人も景色も 忙しそうに 年末だから あーあ♪
ユニコーンの「雪が降る街」がラジオから流れる師走の12月27日、旭川へ帰郷の途次に大好きな街の函館に。今回も年末恒例のタラバガニを仕入れ、ウニにイカ、そしてハセストの”やきとり弁当”に舌鼓を打ち、常宿としている湯の川のホテルで温泉につかり疲れを癒す。私にとってはこれが贅沢で至福なひと時なのである。今回の函館では昭和63年(1988年)青函トンネルの開通に伴い廃止になった青函連絡船の痕跡を訪ねてみたい。
青函連絡船は船内に線路を敷いて貨車や客車をそのまま積み込めたことがフェリーとは一線を画す特長、函館駅と青森駅を繋いだ一言で表すならば”海の鉄道”である。その歴史のはじまりは明治41年(1908)年3月、帝国鉄道庁(後の国鉄)が比羅夫丸を就航させ、翌月に田村丸が就航して2隻体制で函館~青森間を繋いだ定期航路にある。当時は旅客や貨物を小蒸気船や艀(はしけ)に乗せ本船に移していたことから、効率が悪いうえに危険の伴う作業を強いられた。後に北海道の開拓事業が本格化したことで輸送力の増強に迫られ、大正13年(1924年)船に鉄道車両を直接積み込める車載客船”翔鳳丸”が就航、翌年から車両航送が定期運行となり、本州と北海道を繋いだ”海の鉄道”はここに原形が誕生したと言ってよいだろう。
戦時中にも輸送力増強を図るべく車載客船や貨物船が次々と就航して12隻体制となるが、昭和20年(1945年)7月にアメリカ軍の空襲を受けて客船4隻、貨物船6隻が沈没、更に翌月にも空襲があって青函連絡船はほぼ全滅した。太平洋戦争の終結から2年後の同22年(1947年)、戦後復興の最中に車載客船の洞爺丸が就航、続いて羊蹄丸・摩周丸・大雪丸の同型船が就航して青函連絡船は復活を遂げる。しかし冷や水を浴びせるがごとく、同29年(1954年)に台風15号が日本列島を襲う。この台風は未曽有の猛威を振るい、洞爺丸をはじめ貨物船4隻を沈没させ、死者1361名、行方不明者400名にものぼる大災害となった。特に洞爺丸沈没では死亡・行方不明者が1155名にものぼる最大の惨事となり、「洞爺丸台風」と呼ばれる所以に。
洞爺丸台風による被害を教訓にして昭和39年(1964年)装備を改めた車載客船の津軽丸(二代目)が就航、続いて八甲田丸や松前丸(二代目)等、車載客船6隻と貨物船6隻が新たに就航して青函連絡船は全盛を迎える。しかし同46年(1971年)をピークに貨物量が減少、旅客数も同48年(1973年)から右肩下がりとなり斜陽の時代を迎え、同63年(1988年)青函トンネルが開通したことでその役目を譲ることになり、80年に及ぶ青函連絡船の歴史は幕を下ろした。

上野駅から東北・北海道新幹線を使って昼前に函館駅到着。1年ぶりに、はるばる来たぜ。去年同時期には全く積雪が無く驚いたことを記憶しているが、今冬はしっかり雪景色。

朝市に寄って函館駅から青函連絡船が発着していた函館桟橋へ向かう。

函館桟橋の第二岸壁に停泊する摩周丸。現在は函館市青函連絡船記念館になっている。摩周丸手前にある門型の構造物は可動橋、上下前後に揺れる連絡船に合わせて動くレールを敷いた中継の橋で、陸の鉄路と海上の船を繋ぐ役割を果たした。今にも旅客や鉄道車両を積み終えて出航しそうな雰囲気に感動。

第二岸壁に停泊する摩周丸。往時この岸壁には船客待合室や送迎所が設けられていた。ここに来ると本当に青函連絡船に乗船して青森へ行く気分になり、否応なく期待が高まってしまう。

運賃ではなく入館料500円を支払い摩周丸乗船口に。

2階の出入口広間。元々は2等(普通)の出入口広間、現在は船内側(写真右手)が壁で仕切られているが、現役時代は階段右手から2等(普通)の座席や椅子席に繋がっていた。

出入口広間に展示する”補助汽船の錨”と煙突に付けられていた”JNR”と”JR”のマーク。

出入口広間から階段を上がり3階ロビーへ。懐かしいポスターを掲示。

青函連絡船の旅ポスター。「花道に雪が降る」、旅情をそそる実に良いポスターだ。こんなポスターが今に貼られていたら、迷わず青函連絡船に乗りに行きたいと思う。早くて安くが主流である現代の旅に逆行するのだろうが、交通機関を主役にしたこんなポスターが駅にあればいいなと、つくづく思う。

歴代の青函連絡船を紹介するポスター。

3階ロビーから展示室を望む。3階ロビーは1等(グリーン)出入口広間だった場所で、奥の展示室が1等(グリーン)指定椅子席だった。

1等(グリーン)指定椅子席を改装した展示室。青函連絡船の歴史を紹介するパネルや当時の椅子席、青函連絡船の模型等を展示する。

青函連絡船と可動橋をジオラマにしたプラレール。

普通椅子席(手前)とグリーン指定椅子席(奥)。普通椅子席は二人掛け、グリーンになると一人掛けの椅子に座れた。

往時の普通椅子席。

寝台室にあった飾り毛布。ボーイが季節に合わせた題材で毛布を折りあげ乗客を迎えた。これは”大輪”と呼ばれる折り方で、使うのがためらわれる程の出来栄え。

青函連絡船関連の切符や乗船証明書。

摩周丸初代模型。4本の煙突にある「工」のマークは、当初の所管官庁である工部省の「工」から採られている。

摩周丸二代目模型。煙突のマークは「JNR」に。これは「Japanese National Railways」の略称、つまり日本国有鉄道のこと。

乗務員制服。真ん中にあるのが乗客案内や観光案内等、接客を担当したマリンガールの制服。昭和55年(1980年)から夏季限定で乗務し、同62年(1987年)まで続けられた。

3階船頭部のサロン(無料休憩所)。元々は寝台室があった場所で、最前部に船員室があった。

サロンより函館山を望む。

函館人気の撮影スポット、八幡坂。

元々は1等(グリーン)指定椅子席だった展示室。連絡船の模型や装備品等を展示。

摩周丸スタンプ。

比羅夫丸模型。日本初の蒸気タービン船で、帝国鉄道庁(後の国鉄)がはじめて就航させた青函連絡船。

十和田丸(手前)と八甲田丸(奥)の模型。

3階展示室から4階に。

無線通信室。

ブラタモリでタモリさんが無線通信室に訪れたときの様子が紹介されている。

椅子に座り乗務員の目線で。

そしてここが船橋(操舵室)。結構広々とした空間。

室内中央に設けられる操舵席。

船橋(操舵室)正面窓下に設ける緊急投錨用の操作スタンド。

船橋(操舵室)正面窓より船楼甲板と遠く函館山を望む。

手前の装置はジャイロコンパス。解説によれば「高速で回転するこま(ジャイロ)の軸が一定方向を示す性質を利用したもので、地球の自転による調整で磁石や鉄材に影響されずにコンパスが真北を示すしくみになっています。」とある。原理がイマイチ理解できていないのだが、とにかくどんな時にも真北を向いているコンパスということ。

4階デッキ(航海甲板)。冬場は立ち入れません。

JNRマークの煙突下にある船室。現在は多目的ホールになっている。

多目的ホールに復元された2等(普通)座席。

航海甲板後部。可変ピッチプロペラの実物を展示する。

摩周丸横(海側)では新たな岸壁の設置工事中。

これが岸壁改良工事の完成予想図。岸壁で摩周丸を囲み、波を受けないようにすることが目的なのか。

摩周丸から下船。

陸の鉄路と海上の青函連絡船を繋いだ可動橋。船に鉄道車両を載せるためにはなくてはならない装置。

摩周丸と可動橋。

第二岸壁への引込線跡。かつては可動橋に向かって線路が延びていた。

摩周丸と函館山。

函館駅から摩周丸方面、乗船通路跡を望む。青函連絡船廃止から29年が経ち、随分と景観も変わったのだろう。

函館駅の南側出入口にある初代函館駅所在地の碑。

かつての乗船通路や引込線があった敷地は駐車場や道路に改変てしまった。

摩周丸夜景。

幻想的な摩周丸に寒さを忘れて見入ってしまう。

摩周丸から離れて東浜桟橋(復元)に。ここは青函連絡船の就航初期に用いられた桟橋、当時の連絡船は接岸することができなく沖に停泊していたので、旅客は艀(はしけ)と呼ばれる小船を使って乗下船していた。

今回の函館散策の最後に八幡坂へ。

八幡坂より摩周丸を望み。
撮影日:2017年12月27日(水)
テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行