府中宿(新通川越町~伝馬町)

東海道五十三次之内府中 安部川
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「府中宿(東海道)」より引用
西に安倍川が控える府中宿、駿府城下を通る東海道筋に形成された宿場町で、東海道中の宿駅で最大規模を誇ったという。府中宿は江戸日本橋から東海道五十三次を19宿目、京都三条大橋から35宿目。天保14年(1843年)当時の人口14071人、家数3673軒、うち本陣2、脇本陣2、旅籠屋43軒。西見付(新通川越町)から東見付(下横田町)までの距離は約3.4kmにも及び、西から新通川越町・新通・寺町・梅屋町・人宿町・七間町・両替町・札ノ辻町・呉服町・江川町・新谷(しんがい)町・上伝馬町・下伝馬町・花陽院門前町・鋳物師町・上横田町・院内町・猿屋町・下横田町と続く町並み。本陣は上伝馬町の望月重治右衛門家(上本陣)と下伝馬町の小倉平左衛門家が務め、上・下伝馬町それぞれに脇本陣が1軒ずつ設けられていた。京方外れの弥勒(みろく)町は安倍川の川越し場で、安倍川餅を名物にする茶屋が多くあり、西見付に近い新通川越町東側の安倍川町は俗に二丁目と呼ばれる遊廓をなしていた。川が増水して川止めになり、時間を余した旅中の男たちは安倍川餅を食べて腹を満たし、二丁目で楽しい夜を過ごしたことだろう。広重は「東海道五十三次之内府中 安部川」の題で、安倍川を渡る旅人の様子を描く。

札の辻から東側(江戸方)は呉服町。かつてはここから江川町にかけて四・五・六丁目と続いていた。呉服町は今川氏の時代に城下町の中心をなし、家康が大御所となって駿府に入り”駿府九十六ヵ町”を町割りしたときに呉服町の名が付いた。永禄年間(1558年~70年)から 網座・木綿座の長であった豪商伴野宗善(友野宗全)が住んでいたことに町名の由来があるといわれ、昭和初期には町名が示すが如く10数軒の呉服店が軒を連ねていたという。

札の辻から南側(京方)は札ノ辻町(現 呉服町1・2丁目、七間町の一部)。町名は高札場があったことに由来。札の辻の南西角にある伊勢丹(写真右手)は昭和6年(1931年)に開業した田中屋百貨店を前身とする。

七間町通りと両替町通りの交差点。かつては札ノ辻町・両替町・七間町の境をなした場所。

七間町通りと昭和通り(国道362号)が交差する七間町交差点。

七間町交差点より北側(江戸方)、七間町の町並み。七間町は今川氏の時代に連雀町と称し、”駿府九十六ヵ町”を町割りしたとき当町名に改められた。七間町の由来も呉服町と同じく当地にあった豪商伴野氏の屋敷にあり、伴野氏は七座(七軒)の長だったことで名付けられたとされる。

七間町にある静岡市文化・クリエイティブ産業振興センター。"七間町物語"というイベントをやっていたので見学してみることに。

1階では昭和40年代をテーマに段ボール箱を使って当時の七間町をジオラマに仕立てる。懐かしさを感じてしまう昭和感たっぷりの街並み。

東宝会館、静岡東映、オリオン座、有楽座、ミラノ座、静岡松竹と、七間町には多くの映画館があったことをうかがう。

ここでは田中屋百貨店(現 伊勢丹)も健在。屋上には観覧車が見え屋上遊園地があったようだ。子供にとっては楽しい遊び場だったのだ。

キャバレー宝石の前にいる御方は、もしやタコ社長!?

2階ギャラリーでは七間町ポートレートを開催。七間町の商店街で活躍する人々に焦点を当てて映し出す。

テーブル上には昭和20年代から40年代にかけて撮られた七間町の子供たちのスナップ写真を展示。

七間町通りは”七ぶらシネマ通り”との愛称が付く。沿道には映画関係の機材をオブジェとして置き、かつて七間町に形成された映画館街を偲ぶ。

七間町と人宿町の境、旧東海道は右方向からここを右折し人宿町に入る。

人宿町から七間町方面。人宿町の町名は旅籠が多くあったことに由来する。

人宿町の西隣は梅屋町。古くは人宿町の一部だったが、梅屋という旅籠があったことに由来して町が成立。慶安4年(1651年)幕府転覆を企んだ由井正雪は、ここで町奉行の捕り方に囲まれ自害した。慶安の変、由井正雪の乱とも呼ばれる事件。

梅屋町の十字路。旧東海道は右から手前(京方)に曲折する。ここは京・江戸方どちらから来ても道を間違えやすいので要注意。

”新通り”と”ときわ通り”の交差点。新通りは慶長14年(1609年)に行われた町割りにおいて、従来の東海道だった本通りから付け替えられた新たな東海道で、その新通り筋に形成された町を”新通”と名付けた。

新通1丁目に鎮座する秋葉神社。1階部分がシャッターが閉まり中が確認できないのだが、おそらく駐車場か倉庫。2階部分に社殿を設け、狭い土地を有効活用しているのが現代的。

秋葉神社の南側、新通り筋にある駿河伏見稲荷神社。

新通2丁目の小島酒店前を行く旧東海道。

新通りと”しあわせ通り”の交差点。ここが新通と新通川越町(現 静岡市葵区川越町)の境をなした場所。

新通川越町南端、西見付跡。写真は西見付跡から江戸方を望む。ここが府中宿京方出入口にあたる。

西見付跡から弥勒町方面の旧東海道。この先に安倍川が控え、弥勒町は川越人足を置く川越し場だった。

西見付近くにあった安倍川町(現 静岡市葵区駒形通5丁目)。写真はその旧町域の南西一帯に敷地を持つ静岡県地震防災センター。江戸期に安倍川町は俗称を二丁目や双街と呼ぶ遊廓を形成していた。元来5ヶ町あったうちの3ヶ町が江戸に移され、吉原遊廓の起源となっている。東海道中膝栗毛では弥次喜多が遊びに訪れ、往時の賑わいが滑稽に描写されていて面白い。

旧安倍川町に残る稲荷神社。二丁目遊廓は昭和20年(1945年)の静岡空襲で焼失、再建されるこなく消滅した。現在、遊廓を偲ばせるものは全く見当たらず、この稲荷神社が唯一の語り部といった感じ。

稲荷神社にある双街の碑。明治27年(1894年)静岡県知事小松原英太郎の撰文により、二丁目遊廓の由来を刻む。ここで懸命に働き生きた女性たちの労苦に思いを馳せて。

東御門展示室の駿府城下復元模型に見る二丁目遊廓(安倍川町)。入口は1ヶ所で大門が設けられていたことがわかる。

新通から旧東海道を一目散に戻って札の辻に。

札の辻から東側の呉服町。

かつて呉服店が多くあり賑わった呉服町、今は近代的な商店街に。

江川町と新谷(しんがい)町の境をなした江川町交差点。この辺り、旧東海道は少々ルート変更されている。江川町は有力商人が多く住んだ町で、町名の由来は伊豆韮山代官の江川氏が在住していた説の他、伊豆韮山の江川酒を売っていた人物がいたなど、諸説ある。また、新谷町は”駿府九十六ヵ町”を町割りしたときに当てられた町で、小梳神社(静岡市葵区紺屋町)の神職を務めた新谷久悦が住んでいたことよる。

ペガサート東側一角は山岡鉄舟と西郷隆盛が江戸城を無血開城すべく交渉が行われた場所で、西郷・山岡 会見之史跡碑が設けられている。この交渉の後に勝海舟と西郷隆盛の会見が実現し、江戸総攻撃は回避された。

旧新谷町から旧上伝馬町に。伝馬町西交差点。

上伝馬町にあった上本陣・望月重治右衛門家跡。すっかり日が暮れたので続きは翌日に。
撮影日:2017年5月5日(金)

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