沼津宿
【2018年5月5日(土)旧東海道 沼津宿】

東海道五十三次之内沼津 黄昏図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「沼津宿」より引用
狩野川河口付近の右岸、戦国期に武田勝頼が三枚橋城(後に沼津城)を築き、沼津はその城下町として発展、江戸期になって東海道五十三次の一宿となった。慶長19年(1614年)三枚橋城が廃城となるが、安永6年(1777年))水野忠友が沼津に入り、三枚橋城を改修して沼津城を築城、以来水野氏沼津藩の城下町として繁栄した。
沼津宿は江戸日本橋から東海道五十三次を12宿目、京都三条大橋から42宿目。天保14年(1843年)当時の人口5346人、家数1234軒、うち本陣3、脇本陣1、旅籠屋55軒。名物は鰹節に鮎、沼津市内を流れる狩野川は鮎友釣りの発祥地とされている。広重は「東海道五十三次之内沼津 黄昏図」の題で、沼津宿東外れの狩野川沿い、黄昏時の街道を巡礼姿の母娘らしき旅人と、天狗面を背負う金毘羅参りの男が、満月に照らされた沼津宿へ向かう様子を描く。

西見付跡付近、幸町の旧東海道(永代橋通り)。

幸町にある大聖寺。付近には真楽寺や永明寺、乗運寺、東方寺があり、古くは正見寺や本光寺もあって寺町を形成していた。

浅間町交差点北東角に残る「千本浜海水浴場道」道標。交差点を南西に行けば千本浜、今や平和な海水浴場だが、戦国時代には武田氏と北条氏が勢力争いを繰り広げた地。特に天正8年(1580年)の”千本浜の合戦”は激戦で、多くの戦死者を出したという。

浅間町に鎮座する浅間神社。明治期に丸子神社が同地に遷座した。

浅間町と下本町境付近の旧東海道(永代橋通り)。

沼津宿の中心だった下本町に。

本町将棋倶楽部の場所が清水本陣跡。

清水本陣跡近くに鎮座する仲千代稲荷。明治19年(1886年)創建、商売繁盛の神として崇敬を集めた。

鵰(くまたか)町の裏小路にて。清水本陣跡の北側、沼津本町郵便局の裏手が鵰町。鵰(=熊鷹)の尾羽は矢羽の材料として使われたことから、矢羽作りの職人が住んでいたことが町名の由来と推定されている。

清水本陣跡の斜向かい、セブンイレブンの左隣りが間宮本陣跡。

庄司歯科医院の場所が中村脇本陣跡。

中村脇本陣跡の斜向かい、岡田金魚店。下本町・本町の街道筋には古い建物を残さないが、間口が狭く奥に長い店の敷地に宿場の面影を感じさせる。

本町と通横町の境、交差点南東角の駐車場が高田本陣跡。沼津宿の本陣・脇本陣は全く遺構を残していないが、それぞれに跡地を示す標石を置く。

高田本陣跡の交差点を左折すれば御成橋通りで、通横町の町並み。江戸時代に問屋場が置かれていた。

通横町交差点が通横町・上土町の境。街道は左(京方)から奥(江戸方)へ左折。

マンションやホテル等、近代的な建物が並ぶ上土町。三枚橋城が築かれたとき、堀を掘った際に出た土を積み上げた地域だったことが地名の由来とされる。江戸時代には通り東側の狩野川岸に商家の河岸が並んでいた。

上土町と川廓町(現 沼津市大手町4丁目)の境。街道は右(京方)から中央奥(江戸方)の小路に右折し川廓町へ入ってゆく。

旧東海道川廓通り。緩やかな下り坂。

沼津城南東辺、本丸水堀と狩野川に挟まれた狭い土地を抜ける旧東海道(川廓通り)。沿道は旧川廓町の町並み。

狩野川と御成橋。

子供の日だけに川岸には鯉のぼりがはためく。

狩野川(写真左手)べりを行く川廓通り。

旧国一通り(県道380号)にぶつかった所で川廓通りは終わり。川廓通りは沼津宿内で唯一旧街道らしい雰囲気を残している。

旧国一通り(県道380号)沿いにある三枚橋バス停。

三枚橋という地名の由来は三枚の石板で架けられた橋にある。そしてここが三枚橋、現在の橋は昭和28年(1953年)に架けられたコンクリート製。下を流れるのがほぼ暗渠と化した狢川(むじながわ)。

三枚橋歩道橋より旧国一通り(県道380号)江戸方を望む。右に見える山は香貫山。

三枚橋を行く旧国一通り(県道380号)。

平町で旧国一通り(県道380号)を右に分かれる旧東海道。この辺りが沼津宿の東見付跡と思われる。

平町の旧東海道。

平町の一里塚跡。北側の塚が現存、一里塚公園に整備されている。

平町の一里塚は江戸日本橋から30里(約118km)、京三条大橋からは84番目で実測約400km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

一里塚公園にある玉砥石。奈良・平安時代に玉類を磨くために用いたと伝わる大石で、石面にある直線状の溝に玉の原石を入れて磨いたと考えられている。いつからここにあったかのか、わからないという。

一里塚公園横の小路は日枝神社参道。

狩野川土手より香貫山を望み。旧東海道歩きはここで終わりにし、次は沼津城址を巡ってみよう。

東海道五十三次之内沼津 黄昏図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「沼津宿」より引用
狩野川河口付近の右岸、戦国期に武田勝頼が三枚橋城(後に沼津城)を築き、沼津はその城下町として発展、江戸期になって東海道五十三次の一宿となった。慶長19年(1614年)三枚橋城が廃城となるが、安永6年(1777年))水野忠友が沼津に入り、三枚橋城を改修して沼津城を築城、以来水野氏沼津藩の城下町として繁栄した。
沼津宿は江戸日本橋から東海道五十三次を12宿目、京都三条大橋から42宿目。天保14年(1843年)当時の人口5346人、家数1234軒、うち本陣3、脇本陣1、旅籠屋55軒。名物は鰹節に鮎、沼津市内を流れる狩野川は鮎友釣りの発祥地とされている。広重は「東海道五十三次之内沼津 黄昏図」の題で、沼津宿東外れの狩野川沿い、黄昏時の街道を巡礼姿の母娘らしき旅人と、天狗面を背負う金毘羅参りの男が、満月に照らされた沼津宿へ向かう様子を描く。

西見付跡付近、幸町の旧東海道(永代橋通り)。

幸町にある大聖寺。付近には真楽寺や永明寺、乗運寺、東方寺があり、古くは正見寺や本光寺もあって寺町を形成していた。

浅間町交差点北東角に残る「千本浜海水浴場道」道標。交差点を南西に行けば千本浜、今や平和な海水浴場だが、戦国時代には武田氏と北条氏が勢力争いを繰り広げた地。特に天正8年(1580年)の”千本浜の合戦”は激戦で、多くの戦死者を出したという。

浅間町に鎮座する浅間神社。明治期に丸子神社が同地に遷座した。

浅間町と下本町境付近の旧東海道(永代橋通り)。

沼津宿の中心だった下本町に。

本町将棋倶楽部の場所が清水本陣跡。

清水本陣跡近くに鎮座する仲千代稲荷。明治19年(1886年)創建、商売繁盛の神として崇敬を集めた。

鵰(くまたか)町の裏小路にて。清水本陣跡の北側、沼津本町郵便局の裏手が鵰町。鵰(=熊鷹)の尾羽は矢羽の材料として使われたことから、矢羽作りの職人が住んでいたことが町名の由来と推定されている。

清水本陣跡の斜向かい、セブンイレブンの左隣りが間宮本陣跡。

庄司歯科医院の場所が中村脇本陣跡。

中村脇本陣跡の斜向かい、岡田金魚店。下本町・本町の街道筋には古い建物を残さないが、間口が狭く奥に長い店の敷地に宿場の面影を感じさせる。

本町と通横町の境、交差点南東角の駐車場が高田本陣跡。沼津宿の本陣・脇本陣は全く遺構を残していないが、それぞれに跡地を示す標石を置く。

高田本陣跡の交差点を左折すれば御成橋通りで、通横町の町並み。江戸時代に問屋場が置かれていた。

通横町交差点が通横町・上土町の境。街道は左(京方)から奥(江戸方)へ左折。

マンションやホテル等、近代的な建物が並ぶ上土町。三枚橋城が築かれたとき、堀を掘った際に出た土を積み上げた地域だったことが地名の由来とされる。江戸時代には通り東側の狩野川岸に商家の河岸が並んでいた。

上土町と川廓町(現 沼津市大手町4丁目)の境。街道は右(京方)から中央奥(江戸方)の小路に右折し川廓町へ入ってゆく。

旧東海道川廓通り。緩やかな下り坂。

沼津城南東辺、本丸水堀と狩野川に挟まれた狭い土地を抜ける旧東海道(川廓通り)。沿道は旧川廓町の町並み。

狩野川と御成橋。

子供の日だけに川岸には鯉のぼりがはためく。

狩野川(写真左手)べりを行く川廓通り。

旧国一通り(県道380号)にぶつかった所で川廓通りは終わり。川廓通りは沼津宿内で唯一旧街道らしい雰囲気を残している。

旧国一通り(県道380号)沿いにある三枚橋バス停。

三枚橋という地名の由来は三枚の石板で架けられた橋にある。そしてここが三枚橋、現在の橋は昭和28年(1953年)に架けられたコンクリート製。下を流れるのがほぼ暗渠と化した狢川(むじながわ)。

三枚橋歩道橋より旧国一通り(県道380号)江戸方を望む。右に見える山は香貫山。

三枚橋を行く旧国一通り(県道380号)。

平町で旧国一通り(県道380号)を右に分かれる旧東海道。この辺りが沼津宿の東見付跡と思われる。

平町の旧東海道。

平町の一里塚跡。北側の塚が現存、一里塚公園に整備されている。

平町の一里塚は江戸日本橋から30里(約118km)、京三条大橋からは84番目で実測約400km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

一里塚公園にある玉砥石。奈良・平安時代に玉類を磨くために用いたと伝わる大石で、石面にある直線状の溝に玉の原石を入れて磨いたと考えられている。いつからここにあったかのか、わからないという。

一里塚公園横の小路は日枝神社参道。

狩野川土手より香貫山を望み。旧東海道歩きはここで終わりにし、次は沼津城址を巡ってみよう。

スポンサーサイト