池島炭鉱 ~九州に最後まで残った炭鉱~
世界文化遺産に指定され脚光を浴びる軍艦島(端島)から北北西へ約30km、軍艦島と同じように海底炭鉱で繁栄を極めた島がある。それが長崎市の北側、西彼杵(にしそのぎ)半島の西方約7kmの海上に浮かぶ池島だ。周囲わずか約4kmの小さな島で、島内に幅100m程の鏡ヶ池があったことに島名は由来。元来の島民は半農半漁で生計を立てていたが、島周辺の海底域に弱粘結性の高品質な石炭層が大量にあることがわかり、昭和27年(1952年)松島炭鉱株式会社が用地を買収し石炭採掘を開始、鏡ヶ池を開削して海と繋ぎ、石炭積み出し港として整備する。同34年(1959年)から出炭を開始、高度成長期に伴う石炭需要の増大と共に池島は発展を続けた。
池島は全盛期の1970年代に7千人を超える人口を数える。島内にはアパートがひしめき合うように建ち並び、児童数の増大に伴い小・中学校は拡張を続け、ショッピングセンターには客足が絶えることなく大賑わいの様相を示し、3交代で坑内に入る作業員を客にパチンコ店やスナックが昼夜を問わず繁盛した。また、ボウリング場やテニスコートの施設が設けられた他、グランドにはナイター照明を設けて野球が行われ、試合を観戦する大勢の人々が集まりヤジを飛ばし合って賑わったという。
1970年代を境に国内のエネルギー事情が石炭から石油へと転換しはじめる。国内の炭鉱が次々と閉山する中、池島は石炭採掘の開発を続け、1990年代には坑道の総延長が約96kmに達した。しかし、押し寄せる時代の波には勝てず、平成10年(1998年)の電力自由化により安価な海外炭に国内シェアを奪われ、同13年(2001年)ついに閉山を迎えることになってしまう。日本の産業革命を支えてきた九州の炭鉱は、ここを最後に消滅する。「国破れて山河あり、城春にして草木深し」、ここを訪れれば諸行無常を実感できよう。
池島を見学するにはコチラから↓
池島炭鉱さるく
http://www.saruku.info/course/G902.html

空中写真データ:国土地理院 整理番号USA-M267-141を基に作成
昭和22年(1947年)4月撮影の池島

空中写真データ:国土地理院 整理番号CKU7420-C43-7を基に作成
昭和50年(1975年)5月撮影の池島
まずは池島炭鉱開発前と全盛期の池島を空中写真で見てみよう。昭和22年(1947年)当時は鏡ヶ池が開削されておらず、池島郷の集落がある程度で、島の大部分は畑地か荒地だったように見える。それから28年後の昭和50年(1975年)になると、炭鉱施設やアパート群で島の様相は一変、島の北側沿岸部が埋め立てで拡張し、鏡ヶ池を海と繋いで造られた港には大型の石炭運搬船が接岸、貯炭場には多量の石炭が見られる。当時はまだ第二立坑の施設は建てられていない。

長崎駅前から6:36発”桜の里ターミナル”行のバスに乗車、桜の里ターミナルで7:40発の”大瀬戸・板の浦”行バスに乗り換え、8:30頃にNTT大瀬戸バス停で下車。徒歩4分ほどでここ瀬戸港フェリーターミナルに着く。

瀬戸港フェリーターミナル待合所。池島行フェリーの出航は10:15。1時間半程の待ち時間があるので、どこかで朝食にしようかと近辺をぶらつくことに。

瀬戸港近くにあるファミリーマート西海樫浦店。ここでおにぎりとカップヌードルを買い、イートインスペースで朝食。

出航を待つ池島港行のフェリーかしま。

フェリー内より瀬戸港。

客室内にいるのは私だけ。

池島港へ向けて出港!先に見えるのは松島。

松島の石炭採掘の歴史は古く、江戸時代中期にまで遡るという。明治38年(1905年)古賀鉱業合資会社が本格的に炭鉱開発をはじめ、大正期にかけて3ヶ所の採炭場を開坑、坑道が松島周辺の海底に掘り進められ、大正12年(1913年)の年間出炭量は36万トンにのぼった。大正2年(1913年)三井鉱山株式会社は松島の鉱区を買収、古賀鉱業との共同出資で松島炭鉱株式会社を設立し、出炭量は大正14年(1925年)に51万トンに達してピークを迎える。しかし、松島の採掘鉱区は海底から浅い場所にあったため度重なる出水に悩まされ、昭和4年(1929年)に第三抗で42名もの人命が失われる出水事故が発生、更に同9年(1934年)には第四抗で54名が犠牲となる大惨事が起き、会社は第四抗を廃止して労働者のリストラを実施。新しい第五抗の採掘で再建を試みるが、やはり浸水を止めることができず同10年(1935年)に断念、松島炭鉱は新天地に再起を図るべく大島(長崎県西海市大島町)の鉱区を買収した。

現在の松島には火力発電所が設けられ、電力の島として変貌を遂げている。

先に池島がうっすらと島影を現す。

徐々に池島が近づく。

間もなく池島に着岸。池島の異様な光景に気持ちが高ぶる。

池島港へ入港する。護岸には石炭船積み機(トリンマー)、山腹に選炭場、山上に原炭ポケットの建造物を残す。

池島港の船着場。

鏡ヶ池を開削して海と繋ぎ造られた池島港。島名の由来にもなった鏡ヶ池は、神功皇后が三韓出兵の帰途、島に上陸して池の水面に自身の姿を映したとの伝説がある。

船着場から元炭鉱マンガイドに連れられ、池島炭鉱さるく倶楽部の事務所へ。

池島炭鉱さるく倶楽部の事務所があるこの建物は元々”港ショッピングセンター”。最近まで”丸木ストア”と”ひろせ酒店”の2店舗が営業していたが、ひろせ酒店は2014年に閉店、昨年(2016年)末に丸木ストアも閉店してしまったとのこと。現在、池島には食料や生活用品を買える小売店が無く、移動スーパーが週3回島内を巡回している。食堂は”かあちゃんの店”だけが営業を続け、みなと亭ではツアー客向けに炭鉱弁当(要予約)を販売している。

池島炭鉱の歴史や概要を映像資料で事前学習し、トロッコ列車に乗っていざ坑道へ。

蓄電池式のトロッコで、モーターは日立製のようだ。

ガタガタ揺れて乗り心地は悪い。

坑道内に突入する。

トロッコ列車はここで停車。往時の写真を見ながら説明を受け、ここから徒歩でさらに奥へ。

坑道に停車するトロッコ列車。

坑道内に展示するサイドダンプローダー。坑道を掘る際、土砂を積み込むために使われた。

坑道内には池島小学校の子供たちの作品が展示されている。習字の署名にカタカナ名が多いのは、閉山後の2002年から5ヶ年計画で「石炭技術海外移転事業」が開始され、採炭技術を伝授すべく東南アジアから多くの研修生を受け入れたため。家族連れで池島に来た外国人が多かったのだろう。

地上へ続く坑道。

ここは池島で最初に掘られた坑道だと、ガイドさんより説明を受ける。池島炭鉱の第一歩はここからはじまったわけだ。

坑道内に展示するドラムカッター。採炭に使われた機械。白い突起物(切削チップ)を配列したドラムを回転させ、ガンガン石炭を石炭を掘削したのだ。

坑道内でトロッコ軌道が二又に分かれている地点。ここで写真を撮影する人が多いとか。

坑道内に敷かれるトロッコ軌道。実に美しい光景。

エアダンパーの一部。滅びゆく機械は芸術性すら感じる。

労働者がケガや体調不良の際に運ばれた救急センター。光学式ガス検定器や酸素ボンベ、担架の他にヘッドライト用のバッテリー等を展示していた。

救急センターには坑道掘削に使用した発破器やダイナマイト、リード線まで展示。もちろんダイナマイトには火薬は入っておりません。ここで発破の様子をモニターで見られる。

再びトロッコ列車に乗って坑道を後に。

トロッコ列車は乗車場に無事到着。右奥に見える建物と煙突は発電所と海水淡水化施設で、選炭した際に出たクズ石炭を燃料に、海水を蒸発させてタービンを回して発電すると共に、海水から真水を精製していた。

トロッコ列車を下車して次は島内巡りに。

池島炭鉱さるく倶楽部の事務所に展示する池島全島図。海外からの研修生を受け入れていた時期のものと思われる。
撮影日:2017年6月29日(木)
池島は全盛期の1970年代に7千人を超える人口を数える。島内にはアパートがひしめき合うように建ち並び、児童数の増大に伴い小・中学校は拡張を続け、ショッピングセンターには客足が絶えることなく大賑わいの様相を示し、3交代で坑内に入る作業員を客にパチンコ店やスナックが昼夜を問わず繁盛した。また、ボウリング場やテニスコートの施設が設けられた他、グランドにはナイター照明を設けて野球が行われ、試合を観戦する大勢の人々が集まりヤジを飛ばし合って賑わったという。
1970年代を境に国内のエネルギー事情が石炭から石油へと転換しはじめる。国内の炭鉱が次々と閉山する中、池島は石炭採掘の開発を続け、1990年代には坑道の総延長が約96kmに達した。しかし、押し寄せる時代の波には勝てず、平成10年(1998年)の電力自由化により安価な海外炭に国内シェアを奪われ、同13年(2001年)ついに閉山を迎えることになってしまう。日本の産業革命を支えてきた九州の炭鉱は、ここを最後に消滅する。「国破れて山河あり、城春にして草木深し」、ここを訪れれば諸行無常を実感できよう。
池島を見学するにはコチラから↓
池島炭鉱さるく
http://www.saruku.info/course/G902.html

空中写真データ:国土地理院 整理番号USA-M267-141を基に作成
昭和22年(1947年)4月撮影の池島

空中写真データ:国土地理院 整理番号CKU7420-C43-7を基に作成
昭和50年(1975年)5月撮影の池島
まずは池島炭鉱開発前と全盛期の池島を空中写真で見てみよう。昭和22年(1947年)当時は鏡ヶ池が開削されておらず、池島郷の集落がある程度で、島の大部分は畑地か荒地だったように見える。それから28年後の昭和50年(1975年)になると、炭鉱施設やアパート群で島の様相は一変、島の北側沿岸部が埋め立てで拡張し、鏡ヶ池を海と繋いで造られた港には大型の石炭運搬船が接岸、貯炭場には多量の石炭が見られる。当時はまだ第二立坑の施設は建てられていない。

長崎駅前から6:36発”桜の里ターミナル”行のバスに乗車、桜の里ターミナルで7:40発の”大瀬戸・板の浦”行バスに乗り換え、8:30頃にNTT大瀬戸バス停で下車。徒歩4分ほどでここ瀬戸港フェリーターミナルに着く。

瀬戸港フェリーターミナル待合所。池島行フェリーの出航は10:15。1時間半程の待ち時間があるので、どこかで朝食にしようかと近辺をぶらつくことに。

瀬戸港近くにあるファミリーマート西海樫浦店。ここでおにぎりとカップヌードルを買い、イートインスペースで朝食。

出航を待つ池島港行のフェリーかしま。

フェリー内より瀬戸港。

客室内にいるのは私だけ。

池島港へ向けて出港!先に見えるのは松島。

松島の石炭採掘の歴史は古く、江戸時代中期にまで遡るという。明治38年(1905年)古賀鉱業合資会社が本格的に炭鉱開発をはじめ、大正期にかけて3ヶ所の採炭場を開坑、坑道が松島周辺の海底に掘り進められ、大正12年(1913年)の年間出炭量は36万トンにのぼった。大正2年(1913年)三井鉱山株式会社は松島の鉱区を買収、古賀鉱業との共同出資で松島炭鉱株式会社を設立し、出炭量は大正14年(1925年)に51万トンに達してピークを迎える。しかし、松島の採掘鉱区は海底から浅い場所にあったため度重なる出水に悩まされ、昭和4年(1929年)に第三抗で42名もの人命が失われる出水事故が発生、更に同9年(1934年)には第四抗で54名が犠牲となる大惨事が起き、会社は第四抗を廃止して労働者のリストラを実施。新しい第五抗の採掘で再建を試みるが、やはり浸水を止めることができず同10年(1935年)に断念、松島炭鉱は新天地に再起を図るべく大島(長崎県西海市大島町)の鉱区を買収した。

現在の松島には火力発電所が設けられ、電力の島として変貌を遂げている。

先に池島がうっすらと島影を現す。

徐々に池島が近づく。

間もなく池島に着岸。池島の異様な光景に気持ちが高ぶる。

池島港へ入港する。護岸には石炭船積み機(トリンマー)、山腹に選炭場、山上に原炭ポケットの建造物を残す。

池島港の船着場。

鏡ヶ池を開削して海と繋ぎ造られた池島港。島名の由来にもなった鏡ヶ池は、神功皇后が三韓出兵の帰途、島に上陸して池の水面に自身の姿を映したとの伝説がある。

船着場から元炭鉱マンガイドに連れられ、池島炭鉱さるく倶楽部の事務所へ。

池島炭鉱さるく倶楽部の事務所があるこの建物は元々”港ショッピングセンター”。最近まで”丸木ストア”と”ひろせ酒店”の2店舗が営業していたが、ひろせ酒店は2014年に閉店、昨年(2016年)末に丸木ストアも閉店してしまったとのこと。現在、池島には食料や生活用品を買える小売店が無く、移動スーパーが週3回島内を巡回している。食堂は”かあちゃんの店”だけが営業を続け、みなと亭ではツアー客向けに炭鉱弁当(要予約)を販売している。

池島炭鉱の歴史や概要を映像資料で事前学習し、トロッコ列車に乗っていざ坑道へ。

蓄電池式のトロッコで、モーターは日立製のようだ。

ガタガタ揺れて乗り心地は悪い。

坑道内に突入する。

トロッコ列車はここで停車。往時の写真を見ながら説明を受け、ここから徒歩でさらに奥へ。

坑道に停車するトロッコ列車。

坑道内に展示するサイドダンプローダー。坑道を掘る際、土砂を積み込むために使われた。

坑道内には池島小学校の子供たちの作品が展示されている。習字の署名にカタカナ名が多いのは、閉山後の2002年から5ヶ年計画で「石炭技術海外移転事業」が開始され、採炭技術を伝授すべく東南アジアから多くの研修生を受け入れたため。家族連れで池島に来た外国人が多かったのだろう。

地上へ続く坑道。

ここは池島で最初に掘られた坑道だと、ガイドさんより説明を受ける。池島炭鉱の第一歩はここからはじまったわけだ。

坑道内に展示するドラムカッター。採炭に使われた機械。白い突起物(切削チップ)を配列したドラムを回転させ、ガンガン石炭を石炭を掘削したのだ。

坑道内でトロッコ軌道が二又に分かれている地点。ここで写真を撮影する人が多いとか。

坑道内に敷かれるトロッコ軌道。実に美しい光景。

エアダンパーの一部。滅びゆく機械は芸術性すら感じる。

労働者がケガや体調不良の際に運ばれた救急センター。光学式ガス検定器や酸素ボンベ、担架の他にヘッドライト用のバッテリー等を展示していた。

救急センターには坑道掘削に使用した発破器やダイナマイト、リード線まで展示。もちろんダイナマイトには火薬は入っておりません。ここで発破の様子をモニターで見られる。

再びトロッコ列車に乗って坑道を後に。

トロッコ列車は乗車場に無事到着。右奥に見える建物と煙突は発電所と海水淡水化施設で、選炭した際に出たクズ石炭を燃料に、海水を蒸発させてタービンを回して発電すると共に、海水から真水を精製していた。

トロッコ列車を下車して次は島内巡りに。

池島炭鉱さるく倶楽部の事務所に展示する池島全島図。海外からの研修生を受け入れていた時期のものと思われる。
撮影日:2017年6月29日(木)

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