浮島沼
【2018年5月4日(金)旧東海道 吉原宿→原宿】
元吉原から旧東海道を東へ向かって進もう。駿河湾に沿って延びる旧東海道は、立場を置いた柏原を経て原宿に至る。かつてその道中の北側には柏原沼・須津沼・富士沼・大沼・広沼など多くの沼があり、総称して浮島沼と呼んでいた。その周囲一帯はアシやマコモなどが群生する浮島ヶ原という低湿地帯を形成、江戸期になって新田開発が進められ、高潮の被害を防ぐべく防潮堤が盛んに築かれた。江戸時代末期に増田平四郎を中心にして排水路の築造が進められ、明治2年(1869年)に完成を見るのだが、同年に高潮の被害に遭いあえなく壊滅。その遺志は継がれて昭和12年(1937年)に昭和放水路が着工、6年もの歳月をかけて完成する。それでも浮島ヶ原の水はけは悪かったようで、昭和30年代まで腰や胸まで浸かって田植えをする湿田農耕が続けられた。現在の浮島ヶ原は干拓が進んで美しい水田地帯となり、宅地や商業地としての開発も進んだ。わずかに浮島ヶ原自然公園に往時の景観を見ることができる。

恵比寿屋前、鈴川東町の町並み。元吉原の旧地は鈴川東町から今井1丁目にかけての辺り。

今井1丁目、海老坂下にある海老坂薬師。

今井本町バス停。

スーパー野村前、今井2丁目を行く旧東海道(静岡県道170号)。

旧東海道筋にあるビジネス旅館鈴清。

平安時代作と云われる毘沙門天像を本尊に祀る香久山妙法寺。創建は寛永4年(1627年)と伝わる。旧暦正月の3日間(1月7~9日)に「毘沙門天大祭」が行われ、期間中全国から多くのダルマ屋が店を出して”だるま市”を開催、日本三大だるま市の一つに数えられている。

妙法寺本殿。

本殿より境内、真正面に富士を望む。

妙法寺入口前、旧東海道筋にある旅館立場。

元吉原小入口バス停。

元吉原小学校北側、小高い所に稲荷神社が鎮座。

大野新田、大野屋前を行く旧東海道。

大野新田の庚申堂。

旧東海道(静岡県道170号)は檜交差点で県道380号に合流。

檜新田の東海道(静岡県道380号)江戸方。

檜新田に鎮座する愛鷹神社。

田中バス停。

旧東海道(静岡県道380号)沿いに鳥居が並び立つ淡嶋神社と米之宮神社。

昭和放水路に架かる広沼橋。西詰には沼田新田の一里塚があったが消失している。江戸日本橋から33里(約130km)、京三条大橋からは81番目で実測約386km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる一里塚。

増田平四郎像と顕彰碑。平四郎は飢饉や水害に苦しむ住民を救済しようと浮島沼の干拓を計画、排水路建設工事の許可を韮山代官所に願い出るが、なかなか代官所は許可を出さず、ようやく着工できたのは発案から27年目の慶応3年(1867年)のこと。2年に渡る工事を経て、明治2年(1869年)浮島沼から海まで全長505m、幅7mの排水路を完成させ、人々はこれを”スイホシ(水干)”と呼び平四郎の功績を称えた。しかし無情にも同年8月に高波の被害を受け壊滅、平四郎は自然を前に人間の無力さを痛感したことだろう。昭和18年(1943年)になって”スイホシ(水干)”と同じ場所に昭和放水路が開削され浮島沼は姿を消す。平四郎終生の悲願は現在に果たされた。

広沼橋より昭和放水路下流。水門の向こうは駿河湾の海岸。

柏原2丁目信号の旧東海道(静岡県道380号)。この辺りはかつての間の宿”柏原”。小休本陣が設けられ、沿道に軒を連ねる茶屋では浮島沼で獲れた鰻の蒲焼を出して賑わった。

柏原新田の旧東海道(静岡県道380号)筋にある立圓寺。望嶽碑は文化5年(1808年)尾張藩の藩医、柴田景浩により建立されたもの。柴田景浩は参勤交代に随従して何度も当地を往来し、ここから望む富士の眺めを愛した。

立圓寺境内にあるゲラティック号の碇と遭難誌。ゲラティック号はジャカルタの貨物船で、昭和54年(1979年)台風20号に遭遇し難破、柏原海岸に打ち上げられ乗組員2名が犠牲となった。船体が倒れることなく砂浜に直立不動の状態だったため、当時大きな話題となり多くの見物人が押しかけた。

東田子の浦駅。富士山を背景に駅舎を撮影できる。

ホームから富士が見える駅、東田子の浦。

東田子の浦駅前にある六王子神社。「三股淵の生贄伝説」にまつわる故事が起源とされる神社である。昔は沼川・和田川・潤井川の合流地点は深い淵を形成し、三股淵と呼ばれた。ここに大蛇(おろち)が棲むと信じられ、その怒りを鎮めるため12年に1度生贄を捧げる風習があったという。400年以上前の天正期、たまたま通りがかった7人連れの巫女の一人が生贄とされ、三股淵に沈められた。残った6人の巫女は一人を犠牲にして帰れないと柏原沼に身を投じて後を追ったという。その6人の巫女の亡骸を埋葬し弔ったのがここ六王子神社とされている。
伝説についてはこちらに詳しい↓
【広報ふじ昭和42年】ふるさとのでんせつ(1)
http://www3.city.fuji.shizuoka.jp/fuji_backnum1/kiji/100420515_0010_08.htm

東田子の浦駅裏手にある浮島ヶ原自然公園へ寄り道。

現地解説板より、「昭和初期の浮島ヶ原での田植え」。まだこの時代には干拓が十分に進んでいなかったのだろう、田植えする人々は胸や腰まで湿田に浸かっている。

現地解説板より、「浮島沼からの富士」。今や浮島沼は消え失せ、この風景を見ることはできない。

浮島ヶ原自然公園は低湿地帯だった往時の様子を垣間見る貴重な場所になっている。

往時に思いを馳せながら公園内を散策。

浮島ヶ原自然公園より富士を望み。

富士市から沼津市へ。

植田の八幡神社。

植田踏切で東海道本線を渡る。

植田踏切の南側、植田という地名の由来になった植田三十郎墓所。当地は江戸時代初期に遠州浪人の植田三十郎(生年不詳、1668年没)を中心にして開拓がはじめられた。新田開発のため潮除けの堤防を築き干拓を図るも道半ばで断念、しかし地元の人々は開拓の労苦に感謝し当地を植田新田と名付けた。

墓所に設けられる「植田三十郎と植田新田」碑。

植田三十郎墓所と同地にある天神社・清正公社。

旧東海道(県道163号)に戻り桃里西バス停を通過。

桃里桜地蔵尊の看板が目に留まったので。

旧東海道から南に道を外れて桃里西踏切を渡り。

桃里桜地蔵尊へ。

桃里桜地蔵尊の由来は桜にまつわっていそうだが不詳。地名の”桃”と地蔵尊の”桜”、花の形や色がよく似ているだけに、面白そうな逸話がありそうなものだが…。

桃里中町バス停。

浅間愛鷹神社境内に置かれる桃里改称記念碑。桃里はもともと助兵衛新田という地名で、江戸時代初期に当地へ開拓に入った鈴木助兵衛から取ったものだという。明治になって”すけべえ”は好色な男性を指す言葉として習俗化したため、明治41年(1908年)桃を多く作っていたことから桃里という地名に改められた。

桃里公会堂と浅間愛鷹神社。

みくに保育園の少し先で桃里から一本松に。

一本松の西端にある海岸山大通寺。幕末に現在の原小学校の前身となる寺子屋が開かれ、明治初期に「初学舎」と名付けられた。スルガ銀行初代頭取の岡野喜太郎氏もここに学んだという。

西一本松バス停。

一本松に鎮座する浅間神社(三社宮)。

一本松を行く旧東海道。
元吉原から旧東海道を東へ向かって進もう。駿河湾に沿って延びる旧東海道は、立場を置いた柏原を経て原宿に至る。かつてその道中の北側には柏原沼・須津沼・富士沼・大沼・広沼など多くの沼があり、総称して浮島沼と呼んでいた。その周囲一帯はアシやマコモなどが群生する浮島ヶ原という低湿地帯を形成、江戸期になって新田開発が進められ、高潮の被害を防ぐべく防潮堤が盛んに築かれた。江戸時代末期に増田平四郎を中心にして排水路の築造が進められ、明治2年(1869年)に完成を見るのだが、同年に高潮の被害に遭いあえなく壊滅。その遺志は継がれて昭和12年(1937年)に昭和放水路が着工、6年もの歳月をかけて完成する。それでも浮島ヶ原の水はけは悪かったようで、昭和30年代まで腰や胸まで浸かって田植えをする湿田農耕が続けられた。現在の浮島ヶ原は干拓が進んで美しい水田地帯となり、宅地や商業地としての開発も進んだ。わずかに浮島ヶ原自然公園に往時の景観を見ることができる。

恵比寿屋前、鈴川東町の町並み。元吉原の旧地は鈴川東町から今井1丁目にかけての辺り。

今井1丁目、海老坂下にある海老坂薬師。

今井本町バス停。

スーパー野村前、今井2丁目を行く旧東海道(静岡県道170号)。

旧東海道筋にあるビジネス旅館鈴清。

平安時代作と云われる毘沙門天像を本尊に祀る香久山妙法寺。創建は寛永4年(1627年)と伝わる。旧暦正月の3日間(1月7~9日)に「毘沙門天大祭」が行われ、期間中全国から多くのダルマ屋が店を出して”だるま市”を開催、日本三大だるま市の一つに数えられている。

妙法寺本殿。

本殿より境内、真正面に富士を望む。

妙法寺入口前、旧東海道筋にある旅館立場。

元吉原小入口バス停。

元吉原小学校北側、小高い所に稲荷神社が鎮座。

大野新田、大野屋前を行く旧東海道。

大野新田の庚申堂。

旧東海道(静岡県道170号)は檜交差点で県道380号に合流。

檜新田の東海道(静岡県道380号)江戸方。

檜新田に鎮座する愛鷹神社。

田中バス停。

旧東海道(静岡県道380号)沿いに鳥居が並び立つ淡嶋神社と米之宮神社。

昭和放水路に架かる広沼橋。西詰には沼田新田の一里塚があったが消失している。江戸日本橋から33里(約130km)、京三条大橋からは81番目で実測約386km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる一里塚。

増田平四郎像と顕彰碑。平四郎は飢饉や水害に苦しむ住民を救済しようと浮島沼の干拓を計画、排水路建設工事の許可を韮山代官所に願い出るが、なかなか代官所は許可を出さず、ようやく着工できたのは発案から27年目の慶応3年(1867年)のこと。2年に渡る工事を経て、明治2年(1869年)浮島沼から海まで全長505m、幅7mの排水路を完成させ、人々はこれを”スイホシ(水干)”と呼び平四郎の功績を称えた。しかし無情にも同年8月に高波の被害を受け壊滅、平四郎は自然を前に人間の無力さを痛感したことだろう。昭和18年(1943年)になって”スイホシ(水干)”と同じ場所に昭和放水路が開削され浮島沼は姿を消す。平四郎終生の悲願は現在に果たされた。

広沼橋より昭和放水路下流。水門の向こうは駿河湾の海岸。

柏原2丁目信号の旧東海道(静岡県道380号)。この辺りはかつての間の宿”柏原”。小休本陣が設けられ、沿道に軒を連ねる茶屋では浮島沼で獲れた鰻の蒲焼を出して賑わった。

柏原新田の旧東海道(静岡県道380号)筋にある立圓寺。望嶽碑は文化5年(1808年)尾張藩の藩医、柴田景浩により建立されたもの。柴田景浩は参勤交代に随従して何度も当地を往来し、ここから望む富士の眺めを愛した。

立圓寺境内にあるゲラティック号の碇と遭難誌。ゲラティック号はジャカルタの貨物船で、昭和54年(1979年)台風20号に遭遇し難破、柏原海岸に打ち上げられ乗組員2名が犠牲となった。船体が倒れることなく砂浜に直立不動の状態だったため、当時大きな話題となり多くの見物人が押しかけた。

東田子の浦駅。富士山を背景に駅舎を撮影できる。

ホームから富士が見える駅、東田子の浦。

東田子の浦駅前にある六王子神社。「三股淵の生贄伝説」にまつわる故事が起源とされる神社である。昔は沼川・和田川・潤井川の合流地点は深い淵を形成し、三股淵と呼ばれた。ここに大蛇(おろち)が棲むと信じられ、その怒りを鎮めるため12年に1度生贄を捧げる風習があったという。400年以上前の天正期、たまたま通りがかった7人連れの巫女の一人が生贄とされ、三股淵に沈められた。残った6人の巫女は一人を犠牲にして帰れないと柏原沼に身を投じて後を追ったという。その6人の巫女の亡骸を埋葬し弔ったのがここ六王子神社とされている。
伝説についてはこちらに詳しい↓
【広報ふじ昭和42年】ふるさとのでんせつ(1)
http://www3.city.fuji.shizuoka.jp/fuji_backnum1/kiji/100420515_0010_08.htm

東田子の浦駅裏手にある浮島ヶ原自然公園へ寄り道。

現地解説板より、「昭和初期の浮島ヶ原での田植え」。まだこの時代には干拓が十分に進んでいなかったのだろう、田植えする人々は胸や腰まで湿田に浸かっている。

現地解説板より、「浮島沼からの富士」。今や浮島沼は消え失せ、この風景を見ることはできない。

浮島ヶ原自然公園は低湿地帯だった往時の様子を垣間見る貴重な場所になっている。

往時に思いを馳せながら公園内を散策。

浮島ヶ原自然公園より富士を望み。

富士市から沼津市へ。

植田の八幡神社。

植田踏切で東海道本線を渡る。

植田踏切の南側、植田という地名の由来になった植田三十郎墓所。当地は江戸時代初期に遠州浪人の植田三十郎(生年不詳、1668年没)を中心にして開拓がはじめられた。新田開発のため潮除けの堤防を築き干拓を図るも道半ばで断念、しかし地元の人々は開拓の労苦に感謝し当地を植田新田と名付けた。

墓所に設けられる「植田三十郎と植田新田」碑。

植田三十郎墓所と同地にある天神社・清正公社。

旧東海道(県道163号)に戻り桃里西バス停を通過。

桃里桜地蔵尊の看板が目に留まったので。

旧東海道から南に道を外れて桃里西踏切を渡り。

桃里桜地蔵尊へ。

桃里桜地蔵尊の由来は桜にまつわっていそうだが不詳。地名の”桃”と地蔵尊の”桜”、花の形や色がよく似ているだけに、面白そうな逸話がありそうなものだが…。

桃里中町バス停。

浅間愛鷹神社境内に置かれる桃里改称記念碑。桃里はもともと助兵衛新田という地名で、江戸時代初期に当地へ開拓に入った鈴木助兵衛から取ったものだという。明治になって”すけべえ”は好色な男性を指す言葉として習俗化したため、明治41年(1908年)桃を多く作っていたことから桃里という地名に改められた。

桃里公会堂と浅間愛鷹神社。

みくに保育園の少し先で桃里から一本松に。

一本松の西端にある海岸山大通寺。幕末に現在の原小学校の前身となる寺子屋が開かれ、明治初期に「初学舎」と名付けられた。スルガ銀行初代頭取の岡野喜太郎氏もここに学んだという。

西一本松バス停。

一本松に鎮座する浅間神社(三社宮)。

一本松を行く旧東海道。

スポンサーサイト