師(良源)と慈眼大師(南光坊天海)を祀る。元三大師は平安時代の天台宗の高僧で、比叡山延暦寺の中興の祖。現在の神社仏閣にある”おみくじ”の原型を創始したとされる。南光坊天海は家康の側近で、家康の御霊を久能山から日光へ移す「神霊遷し」の総指揮をとった人物、元三大師の夢告げにより寛永寺(東京都台東区上野)に”おみくじ”を置いたとされ、江戸で大流行したという。


徳音院おみくじ
せっかくなので百円を納めて”おみくじ”をひいておこう。


徳音院おみくじ
吉でした。良くもなく悪くもなく、これが一番。


東照宮表参道石段
徳音院門前から石段下を望む。


駿河稲荷大明神
徳音院から少し石段を登った左手にある駿河稲荷社。久能山代官を務めた杉江家が伏見稲荷より勧請し屋敷内に祀っていたものを昭和57年(1982年)にここへ移した。


東照宮表参道石段
急勾配の石段を登り。


東照宮表参道石段
更に登り。かなりきつい。


東照宮表参道遠望
石段途中から望む表参道と久能海岸。


東照宮一ノ門
石段を登り続けてようやく一ノ門の辿り着く。


東照宮一ノ門03
一ノ門でひと休み。


東照宮一ノ門
一ノ門越しに駿河湾の大海原。記念撮影のスポット。


勘介井戸
一ノ門を入って博物館横の広場にある勘介井戸。武田信玄の軍師山本勘助が掘らせたと伝わる。東照宮造営前の久能山城時代の遺構といえよう。


社務所
社務所の参拝受付で拝観料を納めて中へ入れば、


東照宮楼門
石段上に楼門が厳かに構える。


家康公御手形
楼門にある家康公御手形。


東照宮楼門
東照宮楼門内側。


東照宮楼門
東照宮楼門内側。


東照宮御社殿
楼門を潜り抜ければ参道の先に御社殿。


五重塔旧跡
御社殿前の五重塔跡。三代将軍家光の命により寛永13年(1636年)に完成した五重塔(高さ約30メートル)があった場所。明治期の神仏分離で取り払われ、礎石だけが残されている。


日枝神社
御社殿横に鎮座する日枝神社。創建当時は薬師如来像を祀る本地堂だったが、明治期の神仏分離で仏像が移され、代わって境内にあった山王社のご神体を移し日枝神社に改められた。


東照宮拝殿
多くの参拝者で賑わう拝殿。


東照宮拝殿
日光東照宮に比べれば規模は小さいが、建物の絢爛豪華な装飾美には目を見張るものがある。


東照宮拝殿
東照宮拝殿。


東照宮絵馬
東照宮の絵馬。


東照宮拝殿
参拝者の行列に並んで私も。


東照宮拝殿
拝殿正面にある唐門。


東照宮お札・お守り
東照宮で扱うお札・お守りの一覧。


東照宮本殿
東照宮本殿と廟所入口の廟門。


東照宮本殿
廟所参道石段より本殿と廟門。


東照宮神廟
境内最奥にある神廟。家康の遺骸が埋葬された所で、創建当初は木造の小さな祠だったが、三代将軍家光の命により現在の石造宝塔に改められた。家康の遺命に従い西向きに建てられている。


東照宮神廟と金の成る木
東照宮神廟。


東照宮神廟
家康は今もこの石造宝塔の中に立ち、西に睨みを利かせているのだろうか。


家康公愛馬の霊所
神廟の敷地一角にある家康公愛馬の霊所。ここに家康の愛馬を埋葬したと伝わる。


東照宮神廟
神廟前にある青銅製の燈籠。元和三年の銘があり、東照宮造営時に奉納されたことがわかる。


東照宮拝殿石段
御社殿を後にして。唐門前の石段では衣装を着飾った子供たちが記念撮影。


東照宮楼門
名残り惜しく振り返って楼門を望む。


参拝受付所
参拝受付を出て。


見晴台
駿河湾を眺望する見晴台。


駿河湾遠望
沿岸にはいちご畑のビニールハウスが所狭しと並ぶ。


表参道石段と駿河湾
表参道石段と駿河湾。遠く伊豆半島が望める。


表参道石鳥居
一気に石段を石鳥居まで降って。


久能山
海岸沿いの国道150号から表参道と久能山を望み。


久能海岸
振り返れば久能海岸。頬を撫でる春の海風が爽やかで気持ちいい。


東照宮表参道
どこかで昼飯にしようかと海岸から表参道を戻り。


かどや
”かどや”に入ろう。


かどや
シンプルイズベストなラーメンを食べて空腹を満たし。


いちご生ジュース
最後は”かどや”隣の山内屋で食後のデザートに”いちご生ジュース”。苺って素晴らしい。


撮影日:2017年5月5日(金)
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駿府城

静岡市中心部に縄張りの遺構を残す駿府城。その前身は室町時代初期に築かれた今川氏の居館で、同地にあったとされるが正確な規模や位置は特定できていない。今川氏が桶狭間の戦いを機に没落したことで、武田信玄が駿河侵攻を開始して駿府へ進出、今川家当主の氏真は駿府城を脱出し掛川城へ逃れた。信玄は今川氏の居館や駿府の町を焼き払い、新たに江尻城を築いて駿河支配の拠点とする。天正10年(1582年)武田家が滅亡すると駿河は徳川家康の領国となり、家康は同13年から駿府城の築城をはじめ、翌年に浜松城から移った。同18年秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡、家康は関東に移封となり江戸城へ移ることになり、代わって駿府城へ入ったのが秀吉側近の中村一氏。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは東軍に与するが合戦直前に病死し、合戦には長子忠一が出陣して戦功をあげ、伯耆米子17万5000石を与えられ転封、代わって内藤信成が伊豆韮山から入城した。

慶長10年(1605年)家康は秀忠に将軍の座を譲り隠居、とは言っても大御所となり絶大な権力を維持しており、同12年隠居地とした駿府城を大改修するため、全国の大名を動員して天下普請を開始。本丸・二の丸・三の丸に三重の水堀を巡らせ、今に残る壮大な縄張りが完成、本丸北西隅には五層の天守が築かれた。慶長14年(1609年)第10子の頼宜を8歳で城主とし駿河遠江50万石を領有させている。元和2年(1616年)家康が没した後も、頼宜は在城していたが、同5年紀州和歌山へ移り、紀州徳川家初代当主となった。寛永元年(1624年)二代将軍秀忠の三男忠長が入城、忠長は同8年粗暴の不行跡を理由に兄の三代将軍家光により改易、蟄居を命ぜられ同10年上州高崎で自刃した。以後、幕末まで駿府城は城主不在となり、幕府から派遣される城代が管理した。

慶応3年(1867年)江戸幕府は大政奉還し、翌年に徳川家達が入城するが、明治4年(1871年)廃藩置県により駿府城は廃城、城地は静岡市に払下げられ、建造物は明治3年から同9年にかけて払い下げや取り壊しにより失われた。明治29年(1896年)陸軍省の所有となり歩兵第34連隊を設置、これに伴い天守台は均され本丸堀は埋め立てられてしまう。第二次世界大戦の終戦後、城跡は静岡市の管理に戻り、駿府公園として整備。平成になってから巽櫓や二ノ丸東御門、坤櫓が復元され、今は昨年(2016年)8月からはじまった天守台発掘調査の真っ最中である。




駿府御城繪圖
「駿府御城繪圖」(静岡県立中央図書館ホームページより引用)を基に作成
安政7年(1860年)作成、明治21年(1888年)出版の駿府城絵図。


駿府橋
三之丸堀東辺に架かる駿府橋から城内へ。橋の右奥が横内御門跡で、石垣が残っている。


横内御門跡
駿府橋付近に残る三之丸堀。奥に見える石垣がかつての横内御門への通路。


駿府城在番組頭屋敷跡
駿府城在番組頭屋敷跡。駿府城は寛永10年(1633年)に幕府より派遣された城代が管理するようになると、城内には警護を行なう番衆が幾つかの組に分けられ常駐した。その組頭の屋敷が横内御門付近の三之丸にあったとされる。


二ノ丸堀
二ノ丸西辺に残る二ノ丸堀。


二ノ丸東御門
二ノ丸東御門と水堀。


二ノ丸東御門
二ノ丸東御門は平成8年(1996年)に復元完成した。


巽櫓
二ノ丸の南東角、東御門に隣接する巽櫓。最初に復元された城の建造物で、平成元年(1989年)に完成。


二ノ丸東御門
東御門から二ノ丸へ入ろう。


二ノ丸東御門
東御門の枡形。二ノ丸方向。


二ノ丸東御門
東御門の枡形。三ノ丸方向。


二ノ丸東御門
二ノ丸より東御門。


二ノ丸東御門
東御門の中に。


駿府城模型
東御門展示室に展示する駿府城模型。城郭の規模や様子を実感。


駿府城天守模型
駿府城天守模型。駿府城の天守は慶長期の改修時に一度焼失し、慶長13年(1608年)に完成。城主不在となっていた寛永12年(1635年)、城下の茶町を出火元にした大火があり御殿・櫓・城門などが焼失、天守もこの時に失われた。幕府はすぐさま再建に取り掛かるが、天守だけは再建されることなく現在に至っている。


駿府城下模型
こちらは城下町復元模型。”駿府九十六ヵ町”と称された城下の繁栄がうかがえよう。


駿府城下模型
安倍川側から城下を眺める。


駿府お茶壺道中
駿府お茶壺道中の駕籠。駿府に在城していた徳川家康は、いつでも茶会を催すことを目的に、風味を損なわぬよう静岡本山茶の新茶を茶壺に詰め、駿府から北へ約40kmの井川大日峠にお茶蔵を建てて保管するよう命じた。夏も近づく八十八夜に摘まれた新茶をお茶蔵に保管し、晩秋に山から下ろして茶会を開いたという。この茶を積んで駿府と井川の間を往来したのが”お茶壺道中行列”なのだ。


二ノ丸東御門
東御門内より枡形を望む。


本丸堀
二ノ丸・本丸の散策に。少しだけ残る本丸堀。大部分の本丸堀は歩兵第34連隊の設置時に埋められてしまった。


二ノ丸水路脇の柳
二ノ丸水路に架かる橋。橋袂の柳は”銀座の柳二世”。慶長11年(1606年)駿府両替町に銀座が設置され、同17年に江戸(新両替町、現銀座2丁目)に移される。明治2年(1869年)に新両替町は銀座に改称、同10年に柳の植樹がはじまり、柳の街路樹は銀座のシンボルとなった。昭和20年(1945年)東京大空襲で銀座の柳は大部分が焼失、後に柳の街路樹は復興するも、昭和40年代の高度成長期に姿を消す。昭和60年頃に有志の保存運動で柳復活の機運が高まり、目黒区内に残っていた銀座の柳より挿木で根付かせ、苗木を育てることに成功、全国各地への寄贈がはじまった。この柳は平成14年(2002年)新旧銀座の縁により駿府公園に植樹された9本のうちの一つ。


二ノ丸水路
二ノ丸水路は本丸堀と二ノ丸堀を繋ぐ水路だった。


紅葉山庭園
二ノ丸跡北東隅に整備された紅葉山庭園。池を中心にして築山や庭石、草木を配し大名庭園を彷彿させる。


紅葉山庭園
庭園内には四阿(あずまや)や茶室が設けられ、本格的な日本庭園の様相。


紅葉山庭園
紅葉山庭園の四阿。


北御門跡
二ノ丸北側出入口の北御門跡。搦手(裏手)側の門にあたり、太平の世では不明(あかず)の門だったようだ。


北門花壇
北門花壇では色とりどりの花を咲かせ来訪者を迎える。


馬場先御門跡
北御門に隣接して設けられていた馬場先御門跡。北御門に付随する構造物とする見方もある。


駿府御城繪圖 北御門・馬場先御門
「駿府御城繪圖」(静岡県立中央図書館ホームページより引用)を基に作成
安政7年(1860年)作成の駿府城絵図に見る馬場先御門と北御門(黄色の矢印で図示)。北御門を通って最短に天守へ向かうには馬場先門を通らなければならないという仕組み。


本丸跡
本丸跡では”肉フェス”を開催中。


本丸跡の徳川家康像
本丸跡に立つ大御所時代の徳川家康公像。


家康手植えのミカン
家康公像前にある”家康手植えのミカン”。


天守台発掘調査現場
天守台発掘調査現場を見学しよう。


発掘情報館きゃっしる
発掘情報館きゃっしる。駿府城に関する映像を見れるほか、発掘調査の成果や出土品の展示を行っている。




天守台発掘調査現場
天守台発掘調査現場。


天守台発掘調査現場
発掘された天守台西辺の石垣。明治29年(1896年)歩兵第34連隊が設置されたことにより天守台は均され本丸堀は埋められたが、土中には天守台下部の石垣がしっかり残っていた。


天守台発掘調査現場
「丸に𠮷」の刻印がされた石。


天守台発掘調査現場
天守台北西隅の石垣。


天守台発掘調査現場
本丸堀を掘り返す現場ではどんどん水が湧き出てくるため、ポンプで排出しているという。元は水堀だった場所だけに、地中に水脈が残っているのだろう。


西門橋
西門橋が架かる清水御門跡。二ノ丸へ入る西側出入口。


二ノ丸堀
西門橋より南側の二ノ丸堀。


二ノ丸堀
西門橋より北側の二ノ丸堀。往時の様子を肌身に感じられるのが二ノ丸堀で、駿府城の遺構を最もよく残している。


坤櫓
二ノ丸南西隅に建つ坤櫓(ひつじさるやぐら)。安政元年(1854年)に発生した安政の大地震で崩壊、再建されることなく明治4年(1871年)に駿府城は廃城に。平成23年(2011年)復元工事が始まり同26年完成、約160年ぶりに復活した。


本丸跡
肉フェスで賑わう本丸跡。


二ノ丸橋
現在の城址正面入口といえる二ノ丸南側出入口の二ノ丸橋。現役時代にこの出入口と橋は存在せず、70m程西側に二ノ丸御門が設けられていたが現存していない。


二ノ丸橋
二ノ丸橋全景。


二ノ丸石垣
二ノ丸橋袂の石垣と二ノ丸堀。


二ノ丸石垣にて
石垣で羽を休めるハト。なんでこんな落ち着かないところに…。


二ノ丸御門跡
二ノ丸御門跡。奥に見えるのが二ノ丸橋、かつてはこの辺りに二ノ丸御門へ通ずる橋が架かっていたが、その出入口は石垣で閉じられている。


坤櫓
二ノ丸御門跡付近より坤櫓を望む。


大手御門跡
三之丸内、大手御門跡へ通じる道。


大手御門跡
枡形と石垣を残す大手御門跡。三之丸南側に設けられていた城内への正面入口。


大手御門跡
大手御門石垣。切込み接ぎの石垣が大部分の中に野面積みの石垣が見られ、ここは櫓門が石垣上に建っていた部分にあたる。石垣の積み方に違いがあるのは安政地震後の修復等によるものなのか、近年の復元によるものなのか、不詳。


大手御門跡
大手御門から城下。


駿府城模型02
駿府城模型で見る大手御門。最手前が大手御門で、枡形に櫓門が設けられていたことがわかる。


三之丸堀
大手御門付近に残る三之丸堀。


駿府町奉行所跡
静岡市役所の敷地が駿府町奉行所跡。寛永9年(1632年)に設置され、駿府城下の司法や行政を担った。明治元年(1868年)に廃止されるまで歴代の町奉行は旗本を主に63人が任命された。


札の辻
東海道から大手御門へ通ずる道の分岐点、札の辻。旧東海道は写真交差点奥から左折、手前方向が大手御門へ通じ、その入口の道中央に高札場が設けられていた。


東海道分間延絵図 駿府
東御門展示室に展示の東海道分間延絵図より。札の辻の様子がよくわかる。


里程元標跡
里程元標跡。札の辻は明治になると静岡市の道路の起点とされ、里程元標が設置されていた。現在、本物は現存しておらず「里程元標址」碑が代わりに置かれている。

札の辻から京方面の新通川越町(現 静岡市葵区川越町)まで府中宿を散策してみよう。次の記事で。


撮影日:2017年5月5日(金)
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