吉原宿
【2018年2月11日(日)旧東海道 吉原宿】

東海道五十三次之内吉原 左富士
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「吉原宿」より引用
西に日本三大急流の一つ、富士川の難所が控える吉原宿。宿場成立当時は富士川が注ぐ駿河湾を南にして立地していたが、寛永16年(1639年)と延宝8年(1680年)に高潮の被害に遭い、内陸から内陸へと2度の移転を余儀なくされている。当初の宿場地を元吉原(JR吉原駅付近)、1639~80年までの宿場地を中吉原(富士市依田原付近)と称し、今に言われる吉原宿は明治初期まで続いた富士市中央町・吉原(吉原商店街)の一帯にあたり、新吉原と呼び分けている。
吉原宿は江戸日本橋から東海道五十三次を14宿目、京都三条大橋から40宿目。宿内町並み東西12町10間(約1.3km)、天保14年(1843年)当時の人口2832人、家数653軒、うち本陣2、脇本陣3、旅籠屋60軒。京方から追分町・追分中町・伝馬町・西横町・西本町・本町・東本町・東横町・東町と続く町並み。名物は鰻、白酒、葱雑炊など。広重は「東海道五十三次之内吉原 左富士」の題で、宿場東(江戸方)外れの低湿地帯を行く東海道の場景と、遠景に吉原最大の見所”左富士”を描いている。

志軒橋を渡れば吉原宿。

志軒橋東詰、ここが吉原宿京方出入口の西木戸跡。左折する道は興法寺(富士宮市村山)への旧参道(村山道)。

出水屋商店前の一角に西仲町バス停。この辺りは吉原宿の追分中町にあたる。

旧追分仲町と旧伝馬町境の北側に鎮座する木之元神社。元吉原から中吉原への移転時、鈴川の木之元神社(江戸時代に木元権現社と称す、現 富士市鈴川東町)から分霊し中吉原に祀ったことに始まる。鎮座地は中吉原の宿場西方にあった慈眼寺(廃寺)門前だったという。新吉原への移転に伴い慈眼寺と共に遷座、後に神社の扱いをめぐって慈眼寺と町民の間で争いがあり鎮座地を転々、昭和30年代になって現在地に移された。

藤波酒店前、旧伝馬町を行く旧東海道。

旧東海道は左(京方)から奥(江戸方)に曲がる。ここが旧伝馬町と旧西横町の境。

旧伝馬町・西横町の境から南に延びる妙祥寺参道。

西横町の旧東海道(静岡県道22号)を進み吉原本町通りで右折。その曲折地点が西横町と西本町の境だった。

吉原本町通り、旧西本町にある鯛屋旅館。ここの前身は旅籠の鯛屋與三郎。

吉原本町バス停。

栗清肉店横、高砂館跡に置く明治天皇御小休所碑。

吉原本町通り(旧東海道)から延びる天神社参道。

江戸初期の元吉原宿時代から総鎮守として祀られていた天神社。現在は吉原3丁目に鎮座している。

吉原本町通り(旧東海道)が斜め30度程に曲がる交差点。ここが旧東本町と旧東横町の境で、写真は東横町側より京方を望む。

岳南電車吉原本町駅前の踏切を渡る。

吉原本町駅近く、吉原本町通り(旧東海道)路傍に設置する解説板より。本陣や脇本陣等の跡地を示す地図。吉原宿は町並みに宿場の面影を残していないうえ、本陣や脇本陣等の跡地を示すものが無い。これが貴重な手掛かりになる。

吉原本町駅。改札横にガチャガチャ、せっかくなので。モハ8001の缶バッジゲット!

吉原宿江戸方出入口の東木戸跡。写真は木戸跡より宿内方向、右路傍に「見よう歩こう富士市の東海道」の東木戸跡標柱が設置されている。

東木戸跡付近に鎮座する依田原山神社。依田原の氏神。ここで本日の旧東海道歩きは終わり。宿内に踵を返し少しだけ本陣や脇本陣跡を確認しておこう。

再び吉原本町駅に。

ちょうど吉原本町駅に岳南電車が進入。

吉原本町駅に停車する岳南電車。

再び旧東本町・東横町境の交差点。

ノグチカメラ店(富士市吉原2丁目)がある場所は、脇本陣・野口祖右衛門家跡。おそらく子孫の方が経営されているのだろう。

近藤薬局付近一帯が下本陣の長谷川八郎兵衛家跡。跡地を示すものが何もないので、事前学習しておかないと普通に通り過ぎてしまう。

脇本陣の銭屋矢部清兵衛家跡。現在の南岳堂菓子舗辺り。

日も暮れた、岳南電車・吉原本町駅から家に帰ろう。

吉原本町駅から吉原駅へ移動。ホームでは”富士山の日”ヘッドマークが付けられた岳南電車が出発を待つ。

何だか懐かしさを感じる硬券切符。

岳南電車吉原駅の夜景。

JR吉原駅から東海道本線を上り三島駅へ。三島駅から東海道新幹線こだまの東京行きに乗り換え、三島駅で買った源氏旗揚げ寿司に舌鼓を打ちながら帰途につく。
【旧東海道歩き 第30日目】新蒲原駅→蒲原宿→吉原宿→吉原本町駅 歩行距離約16km

東海道五十三次之内吉原 左富士
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「吉原宿」より引用
西に日本三大急流の一つ、富士川の難所が控える吉原宿。宿場成立当時は富士川が注ぐ駿河湾を南にして立地していたが、寛永16年(1639年)と延宝8年(1680年)に高潮の被害に遭い、内陸から内陸へと2度の移転を余儀なくされている。当初の宿場地を元吉原(JR吉原駅付近)、1639~80年までの宿場地を中吉原(富士市依田原付近)と称し、今に言われる吉原宿は明治初期まで続いた富士市中央町・吉原(吉原商店街)の一帯にあたり、新吉原と呼び分けている。
吉原宿は江戸日本橋から東海道五十三次を14宿目、京都三条大橋から40宿目。宿内町並み東西12町10間(約1.3km)、天保14年(1843年)当時の人口2832人、家数653軒、うち本陣2、脇本陣3、旅籠屋60軒。京方から追分町・追分中町・伝馬町・西横町・西本町・本町・東本町・東横町・東町と続く町並み。名物は鰻、白酒、葱雑炊など。広重は「東海道五十三次之内吉原 左富士」の題で、宿場東(江戸方)外れの低湿地帯を行く東海道の場景と、遠景に吉原最大の見所”左富士”を描いている。

志軒橋を渡れば吉原宿。

志軒橋東詰、ここが吉原宿京方出入口の西木戸跡。左折する道は興法寺(富士宮市村山)への旧参道(村山道)。

出水屋商店前の一角に西仲町バス停。この辺りは吉原宿の追分中町にあたる。

旧追分仲町と旧伝馬町境の北側に鎮座する木之元神社。元吉原から中吉原への移転時、鈴川の木之元神社(江戸時代に木元権現社と称す、現 富士市鈴川東町)から分霊し中吉原に祀ったことに始まる。鎮座地は中吉原の宿場西方にあった慈眼寺(廃寺)門前だったという。新吉原への移転に伴い慈眼寺と共に遷座、後に神社の扱いをめぐって慈眼寺と町民の間で争いがあり鎮座地を転々、昭和30年代になって現在地に移された。

藤波酒店前、旧伝馬町を行く旧東海道。

旧東海道は左(京方)から奥(江戸方)に曲がる。ここが旧伝馬町と旧西横町の境。

旧伝馬町・西横町の境から南に延びる妙祥寺参道。

西横町の旧東海道(静岡県道22号)を進み吉原本町通りで右折。その曲折地点が西横町と西本町の境だった。

吉原本町通り、旧西本町にある鯛屋旅館。ここの前身は旅籠の鯛屋與三郎。

吉原本町バス停。

栗清肉店横、高砂館跡に置く明治天皇御小休所碑。

吉原本町通り(旧東海道)から延びる天神社参道。

江戸初期の元吉原宿時代から総鎮守として祀られていた天神社。現在は吉原3丁目に鎮座している。

吉原本町通り(旧東海道)が斜め30度程に曲がる交差点。ここが旧東本町と旧東横町の境で、写真は東横町側より京方を望む。

岳南電車吉原本町駅前の踏切を渡る。

吉原本町駅近く、吉原本町通り(旧東海道)路傍に設置する解説板より。本陣や脇本陣等の跡地を示す地図。吉原宿は町並みに宿場の面影を残していないうえ、本陣や脇本陣等の跡地を示すものが無い。これが貴重な手掛かりになる。

吉原本町駅。改札横にガチャガチャ、せっかくなので。モハ8001の缶バッジゲット!

吉原宿江戸方出入口の東木戸跡。写真は木戸跡より宿内方向、右路傍に「見よう歩こう富士市の東海道」の東木戸跡標柱が設置されている。

東木戸跡付近に鎮座する依田原山神社。依田原の氏神。ここで本日の旧東海道歩きは終わり。宿内に踵を返し少しだけ本陣や脇本陣跡を確認しておこう。

再び吉原本町駅に。

ちょうど吉原本町駅に岳南電車が進入。

吉原本町駅に停車する岳南電車。

再び旧東本町・東横町境の交差点。

ノグチカメラ店(富士市吉原2丁目)がある場所は、脇本陣・野口祖右衛門家跡。おそらく子孫の方が経営されているのだろう。

近藤薬局付近一帯が下本陣の長谷川八郎兵衛家跡。跡地を示すものが何もないので、事前学習しておかないと普通に通り過ぎてしまう。

脇本陣の銭屋矢部清兵衛家跡。現在の南岳堂菓子舗辺り。

日も暮れた、岳南電車・吉原本町駅から家に帰ろう。

吉原本町駅から吉原駅へ移動。ホームでは”富士山の日”ヘッドマークが付けられた岳南電車が出発を待つ。

何だか懐かしさを感じる硬券切符。

岳南電車吉原駅の夜景。

JR吉原駅から東海道本線を上り三島駅へ。三島駅から東海道新幹線こだまの東京行きに乗り換え、三島駅で買った源氏旗揚げ寿司に舌鼓を打ちながら帰途につく。
【旧東海道歩き 第30日目】新蒲原駅→蒲原宿→吉原宿→吉原本町駅 歩行距離約16km

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