城山 ~西郷隆盛最期の地~
明治6年(1873年)征韓論に敗れた西郷隆盛は政府の要職を辞して鹿児島へ帰郷する。これに同調して桐野利秋や篠原国幹、淵辺群平、別府晋介、村田新八といった薩摩藩出身が下野して後を追い、西郷を中心に私学校を設立して運営に尽力、しだいに鹿児島にあって大きな勢力となっていく。
明治7年(1874年)に起きた佐賀の乱を皮切りに、神風連の乱や萩の乱、秋月の乱と、士族の反乱が続く時代背景の中、鹿児島での反乱勃発を恐れた政府は、秘密裏に鹿児島から武器弾薬を運び出したうえ、更に西郷の暗殺まで計画してしまう。これが発覚して私学校生や幹部らが激怒、同10年(1877年)西郷を擁して挙兵し、政府相手に武力をもって対立することになった。西南戦争のはじまりである。
熊本城を急襲するも攻略できずにいた薩軍の主力は、熊本城へ向け南下してくる政府軍を田原坂で迎え撃ち、約1ヶ月に及ぶ激闘の末に敗れて退却、この田原坂の戦いを機に薩軍は劣勢に立たされていく。政府軍の包囲網は九州南部に着々と迫り、ついに薩軍は鶴丸城(鹿児島城)裏手の城山に籠り徹底抗戦の構えをみせるが、大勢は衆寡敵せず。最期を決めた西郷は岩崎谷から城山を降りて岩崎口に進出したところで被弾、「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に声をかけ、皇居のある東を向いて跪き、晋介の介錯をもって自刃した。

照國神社(鹿児島市照国町)裏手、城山の登山口。ここから城山に登る。

悪天候の中、長い石段に重い足を上げて一歩一歩。

城山公園駐車場の一角にある城山売店。ここで缶コーヒーを買って一休み。

城山公園駐車場。駐車した観光バスからぞくぞくと中国人観光客が降りてくる。

城山展望台にある城山茶屋。

城山展望台から鹿児島市街を望む。市街奥に見える海が錦江湾、天気が良ければその向こうに桜島が望めるのだが…。

城山を貫く城山公園トンネル。

城山公園トンネルから岩崎谷へ下る途中、路傍に石仏十三体。昭和3年(1928年)弘法大師の徳を慕う鹿児島市内の人々が、弘法大使の尊像88体を建立し、伊敷の梅ケ淵や谷山の慈眼寺、ここ城山に安置した。城山には88体の石仏のうち13体が残されている。

岩崎谷にある”Brocente Mercerie Annie”という店。店舗横に大きな西郷隆盛像を設けている。

西郷隆盛像の裏手に「西南戦争始末記」三十六景展示場。洞窟の中に展示があるようで、「ご自由にお入りください」とあったので洞窟内部へ。

洞窟内には西南戦争の顛末を描いた作品を展示。

そして”Brocente Mercerie Annie”の店舗右隣りに本家本元の西郷隆盛洞窟。城山に立てこもり政府軍に最後まで抵抗した薩軍はわずか300余り、これに対する政府軍は4万。西郷はこの洞窟で5日間を過ごし、わずかな兵を率いて谷を降り最期を迎えた。

現地設置の解説板より。堡塁が残る城山の薩軍陣地跡。西南戦争終結直後に撮影したものだろう。リアリティを存分に感じる。

写真より更にリアリティがあるのは現物。こんな小さな洞穴で偉丈夫の西郷どんが最期の5日間を過ごしたのか…。そんな実感ができただけでも、遠く鹿児島まで来た甲斐があった。

名残り惜しく洞窟を後に。

洞窟から岩崎谷を下る道。舗装道が通され近代的な建物があって当時とは様相を異にしているのだろうが、西郷隆盛は最期の日にここを降りて、命尽きるまで政府軍に立ち向かったのだ。

岩崎谷を通す鹿児島本線の城山トンネル。

トンネル出入口上には西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」。

坂道を下りきった所から西郷隆盛洞窟方面の岩崎谷を望む。

そして、ここが岩崎口にある西郷隆盛終焉の地。

西郷隆盛はこの地で股と腹に被弾し、別府晋介の介錯をもって自刃した。
「晋どん、もうここらでよか」
西郷の声が聞こえてきそうだ。

”西郷隆盛終焉の地”前を走り抜ける鹿児島本線の特急、時代は随分と流れた。
次は鹿児島城を散策に↓
明治7年(1874年)に起きた佐賀の乱を皮切りに、神風連の乱や萩の乱、秋月の乱と、士族の反乱が続く時代背景の中、鹿児島での反乱勃発を恐れた政府は、秘密裏に鹿児島から武器弾薬を運び出したうえ、更に西郷の暗殺まで計画してしまう。これが発覚して私学校生や幹部らが激怒、同10年(1877年)西郷を擁して挙兵し、政府相手に武力をもって対立することになった。西南戦争のはじまりである。
熊本城を急襲するも攻略できずにいた薩軍の主力は、熊本城へ向け南下してくる政府軍を田原坂で迎え撃ち、約1ヶ月に及ぶ激闘の末に敗れて退却、この田原坂の戦いを機に薩軍は劣勢に立たされていく。政府軍の包囲網は九州南部に着々と迫り、ついに薩軍は鶴丸城(鹿児島城)裏手の城山に籠り徹底抗戦の構えをみせるが、大勢は衆寡敵せず。最期を決めた西郷は岩崎谷から城山を降りて岩崎口に進出したところで被弾、「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に声をかけ、皇居のある東を向いて跪き、晋介の介錯をもって自刃した。

照國神社(鹿児島市照国町)裏手、城山の登山口。ここから城山に登る。

悪天候の中、長い石段に重い足を上げて一歩一歩。

城山公園駐車場の一角にある城山売店。ここで缶コーヒーを買って一休み。

城山公園駐車場。駐車した観光バスからぞくぞくと中国人観光客が降りてくる。

城山展望台にある城山茶屋。

城山展望台から鹿児島市街を望む。市街奥に見える海が錦江湾、天気が良ければその向こうに桜島が望めるのだが…。

城山を貫く城山公園トンネル。

城山公園トンネルから岩崎谷へ下る途中、路傍に石仏十三体。昭和3年(1928年)弘法大師の徳を慕う鹿児島市内の人々が、弘法大使の尊像88体を建立し、伊敷の梅ケ淵や谷山の慈眼寺、ここ城山に安置した。城山には88体の石仏のうち13体が残されている。

岩崎谷にある”Brocente Mercerie Annie”という店。店舗横に大きな西郷隆盛像を設けている。

西郷隆盛像の裏手に「西南戦争始末記」三十六景展示場。洞窟の中に展示があるようで、「ご自由にお入りください」とあったので洞窟内部へ。

洞窟内には西南戦争の顛末を描いた作品を展示。

そして”Brocente Mercerie Annie”の店舗右隣りに本家本元の西郷隆盛洞窟。城山に立てこもり政府軍に最後まで抵抗した薩軍はわずか300余り、これに対する政府軍は4万。西郷はこの洞窟で5日間を過ごし、わずかな兵を率いて谷を降り最期を迎えた。

現地設置の解説板より。堡塁が残る城山の薩軍陣地跡。西南戦争終結直後に撮影したものだろう。リアリティを存分に感じる。

写真より更にリアリティがあるのは現物。こんな小さな洞穴で偉丈夫の西郷どんが最期の5日間を過ごしたのか…。そんな実感ができただけでも、遠く鹿児島まで来た甲斐があった。

名残り惜しく洞窟を後に。

洞窟から岩崎谷を下る道。舗装道が通され近代的な建物があって当時とは様相を異にしているのだろうが、西郷隆盛は最期の日にここを降りて、命尽きるまで政府軍に立ち向かったのだ。

岩崎谷を通す鹿児島本線の城山トンネル。

トンネル出入口上には西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」。

坂道を下りきった所から西郷隆盛洞窟方面の岩崎谷を望む。

そして、ここが岩崎口にある西郷隆盛終焉の地。

西郷隆盛はこの地で股と腹に被弾し、別府晋介の介錯をもって自刃した。
「晋どん、もうここらでよか」
西郷の声が聞こえてきそうだ。

”西郷隆盛終焉の地”前を走り抜ける鹿児島本線の特急、時代は随分と流れた。
次は鹿児島城を散策に↓
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