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伊東甲子太郎と志筑藩陣屋

今年(2018年)2月、かすみがうら市歴史博物館で開催する「伊東甲子太郎と幕末の同志」展を見に行ってきた。伊東甲子太郎(いとう かしたろう)とは誰ぞや?と、大半の人がそう思うかもしれないが、新選組で参謀兼文学師範を務めた人物で、コアな新選組ファンや幕末史が好きな方には、その人物像を知る方も多いであろう。新選組と言えば近藤勇や土方歳三、沖田総司が有名どころ、ローカルと言ってしまえば失礼かもしれないが、この知る人ぞ知るの人物にスポットを当てた特別展は大いに興味をそそられた。2004年に放送されたNHK大河ドラマ「新選組!」で伊東甲子太郎役を演じたのが谷原章介氏、今でも思い出せるのだから私にとってイメージ通りの適役だったということだろう。

かすみがうら市郷土資料館発行・編集『水戸藩天狗党と新選組高台寺党』を参考に、伊東甲子太郎の主な経歴を追ってみよう。天保6年(1835年)7月、常陸志筑藩(現 茨城県かすみがうら市)本堂家家来の鈴木三四郎長男として出生、幼名は祐。13歳のときに神道無念流剣術の金子健四郎へ入門、後に大蔵へ改名。嘉永7年(1854年)師の金子健四郎と共に江戸へ入り、後に江戸深川中川町の北辰一刀流剣術伊東精一に入門、精一の死去に伴い伊東家へ養子入りし家督と道場を継いだ。

元治元年(1864年)弟の三木三郎(鈴木三樹三郎、新選組九番隊隊長)や門人等と共に新選組へ入隊、伊東甲子太郎と名を改めた。参謀役の重職にあったが、青年期に水戸学を学んで勤王思想にあった甲子太郎は、佐幕派の近藤勇と思想に対立があり、慶応3年(1867年)3月伊東一派を引き連れ新選組を脱退、御陵衛士(高台寺党)を結成する。しかし、同年11月近藤勇との宴会後の帰途、油小路本光寺門前にて新選組隊士に襲われ暗殺(油小路事件)された。享年33。弟の三木三郎はこの難を逃れ、相楽総三率いる赤報隊二番隊隊長に就き、後に入牢などの憂き目を見ながらも新政府軍として戊辰戦争で北越や会津を転戦、戦後は警察官などを務め、余生を故郷に近い石岡で過ごし83歳の大往生を遂げた。


かすみがうら市歴史博物館
『伊東甲子太郎と幕末の同志』展を開催する”かすみがうら市歴史博物館”。立派な模擬天守に城門、しかしここに城があったわけではないのであしからず。


かすみがうら市歴史博物館
城門を潜り抜けて、いざ歴史博物館に。


かすみがうら市歴史博物館
1階特別展示室入口にて。


かすみがうら市歴史博物館
展示品には直筆の手紙や草稿があり、見学すべき価値は高いものだった。史料は撮影禁止のため、誰もいない記念撮影の場所をカメラに収め。


かすみがうら市歴史博物館
天守に登って霞ヶ浦を望み歴史博物館を後に。


次は伊東甲子太郎が生まれ育った志筑藩の陣屋があった志筑城址に行ってみよう↓




関東平野迅速測図
関東平野迅速測図から明治初期の中志筑を見てみよう。志筑藩陣屋の縄張りがはっきり確認できる。


志筑城跡入口
志筑城址東側の入口。「県指定史跡 志筑城跡→」の 道しるべが立てられている。


志筑城址
志筑城(志筑藩陣屋)本丸入口。 ここは平成21年(2009年)まで志筑小学校の旧校舎があった場所。ここが校門だった。


志筑城址
ここが志筑小学校の旧地で本丸跡。志筑城は鎌倉時代に源頼朝の家臣下河辺政義が当地に城を築いたことにはじまる。南北朝時代、南朝方についた下河辺氏は北朝方大掾氏としばしば戦火を交えるが、戦況が不利となって志筑城を捨てて一族小山氏のもとへ逃げたという。その後廃城となっていたが、慶長7年(1603年)本堂茂親が出羽国(秋田県)より当地へ移封となり、正保2年(1645年)城跡に陣屋を構えた。以来廃藩置県を迎えるまで12代に渡り本堂家の居城として機能した。


志筑城址
本丸東側には近年まで志築小学校の校舎があった。中庭だけが残されている感じ。


志筑城址
中庭にあった池の名残り。


志筑城址碑
中庭にひっそりと佇む志筑城址碑。


志筑城址
本丸より北側を望む。一段低いところに平地部分があり、これも曲輪の名残。


志筑城址
本丸入口から西側曲輪へ向かう小路。写真右が主郭。


志筑城址
西側曲輪、武家屋敷の名残りを感じさせる民家の門。


八幡池
志筑城址の台地南側下にある八幡池。水堀の名残りのように見える。


八幡神社
八幡池南側には八幡神社への参道入口。


八幡神社
小山上に鎮座する八幡神社。


長興寺
志筑藩藩主本堂家の菩提寺、鳳林山瑞雲院長興寺。 慶長7年(1603年)本堂家が当地へ移封となった際、出羽国(現 秋田県)新庄より瑞雲院を移したと伝わる。


長興寺境内
長興寺境内に散在する羅漢像。


長興寺境内
中にはこんなユニークなものも。


長興寺山門と本堂
長興寺山門と本堂。


師付の田井
志筑城址台地北側の低地に降りて。この辺りの水田地帯は万葉集や草庵集(鎌倉期)の歌に詠まれた”師付の田井”と推定されている。

草枕 旅の憂いを 慰もる 事もあらんと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田井に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長きけに おもひ積み来し 憂いはやみぬ
『万葉集(万葉集巻九・1757)』


筑波山
水田地帯にポツンと見える解説板の場所辺りは、昭和48年(1973年)まで”鹿島やわら”と称し、日本武尊や鹿島の神にまつわる伝説を残す底知れずの井戸があった。古くから地元の人はこの井戸を”しづくの田井”と呼び、守り伝えてきたというが、今は井戸の痕跡を見られない。


師付の田井
”鹿島やわら”にある解説板と”師付之田井”碑(昭和44年建立)。


師付の田井と志筑城址
師付の田井と志筑城址(写真奥の台地)。


撮影日:2018年2月25日(日)
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吉原名物「左富士」

【旧東海道歩き 第31日目】吉原本町駅→吉原宿→原宿→原駅



【2018年5月4日(金)旧東海道 吉原宿→原宿】
前回の歩き旅から早いもので約3ヶ月が経つ。遅々として進まない旧東海道歩き、ゴールデンウィークに少しでも歩みを進めておこうと東京駅からこだま637号(新大阪行)に乗車、三島駅で下車し東海道本線に乗り換え吉原駅に。吉原駅から岳南電車で吉原本町駅に移動、旧東海道歩きを再開する。天気は上々の青空、気温は寒くも暑くもない絶好のウォーキング日和、この時期なら日も長く、たっぷり歩き旅を楽しめそうだ。

江戸期に吉原宿が中吉原から新吉原へ2度目の移転をしたとき、東海道は付け替えられ新吉原から依田橋町にかけ南北に大きく湾曲する道筋が現れた。そのため江戸方から吉原宿に向かう旅人は、この地点で常に右に見ていた富士山を突如として左に見ることになり、”左富士”と呼び吉原最大の名物として知られた。往時の様子は広重の浮世絵「東海道五十三次之内吉原 左富士」に見ることができる。しかし、京方から江戸方へ向かう者にとっては、常に左に見えていた富士が右に現れても、背後だけにその恩恵にあやかることはできないのだ…。




岳南電車吉原駅
吉原駅で出発を待つ岳南電車7000形。

 
岳南電車吉原駅
岳南電車に乗車。


吉原本町駅
吉原駅を出発して約5分、吉原本町駅に到着し下車。ここから旧東海道歩きを再開する。


吉原宿東木戸跡
吉原宿東木戸跡。吉原宿を出て東へ。


平家越え橋
旧東海道が和田川を越える地点に架かる平家越え橋。ここから旧東海道は和田川左岸を大きく南へ向かって湾曲する。


平家越の碑
東袂に設けられる平家越の碑。ここは治承4年(1180年)、富士川を挟んで平家と源氏が対峙した”富士川の戦い”と呼ばれる合戦があった場所で、平家の軍勢が水鳥の一斉に飛び立つ羽音を夜襲と勘違いし、刃を交えることなく西へ退却したことは今の世に知られるところ。当時はこの辺りを富士川が流れていたわけだ。


左富士
振り返って吉原名物”左富士”!


Tokaido14_Yoshiwara.jpg
東海道五十三次之内吉原 左富士
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「吉原宿」より引用

広重がここを描いた浮世絵。現代と比較してみると、沿道の景観は大きく変貌しているが、大きく左に曲がってゆく道筋と富士山の位置関係だけは変わっていない。


左富士神社
依田橋町の旧東海道筋に鎮座する左富士神社。この神社は江戸時代に悪王子神社と称し、明治期に現社名へ改称された。


左富士神社
左富士神社拝殿前、健脚を祈念してのものなのか、重たい鉄下駄が置かれていた。


依田橋村の一里塚跡
左富士神社境内に設ける「依田橋村一里塚」碑と一里塚のモニュメント。吉原宿の2度の移転に伴い一里塚も移され、延宝8年(1680年)中吉原から新吉原へ宿場が移ったときに、ここ左富士神社の北側に新たな一里塚が築かれた。ここから本市場一里塚跡まで約5kmあるのは何故なのか。


依田橋村の一里塚跡
依田橋村一里塚があったはずの左富士神社北側。沿道には民家が建ち並び、一里塚の遺構が残されていないどころか、跡地がどこなのかもわからない。依田橋村一里塚は江戸日本橋から34里(約134km)、京三条大橋からは80番目で実測約382km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。


中吉原宿分岐点
左富士神社前より江戸方(南側)の旧東海道。中吉原時代の旧東海道は神社南側で西へ曲がり宿内に入っていたが、現在その道筋は消失している。


木村たばこ店
依田橋町の旧東海道筋、木村たばこ店前より振り返って富士を望む。


依田橋町バス停
依田橋町バス停付近の旧東海道。先で東海道新幹線の高架下を潜り抜ける。


大昭和紙工産業 吉原工場
大昭和紙工産業前を通り過ぎて。


河合橋
河合橋北詰。


沼川
河合橋より沼川の上流を望む。


河合橋
沼川下流方向。


吉原駅北口交差点
吉原駅北口交差点を行く旧東海道。


旧東海道 鈴川本町
東海道本線の北側に沿って進み。


旧東海道 鈴川本町
東海道本線に分断される旧道消失地点。かつてはここから右斜めに旧道が通っていた。線路向こうには旧道が残っている。


神山時計店
旧道消失地点の北側にある神山時計店。


鈴川踏切
鈴川踏切で東海道本線を渡り。


旧東海道 鈴川東町
ここで旧東海道に復帰。右が迂回路の鈴川踏切、直進(京方)が旧道消失地点へ向かう旧道。

ここから旧東海道を離れて少し寄り道。吉原宿が成立する江戸期以前、宿場町を形成していたという見付宿跡を見に行ってみよう。次の記事に続く。


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田子の浦と見付宿

【2018年5月4日(金)旧東海道 吉原宿→原宿】
吉原宿が影も形も存在していない鎌倉初期、吉原辺りの東西往還路は駿河湾沿いを通り、現在の”田子の浦港”東側の鈴川町から対岸の前田にかけて吉原湊を渡す舟渡しがあって、東岸の阿字神社(富士市鈴川町)付近に往来の旅人を改める見付が構えられていた。南北朝から室町期にかけて軍事・商業的に吉原湊が重要視されたことから、この見付があった地は宿場・港町・商業地として発展、見付宿と呼ばれるようになる。しかしこの地は高波や漂砂の被害がひどく、天文年間(1532~54年)に現在の鈴川東町・今井地区へ移転し、吉原と名を改め初代吉原宿の前身を形成する。慶長6年(1601年)徳川家康により宿駅伝馬制度が敷かれ近世東海道の吉原宿が成立、後に高潮の被害で2度の移転を余儀なくされた。




<見付宿古道分岐点
鈴川東町、旧道が東海道本線に分断される南側。直進の旧道は消失、左へ線路沿いに曲がる道が見付宿に至る。


六角井戸
木之元神社北辺、東海道本線に沿ってを通る道沿いで、写真手前のカラフルなマンホールに目が留まり。


木之元神社水神
左を見ると小さな社、何かと思えば木之元神社の水神。奈良時代に玄坊という高僧がおり、木之元神社の泣沢女神を勧請して当地に行住寺を建立したという。ここには富士山からの地下水が流れていることから、六角形の井戸を掘って”御神水”とし、地元住民の安全長久を祈願したと伝わる。


六角井戸
あのカラフルなマンホールの下には六角井戸が残っているらしい。


木之元神社
鈴川東町に鎮座する木之元神社。元吉原の地から中吉原へ宿場移転した時、多くの神社や寺院が伴って移転したが、ここ木之元神社だけは地元住民の願望により当地に残ったという。数少ない元吉原の遺構といえよう。


木之元神社境内より
木之元神社境内より東海道本線と富士山を望み。


見付宿古道
旧道消失の分地点から150m程線路沿いを進むと左へ分かれる上り道。こちらが見付宿跡に向かう道で、ここでは便宜上”見付宿古道”と呼ばせてもらう。


黒露の碑
見付宿古道を上って間もなく、民家前に残る黒露(こくろ)の碑。江戸時代中期の俳人、山口黒露の死を悼み明和4年(1767年)に建立されたもの。黒露は山口素堂の門人で、俳諧をはじめ茶道や琴に通じる著名な文化人だった。


六地蔵
沿道に六地蔵が富士山をバックに並ぶ。


見付宿古道
舌状台地上を通る見付宿古道。


見付宿古道
妙法寺付近の見付宿古道。


妙法寺
見付宿跡(富士と港の見える公園)東側にある妙法寺。


阿字神社参道
舌状台地の突端部、阿字神社参道入口。この辺りが吉原宿の前身、中世に見付宿があった場所。


見付宿跡
見付宿跡は”富士と港の見える公園”に整備される。


見付宿跡碑と解説板
見付宿の往時を偲ぶものは残ってないが、見付宿跡碑と解説板が設けられている。


田子浦仏舎利塔
見付宿跡に建つ田子浦仏舎利塔。いつ、どういった経緯でこれが建てられたのか、少し調べてみたがよくわかりません。


阿字神社奥宮
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田子浦仏舎利塔のすぐ傍に鎮座する阿字神社奥宮。


見付宿跡
見付宿跡(富士と港の見える公園)の西側入口。木戸を模しているのか、 冠木門が設けられている。ここから目の前は田子の浦港。


石水門碑
沼川石水門記念碑。古より沼川河口には度々高波が押し寄せ、内陸部の農地に損害を与えてきた。慶応2年(1866年)その対策として防潮堤が築かれたが、明治2年(1869年)の暴風雨で壊滅する。翌年新たに石水門の築造が始められたが、工事中に流失、明治16年(1883年)になって再び石水門の築造が計画され、有識者の助言を得て2年の工期を架け完成、昭和40年代まで使われた。昭和42年(1967年)田子の浦港が建造されるに伴い石水門は撤去、この碑が往時を今に伝えている。


田子の浦港
今の沼川河口、見付宿跡より”田子の浦港”を望む。古くは吉原湊と呼ばれ、軍事・舟運の要衝地だった。


田子の浦港と富士山
田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
古代に思いを馳せ、山部赤人の心境を感じよう。


鈴川の富士塚
見付宿跡から旧東海道へ歩みをす途次、”鈴川の富士塚”を案内する道標を見つけ寄り道。ここは江戸時代に富士登山を前に身の汚れを払う場所だったらしい。現在は「富士山登山ルート3776」という富士登山の企画があり、ここから山頂を目指すという。とても面白そうだ。いずれ私も挑戦してみたい。

富士じかん
『富士山登山ルート3776』
www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kb719c0000004p1m.html


明治40年頃の富士塚
現地設置の解説板より。明治40年頃の富士塚。


鈴川の富士塚
上写真に近いアングルで撮影、現在の富士塚。


鈴川の富士塚
鈴川の富士塚。何かイベントの準備だろうか、パイプ椅子が並ぶ。


享保二年銘の灯篭
富士塚前に残る享保二年銘の灯篭。


鈴川の富士塚
富士塚に祀られる浅間宮と富士山。


見付宿古道
見付宿古道を戻って。地蔵堂付近。


旧東海道 鈴川東町02
鈴川東町、志学院から旧東海道に歩みを戻す。元吉原を歩いて次の原宿へ向かおう。次の記事へつづく。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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