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江尻宿

【2017年5月6日(土)旧東海道 江尻宿】
Tokaido18_Ejiri.jpg
東海道五十三次之内江尻 三保遠望
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「江尻宿」より引用


江尻宿は江戸日本橋から東海道五十三次を18宿目、京都三条大橋から36宿目。今川氏時代には商人宿で月に3回の定期市が立ち三日市場とも称した。武田信玄が駿河侵攻を開始して今川氏を退けると、当地に江尻城が築かれ城下町として発展する。江戸時代になって江尻城が廃城になり東海道の宿場町へと変貌を遂げ、巴川を使った清水湊との海運とともに賑わいをみせた。宿場町は江尻町を中心に東の辻村、西の入江町から成り、宿内町並み東西13町(約1.4km)、天保14年(1843年)当時の宿付・加宿を含めた人口は6498人、家数1340軒、うち本陣2、脇本陣3、旅籠屋50軒。町並みは西の入江町から巴川に架かる稚児橋を渡り、左岸に沿って魚町・中町・下町と並び、伝馬町で北へ折れて鋳物師町・鍛冶町・本郷町・辻村と続く。名物は追分羊かん、豊心丹、羽衣餅。広重は「東海道五十三次之内江尻 三保遠望」の題で宿場から三保の松原を遠望する風景を描いている。




江尻宿西木戸跡
江尻宿京方出入口だった西木戸跡。


江尻宿木戸跡碑
街灯脇にひっそりと立つ江尻宿木戸跡碑。


慈雲寺
西木戸跡北側にある樹林山慈雲禅寺。宝永4年(1707年)の地震で堂宇が悉く倒壊焼失、宝暦年間(1751年~63年)に長泉智牛和尚が再興したと伝わる。長泉智牛和尚は痩せ地に悩む三保の農民にサツマイモの栽培を奨励、砂地でもよく育ったことから三保全土に広がり、農民たちから慈雲寺の芋和尚と呼ばれ親しまれた。


旧東海道 入江2丁目
入江2丁目を行く旧東海道(京方)。”ちびまる子ちゃん”の家はここ入江町にある設定であることを知り、感慨にふけてしまう。


法岸寺参道
旧東海道から延びる法岸寺参道。


朝顔日記深雪の墓
法岸寺本堂左奥にある浄瑠璃「朝顔日記」深雪の墓。日向高鍋藩主秋月種長の娘で、清水船手奉行の旗本山下周勝の夫人が深雪のモデルとされる。寛永18年(1642年)没、当寺に葬られた。


入江2丁目交差点
入江2丁目交差点。左方向が旧東海道(江戸方)、右が清水湊へ通じる清水道。


入江2丁目交差点
入江2丁目交差点より清水道を望む。


稚児橋
巴川に架かる稚児橋。


稚児橋
東海道五十三次が整備された江戸時代初期、街道筋の巴川に橋が架けられ江尻橋と名付けられる。渡り初めのときに川の中から童子が現れ、橋脚を登たっと思いきや忽然と入江方面に消え失せた。この一事がきっかけになり稚児橋と名が変えられたという。この童子は巴川に棲む河童だったと語り継がれている。


巴川
稚児橋より巴川下流を望む。今もここに河童が棲んでいるのだろうか。


稚児橋北詰
稚児橋北詰より魚町の町並み。


江尻宿問屋場・高札場跡
魚町交差点で旧東海道は右折。右に直進してすぐ左手が問屋場跡、左折は入小路で江尻城へと向かう。


入小路
魚町交差点から入小路(正面左方向)を望む。


魚町稲荷神社
入小路の突き当りに鎮座する魚町稲荷神社。武田家家臣で江尻城代の穴山信君(梅雪)が社殿を造営したと伝わる。


日本少年サッカー発祥の碑
社殿前にある日本少年サッカー発祥の碑。江尻小学校は昭和31年(1956年)に日本で初めて少年サッカーチームが結成されたところで、これを記念して平成11年(1999年)にサッカーボールの石碑が設けられた。江尻の地は静岡をサッカー王国と呼ぶ所以といえる場所なのだ。Jリーグ発足当初から加盟する清水エスパルスは誰もが知っているサッカーチーム。ここに在籍した選手を思い浮かべてみたら、沢登に長谷川健太、三浦泰年なんだよなあ…、記憶が古くてスミマセン。余談ながら、武田信玄に駿河を追われた今川氏真は、蹴鞠の名手だったとか。


江尻小学校(江尻城跡)
江尻小学校は武田信玄が築かせた江尻城の跡地に建っている。


江尻宿
魚町交差点から中町への町並み。古くは魚町・中町・下町の3ヶ町を江尻町といい、宿場の中心をなした。


橋本本陣跡
橋本本陣跡。鯨の石像モニュメントが目印。


寺尾本陣跡
寺尾本陣跡。橋本本陣から街道を挟んで斜向かいにあり、現在は跡地に「江尻宿寺尾本陣跡」碑が置かれている。


大竹屋脇本陣跡
セブンエビスの左隣辺りが大竹屋脇本陣跡。


羽根本陣跡
柳橋からの通りと旧東海道の交差点南側が羽根本陣跡。


府中屋脇本陣跡
羽根本陣跡から街道を挟んで向かい、杉山洋品店の場所が府中屋脇本陣跡(写真右手前)。


江尻宿下町
江尻宿下町の町並み。


翁屋脇本陣跡
翁屋脇本陣跡(写真右手辺り)。跡地一帯に建つ変則3・4階建てビルは1階部分が商店街、2階部分が道路側にはみ出す変わった構造。


翁屋脇本陣跡
下町と伝馬町の境をなした四つ辻。かつては手前が下町、左折した先から伝馬町で、右に曲がれば七軒町の町並みが巴川まで続いた。


清水江尻郵便局
江尻宿伝馬町を行く旧東海道。


江浄寺
江尻東3丁目の南西一角に大きな敷地を持つ江浄寺。


江浄寺
江浄寺境内にある岡崎三郎信康(松平信康、徳川家康の長男)の供養塔。信康の傅役だった榊原清政が建立したもの。


小林銅鉄店
旧伝馬町で目に留まった小林銅鉄店。”鉄”が旧字体だったので。


伝馬町荒神社
伝馬町荒神社。江浄寺28代住職金誉(こんよ)上人が荒神を祀ったのが始まりと伝わる。


江尻宿鍛冶町
江尻宿鍛冶町(現 静岡市清水区江尻東1丁目)の町並み。かつては鍛冶職人が多く住んでいた。


江尻宿鍛冶町
鍛冶町より京方、鋳物師町方向。


江尻東交差点
江尻東交差点。鍛冶町と本郷町の境をなす。


江尻宿本郷町
本郷町を行く旧東海道。沿道に旧商家の建物が見られる。


江尻宿東木戸跡
江尻宿の江戸方出入口、東木戸跡。本郷町と宿付だった辻村の境をなした。


江尻宿辻村
辻村(現 静岡市清水区辻)の町並み。


細井の松原跡
かつてはヤマザキショップの所で辻村の家並みが途絶え、この先から細井の松原と呼ばれる松並木が続いていた。


旅館かど松
細井の松原跡にある旅館かど松。


ほそいの松
旧東海道が国道1号に合流する地点にある”ほそいの松”。平成4年(1992年)植樹されたもの。細井の松原は戦時中に松根油採取のために全て伐採されてしまった。


旧東海道 辻町
辻町の旧東海道と国道1号の合流地点で今回の歩き旅は終わり。清水駅に向けて歩みを反転する。


清水駅
JR清水駅西口。


静岡市はいいねえ。
清水と言えばやはり”ちびまる子ちゃん”。作者の”さくらももこ”さんは旧清水市(現 静岡市清水区)の出身。


清水駅東口
清水駅東口より富士山方面を望む。


富士山
富士山は山裾が少し見えただけ…。


清水駅
清水駅で待機するマルチプルタイタンパー(09-16 CSM)。これは保線用の機械。


清水駅
清水駅を彩る花畑。


清水駅の夕焼け
最後は清水駅夕景で。


【旧東海道歩き 第27日目】くれたけインプレミアム静岡駅前→府中宿→江尻宿→清水駅 歩行距離約17km
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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

池島炭鉱 ~九州に最後まで残った炭鉱~

世界文化遺産に指定され脚光を浴びる軍艦島(端島)から北北西へ約30km、軍艦島と同じように海底炭鉱で繁栄を極めた島がある。それが長崎市の北側、西彼杵(にしそのぎ)半島の西方約7kmの海上に浮かぶ池島だ。周囲わずか約4kmの小さな島で、島内に幅100m程の鏡ヶ池があったことに島名は由来。元来の島民は半農半漁で生計を立てていたが、島周辺の海底域に弱粘結性の高品質な石炭層が大量にあることがわかり、昭和27年(1952年)松島炭鉱株式会社が用地を買収し石炭採掘を開始、鏡ヶ池を開削して海と繋ぎ、石炭積み出し港として整備する。同34年(1959年)から出炭を開始、高度成長期に伴う石炭需要の増大と共に池島は発展を続けた。

池島は全盛期の1970年代に7千人を超える人口を数える。島内にはアパートがひしめき合うように建ち並び、児童数の増大に伴い小・中学校は拡張を続け、ショッピングセンターには客足が絶えることなく大賑わいの様相を示し、3交代で坑内に入る作業員を客にパチンコ店やスナックが昼夜を問わず繁盛した。また、ボウリング場やテニスコートの施設が設けられた他、グランドにはナイター照明を設けて野球が行われ、試合を観戦する大勢の人々が集まりヤジを飛ばし合って賑わったという。

1970年代を境に国内のエネルギー事情が石炭から石油へと転換しはじめる。国内の炭鉱が次々と閉山する中、池島は石炭採掘の開発を続け、1990年代には坑道の総延長が約96kmに達した。しかし、押し寄せる時代の波には勝てず、平成10年(1998年)の電力自由化により安価な海外炭に国内シェアを奪われ、同13年(2001年)ついに閉山を迎えることになってしまう。日本の産業革命を支えてきた九州の炭鉱は、ここを最後に消滅する。「国破れて山河あり、城春にして草木深し」、ここを訪れれば諸行無常を実感できよう。



池島を見学するにはコチラから↓
池島炭鉱さるく
http://www.saruku.info/course/G902.html


空中写真_池島_1947年
空中写真データ:国土地理院 整理番号USA-M267-141を基に作成
昭和22年(1947年)4月撮影の池島

空中写真_池島_1975年
空中写真データ:国土地理院 整理番号CKU7420-C43-7を基に作成
昭和50年(1975年)5月撮影の池島

まずは池島炭鉱開発前と全盛期の池島を空中写真で見てみよう。昭和22年(1947年)当時は鏡ヶ池が開削されておらず、池島郷の集落がある程度で、島の大部分は畑地か荒地だったように見える。それから28年後の昭和50年(1975年)になると、炭鉱施設やアパート群で島の様相は一変、島の北側沿岸部が埋め立てで拡張し、鏡ヶ池を海と繋いで造られた港には大型の石炭運搬船が接岸、貯炭場には多量の石炭が見られる。当時はまだ第二立坑の施設は建てられていない。


瀬戸港フェリーターミナル
長崎駅前から6:36発”桜の里ターミナル”行のバスに乗車、桜の里ターミナルで7:40発の”大瀬戸・板の浦”行バスに乗り換え、8:30頃にNTT大瀬戸バス停で下車。徒歩4分ほどでここ瀬戸港フェリーターミナルに着く。


瀬戸港フェリーターミナル
瀬戸港フェリーターミナル待合所。池島行フェリーの出航は10:15。1時間半程の待ち時間があるので、どこかで朝食にしようかと近辺をぶらつくことに。


ファミリーマート西海樫浦店
瀬戸港近くにあるファミリーマート西海樫浦店。ここでおにぎりとカップヌードルを買い、イートインスペースで朝食。


フェリーかしま
出航を待つ池島港行のフェリーかしま。


瀬戸港
フェリー内より瀬戸港。


フェリーかしま客室
客室内にいるのは私だけ。


フェリーかしま
池島港へ向けて出港!先に見えるのは松島。


松島
松島の石炭採掘の歴史は古く、江戸時代中期にまで遡るという。明治38年(1905年)古賀鉱業合資会社が本格的に炭鉱開発をはじめ、大正期にかけて3ヶ所の採炭場を開坑、坑道が松島周辺の海底に掘り進められ、大正12年(1913年)の年間出炭量は36万トンにのぼった。大正2年(1913年)三井鉱山株式会社は松島の鉱区を買収、古賀鉱業との共同出資で松島炭鉱株式会社を設立し、出炭量は大正14年(1925年)に51万トンに達してピークを迎える。しかし、松島の採掘鉱区は海底から浅い場所にあったため度重なる出水に悩まされ、昭和4年(1929年)に第三抗で42名もの人命が失われる出水事故が発生、更に同9年(1934年)には第四抗で54名が犠牲となる大惨事が起き、会社は第四抗を廃止して労働者のリストラを実施。新しい第五抗の採掘で再建を試みるが、やはり浸水を止めることができず同10年(1935年)に断念、松島炭鉱は新天地に再起を図るべく大島(長崎県西海市大島町)の鉱区を買収した。


松島
現在の松島には火力発電所が設けられ、電力の島として変貌を遂げている。


池島遠望
先に池島がうっすらと島影を現す。


池島遠望
徐々に池島が近づく。


池島
間もなく池島に着岸。池島の異様な光景に気持ちが高ぶる。


池島港
池島港へ入港する。護岸には石炭船積み機(トリンマー)、山腹に選炭場、山上に原炭ポケットの建造物を残す。


池島港
池島港の船着場。


池島港
鏡ヶ池を開削して海と繋ぎ造られた池島港。島名の由来にもなった鏡ヶ池は、神功皇后が三韓出兵の帰途、島に上陸して池の水面に自身の姿を映したとの伝説がある。


港ショッピングセンター
船着場から元炭鉱マンガイドに連れられ、池島炭鉱さるく倶楽部の事務所へ。


港ショッピングセンター
池島炭鉱さるく倶楽部の事務所があるこの建物は元々”港ショッピングセンター”。最近まで”丸木ストア”と”ひろせ酒店”の2店舗が営業していたが、ひろせ酒店は2014年に閉店、昨年(2016年)末に丸木ストアも閉店してしまったとのこと。現在、池島には食料や生活用品を買える小売店が無く、移動スーパーが週3回島内を巡回している。食堂は”かあちゃんの店”だけが営業を続け、みなと亭ではツアー客向けに炭鉱弁当(要予約)を販売している。


トロッコ乗車場
池島炭鉱の歴史や概要を映像資料で事前学習し、トロッコ列車に乗っていざ坑道へ。


トロッコ列車
蓄電池式のトロッコで、モーターは日立製のようだ。


トロッコ列車
ガタガタ揺れて乗り心地は悪い。


トロッコ列車
坑道内に突入する。


トロッコ列車
トロッコ列車はここで停車。往時の写真を見ながら説明を受け、ここから徒歩でさらに奥へ。


トロッコ列車
坑道に停車するトロッコ列車。


サイドダンプローダー
坑道内に展示するサイドダンプローダー。坑道を掘る際、土砂を積み込むために使われた。


坑道
坑道内には池島小学校の子供たちの作品が展示されている。習字の署名にカタカナ名が多いのは、閉山後の2002年から5ヶ年計画で「石炭技術海外移転事業」が開始され、採炭技術を伝授すべく東南アジアから多くの研修生を受け入れたため。家族連れで池島に来た外国人が多かったのだろう。


坑道
地上へ続く坑道。


坑道
ここは池島で最初に掘られた坑道だと、ガイドさんより説明を受ける。池島炭鉱の第一歩はここからはじまったわけだ。


ドラムカッター
坑道内に展示するドラムカッター。採炭に使われた機械。白い突起物(切削チップ)を配列したドラムを回転させ、ガンガン石炭を石炭を掘削したのだ。


坑道
坑道内でトロッコ軌道が二又に分かれている地点。ここで写真を撮影する人が多いとか。


坑道
坑道内に敷かれるトロッコ軌道。実に美しい光景。


エアダンパー
エアダンパーの一部。滅びゆく機械は芸術性すら感じる。


坑道内09
労働者がケガや体調不良の際に運ばれた救急センター。光学式ガス検定器や酸素ボンベ、担架の他にヘッドライト用のバッテリー等を展示していた。


発破器
救急センターには坑道掘削に使用した発破器やダイナマイト、リード線まで展示。もちろんダイナマイトには火薬は入っておりません。ここで発破の様子をモニターで見られる。


トロッコ列車
再びトロッコ列車に乗って坑道を後に。


トロッコ列車
トロッコ列車は乗車場に無事到着。右奥に見える建物と煙突は発電所と海水淡水化施設で、選炭した際に出たクズ石炭を燃料に、海水を蒸発させてタービンを回して発電すると共に、海水から真水を精製していた。


トロッコ列車
トロッコ列車を下車して次は島内巡りに。


池島全島図
池島炭鉱さるく倶楽部の事務所に展示する池島全島図。海外からの研修生を受け入れていた時期のものと思われる。


撮影日:2017年6月29日(木)
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テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

池島炭鉱 ~閉山から16年を経て~

平成13年(2001年)池島炭鉱が閉山してから16年の時を経た今年(2017年)、1970年代に7千人以上を数えた人口はわずか150人程、所狭しと建てられた炭鉱アパートは数棟を残して無住の廃墟に。全盛期に1300人近くの児童を抱えた小学校の生徒数は今や2名で、中学校は生徒がおらず休校中。半農半漁で生計を立てる島民が静かに暮らしていた池島を、幻が如く繁栄させた炭鉱関連の設備は潮風により腐食がすすんで少しずつ消え去り、島は元来の姿に戻ろうかとしている最中なのではと思えてしまう。閉山から6年後の平成19年(2007年)、池島の地域活性化を図るため、三井松島産業株式会社は池島アーバンマイン株式会社を設立し、金属のリサイクル事業を立ち上げて炭鉱から都市鉱山へと変革を遂げようとするが、これが頓挫して昨年(2016年)に40億円の負債を抱えて倒産した。池島が行く先はどこなのだろうか…、閉山から16年を経た姿とは。




旧桟橋
旧桟橋にある”あこうの木”。様々な顔に彩られたブイが木の周りを取り囲み、来島を歓迎してくれているのだろう。しかし潮風による劣化が進んで、少々怖い有様に。池島の怪奇スポットになってしまっている。


桟橋前停留所
桟橋前停留所からコミュニティバスに乗車。炭鉱前停留所へ移動する。


第一立坑
地上と海底坑道を繋ぐ第一立坑。池島で最初に造られた立抗で、櫓ではゲージを昇降させて作業員や機材等の積み出しが行われた。頭上を通す配管は水道管で、池島ではメンテナンスがしやすかったことを理由に水道管をすべて地上に通していたという。


第一立坑
第一立坑にズーム。櫓には2つの大きな滑車が見え、かつてはこの滑車にゲージが吊られていたのだろう。


炭車
第一立坑近くに残る炭車(石炭運搬用の貨車)。


水道管とボタ運搬軌道の跨道橋
水道管とボタ運搬軌道の跨道橋。


食堂
単身者が利用していたという旧食堂。ガイドさんによれば、食堂で働いていたおばちゃんは随分とモテたようで、見るたびに化粧が濃くなっていたらしい。おばちゃんに何があったのでしょうか…。


食堂
蔦に覆われつつある旧食堂。


炭鉱アパート群
そして、炭鉱アパート群を見学に。


3号アパート住宅内
3号アパート4階の一室は見学用に当時の生活を再現。


3号アパート住宅内
キッチン。


3号アパート屋上からの眺望
3号アパート屋上からの眺望。見学用に屋上へ登れるようにしている。


第一立坑と抗口
左端に見える櫓が第一立坑、右端手前の抗口から延びる渡り廊下のような設備は掘り出した石炭を運ぶコンベアで、原炭ポケットへと続いている。


アーバンマイン工場と倉庫
奥に見える施設は平成19年(2007年)に設立された池島アーバンマイン株式会社の金属リサイクル工場と倉庫。会社は昨年(2016年)40億円の負債を抱えて倒産、工場の解体が進められているようだ。


3号アパート屋上からの眺望
3号アパート屋上から南西方向。炭鉱アパートが並ぶ壮観な眺め。


3号アパート屋上からの眺望
3号アパート屋上から北西方向。やはり炭鉱アパートが並ぶ。奥に見える四方山は池島で最も標高が高い場所で、貯水タンクが設けられている。かつてはこの貯水タンクから生活用水が配水されており、ガイドさんによれば夏場は蛇口をひねると生温い湯が出てきたとのこと。現在は本土から海底水道で水が供給されている。


東浴場
東浴場。炭鉱時代からある現役の共同浴場。


東浴場
何ゆえか、ガイドさんにここで記念撮影を勧められ。次に来た時にはここで風呂に入りなさいということか。


蔦に覆われたアパート
蔦に覆われたアパート。人が住まなくなると16年でこんな状態になるんだ…、すごいね自然の営みは。


公園
これは公園。よく見ると遊具が残存している。


所長宅
ガイドさんの説明によれば、ここは所長と言っていたように記憶しているが、とにかく上層部の家族が住む社宅だったとか。


慰霊碑
昭和49年(1974年)8月に建立の慰霊碑。当時の松島炭鉱株式会社社長の武富氏により「南の海底に眠る同志の霊に捧ぐ」との題で碑文が添えられている。石炭採掘は危険と隣り合わせの仕事だけに、池島でも殉職した炭鉱従事者が少なからずいたのだろう。不謹慎ながらガイドさんによれば、ここは狭い島内にあって人目に付きにくく車を止められる貴重な場所で、若い男女が逢い引きするスポットだったらしい。


第二立坑と大蟇島・小蟇島
第二立坑櫓と大蟇島(おおびきじま)・小蟇島(ごびきじま)。池島炭鉱の海底坑道は池島から蟇島方向に向かって掘り進められ、その総延長は約96kmにも及んだ。大蟇島には坑道の空気を循環するための入気立坑と排気立坑が設けられ、第二立坑から遠隔操作していたという。


第二立坑
第二立坑は坑道が海底深く遠くへと延びるにつれ、作業員を効率よく現場へ運ぶために設けられた2基目の立坑。ここから作業員はケージに乗って一気に海面から650m下の地底まで降り、そこから高速人車やマンベルト(動く歩道のようなもの)で採炭場まで移動した。移動時間に約1時間かかったというから、なかなか通勤も大変だったようだ。


第二立坑
ガイドさんに連れられ第二立坑を見学に。


第二立坑
車での通勤はこの道を通り、徒歩の通勤は敷地北東側の階段を使っていた。


慈海の女神像
第二立坑櫓と慈海の女神像。通称を「シェー」像というらしい。海底炭鉱のある蟇島方面を向いて立つ。


慈海の女神像
ガイドさんに「シェー」のポーズを勧められたが今回は自重。次にここで撮ってもらえる機会があれば、必ず完璧な「シェー」をやりましょう。


池島鉱事務所
第二立坑事務所。入口前には炭鉱夫と子供の像。


炭鉱夫と子供の像
炭鉱夫と子供の像。昭和57年(1982年)建立、池島小学校の城台教諭他、生徒一同の作。


炭鉱夫と子供の像
台座に残る標語。


池島鉱事務所
入口軒先に”池島鉱”の文字がわずかに読み取れる。


第二立坑大浴場
第二立坑の大浴場。150人程が一度に入れる大浴場で、四角い湯船は熱めの湯、その周りがぬるめの湯だったとのこと。


第二立坑大浴場
浴場周辺に並ぶ洗い場。ひーふーみーと、大雑把に数えて確かに150席くらいの洗い場がある。それぞれの洗い場にある小型の浴槽みたいなのは作業着の洗濯槽。炭鉱夫はここで汚れた体と作業着を洗い、湯船に浸かって1日の疲れを癒したわけだ。


第二立坑通勤用階段とゴルフ場跡
第二立坑とアパート群を繋ぐ通勤用階段。その右手の雑草が生い茂る場所、実はゴルフ場跡である。往時にはショートコースが設けていたらしいが、今やティーショットを打ったらナイスショットでもロストボールになりそうな状態。


第二立坑の見学を終えて、次は池島のシンボル的存在となっている8階建て炭鉱アパートの見学に↓

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テーマ : 国内旅行
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芦別線 ~芦別と深川を繋ぐはずだった幻の鉄路~

北海道の空知地方中部、大正期から昭和初期にかけて炭鉱が次々と開坑し、石炭景気に湧いた芦別市がある。大正14年(1925年)芦別村町と深川町長は、両町村を繋ぐ鉄道の敷設を国会に請願する。請願に至った理由は定かでないが、新たな石炭輸送ルートの確保と沿線地域の活性化を図る目論見があったのだろう。これをきっかけにして昭和6年(1931年)鉄道省建設局が測量を実施したが具体的な建設計画へは進展せず。同15年(1940年)になり沿線町村が中心となり深川芦別間鉄道期成同盟会が発足、第二次世界大戦が終結して全国に鉄道建設と計画が進められる中、同24年(1949年)芦別深川間鉄道敷設促進期成会が新たに発足し、止められた時計の針が再び動き始める。同28年(1953年)芦別線として予定線になり、同31年(1956年)に調査線、翌年には工事線へ昇格し、鉄道用地の買収が始まる。同37年(1962年)着工、同43年(1968年)芦別から新城間の路盤が完成する。しかし石炭景気が下火になったうえ、旭川市内の農家が用地買収に頑なに応じないことから計画は頓挫、同47年(1972年)予算配分が無くなり工事は凍結され、芦別線は幻の鉄道となってしまう。今となっては起点になるはずだった根室本線の芦別駅すら存続が危ぶまれる過疎地域に陥っている。




空中写真_新城_1977年
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7728-C4-18を基に作成
昭和52年(1975年)9月撮影の新城町


新城市街
芦別市の北端、深川市との境に位置する新城町。


新城市街
路傍になびく”芸術の郷しんじょう”の幟。新城には旧新城小学校の校舎を利用して平成18年にオープンした芸術文化交流館があり、道内に拠点を置く画家や書道家等のアトリエが入居、田舎の美術館として作品を展示している。


新城バス停
新城市街の中心部にある新城バス停。


石狩新城駅前通り
新城バス停付近、道道4号線から西へ延びるこの小路は、石狩新城駅の駅前通りとなるはずだった。


新城商事と新城郵便局
新城市街にある新城郵便局と新城商事。新城郵便局がある場所は大正7年(1918年)~昭和11年(1936年)まで新城駅逓所が置かれていた。駅逓所とは、人馬の継立や荷継ぎを取り扱った公設の機関で、宿駅伝馬制度でいう問屋場みたいなもの。


空中写真_新城_1977年_撮影ポイント
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7728-C4-18を基に作成
昭和52年(1975年)の空中写真に撮影ポイントを記入したので以下の写真から参照してください。


石狩新城駅の旧計画地
この辺りが幻となった石狩新城駅の計画地[撮影ポイント①]。
左奥に向かって延びる道が駅前通り。左端の建物はJAたきかわ百合根鱗片繁殖・組織培養施設で、駅前通りとなるはずだった敷地に建てられている。赤屋根は新城農業倉庫。


新城三研修センター
石狩新城駅の旧計画地に建つ新城三研修センター。


石狩新城駅旧計画地
芦別側より石狩新城駅旧計画地方向[撮影ポイント②上]。


新城の芦別線路盤
石狩新城駅旧計画地から芦別側に残る芦別線路盤の盛土[撮影ポイント②下]。


新城の芦別線路盤
芦別~新城間の路盤は昭和43年(1968年)に完成したが、鉄路が敷かれることは無かったようだ。


新城理容院
店構えが気になった新城理容院をカメラに収め新城市街を後に。


新城の芦別線路盤
新城市街南外れの道道沿いから路盤の盛土を望む[撮影ポイント③]。しっかりと残存していることがわかる。


パンケ幌内川
本流橋よりパンケ幌内川下流[撮影ポイント④]。川を境に路盤の盛土が途切れている。ここには長さ50m程の橋梁が架けられていた。


新城の芦別線路盤
パンケ幌内川右岸(新城側)の盛土。分断された土地の往来に便を図るため通路を設けている。


新城の芦別線路盤
パンケ幌内川左岸(芦別側)の盛土。やはり盛土に通路が見られる。


新城の芦別線路盤
通路は今も使われているようだ。


新城から空知川右岸の常盤町に移動する。

空中写真_常盤町_1977年_撮影ポイント
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7728-C9-14を基に作成
昭和52年(1975年)撮影の空中写真に撮影ポイントを記入したので以下の写真から参照してください。


常盤町の芦別線路盤跡
常盤町の道道4号線から望む新城方面の芦別線路盤[撮影ポイント⑤上]。田園と化し何も残っていない。


常盤町の芦別線路盤跡
道道4号線から芦部悦方面[撮影ポイント⑤下]。やはり路盤は何も残ってない。この先、路盤は空知川に架かる橋梁へ続いていた。


常盤町の芦別線跨線橋跡
撮影ポイント⑤地点、道道4号の跨線橋跡。現在は道が平坦に直され遺構を全く残していない。


常盤町から空知川左岸の根室本線・芦別線の分岐点に移動する。

空中写真_高根信号場_1977年_撮影ポイント
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7728-C9-14を基に作成
昭和52年(1975年)撮影の空中写真に撮影ポイントを記入したので以下の写真から参照してください。


芦別線・空知川橋梁跡
空知川橋梁跡[撮影ポイント⑥から新城方向]。かつては写真頭上に空知川を渡る芦別線の橋梁が渡されていたのだが…、もはや想像するのも難しい状態。


空知川橋梁南詰の芦別線路盤跡
撮影ポイント⑦から新城方面。ここは空知川橋梁の南詰にあたり、すぐ先に橋梁が架けられていたはずだが、今や自然が人の立入りを拒む。


空知川橋梁南詰の芦別線路盤跡
空知川橋梁の南詰[撮影ポイント⑦]から芦別方面。


北7条西6丁目の芦別線路盤跡
根室本線分岐点付近の芦別線路盤[撮影ポイント⑧から新城方向]。


高根信号場跡
根室本線の高根信号場と芦別線路盤跡。高根信号場は石炭貨物の増大に伴い、列車交換のため昭和37年(1962年)に設置された。線路を跨いで向こう左手に信号場の駅舎があり、。ここから芦別線が分岐する計画だった。昭和57年(1982年)廃止。

高根信号場の写真は道新写真データベースで見れます↓
http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090360435


星槎総合教育研究所
高根信号場跡近くにある星槎総合教育研究所。元は芦別工業高等学校、昭和63年(1988年)芦別工業高と芦別商業高が統合して芦別総合技術高等学校が開校するが、生徒数の減少から平成18年(2006年)に閉校。校舎は星槎グループに引き継がれた。


南8号踏切
南8号踏切より高根信号場跡方向。


芦別駅
芦別線の起点となるはずだった芦別駅。


芦別駅
駅舎前には健夏まつりの立て看板を置き、7月の開催に向けて準備が進められていた。


芦別駅
芦別駅と五重塔モニュメント。


芦別駅前
人通りは少なく、パチンコ屋はシャッターを閉め、活気を感じない芦別駅前。


芦別駅構内
芦別駅に滝川行の単行列車が間もなく到着。


芦別駅構内
芦別駅を発車するキハ40形気動車。


芦別駅構内
単行列車は芦別駅構内を走り抜ける。


キハ40形気動車
次の平岸駅へ向け、ディーゼル音を響かせて。


旭川への帰りがけに再び新城町を訪ねて↓

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テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

三井芦別鉄道

芦別市街から芦別川に沿って南下し、西芦別から炭山川の上流部に入った山中、石炭需要が増大する昭和初期に三井芦別炭鉱は第一抗の開発をはじめ、昭和14年(1939年)に開抗する。翌年に石炭輸送を目的として芦別~西芦別間に三井鉱山芦別専用鉄道を開業させ、更に翌年には沿線の西芦別地区に炭住街が形成されたことで旅客営業を開始した。同19年(1944年)頼城地区西側山中に第二抗が開抗、三井鉱山芦別専用鉄道は頼城まで延伸し、同24年(1949年)三井鉱山芦別鉄道として地方鉄道に。昭和28年(1953年)石炭景気に湧く芦別市の人口は7万人を越えて全盛期を迎えるが、国内の石炭需要は減少をはじめ、昭和33年(1958年)三井鉱山芦別鉄道はで経営の持続を図るべく、高校通駅や山の手町駅など、6駅を開業させて石炭輸送から旅客営業へ本業の舵を切り、同35年(1960年)三井芦別鉄道を設立して鉄道部門を譲渡した。同38年(1963年)明治鉱業明治上芦別鉱業所の閉山を皮切りに、三菱鉱業芦別鉱業所、芦別高根炭鉱高根鉱業所、油谷鉱業油谷芦別炭鉱が相次いで閉山し、芦別の石炭産業は縮小の一途を辿る。時流に逆らえず平成元年(1989年)三井芦別鉄道は廃止、同4年(1992年)三井芦別炭鉱も後を追うように閉山した。




芦別駅構内
芦別駅構内より富良野方面。雑草が生い茂る島式ホームのこちら側が、三井芦別鉄道の旧ホーム。更に右手の草むらと化す場所には三井芦別鉄道の石炭貨物の列車が停車していた。
昭和47年(1972年)当時の同アングルで撮影された写真が『芦別物語』から見れるので参照を↓
http://aatama.saloon.jp/ashibetu/image/big-ashibetsu-fornishiashi-pano1972.jpg


芦別駅構内
三井芦別鉄道の芦別駅構内跡。城春にして草木深し。


南12号踏切
芦別駅から根室本線を富良野方面へ約700m、南12号踏切。かつては南12号踏切の西側(写真左奥)に三井芦別鉄道が根室本線に並行して通り、高校通駅を設けていた。


空中写真_高校通駅_1977年
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7728-C10-16を基に作成

昭和52年(1977年)撮影の空中写真で高校通駅付近を見てみよう。左上隅が芦別駅、高校通駅から東側に駅名の由来となった芦別高校があり、駅から高校を東西に繋ぐ直線道(じぞうまち通)は通学路として利用されたのだろう。


高校通駅跡
高校通駅跡西側より”じぞうまち通”を望む。左手に見える白系の建物辺りが高校通駅跡。高校通駅は簡易な乗降ホームが設けられる停留所の扱いだった。


三井芦別鉄道跡・高校通駅跡付近
高校通駅跡付近より三井芦別鉄道跡(頼城方面)。


芦別隧道
高校通駅~山ノ手駅間、三井芦別鉄道に唯一あったトンネルの芦別隧道。写真左手の山に隧道が通されていた。


芦別隧道
芦別隧道の頼城口側。道路から少し上の山腹にトンネルらしき遺構が見えた。


芦別隧道
薮をかき分けて芦別隧道を間近に見る。立入禁止となって中には入れないが、しっかりと遺構を残している。


芦別隧道
芦別隧道内部。このトンネルは山裾が芦別川に迫る場所に鉄路を通すために設けられた。中には入れないが70m程の短いトンネルだけに向こう側の出入口が見える。


芦別隧道
芦別隧道より頼城方面。現在は隧道の頼城口側に桜ケ丘霊園や芦別市斎場に至る道が開削して通され、路盤跡は分断。


三井芦別駅前
三井芦別駅前通りより駅方向。最奥の建物が旧駅舎で、現在は芦別資源商の産廃保管施設。


三井芦別駅前
駅前通りより1本南側の通り。奥が三井芦別駅方向。西芦別は三井芦別駅を中心に大規模な炭住街を形成した町で、駅前には様々な商店が並び賑わった。


西芦別郵便局
西芦別郵便局。西芦別には再訪して近々に詳しく現況を見てみたい。


炭山川橋梁
炭山川の小さな流れが山間に渓谷をつくり芦別川へ注ぐ。その手前、入山駅跡と中の丘駅跡の間に三井芦別鉄道の炭山川橋梁が架けられ、今も鋼製6連プレートガーター桁橋とコンクリート造2連アーチ橋が残存、国の登録有形文化財に指定される。炭山川はその名が示す通り、上流部には三井芦別炭鉱の第一抗があった。


炭山川橋梁
橋梁上には石炭貨車をけん引したDD501ディーゼル機関車が展示され、往時を彷彿させている。


炭山川橋梁
炭山川橋梁の南詰(頼城・中の丘駅側)。


炭山川橋梁
石炭車セキ3000の後ろ姿が美しい。


炭山川橋梁南詰
炭山川橋梁南詰に残る鉄路と路盤跡。


頼城駅跡
三井芦別鉄道の終着だった頼城駅跡。駅前のロータリーがその跡地を示す。駅舎はロータリーの左手奥辺りにあった。


頼城駅跡
頼城駅跡構内。


頼城駅跡
頼城駅駅舎跡より駅前ロータリーを望む。


頼城駅北側の架道橋跡
頼城駅北側の架道橋跡。


頼城駅北側の架道橋跡
架道橋跡にはコンクリートの路盤を残す。


頼城(仲町)商店街
頼城(仲町)商店街。往時の活気は消え失せ。


頼城共同浴場
頼城共同浴場。かつては芦の湯という共同浴場があった場所で、裏手に芦の湯駅が存在した。


芦の湯駅跡
道路脇に草むらと化す芦の湯駅跡。道路に三井芦別鉄道の路盤跡が確認できる。


らいじょうストリート
国道452号と頼城本通の交差点角、頼城郵便局の隣りにある”らいじょうストリート”の看板。


坑夫の像
そして看板横、国道452号沿いに建つ坑夫の像。これは二代目、初代は昭和19年(1944年)の製作で、西芦別町の三井芦別石炭労務課外勤詰所前にあった。老朽化が著しく平成9年(1997年)にこの複製像が作られた。


芦別市青少年会館
芦別市青少年会館。元は映画や演劇を楽しむ娯楽施設のニ抗会館があった場所で、ヤマの娯楽の殿堂として親しまれた。昭和45年(1970年)にニ抗会館は解体、新たにこの青少年会館が建てられた。


頼城東町の公園
頼城東町の公園。朽ち果てゆく遊具が寂しい。


旧頼城小学校
旧頼城小学校。手前が旧体育館で、裏手に煉瓦造2階建の校舎(昭和29年築)を残す。頼城小学校は平成13年(2001年)に西芦別小学校へ統合されて廃校となり、現在は星槎大学校舎として利用されている。


旧頼城小学校
頼小っ子碑と旧頼城小学校体育館。


旧頼城小学校
旧体育館入口上には”星印に頼”の校章。


旧頼城小学校
体育館横壁には第59回卒業生一同が寄贈した掛け時計。14時35分で止まっている。


頼覚山大興寺
頼城市街東側の山手にある頼覚山大興寺。


頼覚山大興寺
大興寺本堂。廃寺になってしまったようで、本堂はがらんどう。近々建物も解体されてしまうのでは、という状況。


ペット霊碑
本堂横のペット霊碑。


頼覚山大興寺
お地蔵さんも台座を残してどこかへ移されてしまっている。


頼城神社
大興寺境内に鎮座する頼城神社。


頼城神社社殿
頼城神社社殿。今は参拝する人もいないようだ。


頼城神社鳥居
頼城神社鳥居。参道は雑草に覆われ。


大興寺境内にて
大興寺境内にて。


大興寺境内にて
ルールルルル…、呼びかけも空しく去りゆく。


玉川駅跡前
頼城駅から南へ約800mにあった玉川駅跡前。ここは頼城駅構内扱いで正式には停留所、三井芦別鉄道の南端にあたり、転車台が設けられていた。


玉川駅跡前
玉川駅跡前、国道からの駅跡入口に横たわる道路標識。おそらく”川岸”と書かれていたはず。


玉川駅跡
玉川駅跡前に残る横断歩道を示す道路標識。


玉川駅跡転車台跡
玉川駅南側の転車台跡。ここが三井芦別鉄道の末端にあたり、蒸気機関車を反転させる転車台を設けていた。


撮影日:2017年6月19日(月)

【参考サイト】
芦別物語
http://aatama.saloon.jp/index.html

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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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