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府中宿(新通川越町~伝馬町)

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東海道五十三次之内府中 安部川
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「府中宿(東海道)」より引用

西に安倍川が控える府中宿、駿府城下を通る東海道筋に形成された宿場町で、東海道中の宿駅で最大規模を誇ったという。府中宿は江戸日本橋から東海道五十三次を19宿目、京都三条大橋から35宿目。天保14年(1843年)当時の人口14071人、家数3673軒、うち本陣2、脇本陣2、旅籠屋43軒。西見付(新通川越町)から東見付(下横田町)までの距離は約3.4kmにも及び、西から新通川越町・新通・寺町・梅屋町・人宿町・七間町・両替町・札ノ辻町・呉服町・江川町・新谷(しんがい)町・上伝馬町・下伝馬町・花陽院門前町・鋳物師町・上横田町・院内町・猿屋町・下横田町と続く町並み。本陣は上伝馬町の望月重治右衛門家(上本陣)と下伝馬町の小倉平左衛門家が務め、上・下伝馬町それぞれに脇本陣が1軒ずつ設けられていた。京方外れの弥勒(みろく)町は安倍川の川越し場で、安倍川餅を名物にする茶屋が多くあり、西見付に近い新通川越町東側の安倍川町は俗に二丁目と呼ばれる遊廓をなしていた。川が増水して川止めになり、時間を余した旅中の男たちは安倍川餅を食べて腹を満たし、二丁目で楽しい夜を過ごしたことだろう。広重は「東海道五十三次之内府中 安部川」の題で、安倍川を渡る旅人の様子を描く。




府中宿 呉服町
札の辻から東側(江戸方)は呉服町。かつてはここから江川町にかけて四・五・六丁目と続いていた。呉服町は今川氏の時代に城下町の中心をなし、家康が大御所となって駿府に入り”駿府九十六ヵ町”を町割りしたときに呉服町の名が付いた。永禄年間(1558年~70年)から 網座・木綿座の長であった豪商伴野宗善(友野宗全)が住んでいたことに町名の由来があるといわれ、昭和初期には町名が示すが如く10数軒の呉服店が軒を連ねていたという。


府中宿 札ノ辻町
札の辻から南側(京方)は札ノ辻町(現 呉服町1・2丁目、七間町の一部)。町名は高札場があったことに由来。札の辻の南西角にある伊勢丹(写真右手)は昭和6年(1931年)に開業した田中屋百貨店を前身とする。


七間町通りと両替町通りの交差点
七間町通りと両替町通りの交差点。かつては札ノ辻町・両替町・七間町の境をなした場所。


七間町交差点
七間町通りと昭和通り(国道362号)が交差する七間町交差点。


府中宿 七間町
七間町交差点より北側(江戸方)、七間町の町並み。七間町は今川氏の時代に連雀町と称し、”駿府九十六ヵ町”を町割りしたとき当町名に改められた。七間町の由来も呉服町と同じく当地にあった豪商伴野氏の屋敷にあり、伴野氏は七座(七軒)の長だったことで名付けられたとされる。


静岡市文化・クリエイティブ産業振興センター
七間町にある静岡市文化・クリエイティブ産業振興センター。"七間町物語"というイベントをやっていたので見学してみることに。


七間町物語
1階では昭和40年代をテーマに段ボール箱を使って当時の七間町をジオラマに仕立てる。懐かしさを感じてしまう昭和感たっぷりの街並み。


七間町物語
東宝会館、静岡東映、オリオン座、有楽座、ミラノ座、静岡松竹と、七間町には多くの映画館があったことをうかがう。


七間町物語
ここでは田中屋百貨店(現 伊勢丹)も健在。屋上には観覧車が見え屋上遊園地があったようだ。子供にとっては楽しい遊び場だったのだ。


七間町物語
キャバレー宝石の前にいる御方は、もしやタコ社長!?


七間町物語
2階ギャラリーでは七間町ポートレートを開催。七間町の商店街で活躍する人々に焦点を当てて映し出す。


七間町物語
テーブル上には昭和20年代から40年代にかけて撮られた七間町の子供たちのスナップ写真を展示。


府中宿 七間町
七間町通りは”七ぶらシネマ通り”との愛称が付く。沿道には映画関係の機材をオブジェとして置き、かつて七間町に形成された映画館街を偲ぶ。


府中宿 七間町
七間町と人宿町の境、旧東海道は右方向からここを右折し人宿町に入る。


府中宿 人宿町
人宿町から七間町方面。人宿町の町名は旅籠が多くあったことに由来する。


府中宿 梅屋町
人宿町の西隣は梅屋町。古くは人宿町の一部だったが、梅屋という旅籠があったことに由来して町が成立。慶安4年(1651年)幕府転覆を企んだ由井正雪は、ここで町奉行の捕り方に囲まれ自害した。慶安の変、由井正雪の乱とも呼ばれる事件。


府中宿 梅屋町
梅屋町の十字路。旧東海道は右から手前(京方)に曲折する。ここは京・江戸方どちらから来ても道を間違えやすいので要注意。


府中宿 新通
”新通り”と”ときわ通り”の交差点。新通りは慶長14年(1609年)に行われた町割りにおいて、従来の東海道だった本通りから付け替えられた新たな東海道で、その新通り筋に形成された町を”新通”と名付けた。


秋葉神社
新通1丁目に鎮座する秋葉神社。1階部分がシャッターが閉まり中が確認できないのだが、おそらく駐車場か倉庫。2階部分に社殿を設け、狭い土地を有効活用しているのが現代的。


駿河伏見稲荷神社
秋葉神社の南側、新通り筋にある駿河伏見稲荷神社。


府中宿 新通
新通2丁目の小島酒店前を行く旧東海道。


府中宿 新通
新通りと”しあわせ通り”の交差点。ここが新通と新通川越町(現 静岡市葵区川越町)の境をなした場所。


西見付跡
新通川越町南端、西見付跡。写真は西見付跡から江戸方を望む。ここが府中宿京方出入口にあたる。


弥勒町
西見付跡から弥勒町方面の旧東海道。この先に安倍川が控え、弥勒町は川越人足を置く川越し場だった。


静岡県地震防災センター
西見付近くにあった安倍川町(現 静岡市葵区駒形通5丁目)。写真はその旧町域の南西一帯に敷地を持つ静岡県地震防災センター。江戸期に安倍川町は俗称を二丁目や双街と呼ぶ遊廓を形成していた。元来5ヶ町あったうちの3ヶ町が江戸に移され、吉原遊廓の起源となっている。東海道中膝栗毛では弥次喜多が遊びに訪れ、往時の賑わいが滑稽に描写されていて面白い。


駒形5丁目の稲荷神社
旧安倍川町に残る稲荷神社。二丁目遊廓は昭和20年(1945年)の静岡空襲で焼失、再建されるこなく消滅した。現在、遊廓を偲ばせるものは全く見当たらず、この稲荷神社が唯一の語り部といった感じ。


双街の碑
稲荷神社にある双街の碑。明治27年(1894年)静岡県知事小松原英太郎の撰文により、二丁目遊廓の由来を刻む。ここで懸命に働き生きた女性たちの労苦に思いを馳せて。


駿府城下二丁目模型
東御門展示室の駿府城下復元模型に見る二丁目遊廓(安倍川町)。入口は1ヶ所で大門が設けられていたことがわかる。


府中宿 札の辻
新通から旧東海道を一目散に戻って札の辻に。


府中宿 呉服町
札の辻から東側の呉服町。


府中宿 呉服町
かつて呉服店が多くあり賑わった呉服町、今は近代的な商店街に。


江川町交差点
江川町と新谷(しんがい)町の境をなした江川町交差点。この辺り、旧東海道は少々ルート変更されている。江川町は有力商人が多く住んだ町で、町名の由来は伊豆韮山代官の江川氏が在住していた説の他、伊豆韮山の江川酒を売っていた人物がいたなど、諸説ある。また、新谷町は”駿府九十六ヵ町”を町割りしたときに当てられた町で、小梳神社(静岡市葵区紺屋町)の神職を務めた新谷久悦が住んでいたことよる。


西郷・山岡 会見之史跡
ペガサート東側一角は山岡鉄舟と西郷隆盛が江戸城を無血開城すべく交渉が行われた場所で、西郷・山岡 会見之史跡碑が設けられている。この交渉の後に勝海舟と西郷隆盛の会見が実現し、江戸総攻撃は回避された。


伝馬町西交差点
旧新谷町から旧上伝馬町に。伝馬町西交差点。


上本陣・望月重治右衛門家跡
上伝馬町にあった上本陣・望月重治右衛門家跡。すっかり日が暮れたので続きは翌日に。


撮影日:2017年5月5日(金)
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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

府中宿(伝馬町~下横田町)

【旧東海道歩き 第27日目】くれたけインプレミアム静岡駅前→府中宿→江尻宿→清水駅



【2017年5月6日(土)旧東海道 府中宿→江尻宿】
前日に府中宿西見付跡から伝馬町まで散策し”くれたけインプレミアム静岡駅前”に宿泊、翌朝にしっかりバイキング形式の朝食を腹に仕込んで、朝一から再び伝馬町に立つ。天気も良く気温も最適で気分は上々、江戸方の江尻宿に向けて歩き旅をはじめよう。府中宿は本陣2軒と脇本陣2軒があった上・下伝馬町から江戸方に向かって花陽院門前町・鋳物師町・上横田町・院内町・猿屋町・下横田町と続く町並み。下伝馬町からは久能山・駿河湾へ通じる久能街道が分かれ、江戸時代に東海道を往来する大名は、ここで久能街道に入り東照宮に祀られる大権現を参拝した。府中宿江戸方端の下横田町には東見付が設けられ、その北側には永禄2年(1559年)に今川家家臣の朝比奈元長により創建された音羽山清水寺がある。開山は京都から迎えられた尊寿院大僧正動因と伝わり、ここから眺める眺望が京都の清水寺に似ていたことから同名の寺号を付けたという。




珠賀美神社
まずは伝馬町にある珠賀美神社に参拝し本日の安全を祈願。珠賀美神社は慶長19年(1614年)金剛山宝泰寺の鎮守として京都所司代板倉勝重が創建した牛頭天王社が始まりといわれる。宝暦8年(1758年)現在地に移転し、明治3年(1870年)現社号に改められた。


久能山東照宮の石燈籠
珠賀美神社にある久能山東照宮の石燈籠。駿府に鬼彦という怪力の者がおり、この石燈籠を天秤棒に担いで運んでいたところ、当地で天秤棒が折れてしまったため当神社に奉納されたとの伝説がある。


宝泰寺
伝馬町の市街一角にありながら大きな敷地を持つ臨済宗の宝泰寺。江戸時代初期には七堂伽藍を備え、朝鮮通信使の休憩所にも使われた。伝馬町の東海道から南側一帯にはこの宝泰寺をはじめ、新光明寺、法傳寺が大きな境内を持ち並んでいた。


法傳寺
静岡マルイの建物の中に入っている法傳寺。かつては広い境内と数多くの伽藍を有する寺院だった。


東海道分間延絵図 府中
東御門展示室に展示の「東海道分間延絵図」を基に作成
宝泰寺を筆頭に法傳寺や新光明寺も数多い伽藍を有する大きな寺院だったことをうかがう。


伝馬町西交差点
伝馬町の京方端にあたる伝馬町西交差点。


上本陣・望月重治右衛門家跡
上本陣・望月重治右衛門家跡に建つトップセンタービル。


上本陣・望月重治右衛門家跡
かつて府中宿上本陣を務めた望月家を偲ぶのは、その跡地に設けるこの標のみ。


脇本陣清三郎家跡
下本陣・小倉平左衛門家(写真右手)と脇本陣清三郎家跡(写真左手)。やはりこちらも上本陣跡と同様にビルが建ち並び、往時を偲びようもない。


伝馬町東交差点
伝馬町東交差点から江戸方の旧東海道。


伝馬町小前交差点
伝馬町小前交差点辺りが下伝馬町と花陽院門前町の境にあたる。


伝馬町小学校
伝馬町小前交差点から南方向突き当りに伝馬町小学校。江戸時代後期に榊原越中守の拝領屋敷があった。


榊原越中守屋敷の図
国会図書館デジタルコレクション「第九拾六図 榊原越中守屋敷の図/ろ1」より引用
天保14年(1843年)に完成した「駿河雑志」にある榊原越中守屋敷の図。榊原越中守は江戸初期から久能山守衛総御門番を世襲で務めた家柄で、伝馬町小学校の敷地は拝領屋敷だったことがわかる。


府中宿 花陽院門前町
下伝馬町の東海道を挟んで北側は花陽院門前町。当地にある華陽院を町名の由来とする。


華陽院
花陽院門前町の由来となった華陽院。元は智源院と称し、後に家康の祖母源応尼の法名に因み改名された。源応尼の墓と家康の五女市姫の墓がある。


久能街道
旧花陽院門前町の東海道から分かれる久能街道。江戸時代に東海道を往来する大名は、ここで東海道を分かれ久能街道を通って久能山の東照宮を参拝したという。


府中宿 鋳物師町
下伝馬町・花陽院門前町の東隣、鋳物師町。江戸時代初期に鋳物師が住んでいたことに町名は由来する。


横田町西交差点
鋳物師町を分断する”つつじ通り”と旧東海道が交差する横田町西交差点。


鋳物師町と上横田町の境
桜井蒟蒻店辺りが鋳物師町と上横田町の境(現 静岡市葵区横田町)。


西宮神社
院内町(現 静岡市葵区横田町)に鎮座する西宮神社。創建年不詳、安政3年(1856年)再建と伝わる。かつては参拝人に福銭という金を貸し、その金を財布に入れておけば金運上昇のご利益があったとか。金儲けできれば借りた金銭の倍返しする慣わしだったという。大正期以降に金銭を返さぬ人が多数現れたため廃止された。


西宮神社
金運上昇の神様に参拝しておこうと境内に入れば、社殿は改修中。


西宮神社鳥居
西宮神社境内より旧東海道方向。鳥居越しに見る旧東海道筋には原田だるま店の粋な佇まい。


府中宿 猿屋町
猿屋町(現 静岡市葵区横田町)は今川氏の時代から猿引き(猿廻し)が住んでいたことに由来。


きよみずさん通り
下横田町(現 静岡市葵区横田町)から音羽山清水寺に至る”きよみずさん通り”。


音羽山清水寺
”きよみずさん通り”を歩いて音羽山清水寺の入口に。


音羽山清水寺
音羽山清水寺は静岡市街の中心部に横たわる谷津山の西麓にあり、永禄2年(1559年)今川氏輝の遺命により家臣の朝比奈元長が創建した。開山は京都から迎えられた尊寿院大僧正道因と伝わる。それ以前の当地には永正年間(1504年~21年)に印融法印が開いた檀林(学問所)があった。山号・寺号の由来は開山した道因によるもので、眺望が京都の清水寺に似ており、故郷を偲んで名付けたと伝わる。


清水寺参道
清水寺境内より参道。左手の松は”下乗の松”と呼ばれ、徳川家康が参拝に訪れた折、ここで馬を降りたという。


清水寺本堂
清水寺本堂。真言宗の寺院で、本尊は千手観音菩薩。


清水寺観音堂
慶長7年(1602年)徳川家康により建立された観音堂。家康はしばしば清水寺へ参詣し、持念仏である千手観世音菩薩を納めたと伝わる。


清水山公園の句碑
境内(清水山公園)に散在する句碑。明和7年(1770年) 時雨窓が建てた芭蕉句碑が最初だという。
駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ


熊野神社
清水寺境内に鎮座する熊野神社。


谷津山登山道
境内から山頂への登山道。


清水山公園
谷津山西端山頂の清水山公園。


清水山古墳
山頂には清水山古墳がある。古墳時代後期(6世紀)以降に築かれた円墳。


横田町東交差点
清水寺の散策を終えて横田町東交差点から旧東海道に戻り。


府中宿 下横田町
府中宿江戸方(東側)端、下横田町(現 静岡市葵区横田町)の旧町名碑。


府中宿 下横田町
下横田町を行く旧東海道。


府中宿東見付跡
府宿江戸方(東側)出入口の東(横田)見付跡。元禄5年(1692年)に築かれ、往時には枡形と石垣が設けられていた。


府中宿東見付跡
東見付跡を江戸方の春日一丁目交差点より望む。右手の山が清水山公園。


静岡鉄道
旧東海道の北側を走る静岡鉄道清水線。


春日町駅
春日町駅を出発する列車。


春日一丁目交差点
春日一丁目交差点から江戸方。ここを進んで次の江尻宿へ向かう。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

静岡鉄道と共に清水へ

【2017年5月6日(土)旧東海道 府中宿→江尻宿】
さてさて、府中宿から次の江尻宿へ向けて歩こう。江戸時代の東海道は府中宿東見付から狐ヶ崎(旧曲金村、現 静岡市駿河区曲金)、谷津(現 静岡市葵区柚木)、長沼、古庄、栗原、国吉田、草薙、上原(旧地名を岩原)、平川地、追分の集落を経て、入江町の東端に設けられた西木戸から江尻宿へ入る約9.2kmの道程。これといった見どころは少ないのだが、この区間は旧東海道の北側を静岡鉄道清水線が並行しており、しばしば通り過ぎる色とりどりの電車を見ながら歩けて楽しい。また、追分には創業元禄8年(1695年)という追分羊かん本店があり、300年以上の歴史ある羊羹は東海道を往来する旅人を魅了し、静岡に隠棲した徳川慶喜も贔屓にした一品だった。




東海道本線・新幹線ガード下
春日一丁目交差点から東海道本線・新幹線のガード下を潜り抜けて曲金へ。


旧東海道 曲金
曲金1丁目の旧東海道(江戸方)。かつてこの辺りは谷津山の南端にあたり狐ヶ崎と称していた。鎌倉時代、頼朝死後に幕府を追われた梶原景時が、一族を率いて京へ上洛の途次、清見関(現 静岡市清水区)より幕府より追手が差し向けられ、ここで合戦になった。梶原一族は奮戦むなしく全員討死している。


曲金観音堂
Y字路(左が旧東海道)の分岐点にある曲金観音堂。ここに散った梶原一族の霊を慰める。


曲金観音堂
ここに散った梶原一族の霊を慰める。


旧東海道 曲金
曲金観音堂より狐ヶ崎の旧東海道(京方)を望む。かつては右手に谷津山南端の山裾が迫り、そのため旧東海道は南西麓を迂回するルートになっている。しかし、現在は東海道本線や新幹線、国道1号が通され山の南端部は均されてしまった。


軍神社
曲金2丁目に鎮座する軍神社。創建年不詳、戦の神を祀り日本武尊が東征の折に戦勝祈願したと伝わる。家康は諸国平定の後に旗と鉾を奉納、歴代の駿府城代は参拝を欠かさなかったという。


軍神社
軍神社境内にて。「無断駐車は入口の鍵を掛けます」との注意書き。境内の入口を指しているのだろうか、よくわからない。


法蔵寺
軍神社の南東隣にある法蔵寺。


曲金の馬頭観音
法蔵寺門前の馬頭観音。周辺の村人たちが梶原一族を供養するために建立したと伝わる。


夢舞台東海道「曲金」道標
夢舞台東海道「曲金」道標。


黄金橋
小鹿通り上に架かる黄金橋。この先、国道1号にかけて旧道は消失。


静岡市急病センター
旧道消失地点に建つ静岡市急病センター。


マークイズ静岡
こちらも旧道消失地点に建つ大型ショッピングモールのマークイズ静岡。江戸時代には街道筋に谷津(柚木)の集落が形成されていたが、今や見る影もない。


旧東海道 柚木
柚木で旧東海道を分断する国道1号。分かりずらいので旧東海道を写真に図示。柚木は谷津山麓の谷地に位置し、古く谷津と称した。駿河国庵原郡に同名の谷津村があり、紛らわしいために柚木谷津と改めたという。


旧東海道 柚木
旧東海道消失地点より京方。旧道は直進し、右斜めへ緩やかに曲がりながら曲金へ向かっていた。


護国神社第2踏切
護国神社第2踏切付近で静鉄清水線の列車が並走。


静岡鉄道
結構頻繁に通り抜ける静鉄清水線の列車。


靜岡縣護國神社
靜岡縣護國神社。明治維新から第二次世界大戦まで、日本のために命を捧げた静岡県出身の戦死者を祀る。


旧東海道 長沼
静鉄清水線と並行しながら進む長沼の旧東海道。


静岡鉄道
旧東海道より列車にばかり目がゆく私…。


長沼駅
そうこうしているうちに長沼駅に。


長沼一里塚跡
長沼駅近くにある長沼一里塚跡碑。長沼一里塚は江戸日本橋から44里(約173km)、京三条大橋からは71番目で実測約342km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。見ての通り遺構は全く残っておらず、電柱脇にひっそりと跡地を示す碑があるのみ。


久應院
長沼の旧東海道筋に建つ久應院。門前には寛政12年(1800年)長沼講中により建立された庚申塔がある。


長沼交差点
長沼交差点で国道1号に合流。旧道は200m程先で左に分かれ古庄に入る。


旧東海道 古庄
古庄を行く旧東海道。


夢舞台東海道「古庄」道標
夢舞台東海道「古庄」道標。古庄は荘園があったことに地名の由来があるとされ、表面に満月形の焼印を押す「うさぎ餅」が名物だった。


後久橋
大谷川放水路を後久橋で渡る。この先、東海道本線・新幹線が旧道を分断。


後久橋より静鉄清水線
後久橋より川上を望めば、静鉄清水線の列車が大谷川放水路を渡ってゆく。


栗原の旧道迂回路
東海道本線・新幹線に沿って北東方向へ迂回。


北村地下道
北村地下道で東海道本線・新幹線を渡り。


北村地下道
地下道を通り抜ければ栗原。


旧東海道記念碑
栗原側の旧道分断地点に設ける旧東海道記念碑。傍らに解説の石碑があり、昭和37年(1962年)国鉄操車場の建設により旧東海道の栗原西側が分断され、更に静清土地区画整理事業により栗原地内の旧東海道も姿を消したことが刻まれている。


旧東海道 栗原
150m程残る栗原の旧東海道。


県総合運動場駅
県総合運動場駅前を通って旧道消失地点を迂回。


旧東海道 国吉田
国吉田の旧道出現地点から栗原方面。かつての東海道はここから右斜めのウエルシア方向に向かって延びていた。


旧東海道 国吉田
国吉田を行く旧東海道。国吉田の地名は吉田川に由来、小吉田とも称した。府中と江尻の中間点にあたり立場が置かれ、稲葉屋で販売される長門鮓が名物だった。現地に案内板等が無くはっきりしないが、スーパーアンドウ辺りがその跡地らしい(写真左奥辺り)。


東橋
吉田川に架かる東橋。ここを渡れば国吉田から中吉田に。


谷田山東光寺
谷田山東光寺。達磨の立像として珍しい”葦葉(ろよう)達磨大師像”を安置する。


閻魔坂
東光寺門前から緩やかに下る旧東海道は、江戸時代に閻魔坂と呼ばれる急勾配な坂道で、馬から落ちて怪我をする人が多かったという。近くに閻魔大王を本尊にする閻王寺があり、ここを馬に乗って通過することは閻魔大王に対する無礼にあたることから、その罰であるとの噂が広まった。そのため参勤交代の大名さえも馬を降りて通行したという。


閻王寺跡
東光寺門前より約40m江戸方にある閻王寺跡。現在は鳳林寺の第2駐車場。江戸時代に閻魔大王を本尊にする寺がここにあったのだが、明治10年(1877年)廃寺になって本尊は近くの鳳林寺に移され、更に昭和52年(1977年)熊野神社境内の薬師堂に移された。


旧東海道 谷田
谷田・中之郷を行く旧東海道。


鳳林寺
中之郷1丁目にある鳳林寺。閻王寺廃寺後、閻魔大王が一時安置されていた。


旧東海道 草薙1丁目
草薙1丁目の旧東海道。旧道はこの先で一時消失。


草薙駅入口交差点
一時消失した旧東海道は草薙駅入口交差点から静岡県道407号となって現れる。


草薙神社大鳥居
草薙神社参道入口に立つ大鳥居。


草薙大明神道道標
大鳥居脇に残る元禄12年(1699年)建立の草薙大明神道道標。


草薙神社大鳥居
草薙神社大鳥居から延びる参道。


柳橋
草薙川に架かる柳橋。


柳橋と草薙神社大鳥居
柳橋と草薙神社大鳥居。


享保17年の庚申塔
草薙一里山の県道路傍にひっそりと石塔2基が並ぶ。奥の自然石は享保17年(1732)建立の庚申塔、手前は道標のようだが碑面が読み取れず。


草薙一里山バス停
一里山焼津信用金庫前バス停と草薙一里山バス停。


草薙一里山バス停
ここから渋谷・新宿行のハイウェイバスに乗れるようだ。


草薙一里塚跡
草薙一里塚跡。石碑に並んで身の丈10尺(3.3m)の大狸。江戸日本橋から43里(約169km)、京三条大橋からは72番目で実測約346km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。


夢舞台東海道「有度」道標
夢舞台東海道「有度」道標。有度(うど)という地名は明治22年(1889年) 町村制の施行により巴川中流右岸一帯の21ヶ村が合併して成立した村で、昭和30年(1955年)清水市に合併して有度村は消滅した。


旧東海道 有度本町
有度本町を行く旧東海道。


清水有度第一小学校
清水有度第一小学校を左に見ながら東へ。


千手寺参道
境内に上原鎮守十七夜宮がある千手寺の参道。


イソヒヨドリ
千手寺参道にて見かけたイソヒヨドリ。通常は海岸の崖地に生息しているらしく、こんな住宅街で見られたのは幸運だったのかも。


有度十七夜山保育園
参道筋には有度十七夜山保育園。


有度十七夜山保育園のウサギ
保育園で飼育するウサギさん。暑くなってきて少々ぐったり。


千手寺
十七夜山千手寺。


上原鎮守十七夜宮
上原の産土神、上原鎮守十七夜宮。麻機(あさばた、静岡市葵区)の滝の不動より迎えられた御神体を祀る。麻機からここへご神体が移された理由が、上原鎮守十七夜宮伝説として残っている。


静清米穀
静清米穀前、上原を行く旧東海道。


上原子安地蔵堂
上原子安地蔵堂。創建年不詳ながら、鎌倉期以前と推定されている。天正10年(1582年)徳川家康が武田勝頼を攻略するにあたり、ここで武田家家臣で江尻城代の穴山信君(梅雪)と会見したという。後に信君は家康の誘いにのり織田信長に内応した。


旧東海道 上原
上原の旧東海道は宗丹池の北側を大きく曲がりながら進む。


上原堤(宗丹池)
数百年の長きに渡り上原の近郷に農業用水を供給してきた上原堤(宗丹池)。


上原堤(宗丹池)
上原堤(宗丹池)一帯は昭和2年(1927年)に狐ヶ崎遊園地が開園し、動植物園・遊具・運動場・食堂等を備え、池にはボート乗り場が設けられていた。昭和43年(1968年)に狐ヶ崎ヤングランドとなり、ジェットコースターやボウリング場、夏にはプール、冬にはスケートリンク等を兼ね備えて賑わいを見せたが、平成5年(1993年)閉園した。遊園地跡地にはイオン清水店が建っている。


イオン清水店
狐ヶ崎ヤングランド跡地に建つイオン清水店。


イオン・ヤングランドボウルのお客様出入口
イオン・ヤングランドボウルのお客様出入口。何となく遊園地時代の名残りを感じるような。


久能寺観音道道標
旧東海道と久能寺観音道の分岐点。久能寺観音道は平川地から有東坂・今泉・船越・矢部・妙音寺を経て鉄舟寺(静岡市清水区村松)に至る。久能寺は元々久能山にあったが、武田信玄が久能城を築いた際に鉄舟寺の地に移された。


久能寺観音道道標
分岐点に残る安永7年(1778年)建立の久能寺観音道道標。


旧東海道 平川地
成岡ふとん店前、平川地を行く旧東海道。


東海道本線踏切
東海道本線踏切を渡れば平川地から追分に。


姥ヶ池弁財天
追分4丁目にある姥ヶ池と弁財天。


姥ヶ池と弁財天
延暦年間(782年~806年)この地に生む金谷長者の子供がひどい咳の重病を患い、乳母は子供の身代わりとなり病気治癒を祈願してこの池に入水して死んだという。願い叶って子供は回復、長者は感謝して畔に社を建てたと伝わる。この池の畔で「姥かいな」と呼べば、それに答えるかのように泡が出てくるようになったとか。以来、姥ヶ池と呼ばれるようになったらしい。


金谷橋
大沢川に架かる金谷橋。


遠州都田の吉兵衛の供養塔
遠州都田の吉兵衛の供養塔。吉兵衛は通称を都鳥といい、清水次郎長の子分”森の石松”を斬り殺した侠客。次郎長はここ追分で吉兵衛を仇討ちした。


追分茶屋
追分2丁目の旧東海道筋にある追分茶屋。店名に魅かれてここで昼飯に。


追分茶屋の雑煮
季節外れだが、メニューにあったので雑煮を注文。しかし、これが正解だった。鰹節の下に切り餅の4~5個分はあろうかという大きな餅が入っており、腹を空かせた旅人には有り難い。この餅は御主人が杵と臼を使って搗いた手作り。既製品と違って柔らかさが均等ではないのだが、柔らかかったり硬かったりの歯ごたえが何とも言えない懐かしい味わい、更に薄口醤油の汁が北海道出身の私にとっては新鮮で、とても美味しかった。地元のお客さんと雑談をしながら楽しいひと時を過ごした。


追分羊かん本店
創業元禄8年(1695年)という追分羊かん本店。土産に羊かんを買いました。

追分羊かん
http://www.oiwakeyokan.com/


清水道道標
追分羊かん本店脇にある清水道道標。ここから清水湊に通じる清水道が東海道より分岐しており、追分という地名の由来になった。


旧東海道 追分
追分を行く旧東海道。ここまで来れば江尻宿は近い。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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高札場
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