清見潟
【旧東海道歩き 第28日目】清水駅→江尻宿→興津宿→由比駅
【2017年8月6日(日)旧東海道 江尻宿→興津宿】
江尻宿から江戸方へ向かって隣りの興津宿までの東海道は、駿河湾に浮かぶ三保の松原を望みながら海岸沿いを進む。特に清見潟には数多くの奇岩があって風光明媚な景勝地だったことから、明治から大正にかけて東海道筋には伊藤博文や松方正義、井上薫、西園寺公望といった明治政府を支えてきた元老の別荘があった。現在、清見潟はすっかり埋め立てられてしまい見る影もなくなっているが、西園寺公望の別荘「坐漁荘」が復元されて往時を偲ばせる。また、古代の清見潟には大和朝廷が東北の蝦夷に備えて清見関が設けられていた。その鎮護のため建立された仏堂を前身とするのが清見寺で、鎌倉期から江戸期にかけて隆盛を誇って天下十刹に数えられ、今も古代からの歴史に培われた風格を漂わせている。

早いもので前回の歩き旅から3ヶ月、梅雨の季節を越えて日本列島は夏真っ盛り。江尻宿江戸方外れにある”ほそいの松”から旧東海道歩きを再開しよう。

西久保原交差点。かつては街道筋に松原が広がっていたはず。

西久保原交差点南西側にある松原観音堂・津島神社。

国道1号に架かる片側橋。その名の通り片側にだけ欄干がある。

片側橋から国道1号を北東へ約120m、愛染川橋。

国道下を流れる愛染川。

袖師生涯学習交流館。夢舞台東海道「袖師ヶ浦」道標が立つ。

袖師交差点。この辺りの東海道筋はかつて鈴木島という地名。静岡鉄道清水市内線(1975年廃止)に鈴木島停留所が設けられていが、今に鈴木島の地名を見ることは無い。

木嶋こうじ店。江戸時代後期に甘酒茶屋として開業、今は6代目が手作りこうじ味噌を製造販売している。
木嶋こうじ店
http://kijimakoujiya.com/

袖師町と横砂西町の境を流れる蜆(しじみ)川。昔は蜆が多く採れたという。

横砂西町の名残り松。

横砂西町と横砂中町の境を流れる庵原川。江戸時代には橋を架けず、旅人は徒歩渡しで渡河していた。

庵原川で憩うシラサギとカモたち。

横砂中町を行く東海道(国道1号)。

医王山東光寺。臨済宗妙心寺派の禅寺で、薬師如来(伝 行基作)を本尊とする。

横砂自治会館と大平山。

大平山麓に鎮座する蘆崎神社。横砂の氏神様。

横砂東町より国道1号東方向。右に分かれる道が旧道で、分岐点に横砂延命地蔵尊が祀られている。

横砂延命地蔵尊を安置する地蔵堂。

横砂踏切で東海道本線を越え。

横砂東町の東外れで国道1号に合流し波多打(はたうち)川を渡る。高架橋は静清バイパス。

波多打川橋南詰より横砂東町の町並み。

国道1号に並行して流れる波多打川。

波多打川橋。

波多打川は古く角田川などと称し、歌枕の名所だった。南北朝時代に薩埵峠の戦いの際、足利尊氏が旗を立てたことから、旗打川と呼ばれるようになったと伝わる。

国道1号(東海道)、清見潟バス停付近。波多打川から東は静岡市清水区の興津清見寺町、かつて清見寺門前町として東海道往来の旅人と清見寺の参詣客で賑わった。万病に効くとされた万能膏を扱う店があり、店前に化粧をし着飾った男児を置いて万能膏を売らせ評判を得ていたという。

興津清見寺町の国道1号(東海道)沿いにある興津坐漁荘。

西園寺公望が大正時代に建てた興津坐漁荘。昭和45年(1970年)に博物館明治村(愛知県犬山市)に移築され、旧地に建てられているこの建物は平成16年(2004年)に復元されたもの。

興津坐漁荘出入口の玄関。

玄関では小さな”かぐや姫”がお出迎え。

女中さんたちが寝起きしていた女中室。

この笑顔が素敵な女性が女中頭の”お綾さん”。大正13年(1924年)西園寺家の小間使いとして入り、昭和3年(1928年)女中頭に。西園寺公望公の身辺を世話して最期を看取った。

広くはないが女中室にも品格が漂う。

台所。女中さんたちが忙しく働く姿が目に浮かぶ。

来客をもてなした応接室とテラス。

こんなテラスでのんびり過ごす休日。贅沢なひと時。

かつては窓越しに清見潟の海岸を望めていた。

興津坐漁荘の2階に上がって。畳敷きに床の間を設ける純和風な居間。

2階より清見潟を望む。庭の先は清見潟の海岸跡。埋め立てられて昔を偲ぶのが難しい。

清見潟の古写真。こんな海岸が坐漁荘裏に広がっていたのだ。

興津坐漁荘を後に。
清見寺門前町の中心をなした清見寺へ↓
【2017年8月6日(日)旧東海道 江尻宿→興津宿】
江尻宿から江戸方へ向かって隣りの興津宿までの東海道は、駿河湾に浮かぶ三保の松原を望みながら海岸沿いを進む。特に清見潟には数多くの奇岩があって風光明媚な景勝地だったことから、明治から大正にかけて東海道筋には伊藤博文や松方正義、井上薫、西園寺公望といった明治政府を支えてきた元老の別荘があった。現在、清見潟はすっかり埋め立てられてしまい見る影もなくなっているが、西園寺公望の別荘「坐漁荘」が復元されて往時を偲ばせる。また、古代の清見潟には大和朝廷が東北の蝦夷に備えて清見関が設けられていた。その鎮護のため建立された仏堂を前身とするのが清見寺で、鎌倉期から江戸期にかけて隆盛を誇って天下十刹に数えられ、今も古代からの歴史に培われた風格を漂わせている。

早いもので前回の歩き旅から3ヶ月、梅雨の季節を越えて日本列島は夏真っ盛り。江尻宿江戸方外れにある”ほそいの松”から旧東海道歩きを再開しよう。

西久保原交差点。かつては街道筋に松原が広がっていたはず。

西久保原交差点南西側にある松原観音堂・津島神社。

国道1号に架かる片側橋。その名の通り片側にだけ欄干がある。

片側橋から国道1号を北東へ約120m、愛染川橋。

国道下を流れる愛染川。

袖師生涯学習交流館。夢舞台東海道「袖師ヶ浦」道標が立つ。

袖師交差点。この辺りの東海道筋はかつて鈴木島という地名。静岡鉄道清水市内線(1975年廃止)に鈴木島停留所が設けられていが、今に鈴木島の地名を見ることは無い。

木嶋こうじ店。江戸時代後期に甘酒茶屋として開業、今は6代目が手作りこうじ味噌を製造販売している。
木嶋こうじ店
http://kijimakoujiya.com/

袖師町と横砂西町の境を流れる蜆(しじみ)川。昔は蜆が多く採れたという。

横砂西町の名残り松。

横砂西町と横砂中町の境を流れる庵原川。江戸時代には橋を架けず、旅人は徒歩渡しで渡河していた。

庵原川で憩うシラサギとカモたち。

横砂中町を行く東海道(国道1号)。

医王山東光寺。臨済宗妙心寺派の禅寺で、薬師如来(伝 行基作)を本尊とする。

横砂自治会館と大平山。

大平山麓に鎮座する蘆崎神社。横砂の氏神様。

横砂東町より国道1号東方向。右に分かれる道が旧道で、分岐点に横砂延命地蔵尊が祀られている。

横砂延命地蔵尊を安置する地蔵堂。

横砂踏切で東海道本線を越え。

横砂東町の東外れで国道1号に合流し波多打(はたうち)川を渡る。高架橋は静清バイパス。

波多打川橋南詰より横砂東町の町並み。

国道1号に並行して流れる波多打川。

波多打川橋。

波多打川は古く角田川などと称し、歌枕の名所だった。南北朝時代に薩埵峠の戦いの際、足利尊氏が旗を立てたことから、旗打川と呼ばれるようになったと伝わる。

国道1号(東海道)、清見潟バス停付近。波多打川から東は静岡市清水区の興津清見寺町、かつて清見寺門前町として東海道往来の旅人と清見寺の参詣客で賑わった。万病に効くとされた万能膏を扱う店があり、店前に化粧をし着飾った男児を置いて万能膏を売らせ評判を得ていたという。

興津清見寺町の国道1号(東海道)沿いにある興津坐漁荘。

西園寺公望が大正時代に建てた興津坐漁荘。昭和45年(1970年)に博物館明治村(愛知県犬山市)に移築され、旧地に建てられているこの建物は平成16年(2004年)に復元されたもの。

興津坐漁荘出入口の玄関。

玄関では小さな”かぐや姫”がお出迎え。

女中さんたちが寝起きしていた女中室。

この笑顔が素敵な女性が女中頭の”お綾さん”。大正13年(1924年)西園寺家の小間使いとして入り、昭和3年(1928年)女中頭に。西園寺公望公の身辺を世話して最期を看取った。

広くはないが女中室にも品格が漂う。

台所。女中さんたちが忙しく働く姿が目に浮かぶ。

来客をもてなした応接室とテラス。

こんなテラスでのんびり過ごす休日。贅沢なひと時。

かつては窓越しに清見潟の海岸を望めていた。

興津坐漁荘の2階に上がって。畳敷きに床の間を設ける純和風な居間。

2階より清見潟を望む。庭の先は清見潟の海岸跡。埋め立てられて昔を偲ぶのが難しい。

清見潟の古写真。こんな海岸が坐漁荘裏に広がっていたのだ。

興津坐漁荘を後に。
清見寺門前町の中心をなした清見寺へ↓
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