駿河の旅もいよいよ佳境
【旧東海道歩き 第33日目】沼津駅→沼津宿→三島宿→三島駅
【2018年9月16日(日)旧東海道 沼津宿→三島宿】
久々に旧東海道歩き。沼津宿から三島宿へ向かう。沼津宿を東見付跡から出た旧東海道は、狩野川右岸を進んで下石田・木瀬川に。黄瀬川を渡れば長かった駿河国の旅もいよいよ佳境、行政区域は沼津市から清水町となり、八幡・新宿を経ていよいよ伊豆国の三島宿に入る。新宿と三島宿の境が駿河国と伊豆国の境で、境川という小さな川が流れている。

約4ヶ月ぶりに沼津宿江戸方外れの平町一里塚跡に。

まずは平町に鎮座する日枝神社へ。旧東海道から延びる参道は山王通りに分断されている。

日枝神社で本日の道中安全祈願。

日枝神社から平町の一里塚に戻り、次の三島宿へ向けて歩みを進めよう。

狩野川畔の旧東海道筋、黒瀬橋近くにある平作地蔵尊。

平作地蔵尊がある場所は日本三大仇討の一つ、鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討ち)ゆかりの地で、仇討ちを果たす渡辺数馬が妻とした”お米”の実家の茶屋跡。”お米”の父平作は自身の命をかけて仇である河合又五郎の行方を聞き出した。人々はその義侠心に心打たれ、平作地蔵尊を建立したという。

平作地蔵尊の東側、浪人川と狩野川の合流部にある浪人川排水機場。

浪人川付近の旧東海道。

旧東海道に並行して狩野川が流れているが、現在は堤防に上らないと水面を望めない。

川岸には黒い鳥の群れ。カワウだろうか。

狩野川右岸、東へ延びる旧東海道。

富士隠れ坂。往時は切通しの急坂だったが、現在は均されて面影を残さない。北側に見えていた富士山が、切通しによって姿を隠したことに坂名の由来がある。

富士隠れ坂跡にある東海道道標。駿府へ十五里。

下石田バス停。

東下石田交差点付近、県道380号線から旧道が右斜め方向に分かれる。

下石田村と木瀬川村の境だった地点、沼津領傍示石が残る。

沼津領傍示石。「従是西 沼津領」と刻む。ここから西側が水野家5万石の沼津藩領だった。

これより木瀬川。ここで沼津藩領を出るわけだ。

木瀬川(現 沼津市大岡)にある亀鶴山潮音寺。

潮音寺境内にある亀鶴姫の碑。平安時代末期、木瀬川村の長者小野氏に亀鶴姫という一人娘がおり、駿河の三美人といわれる程に才色兼備の女性だった。亀鶴姫は幼き頃に両親と死別、18歳のときに源頼朝が”富士の牧狩”の宴に再三召すが応ぜず、黄瀬川上流の百沢の滝に身を投げたという。小野氏の遺財で碑が建てられ、亀鶴山観音寺を建立、明治12年(1879年)に廃寺となった後に当地へ移転した。
み佛の 深きめぐみぞ 頼みなる 身は瀧きつ瀬の あわと消ゆとも
亀鶴姫が残した辞世の一首。

沼津市大岡(木瀬川)を行く旧東海道。

木瀬川の南側に鎮座する八幡神社。

沼津市と清水町の境を流れる黄瀬川。

黄瀬川に東海道(静岡県道145号)を通す黄瀬川橋。

黄瀬川橋を渡ってすぐの北側、清水町長沢に鎮座する智方神社。

智方神社のクスノキ。清水町で最大の樹木。足利方に敗れ殺害された護良親王(後醍醐天皇の皇子)の御首がここに葬られ、その目印にクスノキが植えられたと伝わる。小説家井上靖が沼津中学校への通学時、この木の下で休んでいたともいう。

清水町長沢に残る松並木。

旧東海道(静岡県道145号)に面する八幡神社の参道入口。本日は例大祭前日で、宵宮祭が開かれるようだ。

清水町八幡に鎮座する八幡神社。ここが地名の由来になっているのだろう。

八幡神社境内にある対面石。治承4年(1180年)平家と源氏が富士川を挟んで対峙したとき、源頼朝と奥州から駆け付けた義経が、この2つの石に腰かけて対面したと伝わる。

旧東海道(静岡県道145号)筋の八幡バス停。

清水町八幡を行く旧東海道。

清水町八幡から伏見に入ってすぐ、伏見一里塚。

伏見一里塚は江戸日本橋から29里(約114km)、京三条大橋からは85番目で実測約403km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。両塚が現存しており、玉井寺側(写真手前)は往時のまま、宝池寺側(写真奥)が昭和60年(1985年)に改修されている。

玉井寺に残される”白隠の遺墨”。

宝池寺門前にある伏見一里塚。

伏見南バス停。

伏見南バス停近くにある大野商店。旧商家を感じさせる佇まい。

清水町新宿の常夜灯。弘化3年(1846年)建立、秋葉大権現と富士浅間宮を刻む。

千貫樋交差点。ここが清水町新宿の東端。

清水町と三島市の境に架かる境川橋。下を境川が流れる。ここがかつての駿河国と伊豆国の境。

境川橋より境川上流。建物の間、奥に見えるコンクリート橋が千貫樋である。千貫樋については次の記事で改めて紹介しよう。

境川と境川橋。ここで長かった駿河の旅は終わり。
【2018年9月16日(日)旧東海道 沼津宿→三島宿】
久々に旧東海道歩き。沼津宿から三島宿へ向かう。沼津宿を東見付跡から出た旧東海道は、狩野川右岸を進んで下石田・木瀬川に。黄瀬川を渡れば長かった駿河国の旅もいよいよ佳境、行政区域は沼津市から清水町となり、八幡・新宿を経ていよいよ伊豆国の三島宿に入る。新宿と三島宿の境が駿河国と伊豆国の境で、境川という小さな川が流れている。

約4ヶ月ぶりに沼津宿江戸方外れの平町一里塚跡に。

まずは平町に鎮座する日枝神社へ。旧東海道から延びる参道は山王通りに分断されている。

日枝神社で本日の道中安全祈願。

日枝神社から平町の一里塚に戻り、次の三島宿へ向けて歩みを進めよう。

狩野川畔の旧東海道筋、黒瀬橋近くにある平作地蔵尊。

平作地蔵尊がある場所は日本三大仇討の一つ、鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討ち)ゆかりの地で、仇討ちを果たす渡辺数馬が妻とした”お米”の実家の茶屋跡。”お米”の父平作は自身の命をかけて仇である河合又五郎の行方を聞き出した。人々はその義侠心に心打たれ、平作地蔵尊を建立したという。

平作地蔵尊の東側、浪人川と狩野川の合流部にある浪人川排水機場。

浪人川付近の旧東海道。

旧東海道に並行して狩野川が流れているが、現在は堤防に上らないと水面を望めない。

川岸には黒い鳥の群れ。カワウだろうか。

狩野川右岸、東へ延びる旧東海道。

富士隠れ坂。往時は切通しの急坂だったが、現在は均されて面影を残さない。北側に見えていた富士山が、切通しによって姿を隠したことに坂名の由来がある。

富士隠れ坂跡にある東海道道標。駿府へ十五里。

下石田バス停。

東下石田交差点付近、県道380号線から旧道が右斜め方向に分かれる。

下石田村と木瀬川村の境だった地点、沼津領傍示石が残る。

沼津領傍示石。「従是西 沼津領」と刻む。ここから西側が水野家5万石の沼津藩領だった。

これより木瀬川。ここで沼津藩領を出るわけだ。

木瀬川(現 沼津市大岡)にある亀鶴山潮音寺。

潮音寺境内にある亀鶴姫の碑。平安時代末期、木瀬川村の長者小野氏に亀鶴姫という一人娘がおり、駿河の三美人といわれる程に才色兼備の女性だった。亀鶴姫は幼き頃に両親と死別、18歳のときに源頼朝が”富士の牧狩”の宴に再三召すが応ぜず、黄瀬川上流の百沢の滝に身を投げたという。小野氏の遺財で碑が建てられ、亀鶴山観音寺を建立、明治12年(1879年)に廃寺となった後に当地へ移転した。
み佛の 深きめぐみぞ 頼みなる 身は瀧きつ瀬の あわと消ゆとも
亀鶴姫が残した辞世の一首。

沼津市大岡(木瀬川)を行く旧東海道。

木瀬川の南側に鎮座する八幡神社。

沼津市と清水町の境を流れる黄瀬川。

黄瀬川に東海道(静岡県道145号)を通す黄瀬川橋。

黄瀬川橋を渡ってすぐの北側、清水町長沢に鎮座する智方神社。

智方神社のクスノキ。清水町で最大の樹木。足利方に敗れ殺害された護良親王(後醍醐天皇の皇子)の御首がここに葬られ、その目印にクスノキが植えられたと伝わる。小説家井上靖が沼津中学校への通学時、この木の下で休んでいたともいう。

清水町長沢に残る松並木。

旧東海道(静岡県道145号)に面する八幡神社の参道入口。本日は例大祭前日で、宵宮祭が開かれるようだ。

清水町八幡に鎮座する八幡神社。ここが地名の由来になっているのだろう。

八幡神社境内にある対面石。治承4年(1180年)平家と源氏が富士川を挟んで対峙したとき、源頼朝と奥州から駆け付けた義経が、この2つの石に腰かけて対面したと伝わる。

旧東海道(静岡県道145号)筋の八幡バス停。

清水町八幡を行く旧東海道。

清水町八幡から伏見に入ってすぐ、伏見一里塚。

伏見一里塚は江戸日本橋から29里(約114km)、京三条大橋からは85番目で実測約403km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。両塚が現存しており、玉井寺側(写真手前)は往時のまま、宝池寺側(写真奥)が昭和60年(1985年)に改修されている。

玉井寺に残される”白隠の遺墨”。

宝池寺門前にある伏見一里塚。

伏見南バス停。

伏見南バス停近くにある大野商店。旧商家を感じさせる佇まい。

清水町新宿の常夜灯。弘化3年(1846年)建立、秋葉大権現と富士浅間宮を刻む。

千貫樋交差点。ここが清水町新宿の東端。

清水町と三島市の境に架かる境川橋。下を境川が流れる。ここがかつての駿河国と伊豆国の境。

境川橋より境川上流。建物の間、奥に見えるコンクリート橋が千貫樋である。千貫樋については次の記事で改めて紹介しよう。

境川と境川橋。ここで長かった駿河の旅は終わり。

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