三枚橋から須雲川左岸を歩いて小田原へ
【2019年5月2日(木)旧東海道 箱根宿→小田原宿】
箱根八里の難所越えを果たし、三枚橋から須雲川左岸を小田原へ向かって歩む。その道中にある山崎という地は、慶応4年(1868)に起きた戊辰戦争局地戦の一つ、箱根山崎の戦いと呼ばれる古戦場で、旧幕府遊撃隊と小田原藩を先鋒とする新政府軍がここで交戦した。この一戦で遊撃隊長の伊庭八郎は左手を失ないながらも、最後の箱館戦争まで新政府軍に抗戦、隻腕の剣客として知る人も多いことだろう。少々話は逸れるが、この遊撃隊に加わっていた林忠崇をご存じだろうか。上総国請西藩(現 千葉県木更津市請西)の藩主でありながら、自ら脱藩して家臣を引き連れ遊撃隊に参陣したという異端の人物。藩主が脱藩してまで薩摩・長州に抗戦した例は後にも先にも例がない。私的には非常に興味がそそられる人物、いずれ請西藩の旧地を訪ねたい。

三枚橋北詰。現在は国道1号から神奈川県道732号が分岐する地点だが、かつては右折が小田原へ向かう旧東海道、左折すれば江戸期に開かれた箱根七湯に続く七湯道だった。

三枚橋北詰を右折し須雲川左岸を小田原へ向かう。

須雲川左岸に延びる国道1号。その横を小田急ロマンスカーが走り抜けてゆく。

歩道の防護柵には大名行列を模した粋な飾りが。江戸期には数多くの大名行列がここを往来したことだろう。

広く山肌を削って通される国道1号。江戸期とは随分と地形や道は異にしているのだろう。

国道1号から旧東海道が左に分岐。この辺りが山崎と呼ばれる地で、その分岐点に山崎の古戦場碑がある。

山崎の古戦場碑。「明治維新の際 官軍東上ノ途 此地ニ於テ 伊庭八郎等ノ殉幕浪士ト遭遇 激戦の後 是を撃破セリ」と刻む。箱根振興会の建立。

山崎の集落を行く旧東海道。

山崎の集落内に残る小さな石仏。

山崎の東外れ、箱根登山鉄道下を潜り抜けて牛頭天王神社へ通じる参道の入口。ここは湯本村の村人たちが疫病退散を祈願して祀った神社である。

牛頭天王神社の参道石段。明治26年(1893)に石段を敷設したときの記録によれば、石段の数は118段もあるらしい。今日のところは参拝を控えよう…。

山崎の集落を過ぎ、ここで旧道は国道1号に合流する。写真は合流地点から京・箱根方面。その合流点には”箱根町交通安全都市”のモニュメント。

上の写真地点から国道1号を150m程進むと再び旧道が左に分岐して現れる。

駒ノ爪橋跡。左手路傍にある解説板によれば、天保年間(1830~44)に書かれた『新編相模国風土記稿』の入生田村の頁に、「駒留橋 東海道中湯本村界の清水に架す。石橋なり。長3尺(90cm)幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝卿馬蹄の跡と云あり。旅人此橋に足痛の立願す。」と、載っていると説明する。つまり、駒ノ爪橋には源頼朝が乗る馬蹄の跡が残っており、旅人が足が痛まないよう祈願していたらしい。

橋跡近くを流れる沢。そこを渡る箱根登山鉄道の橋は、駒ノ爪開渠と名付けられている。

旧道を進んで入生田踏切。

踏切を越えれば入生田の町並み。

箱根登山鉄道の入生田駅。

入生田の旧東海道から山神社参道が延びる。

そこそこに石段を登れば入生田の山神神社。

山神神社拝殿。

東海道に面して建てられていた長興山紹太寺総門跡。ドイツ人の博物学者ケンペルが、元禄4年(1691)江戸へ向かう途次、この総門を見て「金張りの文字のついた石造りの門が立っている」と『江戸参府紀行』に書き残している。

総門跡の道路脇に残る石。総門に使われていたものといわれる。

江戸時代初期に小田原藩主稲葉氏の菩提寺だった長興山紹太寺。元は小田原城下の山角町(現 南町)にあったが、寛文9年(1669)2代藩主稲葉正則が当地へ移転させ、現在の寺号を称して父母と祖母春日局の霊を弔った。往時は広大な寺域に七堂伽藍を配する黄檗宗関東一の寺院だったが、安政年間と明治初年の火災で焼失。紹太寺の法灯は難を逃れた子院の清雲院が継いだ。今も大きな寺域を持ち、境内裏手には稲葉氏一族と春日局の墓がある。

境内にある「松樹王」の刻銘石。入生田と風祭の東海道筋境にあった境界石で、左側面に「長興山境」とあり寺領を示していた。往時には7箇所あったと伝わり「長興山の七つ石」とも言われたという。

入生田から風祭の集落に入り、万松院川を馬五郎橋で渡る。この橋の西詰が風祭一里塚跡で、解説板が設置されているのだが見逃した。
風祭一里塚は江戸日本橋から21里(約82km)、京三条大橋からは92番目で実測約432km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

箱根登山鉄道の風祭駅。

風祭駅付近、箱根病院前を行く旧東海道(江戸・小田原方面)。

風祭の集落。江戸期の風祭村は小田原藩領で、小田原宿の助郷を務めた。

日蓮宗妙覚寺。

風祭の集落東外れ、旧東海道沿いにある「郷の詩」碑。
舟出して 港も近き 里の名はげに 白浪の 風祭かな 行こうか板橋 もどろか箱根 思案の涙橋

君田島踏切を渡ったところで国道1号に合流。上を小田原厚木道路が通る。

君田島踏切横から延びる登山道。入口に「日蓮聖人思親の地」を掲げる冠木門が立つ。日蓮聖人が象ケ鼻の巨石に上り、遠く故郷の房総を望み両親を偲んだ。そして曼荼羅本尊を書き、石宝塔を建て、仏を刻んで安置し、病から民衆を救済すべく祈願したという。

君田島踏切を列車が通過。

台地が須雲川に突き出た地点を、鉄道と国道が所狭しと通されている。この突き出た台地が象ケ鼻と呼ばれている場所らしい。江戸期にはそこそこの難所だったことが想像できる。

象ケ鼻の西麓で国道1号から旧道が左に分かれる。

旧道入口にある三界万霊塔。

象ケ鼻西麓の旧道筋にある宗福院地蔵堂(板橋地蔵尊)。古くから”板橋のお地蔵さま”と呼ばれ周辺地域で信仰を集めた。当地では死者が出た時、その家族や縁者が3年間にわたりこの地蔵尊に参詣する習俗があり、縁日(毎年1月と8月の23・24日)に参詣すると故人に似た人に必ず会えるとの伝えがある。

板橋の旧東海道筋にある内野邸。3代100年近くに渡って醤醸造業を営んだ店舗兼住宅で、明治36年(1903)に建てられた。

下田豆腐店(とうふ工房)前より板橋の町並み(京・箱根方面)。

下田豆腐店にあった貼り紙。「本年3月30日をもちまして100余年の下田豆腐店の幕を閉じる事になりました」と書かれており、最近になって廃業したらしい。醤油醸造業の内野家と歴史の長さはほぼ同じ。こういった老舗の店が消えるのは残念なことだ。

板橋の牛頭天王。板橋村の住人が疫病退散を祈願し牛頭天王を祀った神社。地元古老の記憶では明治43年(1910)に建立したと解説版にあり。

牛頭天王への参道入口、旧東海道沿いにある建物。レトロな洋風建築と土蔵が並び建ち、和洋折衷な感じ。

こちらも老舗感たっぷりの廣瀬畳店。

板橋の東外れ。先に見える東海道新幹線の高架橋を潜り抜ければ小田原宿京方入口の板橋見付跡だ。

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