蒲原宿
【2017年11月4日(土)旧東海道 由比宿→蒲原宿】

東海道五十三次之内蒲原 夜之雪
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「蒲原宿」より引用
由比宿から江戸方に向かって約4kmも行けば蒲原宿、普通に歩けば1時間程度の距離で、この短い宿間に神沢・堰沢・中・小金といったい街村が町家を連ねていた。蒲原宿は元々海寄りの古屋敷と呼ばれる地にあったが、元禄12年(1699年)の大津波によって壊滅、山側の現在地に移転した。宿内町並み東西14町33間半(約1.6kmm)、天保14年(1843年)当時の人口2480人、家数509軒、うち本陣1、脇本陣3、旅籠屋42軒。京方より西町・柵(しがらみ)町・本町・天王町・八幡町・諏訪町と続く町並み。産物は海魚・食塩・魚油・藍・サメ等、名物は蒲原と吉原宿間の岩淵にあった茶屋で売られた栗の粉餅。広重は「東海道五十三次之内蒲原 夜之雪」の題で、しんしんと雪が降り積もる宿場町の情景を描いている。しかし、蒲原は太平洋駿河湾に面した温暖な地域にあり、雪が降り積もることが皆無に近いという。そのため、広重が描いた蒲原宿が何ゆえ雪景色だったのか、いまだ謎のままで答えは本人にしか知らぬことろなのである。

由比宿を出て東へ。

神沢川酒造場。大正元年(1912年)創業、代表銘柄は”正雪”。
神沢川酒造場
http://www.kanzawagawa.jp/

神沢川酒造場横の神沢川に架かる神沢川橋。

神沢交差点で旧東海道は静岡県道396号に合流。

神沢バイパスの下を潜り抜け。

蒲原神沢を行く旧東海道。

県道396号、神沢バス停。

由比宿と蒲原宿の中間地点に位置するJR蒲原駅。

蒲原中の県道396号、伊豆川酒店付近。

蒲原中の県道396号沿いにある一乗院北向不動尊。

由比小金を行く県道396号。

蒲原新田に入り向田川橋を渡る。

蒲原宿京方出入口の西木戸跡付近から和歌宮神社参道が延びる。

和歌宮神社は万葉歌人三十六歌仙の一人、山部赤人が創建したと伝わる。
田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
山部赤人が詠んだ短歌、小倉百人一首にあり、知る人も多いことだろう。

蒲原宿京方出入口の西木戸跡。手前が京方の県道396号、旧東海道は横断歩道の先を左折、直進方向が元禄12年(1699年)以前の古道で、沿道一帯に古屋敷の字が残っている。また、江戸時代初期に青木の茶屋(茄子屋)があったことから、ここは”茄子屋の辻”とも呼ばれた場所で、承応2年(1653年)高松藩の槍の名人大久保甚太夫と、薩摩藩の大名行列の間で乱闘事件が起きている。

右の小路が古屋敷の古道。

蒲原宿西町の町並み。

西町で鉤の手に曲がる旧東海道。

西町にある増田家。”美しい格子戸の家”として解説板を掲げる。

府中屋付近、柵(しがらみ)町の町並み。

柵(しがらみ)町にある志田家。かつて”ヤマロク”という屋号で味噌・醤油を醸造する商家で、主屋は安政の大地震(1854年)直後に再建、国登録文化財に指定される。

”通り土間一列型”と呼ばれる町家形式の典型が見られる主屋1階。店の間にあたる。ここの御主人、志田威さんから話を聞く機会を得たのだが、志田さんは志田家住宅主屋を管理される一方で、東海道は53次ではなく、江戸日本橋から大坂高麗橋までの57次だったとの説を主張、本を発行し講演会を開催するなど精力的に活動されている。旧東海道を歩く私にとって志田さんの話はとても興味深く、志田さんが執筆された”東海道57次”を購入し読んでみた。日本橋に到着した後は、大津から大阪まで歩いて見たい。
国登録有形文化物・志田邸
http://kanbarasyuku.com/index.html

志田家の醸造場も見学させてもらいました。

夕暮れを迎える志田家。

このモダンな洋風建築は旧五十嵐歯科医院。元々の町家を洋風に増改築した建物で、こういった建築様式を擬洋風建築と呼ぶという。大正3年(1914年)に開業した歯科医院で、元宮内大臣の田中光顕伯爵も通院していた。平成12年に国登録有形文化財に指定。

旧五十嵐歯科医院付近から海側に延びる道は御殿道跡。蒲原宿が元禄12年(1699年)の大津波で現在地へ移転する以前、この辺りには徳川家専用の休泊所である蒲原御殿があったとされる。御殿道は食料や生活用品を湊から運ぶために使われた直通の道だった。蒲原御殿の正確な位置はわかっていないが、海を背にして山を御殿山、ここから海に向かって下る道を御殿道と呼び名残を留める。蒲原御殿は寛永11年(1634年)の徳川家光上洛以降、使われなくなったという。

若宮神社参道入口左側、柵区会館のある場所が高札場跡。

”手づくりガラスと総欅の家”を見出しにする解説板を置く磯部家。この建物は明治42年(1909年)建築で、高級木材の欅を柱や梁に存分に使い、二階の窓ガラスは当時最先端だった建築用材の板ガラスを使用、当時の高級住宅といえよう。

蒲原宿の中心、本町を行く旧東海道。右手前が本町会館、その奥に続く板塀の場所に西本陣平岡家があった。

西本陣平岡家跡。平岡家は明治11年(1878年)に京都へ転居しており、当時の建物を残していないが、跡地に大名が駕籠を置いたとされる御駕籠石が残っているらしい。ここより100m程東に東本陣(多芸家)もあったが江戸時代中期に途絶え、西本陣だけが幕末まで残った。

西本陣平岡家跡(右手前)の向かいには旧旅籠和泉屋(左)が残る。和泉屋は江戸時代に上旅籠で、現存する建物は天保年間(1830年~44年)の建築。

蒲原宿本町と天王町の境、用水路が流れている。

蒲原宿本町・天王町境の用水路上流に椙守稲荷神社が鎮座している。

天王町に入って京方に振り返り。天王町の京方端には問屋場(写真右手)が設けられていた。

天王町にある”しまづふとん店”。

僊菓堂(せんかどう)という屋号で和菓子を作る商家だった吉田家。”商家の面影を残す「塗り家造り」”として解説板を掲げる。なまこ壁を残す家の旧商家の佇まい、美しいの一言。

吉田家前、天王町を行く旧東海道。夕暮れ時の旧宿場は情緒があっていい。

八坂神社参道入口横にある佐藤家。こちらも”なまこ壁”が旧商家らしい雰囲気、元は佐野屋と称する商家だった。防火効果が高い”塗り家造り”という建築様式で、町家に多く見られた。

御殿山麓に鎮座する八坂神社。ここから登山道が延びているので、ちょっとだけ登ってみよう。

御殿山中腹より蒲原市街を望む。

登山道に架けられる”さくら吊り橋”。

蒲原宿に戻って。11月だけに日が暮れはじめると夜の訪れが早い。

渡邊家の土蔵(三階文庫)。渡邊家は「木屋」という屋号で材木商を営み、江戸時代末期に問屋職を務めていた。現存する土蔵は棟札から天保9年(1838年)の建築とされる。

蒲原宿江戸方出入口の東木戸跡。ここで本日の旧東海道歩きは終い。

新蒲原駅へ向かう前に旧東海道を戻り蒲原夜之雪記念碑を見学。ここは広重が描いた蒲原の浮世絵を記念して整備された小公園になっている。

すっかり日が暮れた新蒲原駅から帰途につく。
【旧東海道歩き 第29日目】由比駅→由比宿→蒲原宿→新蒲原駅 歩行距離約10km

東海道五十三次之内蒲原 夜之雪
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「蒲原宿」より引用
由比宿から江戸方に向かって約4kmも行けば蒲原宿、普通に歩けば1時間程度の距離で、この短い宿間に神沢・堰沢・中・小金といったい街村が町家を連ねていた。蒲原宿は元々海寄りの古屋敷と呼ばれる地にあったが、元禄12年(1699年)の大津波によって壊滅、山側の現在地に移転した。宿内町並み東西14町33間半(約1.6kmm)、天保14年(1843年)当時の人口2480人、家数509軒、うち本陣1、脇本陣3、旅籠屋42軒。京方より西町・柵(しがらみ)町・本町・天王町・八幡町・諏訪町と続く町並み。産物は海魚・食塩・魚油・藍・サメ等、名物は蒲原と吉原宿間の岩淵にあった茶屋で売られた栗の粉餅。広重は「東海道五十三次之内蒲原 夜之雪」の題で、しんしんと雪が降り積もる宿場町の情景を描いている。しかし、蒲原は太平洋駿河湾に面した温暖な地域にあり、雪が降り積もることが皆無に近いという。そのため、広重が描いた蒲原宿が何ゆえ雪景色だったのか、いまだ謎のままで答えは本人にしか知らぬことろなのである。

由比宿を出て東へ。

神沢川酒造場。大正元年(1912年)創業、代表銘柄は”正雪”。
神沢川酒造場
http://www.kanzawagawa.jp/

神沢川酒造場横の神沢川に架かる神沢川橋。

神沢交差点で旧東海道は静岡県道396号に合流。

神沢バイパスの下を潜り抜け。

蒲原神沢を行く旧東海道。

県道396号、神沢バス停。

由比宿と蒲原宿の中間地点に位置するJR蒲原駅。

蒲原中の県道396号、伊豆川酒店付近。

蒲原中の県道396号沿いにある一乗院北向不動尊。

由比小金を行く県道396号。

蒲原新田に入り向田川橋を渡る。

蒲原宿京方出入口の西木戸跡付近から和歌宮神社参道が延びる。

和歌宮神社は万葉歌人三十六歌仙の一人、山部赤人が創建したと伝わる。
田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
山部赤人が詠んだ短歌、小倉百人一首にあり、知る人も多いことだろう。

蒲原宿京方出入口の西木戸跡。手前が京方の県道396号、旧東海道は横断歩道の先を左折、直進方向が元禄12年(1699年)以前の古道で、沿道一帯に古屋敷の字が残っている。また、江戸時代初期に青木の茶屋(茄子屋)があったことから、ここは”茄子屋の辻”とも呼ばれた場所で、承応2年(1653年)高松藩の槍の名人大久保甚太夫と、薩摩藩の大名行列の間で乱闘事件が起きている。

右の小路が古屋敷の古道。

蒲原宿西町の町並み。

西町で鉤の手に曲がる旧東海道。

西町にある増田家。”美しい格子戸の家”として解説板を掲げる。

府中屋付近、柵(しがらみ)町の町並み。

柵(しがらみ)町にある志田家。かつて”ヤマロク”という屋号で味噌・醤油を醸造する商家で、主屋は安政の大地震(1854年)直後に再建、国登録文化財に指定される。

”通り土間一列型”と呼ばれる町家形式の典型が見られる主屋1階。店の間にあたる。ここの御主人、志田威さんから話を聞く機会を得たのだが、志田さんは志田家住宅主屋を管理される一方で、東海道は53次ではなく、江戸日本橋から大坂高麗橋までの57次だったとの説を主張、本を発行し講演会を開催するなど精力的に活動されている。旧東海道を歩く私にとって志田さんの話はとても興味深く、志田さんが執筆された”東海道57次”を購入し読んでみた。日本橋に到着した後は、大津から大阪まで歩いて見たい。
国登録有形文化物・志田邸
http://kanbarasyuku.com/index.html

志田家の醸造場も見学させてもらいました。

夕暮れを迎える志田家。

このモダンな洋風建築は旧五十嵐歯科医院。元々の町家を洋風に増改築した建物で、こういった建築様式を擬洋風建築と呼ぶという。大正3年(1914年)に開業した歯科医院で、元宮内大臣の田中光顕伯爵も通院していた。平成12年に国登録有形文化財に指定。

旧五十嵐歯科医院付近から海側に延びる道は御殿道跡。蒲原宿が元禄12年(1699年)の大津波で現在地へ移転する以前、この辺りには徳川家専用の休泊所である蒲原御殿があったとされる。御殿道は食料や生活用品を湊から運ぶために使われた直通の道だった。蒲原御殿の正確な位置はわかっていないが、海を背にして山を御殿山、ここから海に向かって下る道を御殿道と呼び名残を留める。蒲原御殿は寛永11年(1634年)の徳川家光上洛以降、使われなくなったという。

若宮神社参道入口左側、柵区会館のある場所が高札場跡。

”手づくりガラスと総欅の家”を見出しにする解説板を置く磯部家。この建物は明治42年(1909年)建築で、高級木材の欅を柱や梁に存分に使い、二階の窓ガラスは当時最先端だった建築用材の板ガラスを使用、当時の高級住宅といえよう。

蒲原宿の中心、本町を行く旧東海道。右手前が本町会館、その奥に続く板塀の場所に西本陣平岡家があった。

西本陣平岡家跡。平岡家は明治11年(1878年)に京都へ転居しており、当時の建物を残していないが、跡地に大名が駕籠を置いたとされる御駕籠石が残っているらしい。ここより100m程東に東本陣(多芸家)もあったが江戸時代中期に途絶え、西本陣だけが幕末まで残った。

西本陣平岡家跡(右手前)の向かいには旧旅籠和泉屋(左)が残る。和泉屋は江戸時代に上旅籠で、現存する建物は天保年間(1830年~44年)の建築。

蒲原宿本町と天王町の境、用水路が流れている。

蒲原宿本町・天王町境の用水路上流に椙守稲荷神社が鎮座している。

天王町に入って京方に振り返り。天王町の京方端には問屋場(写真右手)が設けられていた。

天王町にある”しまづふとん店”。

僊菓堂(せんかどう)という屋号で和菓子を作る商家だった吉田家。”商家の面影を残す「塗り家造り」”として解説板を掲げる。なまこ壁を残す家の旧商家の佇まい、美しいの一言。

吉田家前、天王町を行く旧東海道。夕暮れ時の旧宿場は情緒があっていい。

八坂神社参道入口横にある佐藤家。こちらも”なまこ壁”が旧商家らしい雰囲気、元は佐野屋と称する商家だった。防火効果が高い”塗り家造り”という建築様式で、町家に多く見られた。

御殿山麓に鎮座する八坂神社。ここから登山道が延びているので、ちょっとだけ登ってみよう。

御殿山中腹より蒲原市街を望む。

登山道に架けられる”さくら吊り橋”。

蒲原宿に戻って。11月だけに日が暮れはじめると夜の訪れが早い。

渡邊家の土蔵(三階文庫)。渡邊家は「木屋」という屋号で材木商を営み、江戸時代末期に問屋職を務めていた。現存する土蔵は棟札から天保9年(1838年)の建築とされる。

蒲原宿江戸方出入口の東木戸跡。ここで本日の旧東海道歩きは終い。

新蒲原駅へ向かう前に旧東海道を戻り蒲原夜之雪記念碑を見学。ここは広重が描いた蒲原の浮世絵を記念して整備された小公園になっている。

すっかり日が暮れた新蒲原駅から帰途につく。
【旧東海道歩き 第29日目】由比駅→由比宿→蒲原宿→新蒲原駅 歩行距離約10km

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