富士川の渡し
【2018年2月11日(日)旧東海道 蒲原宿→吉原宿】
新坂下の中之郷から旧東海道を江戸方へ進み岩淵に。富士川右岸に位置する岩淵には富士川渡河の渡船場があり、東海道筋には名産の”栗ノ粉餅”を売る茶店が建ち並んだ。また、当地は蒲原宿と吉原宿の中間地点にあたり、富士川の川越えを控えたことから、往来の大名や家臣等が休泊する小休本陣(立場本陣)と脇本陣が設けられ、宿場に劣らぬ間の宿として栄えた。
信濃・甲斐の深い山中から駿河を流れて駿河湾に注ぐ富士川。下流へ水と共に土砂を多量に運び、河口部の駿河流域では川底が浅くなって川幅が広がり、古くから急流の大河として知られた。富士川を渡河する東海道には江戸時代を通して橋が架けられず、渡船により旅人を往来させていた。万治年間(1658年~61年)刊行の東海道名所記によれば、「富士川ハ、吉原と神原との真中なり。大河にして、水、はなハだ、はやし。本朝に、名を得たる大河ハ、あまたあれども、こと更、此川は、海道第一のはや川なり。舟にのりて渡るに、渡し守ちからをいだして、さほをさし。櫓をゝしていだす。岸の上よりミれバ。あはや、この舟、水底へづぶりとしづミけるよと、おもへど。さもなくて。こぎ行舟の中にある人ハ、目まひ、肝きゆる心地して。腹は背につき、手をにぎりて。やうやう岸につく。」とあり、往来の旅人は命がけで渡河していたことがわかろう。

岩淵相生町に入り、旧東海道は富士川第一小学校南側辺で大きく南から東へ曲がる。

富士川第一小学校を過ぎて間もなく、西(京方)から北(江戸方)へ曲折する旧東海道筋に岩淵一里塚が現存。江戸日本橋から37里(約145km)、京三条大橋からは78番目で実測約372km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

往時より規模は小さくなっているのだろうが、両塚が現存する岩淵一里塚。これは見ごたえあり。

光福山新豊院。正治元年(1199年)真言宗の光明山心包院として開創、天文4年(1535年)曹洞宗に改宗し、延宝7年(1679年)伽藍が整備され現寺号に改められた。

新豊院参道入口横に建つ相生町公民館。

新豊院門前にある秋葉山常夜燈。享和3年(1803年)建立、”岩淵河岸 久保町”と刻む。

岩淵相生町と岩淵上町の境、旧東海道から西へ延びる八坂神社参道。

岩淵上町に入って行く手には富士山がでんと!

岩淵上町の旧東海道筋にある小休本陣常盤家住宅。常盤弥兵衛家は代々渡船名主を務めた家柄で、慶長7年(1602年)富士川東岸川成島から西岸の岩淵村に渡船役が代えられたとき、東岸の河東から移住して後に小休本陣を兼務するように。宝永4年(1707年)宝永地震により岩淵にあった町家の大半が倒壊、東海道が付替えられ岩淵の町も所替えとなり、常盤家は現在地に移った。

無料公開中とのこと。ここにしばし時間を割こう。

現存する主屋は安政東海大地震(1854年)後、安政3年以降の早い時期に再建されたと考えられている。

ボランティアのガイドさんから説明を聞きながら内部を見学。まずは通り土間と台所。

風呂場。こんな風呂に入って一夜を過ごしてみたい。

いろりの部屋。

大名や公家など、身分の高い人が休憩した上段の間。

主屋内部の見学を終えて外に。ボランティアガイドさんの説明を聞きながらの見学は有意義な時間だった。

客室の上段の間・奥の部屋に隣接する縁側。

敷地内にある”常盤家のイヌマキ”。宝永地震後の移転に伴いこのイヌマキが庭木として植えられた。ということは樹齢300年くらいなのだろう。

小休本陣常盤家から少し北(江戸方)、岩淵上町に残る曲尺手(枡形)。旧東海道の道筋が連続して曲折している。ボランティアガイドさんによれば曲がり角(写真右手)に脇本陣があったとのこと。

岩淵上町の曲尺手(枡形)。

岩淵上町に残る秋葉山常夜燈。

旧東海道はここで右に曲折、富士川岸へ向かって坂を下る。

富士川岸へ向かう下り坂。

下り坂の先、行く手を阻む富士川。

坂の途中から右に愛鷹山、左に富士山を望み、下を富士川が流れる壮大な眺め。富士山が雲に隠れててっぺんしか見えていないのが残念。

富士川岸の坂下に。

富士川の渡し跡に架かる富士川橋。こちら富士川右岸(岩淵)側の渡船場は富士川橋上流付近と更に上流部の2ヶ所、対岸(松岡)側には上流から上船居・中船居・下船居と呼ぶ3ヶ所の渡船場が設けられていた。上船居・中船居は中州まで徒歩渡しだったため一般人が多く利用、下船居は舟渡しのみで渡河できたことから主に身分の高い大名や公家等が利用した。

富士川岩淵の渡船場跡。現在は静岡県道10号が川岸を通り往時の面影は残さない。

富士川橋より上流方向、富士山を望み。

富士川橋上流側に設けられる四ヶ郷頭首工。富士川の水を四ヶ郷用水に取入れるための施設で、固定堰の長さは300m以上にも及ぶ。

固定堰の左岸側に設ける排砂門。その右にこんもりと茂る森は水神社が鎮座する”水神の森”、かつては下流方向(写真手前)にかけて森が続いていたはずだが、国道1号(現 静岡県道396号)が通されたことで南側の森が失われている。

水神社参道入口。国道1号(現 静岡県道396号)が通されるまではもっと南側に入口があったはず。

現地解説板より引用
富士川と水神社の様子『東海便覧図略より』

現地解説板より引用
富士川の渡し場の様子『東海道名所図会より』

水神社社殿。古くから水害水難を防ぐ神として崇敬を集めた。

水神社境内、水神の森。東海道名所図会に「富士川の右の山際にあり、岩上には松柏が生い茂れり」と記される。往時にはもっと南側に大きな敷地を持っていたはず。

水神社に残る常夜燈。岩本村(現 富士市松岡)六番船方講中による建立。江戸時代に岩本村は富士川の渡船役を務めた。

富士川橋東詰、県道396号の南側に残る旧道。この道は明治期に通された東海道の新道の名残りと思われる。

富士川橋下。東海道の富士川渡河は明治9年(1876年)は夏が渡船、冬を有料木橋の通行となり、永久橋が架けられるのは富士川橋が完成する大正13年(1924年)まで待たねばならなかった。

富士川左岸より対岸側岩淵の渡船場跡を望む。

富士川橋東詰、県道396号の南側に残る明治期の旧道(吉原方面)。

県道396号と明治期の旧道合流点にある水神窯。

県道396号沿いにある明治天皇御小休所阯碑。
日本三大急流の一つの難所、富士川を越えた。富士山を仰ぎ見ながら吉原宿へ向かおう。
新坂下の中之郷から旧東海道を江戸方へ進み岩淵に。富士川右岸に位置する岩淵には富士川渡河の渡船場があり、東海道筋には名産の”栗ノ粉餅”を売る茶店が建ち並んだ。また、当地は蒲原宿と吉原宿の中間地点にあたり、富士川の川越えを控えたことから、往来の大名や家臣等が休泊する小休本陣(立場本陣)と脇本陣が設けられ、宿場に劣らぬ間の宿として栄えた。
信濃・甲斐の深い山中から駿河を流れて駿河湾に注ぐ富士川。下流へ水と共に土砂を多量に運び、河口部の駿河流域では川底が浅くなって川幅が広がり、古くから急流の大河として知られた。富士川を渡河する東海道には江戸時代を通して橋が架けられず、渡船により旅人を往来させていた。万治年間(1658年~61年)刊行の東海道名所記によれば、「富士川ハ、吉原と神原との真中なり。大河にして、水、はなハだ、はやし。本朝に、名を得たる大河ハ、あまたあれども、こと更、此川は、海道第一のはや川なり。舟にのりて渡るに、渡し守ちからをいだして、さほをさし。櫓をゝしていだす。岸の上よりミれバ。あはや、この舟、水底へづぶりとしづミけるよと、おもへど。さもなくて。こぎ行舟の中にある人ハ、目まひ、肝きゆる心地して。腹は背につき、手をにぎりて。やうやう岸につく。」とあり、往来の旅人は命がけで渡河していたことがわかろう。

岩淵相生町に入り、旧東海道は富士川第一小学校南側辺で大きく南から東へ曲がる。

富士川第一小学校を過ぎて間もなく、西(京方)から北(江戸方)へ曲折する旧東海道筋に岩淵一里塚が現存。江戸日本橋から37里(約145km)、京三条大橋からは78番目で実測約372km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

往時より規模は小さくなっているのだろうが、両塚が現存する岩淵一里塚。これは見ごたえあり。

光福山新豊院。正治元年(1199年)真言宗の光明山心包院として開創、天文4年(1535年)曹洞宗に改宗し、延宝7年(1679年)伽藍が整備され現寺号に改められた。

新豊院参道入口横に建つ相生町公民館。

新豊院門前にある秋葉山常夜燈。享和3年(1803年)建立、”岩淵河岸 久保町”と刻む。

岩淵相生町と岩淵上町の境、旧東海道から西へ延びる八坂神社参道。

岩淵上町に入って行く手には富士山がでんと!

岩淵上町の旧東海道筋にある小休本陣常盤家住宅。常盤弥兵衛家は代々渡船名主を務めた家柄で、慶長7年(1602年)富士川東岸川成島から西岸の岩淵村に渡船役が代えられたとき、東岸の河東から移住して後に小休本陣を兼務するように。宝永4年(1707年)宝永地震により岩淵にあった町家の大半が倒壊、東海道が付替えられ岩淵の町も所替えとなり、常盤家は現在地に移った。

無料公開中とのこと。ここにしばし時間を割こう。

現存する主屋は安政東海大地震(1854年)後、安政3年以降の早い時期に再建されたと考えられている。

ボランティアのガイドさんから説明を聞きながら内部を見学。まずは通り土間と台所。

風呂場。こんな風呂に入って一夜を過ごしてみたい。

いろりの部屋。

大名や公家など、身分の高い人が休憩した上段の間。

主屋内部の見学を終えて外に。ボランティアガイドさんの説明を聞きながらの見学は有意義な時間だった。

客室の上段の間・奥の部屋に隣接する縁側。

敷地内にある”常盤家のイヌマキ”。宝永地震後の移転に伴いこのイヌマキが庭木として植えられた。ということは樹齢300年くらいなのだろう。

小休本陣常盤家から少し北(江戸方)、岩淵上町に残る曲尺手(枡形)。旧東海道の道筋が連続して曲折している。ボランティアガイドさんによれば曲がり角(写真右手)に脇本陣があったとのこと。

岩淵上町の曲尺手(枡形)。

岩淵上町に残る秋葉山常夜燈。

旧東海道はここで右に曲折、富士川岸へ向かって坂を下る。

富士川岸へ向かう下り坂。

下り坂の先、行く手を阻む富士川。

坂の途中から右に愛鷹山、左に富士山を望み、下を富士川が流れる壮大な眺め。富士山が雲に隠れててっぺんしか見えていないのが残念。

富士川岸の坂下に。

富士川の渡し跡に架かる富士川橋。こちら富士川右岸(岩淵)側の渡船場は富士川橋上流付近と更に上流部の2ヶ所、対岸(松岡)側には上流から上船居・中船居・下船居と呼ぶ3ヶ所の渡船場が設けられていた。上船居・中船居は中州まで徒歩渡しだったため一般人が多く利用、下船居は舟渡しのみで渡河できたことから主に身分の高い大名や公家等が利用した。

富士川岩淵の渡船場跡。現在は静岡県道10号が川岸を通り往時の面影は残さない。

富士川橋より上流方向、富士山を望み。

富士川橋上流側に設けられる四ヶ郷頭首工。富士川の水を四ヶ郷用水に取入れるための施設で、固定堰の長さは300m以上にも及ぶ。

固定堰の左岸側に設ける排砂門。その右にこんもりと茂る森は水神社が鎮座する”水神の森”、かつては下流方向(写真手前)にかけて森が続いていたはずだが、国道1号(現 静岡県道396号)が通されたことで南側の森が失われている。

水神社参道入口。国道1号(現 静岡県道396号)が通されるまではもっと南側に入口があったはず。

現地解説板より引用
富士川と水神社の様子『東海便覧図略より』

現地解説板より引用
富士川の渡し場の様子『東海道名所図会より』

水神社社殿。古くから水害水難を防ぐ神として崇敬を集めた。

水神社境内、水神の森。東海道名所図会に「富士川の右の山際にあり、岩上には松柏が生い茂れり」と記される。往時にはもっと南側に大きな敷地を持っていたはず。

水神社に残る常夜燈。岩本村(現 富士市松岡)六番船方講中による建立。江戸時代に岩本村は富士川の渡船役を務めた。

富士川橋東詰、県道396号の南側に残る旧道。この道は明治期に通された東海道の新道の名残りと思われる。

富士川橋下。東海道の富士川渡河は明治9年(1876年)は夏が渡船、冬を有料木橋の通行となり、永久橋が架けられるのは富士川橋が完成する大正13年(1924年)まで待たねばならなかった。

富士川左岸より対岸側岩淵の渡船場跡を望む。

富士川橋東詰、県道396号の南側に残る明治期の旧道(吉原方面)。

県道396号と明治期の旧道合流点にある水神窯。

県道396号沿いにある明治天皇御小休所阯碑。
日本三大急流の一つの難所、富士川を越えた。富士山を仰ぎ見ながら吉原宿へ向かおう。

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