箱根旧街道 大澤坂・割石坂・女転し坂・須雲川
【旧東海道歩き 第36日目】畑宿バス停→畑宿(間の宿)→小田原宿
【2019年5月2日(木)旧東海道 箱根宿→小田原宿】
前回の歩き旅から約半年も経ってしまった5月1日、随分とさぼっているうちに時代は平成から令和に。その令和初日に歩き旅を再開しようかと小田原へ行ったが生憎の悪天候、予定を変更して先に小田原城址を巡った。翌日に再び小田原を訪れて、箱根湯本駅から箱根登山バスに揺られ畑宿へ。前回訪れた時は紅葉が終えつつある11月下旬、それから季節は一変して春を迎えた5月初め、新緑の山々を眺めつつ畑宿から箱根東坂を降り小田原まで歩こう。

約半年ぶり、再び畑宿に立つ。晩秋の前回とは頬をなでる風が明らかに違う。

本日は箱根東坂の後半、大澤坂・割石坂・女転し坂・葛原坂・観音坂を下り、箱根湯本を経て小田原宿まで行く。

畑宿内を歩き。

前回の歩き旅で寄木細工の秘密箱(貯金箱)を買った浜松屋。

浜松屋(写真右手)の向かいが畑宿本陣茗荷屋跡。

畑宿の町並み(箱根、京方)。

畑宿江戸方端に残る石仏。風化が著しい。

畑宿江戸方端、県道732号から箱根旧街道が分かれる。

畑宿からの箱根旧街道は大澤坂の下り。濡れた石畳はよく滑るので降りは要注意。

大澤坂に残る斜めの排水路。坂上から流れてきた雨水を石畳の外へ排水する仕組み。

良好に石畳を残す大澤坂を降って。

大澤坂下、大沢に架かる板橋。沢は二手に分かれて流れており写真奥にもう一つ板橋が架けられている。

こちらが二つ目の板橋。

大沢から先、湯本・小田原方面の旧道。石畳が崩壊したのか、石が散乱している状態。

県道に合流する手前、石畳があるがこれは近年整備されたもの。

いったん県道に合流し。

すぐに県道左手から旧道が現れる。

接待茶屋跡。江戸時代後期に箱根権現別当の如実が箱根峠を往来する旅人を救護するため、無料で人馬に食事や焚き火等を提供したことが始まりと伝わる。しかし資金難から行き詰まってしまう。如実は江戸呉服町の加勢屋与兵衛らの協力を仰ぎ、文政7(1824年)幕府の許可を得て再開にこぎつけ、東坂は割石坂上のこの辺りに、西坂が施行平に接待茶屋が設けられた。

県道脇に延びる割石坂上の石畳。割石坂は建久4年(1193年)曽我五郎が父親の仇である工藤祐経を討つべく富士の裾野に向かう途次、刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真っ二つに切り裂いたと伝わる場所。この仇討ちは”曾我兄弟の仇討ち”として知られ、日本三大仇討ちの一つとされる。

ここから先は割石坂に残る江戸時代の石畳。

江戸時代の石畳だけに石の角が取れて丸みを帯びている。

江戸時代の石畳はここで終わり。

この辺りの石畳は近年に補修されたものだろう、石に角が見られ新しい感じ。

再び江戸時代の石畳ゾーン。

江戸時代の石畳が終わり、

石畳の旧道は県道に合流する。

県道に合流して右手、天聖稲荷大権現神社の大鳥居。

発電所前バス停から緩やかに県道を降って。

路傍に咲くアヤメに似た花。調べてみたらシャガという品種らしい。

途中から県道は急勾配な下りに。この辺りが”女転し坂”の坂上と思われる。

県道の右手路傍に”女転し坂”の解説板。この辺りは箱根西坂の難所で急勾配の坂道が長く続いた。馬に乗った婦人がこの坂で落馬し命を落としたことに由来して坂名が付けられたという。

女転し坂の解説板より坂上方向。

女転し坂の解説板付近より坂下方向。現在の県道は急傾斜を避けて大きく迂回している。かつての東海道はここをほぼ直登りしていたと思われる。

女転し坂の県道脇には箱根大天狗山神社の大鳥居。

女転し坂下に架かる須雲川橋。下を流れているのはもちろん須雲川。

須雲川集落の京方(西側)外れにある鎖雲寺。浄瑠璃「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)の主人公、躄勝五郎(いざりかつごろう)と初花の墓がある。

鎖雲禅寺の寺号碑と霊泉の滝。

鎖雲寺東側に鎮座する駒形神社の鳥居。

駒形神社社殿。

駒形神社を過ぎれば須雲川の集落。

須雲川の町並み(箱根・京方)。須雲川の始まりは江戸初期の寛永期頃、東海道箱根峠越えを往来する旅人の便に供すること、かつ街道を維持管理する目的で集落を形成させたことによる。当初は川端という地名で呼ばれ、東海道分間絵図(1690年初版刊行)を見てみると”かわはた”と記されている。

須雲川集落の東(小田原・江戸方)端、街道は湯本・小田原へ向かって延びる。
【2019年5月2日(木)旧東海道 箱根宿→小田原宿】
前回の歩き旅から約半年も経ってしまった5月1日、随分とさぼっているうちに時代は平成から令和に。その令和初日に歩き旅を再開しようかと小田原へ行ったが生憎の悪天候、予定を変更して先に小田原城址を巡った。翌日に再び小田原を訪れて、箱根湯本駅から箱根登山バスに揺られ畑宿へ。前回訪れた時は紅葉が終えつつある11月下旬、それから季節は一変して春を迎えた5月初め、新緑の山々を眺めつつ畑宿から箱根東坂を降り小田原まで歩こう。

約半年ぶり、再び畑宿に立つ。晩秋の前回とは頬をなでる風が明らかに違う。

本日は箱根東坂の後半、大澤坂・割石坂・女転し坂・葛原坂・観音坂を下り、箱根湯本を経て小田原宿まで行く。

畑宿内を歩き。

前回の歩き旅で寄木細工の秘密箱(貯金箱)を買った浜松屋。

浜松屋(写真右手)の向かいが畑宿本陣茗荷屋跡。

畑宿の町並み(箱根、京方)。

畑宿江戸方端に残る石仏。風化が著しい。

畑宿江戸方端、県道732号から箱根旧街道が分かれる。

畑宿からの箱根旧街道は大澤坂の下り。濡れた石畳はよく滑るので降りは要注意。

大澤坂に残る斜めの排水路。坂上から流れてきた雨水を石畳の外へ排水する仕組み。

良好に石畳を残す大澤坂を降って。

大澤坂下、大沢に架かる板橋。沢は二手に分かれて流れており写真奥にもう一つ板橋が架けられている。

こちらが二つ目の板橋。

大沢から先、湯本・小田原方面の旧道。石畳が崩壊したのか、石が散乱している状態。

県道に合流する手前、石畳があるがこれは近年整備されたもの。

いったん県道に合流し。

すぐに県道左手から旧道が現れる。

接待茶屋跡。江戸時代後期に箱根権現別当の如実が箱根峠を往来する旅人を救護するため、無料で人馬に食事や焚き火等を提供したことが始まりと伝わる。しかし資金難から行き詰まってしまう。如実は江戸呉服町の加勢屋与兵衛らの協力を仰ぎ、文政7(1824年)幕府の許可を得て再開にこぎつけ、東坂は割石坂上のこの辺りに、西坂が施行平に接待茶屋が設けられた。

県道脇に延びる割石坂上の石畳。割石坂は建久4年(1193年)曽我五郎が父親の仇である工藤祐経を討つべく富士の裾野に向かう途次、刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真っ二つに切り裂いたと伝わる場所。この仇討ちは”曾我兄弟の仇討ち”として知られ、日本三大仇討ちの一つとされる。

ここから先は割石坂に残る江戸時代の石畳。

江戸時代の石畳だけに石の角が取れて丸みを帯びている。

江戸時代の石畳はここで終わり。

この辺りの石畳は近年に補修されたものだろう、石に角が見られ新しい感じ。

再び江戸時代の石畳ゾーン。

江戸時代の石畳が終わり、

石畳の旧道は県道に合流する。

県道に合流して右手、天聖稲荷大権現神社の大鳥居。

発電所前バス停から緩やかに県道を降って。

路傍に咲くアヤメに似た花。調べてみたらシャガという品種らしい。

途中から県道は急勾配な下りに。この辺りが”女転し坂”の坂上と思われる。

県道の右手路傍に”女転し坂”の解説板。この辺りは箱根西坂の難所で急勾配の坂道が長く続いた。馬に乗った婦人がこの坂で落馬し命を落としたことに由来して坂名が付けられたという。

女転し坂の解説板より坂上方向。

女転し坂の解説板付近より坂下方向。現在の県道は急傾斜を避けて大きく迂回している。かつての東海道はここをほぼ直登りしていたと思われる。

女転し坂の県道脇には箱根大天狗山神社の大鳥居。

女転し坂下に架かる須雲川橋。下を流れているのはもちろん須雲川。

須雲川集落の京方(西側)外れにある鎖雲寺。浄瑠璃「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)の主人公、躄勝五郎(いざりかつごろう)と初花の墓がある。

鎖雲禅寺の寺号碑と霊泉の滝。

鎖雲寺東側に鎮座する駒形神社の鳥居。

駒形神社社殿。

駒形神社を過ぎれば須雲川の集落。

須雲川の町並み(箱根・京方)。須雲川の始まりは江戸初期の寛永期頃、東海道箱根峠越えを往来する旅人の便に供すること、かつ街道を維持管理する目的で集落を形成させたことによる。当初は川端という地名で呼ばれ、東海道分間絵図(1690年初版刊行)を見てみると”かわはた”と記されている。

須雲川集落の東(小田原・江戸方)端、街道は湯本・小田原へ向かって延びる。

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