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小田原宿

【2019年5月2日(木)旧東海道 小田原宿】
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東海道五十三次之内小田原 酒匂川
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「小田原宿」より引用

小田原城の城下町であり宿場町として発展をみせた小田原宿。西に箱根八里と言われた天下の険、難所越えの箱根峠が控え、東には江戸防衛の理由から渡し舟の運行を禁じられた酒匂川が流れる。そのため多くの旅人が小田原に足を留めたことは想像に難くなく、神奈川県内では最大規模の宿場町を形成した。広重は「東海道五十三次之内小田原 酒匂川」の題で、箱根の山々と小田原城下町を背景に、酒匂川を川越人足が肩車や蓮台に乗せて旅人を運ぶ様子を描く。

小田原宿は江戸日本橋から東海道五十三次を9宿目、京都三条大橋から45宿目。天保14年(1843年)当時の人口5404人、家数1542軒、うち本陣4、脇本陣4、旅籠屋95軒。京方より山角町・筋違橋町・欄干橋町・中宿町・本町・宮前町・高梨町・万町・新宿町と続く町並みで、本陣は欄干橋町に1軒、本町に2軒、宮前町に1軒。寛永期(1624~44)以降に小田原城大手口が南から東へ移されるに伴い、宿内東側の街道は大手道に接続する北側に付け替えられ、宿場東口にあった新宿町は新ルート筋の新宿町と旧ルート筋の古新宿に分かれた。名産品は小田原提灯、名物が透頂香やういろう、梅漬等。




板橋見付跡
小田原城下西側の出入口で、小田原宿の京方出入口だった板橋口見附跡。ここを出れば遠く京都に通じていたことから上方口とも呼ばれた。


江戸時代後期の板橋口付近の様子
現地解説板より、江戸時代後期の板橋口付近の様子。上写真の場所に石垣や矢来、矢来門等が設けられ、東側の城下内には領主番所や足軽組長屋が続き、山角町の町家が軒を連ねていた。


居神神社
板橋口見附跡から参道を延ばす居神神社。


居神神社
居神神社は山角町と板橋村の鎮守。永正13(1516)伊勢宗瑞(後の北条早雲)に攻められ自害した相模の名族三浦義意の首がここに飛来し、やがて祭神として祀られるようになったという。


居神神社境内の古碑群
居神神社境内の古碑群。文保元年(1317)銘の大日、元享2年(1322)銘の阿弥陀の両種子板費や線刻五輪塔など、小田原城下に残る最古の古碑が並ぶ。


「勝って兜の緒を締めよ」碑
境内にある「勝って兜の緒を締めよ」碑。誰もが知るこの格言は北条早雲の嫡男、北条氏綱の遺言。


大久寺
板橋口見附跡の南側にある大久寺。天正18年(1590)秀吉による小田原征伐により北条氏が滅亡すると、徳川家譜代家臣の大久保忠世が小田原城の城主に就き、遠江から僧を招いて自らを開基として大久寺を建立、大久保家の菩提寺とした。境内には大久保一族の墓所があり、小田原市の史跡に指定される。


御組長屋跡
かつて板橋口見附跡付近の国道1号沿いには、御組(足軽組)長屋が設けられ、小田原城下の京側入口を守衛していた。


豆相人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡
早川口交差点付近、南町歩道橋上より国道1号東方面を望む。かつては山角町の町家が沿道に並んでいたはずだが、国道が通されて往時の面影は無い。写真右の歩道橋袂辺りが豆相人車鉄道・軽便鉄道の小田原駅跡。ここは明治29年(1896)に開通した豆相人車鉄道の小田原駅があった場所で、後に軽便鉄道の駅として大正11年(1922)国鉄熱海線が真鶴まで開通するまで存在した。


松坂屋本店
「御菓子司 松坂屋本店」の屋号を掲げる商家。


天神社
旧山角町・筋違橋町の境辺り、国道1号北側に鎮座する天神社。北条氏康が小田原の文運隆盛を祈願し、祭神を勧請して建立したと伝わる。


対潮閣跡
天神社の鳥居前から東に約5、60m程行ったところ。路傍に対潮閣(山下亀三郎別邸)跡の解説板がある。ここは山下汽船(現 商船三井)の創業者、山下亀三郎の別邸対潮閣の正面入口があった場所。対潮閣には山下亀三郎と同郷で懇意にしていた秋山真之(海軍中将で、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公)が度々訪れた。、秋山真之はここで奇しくも病が悪化し最期を迎えることになる。


対潮閣跡
現地設置の解説板より。対潮閣の平面図。現在、建物は残っておらず跡地は私有地になっている。


対潮閣跡
現地設置の解説板より。


旧山角町
国道1号、旧山角町の東端辺りより旧筋違橋町方面。


諸白小路バス停
諸白小路バス停。かつてこの辺りの国道1号から南側一帯は中級藩士が住む武家地で、諸白小路や天神小路、狩野殿小路などの小路が東海道から南に向かって延びていた。


旧筋違橋町
旧筋違橋町の町並み。


箱根口交差点
旧筋違橋町の東端にあたる箱根口交差点。写真奥が江戸方の旧欄干橋町、左に曲がれば小田原城内南側出入口の箱根口門跡に至り、右折が旧安斎小路。


ういろう本店
旧欄干橋町の町並み。左手の天守閣を模した建物は”ういろう本店”。


ういろう本店
ういろう本店は、戦国期に京都を本拠としていた外郎(ういろう)家が、永正年間(1504~21)に北条早雲(氏綱との説も)からの招きにより、分家して小田原で薬の製造販売を始めたことに起源がある。この薬は外郎薬(ういろうぐすり)や透頂香(とうちんこう)とも呼ばれ、今で言う仁丹によく似た形状と効能がある。以来、約500年に渡り小田原で商売を続けてきた関東屈指の老舗なのだ。現在は接待用に作られていた菓子”ういろう”と共に、薬の製造販売を続けている。


欄干橋 ちん里う
ういろう本店斜向かいにある”欄干橋 ちん里う”。明治初期に創業した梅干し専門店。


欄干橋 ちん里う
”欄干橋 ちん里う”店頭のショーケースには明治・大正期に漬けられた梅干しを展示している。最も古いものは店内にあって、およそ150年前の明治元年。見た目は干からびた塩梅、食べたらどんな味、いやいや歴史を感じられるのだろうか。


清水彦十郎本陣跡
ういろう本店向かいが欄干橋町にあった清水彦十郎本陣跡。出雲松江の松平家や美濃大垣の戸田家などの大名家が定宿とした。現在は跡地に解説碑があるのみ。


小西薬局
旧中宿町に入ってすぐ右手にある小西薬局。小西家は江戸期からの老舗商家。


小西薬局
小西薬局の店構え。明治・大正・昭和の歴史を感じる佇まい。


上の問屋場跡
間中病院がある場所が上の問屋場跡。小田原宿にはここ旧中宿町と旧高梨町に問屋場が置かれていた。


田代商店
旧中宿町の東端、御幸ノ浜交差点北西角にある田代商店。江戸時代末期に”大坂や”や熊野や”という旅籠があった場所で、左隣りは虎や三四郎脇本陣跡。ここで酒好きにはたまらないつまみ、カツオとマグロの酒盗を買う。


久保田甚四郎本陣跡
御幸ノ浜交差点がかつての中宿町と本町の境にあたり、その本町側の交差点南東角辺りが久保田甚四郎本陣跡。紀州徳川家、九州の黒田家や鍋島家、中国地方の毛利家といった大名家が定宿としていた。


久保田甚四郎本陣跡前
久保田甚四郎本陣跡前の路傍には解説碑を設けている。


旧本町
旧本町の町並み(江戸方向)。本町は隣の宮前町とともに小田原宿の中心をなし、本陣2軒と脇本陣2軒が設けられていた。


片岡永左ヱ門本陣跡
旧本町にあった片岡永左ヱ門本陣跡。伊予松山の松平家などが定宿としていた。現在は高層のマンションが建つ。


福住や兵助 脇本陣跡
山室電機の辺りが福住や兵助脇本陣跡。左隣の鈴松蒲鉾店から右に入る脇道沿いが旧市場横丁で、かつては本町と宮前町の境をなしていた。


本町交差点
丁字路の本町交差点。この辺りは本町の地名になっているが旧宮前町にあたり、丁字路突き当り(写真右手前)に小田原宿なりわい交流館がある。翌日に小田原北條五代祭りを控え、神輿が横断歩道を渡って運ばれる。


高札場跡
本町交差点の北西角に高札場跡の解説碑。


かまぼこ通り
旧東海道南側の裏道は”かまぼこ通り”と称し、沿道には小田原蒲鉾発祥の店”鱗吉(うろこき)”がある。


清水金左ヱ門本陣跡
旧宮前町の中心にあった清水金左ヱ門本陣跡。清水金左ヱ門家は北条氏の家臣で、伊豆下田城主の子孫とも伝わる名家、小田原宿の筆頭本陣を務めた。尾張徳川家や九州の島津家、細川家などの大名家が定宿にしている。


清水金左ヱ門本陣跡
清水金左ヱ門本陣跡に設けられる”明治天皇小田原在所阯”碑。明治天皇は明治元年(1868)の東京遷都や全国巡幸等で、5回にわたりここで宿泊した。


宮前町
清水金左ヱ門本陣跡前には”宮前町”碑。写真右の幸繁辺りに”米や三右ヱ門脇本陣”があった。


古清水旅館(脇本陣)跡
清水金左ヱ門本陣跡の東隣りが古清水旅館(脇本陣)跡。近年まで旅館があったようだが、現在はマンションが建てられており、入口に「小田原宿 脇本陣古清水旅館 2F資料館」と記す看板を掲げる。その看板上には小田原空襲の解説板。


小田原空襲被災地図
現地解説板より小田原空襲被災地図。昭和20年(1945)に小田原市はB29一機による焼夷弾空襲を受け、現在の浜町・本町辺り一帯がこの戦災に遭い、400軒程の家屋が焼失、十数名の死者を出したという。


古清水旅館(脇本陣)跡
ここにあった古清水旅館は小田原空襲で焼け落ちた。


松原神社
清水金左ヱ門 本陣跡から北に延びる参道を進み松原神社に。


松原神社
松原神社は久安年間(1145~50)の勧請、後醍醐天皇の時代に真鶴が当所に棲み鶴の森明神と称し、天文年間(1532~55)に山王原松原の海中より現れた十一面観音を祀ったことを機に松原大明神へと改称した伝わる。小田原北条氏から厚い崇敬を受け、江戸期に入ってからも歴代藩主から保護があり、小田原城下十九町の総鎮守となった。明治6年(1873)現社名の松原神社に改称。


清水金左ヱ門本陣跡前
清水金左ヱ門 本陣跡前より江戸方の旧高梨町方面。右手のマンションが古清水旅館(脇本陣)跡。


青物町交差点
青物町交差点。この辺りが旧宮前町から旧高梨町に入ったところで、かつては甲州道との分岐点だった。交差点の北側(写真左方向)旧甲州道沿道は青物町商店街になっている。


青物町商店街
青物町商店街。青物町は北条氏治世の時代、野菜の市が立っていたことに地名の由来があると云われ、江戸期には商人が多く住む町人町だった。


下の問屋場跡
旧高梨町にあった下の問屋場跡。


丸う 田代総本店
旧高梨町から旧万町に入って右手には”小田原かまぼこ”を製造販売する”丸う 田代総本店”。創業140年の老舗。


旧万町
万町碑より京方の旧高梨町方面。


旧万町
万町碑と”丸う 田代総本店”。


旧万町
旧万町東側の万町碑。付近沿道には明治11年(1878)創業の山上かまぼこ店(右手前)がある。


旧万町
万町は古くから”よろっちょう”と呼ばれ、町内には七里役所が設けられていた。七里役所は丸子(鞠子)宿や由比(由井)の記事でも書いたが、紀州徳川家専用の飛脚継立所で、江戸から和歌山の間、七里(約28km)毎に23ヶ所設けられていた。


旧万町
山上かまぼこ店の先で旧東海道は丁字路の突き当りを左折。ここが寛永期(1624~44)以降に小田原城大手口が南から東へ移されるに伴い東海道が付け替えられた地点。寛永期以前の東海道は右(海側)に曲がってすぐに左折して東進するルートだったのだろう。その沿道は古新宿という地名を称していた。


旧万町
丁字路から振り返って京方の旧万町方面。右がかつての新宿町、左が古新宿へ至る。


旧鍋町
丁字路を曲がってすぐ、路傍に”鍋町”碑と民家一角に第十六区自治会が設置した鍋町の解説柱が立つ。


旧鍋町
鍋町は古新宿と新宿町の一部を含む小町で、北条氏時代から鍋などを作る鋳物師が多く住んでいたので、この町名が付いたといわれる。


旧新宿町
鍋町の旧東海道(右手前)から国道1号(右奥)に合流。この辺りからの国道沿いがかつての新宿町。


浜町バス停
国道1号沿いにある浜町バス停。


新宿町碑
浜町バス停横には”新宿町”碑。


江戸口見附跡
国道1号に架かる浜町歩道橋辺りが小田原宿江戸方出入口の江戸口見附跡。


小田原・山王原一里塚跡
江戸口見附外、南側にあった山王原一里塚跡。天保年間(1831~45)には片側だけの塚になっていたらしい。山王原一里塚は江戸日本橋から20里(約79km)、京三条大橋からは93番目で実測約436km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。


江戸口見附跡
江戸見附跡の国道1号に架かる浜町歩道橋より、京方の旧新宿町を望む。


江戸口見付跡
江戸口見附跡に設けられる解説板。


大正時代初期の江戸口見附
現地設置の解説板より。大正時代初期の江戸口見附。クランク上に曲がる道に枡形の名残りが見られよう。
ここでで本日の旧東海道歩きは終わり。最後に小田原城へ行こう。


小田原城夜景
難攻不落の名城といわれた小田原城の夜景。


小田原駅
そして家に帰るべく小田原駅に。駅構内には巨大な小田原提灯。昔は小田原の名産品だったが、今では提灯を製造販売する店を見かけることもなく…。


小田原土産
小田原土産に買ったものがこれ。ういろう、蒲鉾、梅干し、酒盗。


【旧東海道歩き 第36日目】畑宿バス停→畑宿(間の宿)→小田原宿 歩行距離約16km
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小田原城址 ~三の丸・馬屋曲輪・御茶壺曲輪・小峯曲輪~

関東に一大勢力を築いた戦国大名北条氏の本拠だった小田原城。その前身は室町時代中期頃に西相模一帯を支配していた大森氏が八幡山(現 県立小田原高等学校付近)に築いた山城とされる。戦乱の世に台頭した北条早雲が伊豆平定を終えて小田原へ進出、謀略によって大森氏を退け、以来5代約100年にわたって北条氏の居城となり規模を拡大させた。戦国時代に豊臣秀吉の侵攻に備えて城下全体を全長約9kmにわたって空堀と土塁で囲む総構えの縄張りが完成、しかし天正18年(1590)秀吉による小田原征伐で北条氏は籠城して徹底抗戦するも、豊臣方の圧倒的な兵力の前についには落城して滅亡への運命を辿る。

戦後に徳川家譜代の大久保忠世が入城して小田原藩が立藩、規模を縮小して近世城郭に改修された。明治3年(1870)廃城以後に二の丸平櫓を残して建築物は解体、跡地は小田原・足柄県庁や神奈川県支庁に利用され、明治34年(1901)になって旧二の丸に御用邸が建てられた。大正12年(1923)関東大震災で御用邸や二の丸平櫓が倒壊、大部分の石垣も崩れて往時の姿を失うことになる。昭和9年(1934)二の丸平櫓が隅櫓として再建、同35年(1960)天守閣を再建、同46年(1971)に常盤木門、平成になって銅門や馬出門が復元された。




小田原駅
小田原城址の北側に位置する小田原駅から散策をはじめよう!


北条氏政・氏照の墓所
小田原駅付近、栄町2丁目にある北条氏政・氏照の墓所。


北条氏政・氏照の墓所
秀吉の小田原征伐により北条氏四代当主の氏政とその弟氏照は自刃、両人の遺体は当地にあった伝心庵に埋葬される。後に長らく放置されていたところ、稲葉氏が藩主のとき(1633~85)に北条氏を偲んで整備されたという。それから約250年を経て関東大震災(1923)の被害を受け埋没、翌年に地元有志によって復元された。五輪塔の前にある平たい石は、氏政・氏照がこの上で自刃したと伝わる。


上幸田の旧町名碑
三井住友銀行小田原支店前に”上幸田”の旧町名碑。この辺りは三の丸入口の幸田門北側に位置し、かつては隣の下幸田と共に武家町を形成した。町名の由来は北条氏家臣の幸田氏が居住していたことに由来があるとされる。


小田原城三の丸堀跡東辺
三の丸堀跡の東辺。現在は国道255号が通り、その西側(写真右手)が三の丸堀跡。


小田原郵便局前
三の丸堀跡にある小田原郵便局の横から旧三の丸に入れる。


小田原城外堀跡東辺の石垣
小田原郵便局裏手に残る三の丸堀の石垣と土塁。この辺りは市街化したにもかかわらず現存している。


三の丸北東角の土塁
三の丸北東角の土塁。かつては隅櫓が設けられていた。どんな経緯があったのかわからないが、こんな市街化した場所で土塁や石垣が良好に残っているのは奇跡。こういった遺構を見つけるのも城巡りの醍醐味でもある。


三の丸北東角の土塁
三の丸北東角から幸田口門跡に向かって延びる土塁。


幸田門付近の三の丸土塁
幸田口門跡側から三の丸土塁。かつては右が三の丸で左に水堀があった。


幸田門付近の三の丸土塁
幸田口門跡東側に残る三の丸土塁。


幸田口門跡のネコ
幸田口門跡でくつろぐネコ。


幸田口門跡
三の丸土塁から幸田口門跡。かつては正面の建物辺りに幸田口門と枡形が設けられていた。


幸田口門跡
幸田口門跡から三の丸方向。幸田口門は三の丸北側の出入口で、武田信玄や上杉謙信が小田原城を攻めた時、ここから攻め込んだと考えられている。


幸田口門跡
幸田口門跡から城外方向。


幸田門解説板
幸田口門跡に設置される解説板。


小田原城絵図(文久図) 幸田口
小田原城絵図(文久図)より、 幕末の幸田口はこんな感じだった。


幸田口門跡のネコ
ネコに別れを告げて次は大手門跡に向かう。


大手門跡
小田原市民会館前歩道橋より大手門跡。かつては道路の向こう正面辺りに枡形・冠木門・大手門を配置、小田原城で最大の門で、城内への正式な登城路の出入口だった。


小田原城外堀跡東辺02
小田原市民会館前歩道橋より北方向。手前が大手門跡で奥へ延びる道路左手沿道がが三の丸堀跡。


小田原城絵図(文久図) 大手口
小田原城絵図(文久図)より、 幕末の大手口。南側(絵図左側)の三の丸堀沿いを東海道が通り、東海道から大手口へ至る道には浜手口門が設けられている。


大手口跡
大手口跡。かつて枡形を形成した石垣や土塁、水堀は失われ往時の面影はない。


大手門跡
ここが大手門跡で、奥方向が旧三の丸。現在は門跡の一角に鐘楼が設けられている。


大手門跡の鐘楼
大手門跡の鐘楼。江戸期に小田原町の”時の鐘”は浜手口門にあったが、明治期に移転、更に大正期になって現在地に移された。戦時に鐘が軍需資材として供出され、時報はサイレンやチャイムに代えられたが、昭和28年(1953)小田原寺院団により新しく鐘が作られた。


大手門跡
大手口枡形跡より大手門跡。往時の様子を想像し難い現況である。


馬出門とめがね橋
大手門跡から旧三の丸に入り馬出門へ。二の丸堀は水を湛え、そこに架かる”めがね橋”の奥には復元された馬出門。城郭の面影を存分に感じよう。


馬出門
めがね橋上から馬出門。


二の丸堀
めがね橋上から二の丸堀北側。


馬出門
三の丸から馬屋曲輪への出入口、馬出門。


小田原城絵図(文久図) 馬出門・銅門
小田原城絵図(文久図)より、 幕末の馬出門。三の丸から二の丸へ向かう大手筋の正規登城ルートに位置し、石垣と土塀で囲んだ枡形に馬出門と内冠木門を設けていた。


馬出門枡形
馬出門枡形。左が馬出門(三の丸方)、右が内冠木門(馬屋曲輪方)。


馬出口内冠木門
馬屋曲輪側より馬出口内冠木門。


大腰掛跡
馬屋曲輪の大腰掛跡。登城者の待機所や番所として使われた建物の跡地。


馬屋曲輪
大腰掛跡より馬出口内冠木門と銅門を望む。


切石敷井戸
馬屋曲輪の切石敷井戸。


馬屋跡
馬屋曲輪の馬屋跡。江戸時代初期の稲葉氏が藩主の時代には存在し、元禄16年(1703)に発生した地震により焼失したことがわかっている。


馬屋跡
馬屋跡の一角には二の丸観光案内所。


馬屋曲輪
馬屋曲輪より銅門(左手)と馬出口内冠木門(右手)。


銅門と住吉堀
馬屋曲輪と御茶壺曲輪を隔てる住吉堀。昭和58年から平成4年にかけての発掘調査に基づき復元された。


御茶壺曲輪
馬屋曲輪西隣にある御茶壺曲輪の御茶壺蔵跡。江戸期に宇治から徳川将軍家へ茶が献上されており、ここには運搬(茶壺道中)に使われる茶壺の保管蔵があった。茶壺道中の往路(江戸→宇治)は空の茶壺が東海道を通ってl運ばれ、復路(宇治→江戸)は茶が湿気の影響を受けないよう内陸部を通る中山道が使われた。


御茶壺曲輪番所跡
御茶壺曲輪の南門前にあった番所跡。


南曲輪南堀
御茶壺曲輪の西側、南曲輪南堀。写真奥に見える石垣の上が南曲輪。


小峯橋
三の丸と御茶壺曲輪を繋いだ小峯橋。元々は木橋だったが、現在は石橋に架け替えられ”御茶壺橋”とも称している。


御用邸西御門と小峯橋
現地解説板より、明治後期から大正期頃の御用邸西御門と小峯橋。


御感の藤
小峯橋南詰、南曲輪南堀南側にある藤棚。


御感の藤
この藤棚は小田原藩主大久保氏の時代、二の丸御殿に植えられていたものを、明治維新後に小田原町の町民が引き取り育てられたものと伝わる。大正天皇が小田原御用邸の滞在中に、偶然にこの藤棚を見て「見事な花に心なきことよ」と簡単されたことから、”御感の藤”と呼ばれるようになった。


南曲輪南堀
”御感の藤”より南曲輪南堀。


藤棚交差点
小峯橋南袂の藤棚交差点。かつての三の丸南側にあたり、奥に見える建物がその名も三の丸小学校。


三の丸小学校(藩校集成館跡)
三の丸小学校はかつての藩校集成館跡。


箱根口門東櫓台
三の丸南側出入口の箱根口門跡。東櫓台の石垣が残存している。


小田原城絵図(文久図) 箱根口
現地解説板より、小田原城絵図(文久図)より、 幕末の箱根口。


箱根口門東櫓台
箱根口門東櫓台。


箱根口門枡形
箱根口門枡形土塁。


箱根口門枡形跡
箱根口門枡形内より西側。かつての出入口が小路として残っている。かつては右手に箱根口門の西櫓台、小路の両脇に三の丸堀が設けられていた。


箱根口門枡形跡
枡形出入口より箱根口。


三の丸土塁
箱根口付近、小田原スポーツ会館南側に残る三の丸土塁。


箱根口門跡から小峯曲輪へ↓

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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
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【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
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水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
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日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
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京都三条大橋

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