小田原宿
【2019年5月2日(木)旧東海道 小田原宿】

東海道五十三次之内小田原 酒匂川
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「小田原宿」より引用
小田原城の城下町であり宿場町として発展をみせた小田原宿。西に箱根八里と言われた天下の険、難所越えの箱根峠が控え、東には江戸防衛の理由から渡し舟の運行を禁じられた酒匂川が流れる。そのため多くの旅人が小田原に足を留めたことは想像に難くなく、神奈川県内では最大規模の宿場町を形成した。広重は「東海道五十三次之内小田原 酒匂川」の題で、箱根の山々と小田原城下町を背景に、酒匂川を川越人足が肩車や蓮台に乗せて旅人を運ぶ様子を描く。
小田原宿は江戸日本橋から東海道五十三次を9宿目、京都三条大橋から45宿目。天保14年(1843年)当時の人口5404人、家数1542軒、うち本陣4、脇本陣4、旅籠屋95軒。京方より山角町・筋違橋町・欄干橋町・中宿町・本町・宮前町・高梨町・万町・新宿町と続く町並みで、本陣は欄干橋町に1軒、本町に2軒、宮前町に1軒。寛永期(1624~44)以降に小田原城大手口が南から東へ移されるに伴い、宿内東側の街道は大手道に接続する北側に付け替えられ、宿場東口にあった新宿町は新ルート筋の新宿町と旧ルート筋の古新宿に分かれた。名産品は小田原提灯、名物が透頂香やういろう、梅漬等。
。

小田原城下西側の出入口で、小田原宿の京方出入口だった板橋口見附跡。ここを出れば遠く京都に通じていたことから上方口とも呼ばれた。

現地解説板より、江戸時代後期の板橋口付近の様子。上写真の場所に石垣や矢来、矢来門等が設けられ、東側の城下内には領主番所や足軽組長屋が続き、山角町の町家が軒を連ねていた。

板橋口見附跡から参道を延ばす居神神社。

居神神社は山角町と板橋村の鎮守。永正13(1516)伊勢宗瑞(後の北条早雲)に攻められ自害した相模の名族三浦義意の首がここに飛来し、やがて祭神として祀られるようになったという。

居神神社境内の古碑群。文保元年(1317)銘の大日、元享2年(1322)銘の阿弥陀の両種子板費や線刻五輪塔など、小田原城下に残る最古の古碑が並ぶ。

境内にある「勝って兜の緒を締めよ」碑。誰もが知るこの格言は北条早雲の嫡男、北条氏綱の遺言。

板橋口見附跡の南側にある大久寺。天正18年(1590)秀吉による小田原征伐により北条氏が滅亡すると、徳川家譜代家臣の大久保忠世が小田原城の城主に就き、遠江から僧を招いて自らを開基として大久寺を建立、大久保家の菩提寺とした。境内には大久保一族の墓所があり、小田原市の史跡に指定される。

かつて板橋口見附跡付近の国道1号沿いには、御組(足軽組)長屋が設けられ、小田原城下の京側入口を守衛していた。

早川口交差点付近、南町歩道橋上より国道1号東方面を望む。かつては山角町の町家が沿道に並んでいたはずだが、国道が通されて往時の面影は無い。写真右の歩道橋袂辺りが豆相人車鉄道・軽便鉄道の小田原駅跡。ここは明治29年(1896)に開通した豆相人車鉄道の小田原駅があった場所で、後に軽便鉄道の駅として大正11年(1922)国鉄熱海線が真鶴まで開通するまで存在した。

「御菓子司 松坂屋本店」の屋号を掲げる商家。

旧山角町・筋違橋町の境辺り、国道1号北側に鎮座する天神社。北条氏康が小田原の文運隆盛を祈願し、祭神を勧請して建立したと伝わる。

天神社の鳥居前から東に約5、60m程行ったところ。路傍に対潮閣(山下亀三郎別邸)跡の解説板がある。ここは山下汽船(現 商船三井)の創業者、山下亀三郎の別邸対潮閣の正面入口があった場所。対潮閣には山下亀三郎と同郷で懇意にしていた秋山真之(海軍中将で、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公)が度々訪れた。、秋山真之はここで奇しくも病が悪化し最期を迎えることになる。

現地設置の解説板より。対潮閣の平面図。現在、建物は残っておらず跡地は私有地になっている。

現地設置の解説板より。

国道1号、旧山角町の東端辺りより旧筋違橋町方面。

諸白小路バス停。かつてこの辺りの国道1号から南側一帯は中級藩士が住む武家地で、諸白小路や天神小路、狩野殿小路などの小路が東海道から南に向かって延びていた。

旧筋違橋町の町並み。

旧筋違橋町の東端にあたる箱根口交差点。写真奥が江戸方の旧欄干橋町、左に曲がれば小田原城内南側出入口の箱根口門跡に至り、右折が旧安斎小路。

旧欄干橋町の町並み。左手の天守閣を模した建物は”ういろう本店”。

ういろう本店は、戦国期に京都を本拠としていた外郎(ういろう)家が、永正年間(1504~21)に北条早雲(氏綱との説も)からの招きにより、分家して小田原で薬の製造販売を始めたことに起源がある。この薬は外郎薬(ういろうぐすり)や透頂香(とうちんこう)とも呼ばれ、今で言う仁丹によく似た形状と効能がある。以来、約500年に渡り小田原で商売を続けてきた関東屈指の老舗なのだ。現在は接待用に作られていた菓子”ういろう”と共に、薬の製造販売を続けている。

ういろう本店斜向かいにある”欄干橋 ちん里う”。明治初期に創業した梅干し専門店。

”欄干橋 ちん里う”店頭のショーケースには明治・大正期に漬けられた梅干しを展示している。最も古いものは店内にあって、およそ150年前の明治元年。見た目は干からびた塩梅、食べたらどんな味、いやいや歴史を感じられるのだろうか。

ういろう本店向かいが欄干橋町にあった清水彦十郎本陣跡。出雲松江の松平家や美濃大垣の戸田家などの大名家が定宿とした。現在は跡地に解説碑があるのみ。

旧中宿町に入ってすぐ右手にある小西薬局。小西家は江戸期からの老舗商家。

小西薬局の店構え。明治・大正・昭和の歴史を感じる佇まい。

間中病院がある場所が上の問屋場跡。小田原宿にはここ旧中宿町と旧高梨町に問屋場が置かれていた。

旧中宿町の東端、御幸ノ浜交差点北西角にある田代商店。江戸時代末期に”大坂や”や熊野や”という旅籠があった場所で、左隣りは虎や三四郎脇本陣跡。ここで酒好きにはたまらないつまみ、カツオとマグロの酒盗を買う。

御幸ノ浜交差点がかつての中宿町と本町の境にあたり、その本町側の交差点南東角辺りが久保田甚四郎本陣跡。紀州徳川家、九州の黒田家や鍋島家、中国地方の毛利家といった大名家が定宿としていた。

久保田甚四郎本陣跡前の路傍には解説碑を設けている。

旧本町の町並み(江戸方向)。本町は隣の宮前町とともに小田原宿の中心をなし、本陣2軒と脇本陣2軒が設けられていた。

旧本町にあった片岡永左ヱ門本陣跡。伊予松山の松平家などが定宿としていた。現在は高層のマンションが建つ。

山室電機の辺りが福住や兵助脇本陣跡。左隣の鈴松蒲鉾店から右に入る脇道沿いが旧市場横丁で、かつては本町と宮前町の境をなしていた。

丁字路の本町交差点。この辺りは本町の地名になっているが旧宮前町にあたり、丁字路突き当り(写真右手前)に小田原宿なりわい交流館がある。翌日に小田原北條五代祭りを控え、神輿が横断歩道を渡って運ばれる。

本町交差点の北西角に高札場跡の解説碑。

旧東海道南側の裏道は”かまぼこ通り”と称し、沿道には小田原蒲鉾発祥の店”鱗吉(うろこき)”がある。

旧宮前町の中心にあった清水金左ヱ門本陣跡。清水金左ヱ門家は北条氏の家臣で、伊豆下田城主の子孫とも伝わる名家、小田原宿の筆頭本陣を務めた。尾張徳川家や九州の島津家、細川家などの大名家が定宿にしている。

清水金左ヱ門本陣跡に設けられる”明治天皇小田原在所阯”碑。明治天皇は明治元年(1868)の東京遷都や全国巡幸等で、5回にわたりここで宿泊した。

清水金左ヱ門本陣跡前には”宮前町”碑。写真右の幸繁辺りに”米や三右ヱ門脇本陣”があった。

清水金左ヱ門本陣跡の東隣りが古清水旅館(脇本陣)跡。近年まで旅館があったようだが、現在はマンションが建てられており、入口に「小田原宿 脇本陣古清水旅館 2F資料館」と記す看板を掲げる。その看板上には小田原空襲の解説板。

現地解説板より小田原空襲被災地図。昭和20年(1945)に小田原市はB29一機による焼夷弾空襲を受け、現在の浜町・本町辺り一帯がこの戦災に遭い、400軒程の家屋が焼失、十数名の死者を出したという。

ここにあった古清水旅館は小田原空襲で焼け落ちた。

清水金左ヱ門 本陣跡から北に延びる参道を進み松原神社に。

松原神社は久安年間(1145~50)の勧請、後醍醐天皇の時代に真鶴が当所に棲み鶴の森明神と称し、天文年間(1532~55)に山王原松原の海中より現れた十一面観音を祀ったことを機に松原大明神へと改称した伝わる。小田原北条氏から厚い崇敬を受け、江戸期に入ってからも歴代藩主から保護があり、小田原城下十九町の総鎮守となった。明治6年(1873)現社名の松原神社に改称。

清水金左ヱ門 本陣跡前より江戸方の旧高梨町方面。右手のマンションが古清水旅館(脇本陣)跡。

青物町交差点。この辺りが旧宮前町から旧高梨町に入ったところで、かつては甲州道との分岐点だった。交差点の北側(写真左方向)旧甲州道沿道は青物町商店街になっている。

青物町商店街。青物町は北条氏治世の時代、野菜の市が立っていたことに地名の由来があると云われ、江戸期には商人が多く住む町人町だった。

旧高梨町にあった下の問屋場跡。

旧高梨町から旧万町に入って右手には”小田原かまぼこ”を製造販売する”丸う 田代総本店”。創業140年の老舗。

万町碑より京方の旧高梨町方面。

万町碑と”丸う 田代総本店”。

旧万町東側の万町碑。付近沿道には明治11年(1878)創業の山上かまぼこ店(右手前)がある。

万町は古くから”よろっちょう”と呼ばれ、町内には七里役所が設けられていた。七里役所は丸子(鞠子)宿や由比(由井)の記事でも書いたが、紀州徳川家専用の飛脚継立所で、江戸から和歌山の間、七里(約28km)毎に23ヶ所設けられていた。

山上かまぼこ店の先で旧東海道は丁字路の突き当りを左折。ここが寛永期(1624~44)以降に小田原城大手口が南から東へ移されるに伴い東海道が付け替えられた地点。寛永期以前の東海道は右(海側)に曲がってすぐに左折して東進するルートだったのだろう。その沿道は古新宿という地名を称していた。

丁字路から振り返って京方の旧万町方面。右がかつての新宿町、左が古新宿へ至る。

丁字路を曲がってすぐ、路傍に”鍋町”碑と民家一角に第十六区自治会が設置した鍋町の解説柱が立つ。

鍋町は古新宿と新宿町の一部を含む小町で、北条氏時代から鍋などを作る鋳物師が多く住んでいたので、この町名が付いたといわれる。

鍋町の旧東海道(右手前)から国道1号(右奥)に合流。この辺りからの国道沿いがかつての新宿町。

国道1号沿いにある浜町バス停。

浜町バス停横には”新宿町”碑。

国道1号に架かる浜町歩道橋辺りが小田原宿江戸方出入口の江戸口見附跡。

江戸口見附外、南側にあった山王原一里塚跡。天保年間(1831~45)には片側だけの塚になっていたらしい。山王原一里塚は江戸日本橋から20里(約79km)、京三条大橋からは93番目で実測約436km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

江戸見附跡の国道1号に架かる浜町歩道橋より、京方の旧新宿町を望む。

江戸口見附跡に設けられる解説板。

現地設置の解説板より。大正時代初期の江戸口見附。クランク上に曲がる道に枡形の名残りが見られよう。
ここでで本日の旧東海道歩きは終わり。最後に小田原城へ行こう。

難攻不落の名城といわれた小田原城の夜景。

そして家に帰るべく小田原駅に。駅構内には巨大な小田原提灯。昔は小田原の名産品だったが、今では提灯を製造販売する店を見かけることもなく…。

小田原土産に買ったものがこれ。ういろう、蒲鉾、梅干し、酒盗。
【旧東海道歩き 第36日目】畑宿バス停→畑宿(間の宿)→小田原宿 歩行距離約16km

東海道五十三次之内小田原 酒匂川
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「小田原宿」より引用
小田原城の城下町であり宿場町として発展をみせた小田原宿。西に箱根八里と言われた天下の険、難所越えの箱根峠が控え、東には江戸防衛の理由から渡し舟の運行を禁じられた酒匂川が流れる。そのため多くの旅人が小田原に足を留めたことは想像に難くなく、神奈川県内では最大規模の宿場町を形成した。広重は「東海道五十三次之内小田原 酒匂川」の題で、箱根の山々と小田原城下町を背景に、酒匂川を川越人足が肩車や蓮台に乗せて旅人を運ぶ様子を描く。
小田原宿は江戸日本橋から東海道五十三次を9宿目、京都三条大橋から45宿目。天保14年(1843年)当時の人口5404人、家数1542軒、うち本陣4、脇本陣4、旅籠屋95軒。京方より山角町・筋違橋町・欄干橋町・中宿町・本町・宮前町・高梨町・万町・新宿町と続く町並みで、本陣は欄干橋町に1軒、本町に2軒、宮前町に1軒。寛永期(1624~44)以降に小田原城大手口が南から東へ移されるに伴い、宿内東側の街道は大手道に接続する北側に付け替えられ、宿場東口にあった新宿町は新ルート筋の新宿町と旧ルート筋の古新宿に分かれた。名産品は小田原提灯、名物が透頂香やういろう、梅漬等。
。

小田原城下西側の出入口で、小田原宿の京方出入口だった板橋口見附跡。ここを出れば遠く京都に通じていたことから上方口とも呼ばれた。

現地解説板より、江戸時代後期の板橋口付近の様子。上写真の場所に石垣や矢来、矢来門等が設けられ、東側の城下内には領主番所や足軽組長屋が続き、山角町の町家が軒を連ねていた。

板橋口見附跡から参道を延ばす居神神社。

居神神社は山角町と板橋村の鎮守。永正13(1516)伊勢宗瑞(後の北条早雲)に攻められ自害した相模の名族三浦義意の首がここに飛来し、やがて祭神として祀られるようになったという。

居神神社境内の古碑群。文保元年(1317)銘の大日、元享2年(1322)銘の阿弥陀の両種子板費や線刻五輪塔など、小田原城下に残る最古の古碑が並ぶ。

境内にある「勝って兜の緒を締めよ」碑。誰もが知るこの格言は北条早雲の嫡男、北条氏綱の遺言。

板橋口見附跡の南側にある大久寺。天正18年(1590)秀吉による小田原征伐により北条氏が滅亡すると、徳川家譜代家臣の大久保忠世が小田原城の城主に就き、遠江から僧を招いて自らを開基として大久寺を建立、大久保家の菩提寺とした。境内には大久保一族の墓所があり、小田原市の史跡に指定される。

かつて板橋口見附跡付近の国道1号沿いには、御組(足軽組)長屋が設けられ、小田原城下の京側入口を守衛していた。

早川口交差点付近、南町歩道橋上より国道1号東方面を望む。かつては山角町の町家が沿道に並んでいたはずだが、国道が通されて往時の面影は無い。写真右の歩道橋袂辺りが豆相人車鉄道・軽便鉄道の小田原駅跡。ここは明治29年(1896)に開通した豆相人車鉄道の小田原駅があった場所で、後に軽便鉄道の駅として大正11年(1922)国鉄熱海線が真鶴まで開通するまで存在した。

「御菓子司 松坂屋本店」の屋号を掲げる商家。

旧山角町・筋違橋町の境辺り、国道1号北側に鎮座する天神社。北条氏康が小田原の文運隆盛を祈願し、祭神を勧請して建立したと伝わる。

天神社の鳥居前から東に約5、60m程行ったところ。路傍に対潮閣(山下亀三郎別邸)跡の解説板がある。ここは山下汽船(現 商船三井)の創業者、山下亀三郎の別邸対潮閣の正面入口があった場所。対潮閣には山下亀三郎と同郷で懇意にしていた秋山真之(海軍中将で、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公)が度々訪れた。、秋山真之はここで奇しくも病が悪化し最期を迎えることになる。

現地設置の解説板より。対潮閣の平面図。現在、建物は残っておらず跡地は私有地になっている。

現地設置の解説板より。

国道1号、旧山角町の東端辺りより旧筋違橋町方面。

諸白小路バス停。かつてこの辺りの国道1号から南側一帯は中級藩士が住む武家地で、諸白小路や天神小路、狩野殿小路などの小路が東海道から南に向かって延びていた。

旧筋違橋町の町並み。

旧筋違橋町の東端にあたる箱根口交差点。写真奥が江戸方の旧欄干橋町、左に曲がれば小田原城内南側出入口の箱根口門跡に至り、右折が旧安斎小路。

旧欄干橋町の町並み。左手の天守閣を模した建物は”ういろう本店”。

ういろう本店は、戦国期に京都を本拠としていた外郎(ういろう)家が、永正年間(1504~21)に北条早雲(氏綱との説も)からの招きにより、分家して小田原で薬の製造販売を始めたことに起源がある。この薬は外郎薬(ういろうぐすり)や透頂香(とうちんこう)とも呼ばれ、今で言う仁丹によく似た形状と効能がある。以来、約500年に渡り小田原で商売を続けてきた関東屈指の老舗なのだ。現在は接待用に作られていた菓子”ういろう”と共に、薬の製造販売を続けている。

ういろう本店斜向かいにある”欄干橋 ちん里う”。明治初期に創業した梅干し専門店。

”欄干橋 ちん里う”店頭のショーケースには明治・大正期に漬けられた梅干しを展示している。最も古いものは店内にあって、およそ150年前の明治元年。見た目は干からびた塩梅、食べたらどんな味、いやいや歴史を感じられるのだろうか。

ういろう本店向かいが欄干橋町にあった清水彦十郎本陣跡。出雲松江の松平家や美濃大垣の戸田家などの大名家が定宿とした。現在は跡地に解説碑があるのみ。

旧中宿町に入ってすぐ右手にある小西薬局。小西家は江戸期からの老舗商家。

小西薬局の店構え。明治・大正・昭和の歴史を感じる佇まい。

間中病院がある場所が上の問屋場跡。小田原宿にはここ旧中宿町と旧高梨町に問屋場が置かれていた。

旧中宿町の東端、御幸ノ浜交差点北西角にある田代商店。江戸時代末期に”大坂や”や熊野や”という旅籠があった場所で、左隣りは虎や三四郎脇本陣跡。ここで酒好きにはたまらないつまみ、カツオとマグロの酒盗を買う。

御幸ノ浜交差点がかつての中宿町と本町の境にあたり、その本町側の交差点南東角辺りが久保田甚四郎本陣跡。紀州徳川家、九州の黒田家や鍋島家、中国地方の毛利家といった大名家が定宿としていた。

久保田甚四郎本陣跡前の路傍には解説碑を設けている。

旧本町の町並み(江戸方向)。本町は隣の宮前町とともに小田原宿の中心をなし、本陣2軒と脇本陣2軒が設けられていた。

旧本町にあった片岡永左ヱ門本陣跡。伊予松山の松平家などが定宿としていた。現在は高層のマンションが建つ。

山室電機の辺りが福住や兵助脇本陣跡。左隣の鈴松蒲鉾店から右に入る脇道沿いが旧市場横丁で、かつては本町と宮前町の境をなしていた。

丁字路の本町交差点。この辺りは本町の地名になっているが旧宮前町にあたり、丁字路突き当り(写真右手前)に小田原宿なりわい交流館がある。翌日に小田原北條五代祭りを控え、神輿が横断歩道を渡って運ばれる。

本町交差点の北西角に高札場跡の解説碑。

旧東海道南側の裏道は”かまぼこ通り”と称し、沿道には小田原蒲鉾発祥の店”鱗吉(うろこき)”がある。

旧宮前町の中心にあった清水金左ヱ門本陣跡。清水金左ヱ門家は北条氏の家臣で、伊豆下田城主の子孫とも伝わる名家、小田原宿の筆頭本陣を務めた。尾張徳川家や九州の島津家、細川家などの大名家が定宿にしている。

清水金左ヱ門本陣跡に設けられる”明治天皇小田原在所阯”碑。明治天皇は明治元年(1868)の東京遷都や全国巡幸等で、5回にわたりここで宿泊した。

清水金左ヱ門本陣跡前には”宮前町”碑。写真右の幸繁辺りに”米や三右ヱ門脇本陣”があった。

清水金左ヱ門本陣跡の東隣りが古清水旅館(脇本陣)跡。近年まで旅館があったようだが、現在はマンションが建てられており、入口に「小田原宿 脇本陣古清水旅館 2F資料館」と記す看板を掲げる。その看板上には小田原空襲の解説板。

現地解説板より小田原空襲被災地図。昭和20年(1945)に小田原市はB29一機による焼夷弾空襲を受け、現在の浜町・本町辺り一帯がこの戦災に遭い、400軒程の家屋が焼失、十数名の死者を出したという。

ここにあった古清水旅館は小田原空襲で焼け落ちた。

清水金左ヱ門 本陣跡から北に延びる参道を進み松原神社に。

松原神社は久安年間(1145~50)の勧請、後醍醐天皇の時代に真鶴が当所に棲み鶴の森明神と称し、天文年間(1532~55)に山王原松原の海中より現れた十一面観音を祀ったことを機に松原大明神へと改称した伝わる。小田原北条氏から厚い崇敬を受け、江戸期に入ってからも歴代藩主から保護があり、小田原城下十九町の総鎮守となった。明治6年(1873)現社名の松原神社に改称。

清水金左ヱ門 本陣跡前より江戸方の旧高梨町方面。右手のマンションが古清水旅館(脇本陣)跡。

青物町交差点。この辺りが旧宮前町から旧高梨町に入ったところで、かつては甲州道との分岐点だった。交差点の北側(写真左方向)旧甲州道沿道は青物町商店街になっている。

青物町商店街。青物町は北条氏治世の時代、野菜の市が立っていたことに地名の由来があると云われ、江戸期には商人が多く住む町人町だった。

旧高梨町にあった下の問屋場跡。

旧高梨町から旧万町に入って右手には”小田原かまぼこ”を製造販売する”丸う 田代総本店”。創業140年の老舗。

万町碑より京方の旧高梨町方面。

万町碑と”丸う 田代総本店”。

旧万町東側の万町碑。付近沿道には明治11年(1878)創業の山上かまぼこ店(右手前)がある。

万町は古くから”よろっちょう”と呼ばれ、町内には七里役所が設けられていた。七里役所は丸子(鞠子)宿や由比(由井)の記事でも書いたが、紀州徳川家専用の飛脚継立所で、江戸から和歌山の間、七里(約28km)毎に23ヶ所設けられていた。

山上かまぼこ店の先で旧東海道は丁字路の突き当りを左折。ここが寛永期(1624~44)以降に小田原城大手口が南から東へ移されるに伴い東海道が付け替えられた地点。寛永期以前の東海道は右(海側)に曲がってすぐに左折して東進するルートだったのだろう。その沿道は古新宿という地名を称していた。

丁字路から振り返って京方の旧万町方面。右がかつての新宿町、左が古新宿へ至る。

丁字路を曲がってすぐ、路傍に”鍋町”碑と民家一角に第十六区自治会が設置した鍋町の解説柱が立つ。

鍋町は古新宿と新宿町の一部を含む小町で、北条氏時代から鍋などを作る鋳物師が多く住んでいたので、この町名が付いたといわれる。

鍋町の旧東海道(右手前)から国道1号(右奥)に合流。この辺りからの国道沿いがかつての新宿町。

国道1号沿いにある浜町バス停。

浜町バス停横には”新宿町”碑。

国道1号に架かる浜町歩道橋辺りが小田原宿江戸方出入口の江戸口見附跡。

江戸口見附外、南側にあった山王原一里塚跡。天保年間(1831~45)には片側だけの塚になっていたらしい。山王原一里塚は江戸日本橋から20里(約79km)、京三条大橋からは93番目で実測約436km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

江戸見附跡の国道1号に架かる浜町歩道橋より、京方の旧新宿町を望む。

江戸口見附跡に設けられる解説板。

現地設置の解説板より。大正時代初期の江戸口見附。クランク上に曲がる道に枡形の名残りが見られよう。
ここでで本日の旧東海道歩きは終わり。最後に小田原城へ行こう。

難攻不落の名城といわれた小田原城の夜景。

そして家に帰るべく小田原駅に。駅構内には巨大な小田原提灯。昔は小田原の名産品だったが、今では提灯を製造販売する店を見かけることもなく…。

小田原土産に買ったものがこれ。ういろう、蒲鉾、梅干し、酒盗。
【旧東海道歩き 第36日目】畑宿バス停→畑宿(間の宿)→小田原宿 歩行距離約16km

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