箱根関所
【2018年11月24日(土)旧東海道 箱根宿】
箱根関所は箱根宿が成立して翌年の元和5年(1619)、宿場東方の芦ノ湖と山に挟まれる要害地に開設された。前の記事にも書いた通り箱根関所の開設は慶長年間(1596~1615)にまで遡るとの説もあるが、いずれにしても徳川家康が五街道に宿駅伝馬制度を定めた以降のことで、江戸に入る鉄砲と江戸を出る女性(入り鉄砲に出女)を取り締まることで、江戸を防衛するという目的があった。鉄砲等の武器はわかるにしても、何ゆえ江戸を出る女性を取り締まる必要があったのかといえば、多くの大名の妻子は人質として江戸に住んでおり、幕府としては知らぬ間に国元へ逃げ帰られると謀反を起こされるリスクがあったから。そのため関所破りは死罪という厳しい厳罰が科せられた。
小田原から西へ向かう道は東海道だけではなく、主に5通りの脇道があった。ならば箱根関所がある東海道を通らずに脇道を通ればよいではないか、私なら単純にそう考えてしまうが、幕府はそんなことを当然ながら見通しており、その道中の根府川(熱海入湯道)や矢倉沢(矢倉沢往還)、川村・仙石原・谷ヶ村(箱根裏街道)の5ヶ所に脇関所を設けていた。しかしながら、箱根を越える間道が他に幾つも存在していたことは想像に難くなく、関所を通らずに往来しようとする人も少なからずいたことも想像に難くない。おそらく関所破りで捕まった人も多くいたはずだが、江戸期を通して死罪となった件数は非常に少なかったらしい。天下泰平が長く続いた時代背景だけに関所は有名無実化しており、よっぽどの重罪人が見せしめのために死罪とされ、それ以外はそれ相当の刑罰に処されたのだろう。お玉という女性が関所破りで捕まり死罪になったとの悲しい伝説も残っているが、その真相は今となっては確かめようもない…。

京口御門から関所の中へ。無事に通行させてくれるでしょうか。

まずは厩を覗いて。

そして関所の中心となる建物の大番所。

大番所内にある面番所。ここで私のような旅人が役人から通行改めの吟味を受けた。

面番所の右隣、上の間。ここは大番所で最も格式の高い部屋で、関所最上層部の伴頭や横目付が座り、大名などの接待の間としても使われた。

勝手板の間。面番所の奥にある。囲炉裏が設けられ、関所役人の食事や休息に使われた。

今で言えば食堂の勝手板の間だが、くつろいでいる雰囲気はなく、何かの打ち合わせをしている感じ。

上の間の奥にある上番休息所。明日の仕事に備えて役人がここで休息していた。

大番所・上番休息所を出て。

次は足軽番所に。日中は足軽が控え、夜は休息していた建物。不審者を留め置く揚屋(あがりや)や、罪人などを拘置する獄屋を併設していた。

足軽番所の休息所。囲炉裏を囲んで役人たちが談笑しているようだ。

足軽番所裏手にある井戸。平成13年度の遺構調査で井戸の木枠が発掘され、同19年に木枠を復元したところ井戸に水が戻ったという。以来、復活の井戸と名付けられた。井戸の中には硬貨がいっぱい、ちょっと趣旨が違っているような…。

足軽番所裏手から遠見番所へ登る階段。

階段上から箱根関所と芦ノ湖を望み。

関所破りを監視する遠見番所。芦ノ湖が一望でき、湖の向こうには冠雪した富士山の頂が見える。

遠見番所より、箱根関所と芦ノ湖。

展望広場より、箱根関所と芦ノ湖。

江戸口御門内側に設ける御制札場。通行人の頭巾や笠を外すことなど、関所改めのルールについて書かれている。

江戸口御門前の湖側、弓や鉄砲の練習場だった矢場。

矢場の隣にはお休み処の御番所茶屋がある。

江戸口御門前の山側、工事用フェンスの向こうが江戸口千人溜。関所改めを受ける通行人がここで待機した。

無事に関所を通行させて頂き、振り返って江戸口御門。

そして箱根関所資料館に。ここで関所破りの記録等を見学、お玉という女性が関所破りで捕まり死罪となった伝説が元になり、近辺には於玉坂やお玉が池と呼ばれる場所があるとの解説に最も興味をひかれる。

新谷町の杉並木を抜ければ恩賜箱根公園駐車場。ここで旧道はいったん途切れ。

新谷町の杉並木(箱根関所方面)。
無事に関所は越えられた。いざ、小田原に向けて箱根旧街道(箱根東坂)を降ろう。
箱根関所は箱根宿が成立して翌年の元和5年(1619)、宿場東方の芦ノ湖と山に挟まれる要害地に開設された。前の記事にも書いた通り箱根関所の開設は慶長年間(1596~1615)にまで遡るとの説もあるが、いずれにしても徳川家康が五街道に宿駅伝馬制度を定めた以降のことで、江戸に入る鉄砲と江戸を出る女性(入り鉄砲に出女)を取り締まることで、江戸を防衛するという目的があった。鉄砲等の武器はわかるにしても、何ゆえ江戸を出る女性を取り締まる必要があったのかといえば、多くの大名の妻子は人質として江戸に住んでおり、幕府としては知らぬ間に国元へ逃げ帰られると謀反を起こされるリスクがあったから。そのため関所破りは死罪という厳しい厳罰が科せられた。
小田原から西へ向かう道は東海道だけではなく、主に5通りの脇道があった。ならば箱根関所がある東海道を通らずに脇道を通ればよいではないか、私なら単純にそう考えてしまうが、幕府はそんなことを当然ながら見通しており、その道中の根府川(熱海入湯道)や矢倉沢(矢倉沢往還)、川村・仙石原・谷ヶ村(箱根裏街道)の5ヶ所に脇関所を設けていた。しかしながら、箱根を越える間道が他に幾つも存在していたことは想像に難くなく、関所を通らずに往来しようとする人も少なからずいたことも想像に難くない。おそらく関所破りで捕まった人も多くいたはずだが、江戸期を通して死罪となった件数は非常に少なかったらしい。天下泰平が長く続いた時代背景だけに関所は有名無実化しており、よっぽどの重罪人が見せしめのために死罪とされ、それ以外はそれ相当の刑罰に処されたのだろう。お玉という女性が関所破りで捕まり死罪になったとの悲しい伝説も残っているが、その真相は今となっては確かめようもない…。

京口御門から関所の中へ。無事に通行させてくれるでしょうか。

まずは厩を覗いて。

そして関所の中心となる建物の大番所。

大番所内にある面番所。ここで私のような旅人が役人から通行改めの吟味を受けた。

面番所の右隣、上の間。ここは大番所で最も格式の高い部屋で、関所最上層部の伴頭や横目付が座り、大名などの接待の間としても使われた。

勝手板の間。面番所の奥にある。囲炉裏が設けられ、関所役人の食事や休息に使われた。

今で言えば食堂の勝手板の間だが、くつろいでいる雰囲気はなく、何かの打ち合わせをしている感じ。

上の間の奥にある上番休息所。明日の仕事に備えて役人がここで休息していた。

大番所・上番休息所を出て。

次は足軽番所に。日中は足軽が控え、夜は休息していた建物。不審者を留め置く揚屋(あがりや)や、罪人などを拘置する獄屋を併設していた。

足軽番所の休息所。囲炉裏を囲んで役人たちが談笑しているようだ。

足軽番所裏手にある井戸。平成13年度の遺構調査で井戸の木枠が発掘され、同19年に木枠を復元したところ井戸に水が戻ったという。以来、復活の井戸と名付けられた。井戸の中には硬貨がいっぱい、ちょっと趣旨が違っているような…。

足軽番所裏手から遠見番所へ登る階段。

階段上から箱根関所と芦ノ湖を望み。

関所破りを監視する遠見番所。芦ノ湖が一望でき、湖の向こうには冠雪した富士山の頂が見える。

遠見番所より、箱根関所と芦ノ湖。

展望広場より、箱根関所と芦ノ湖。

江戸口御門内側に設ける御制札場。通行人の頭巾や笠を外すことなど、関所改めのルールについて書かれている。

江戸口御門前の湖側、弓や鉄砲の練習場だった矢場。

矢場の隣にはお休み処の御番所茶屋がある。

江戸口御門前の山側、工事用フェンスの向こうが江戸口千人溜。関所改めを受ける通行人がここで待機した。

無事に関所を通行させて頂き、振り返って江戸口御門。

そして箱根関所資料館に。ここで関所破りの記録等を見学、お玉という女性が関所破りで捕まり死罪となった伝説が元になり、近辺には於玉坂やお玉が池と呼ばれる場所があるとの解説に最も興味をひかれる。

新谷町の杉並木を抜ければ恩賜箱根公園駐車場。ここで旧道はいったん途切れ。

新谷町の杉並木(箱根関所方面)。
無事に関所は越えられた。いざ、小田原に向けて箱根旧街道(箱根東坂)を降ろう。

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