小田原城址 ~御用米曲輪・弁才天曲輪・南曲輪・二の丸・本丸~
私にとって小田原城といえば、「北条氏」「堅城」「小田原評定」といった言葉がまず頭に思い浮かぶ。戦国期に関東で一大勢力を築いた北条氏。大河ドラマでも馴染みが深く、『武田信玄』で氏康を演じた杉良太郎さんはかっこよかったし、近年の『真田丸』で高嶋政伸が演じた氏政は、不気味でありながらどこか憎めない新たな氏政像を見た思いだ。その北条氏が本拠にしたのが小田原城、武田信玄や上杉謙信からの攻撃を退けた難攻不落の堅城というイメージが強い。
そして現代のサラリーマンにも通じるところもあろう「小田原評定」、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で、北条方は城下町全体を空堀と土塁で囲む総構えを築き籠城。しかし援軍を見込めず勝機が見出せない状況で、和睦か抗戦かの対策について何度も評議を続けたが、むなしく時が流れるだけで結論に至らず。その間に秀吉は約15万もの大軍で城を包囲、石垣山一夜城を築くなどして長期戦に備える徹底抗戦の構えを見せ、遅きに失してついに北条氏は降伏した。四代目当主の氏政とその弟氏照は切腹、五代当主氏直は高野山蟄居となり、関東で一大勢力を誇った北条氏は滅びた。この故事から長いだけで結論が出ない会議を指して「小田原評定」と比喩する。
さてさて、小田原城散策の続き。旧御用米曲輪から弁天曲輪を経て二の丸、そして本丸へ。

線路沿いの神奈川県道73号を歩いて御用米曲輪に。ここは本丸北側の下に位置し、米などを保管する蔵が設けられていた。

御用米曲輪北側の土塁に鎮座している蓮池弁財天。北条氏康が江の島の弁財天を勧請したことに始まりがあるとされる。

小田原城絵図(文久図)より、 御用米曲輪と弁才天曲輪。かつては弁才天曲輪の北側に蓮池と呼ばれる天然の水堀があり、その池の中島に弁財天が祀られていたようだ。

弁財天通り路傍にある弁財天の旧町名碑。

蓮池の弁財天が鎮座していた中島があったであろう場所。見ての通り蓮池は完全に消滅している。

弁才天曲輪への出入口だった辺り。奥方向が城内、かつては右手が蓮池、左に二の丸堀、往時の面影を想像し難い現況。

弁才天曲輪跡。周囲の水堀や空堀がほぼ失われている。

弁財天曲輪と二の丸を隔てていた二の丸堀跡。かつては水堀だったが、今は水を失い堀の形状がわかる程度に整備されている。

旧二の丸より弁財天曲輪の東端。堀や土塁が失われており、往時を想像するのは難しい。

学橋より北方向の二の丸堀。

学橋より南方向の二の丸堀。右手に二の丸隅櫓、奥に馬出門へ架かる”めがね橋”が見える。

本丸堀と旧二の丸。二の丸には二の丸御殿が設けられていた。

現地解説板より、江戸時代前期の二の丸御殿(宮内庁図)。藩主の居館を兼ねて行政を担った建物で、寛永年間(1624~44)頃が最も規模が大きく壮麗だったが、元禄16年(1703)の元禄地震で倒壊し焼失、後に再建されて徐々に増築したものの、以前の規模には戻らなかったという。明治3年(1870)小田原が廃城となり解体された。

本丸と二の丸を隔てていた本丸堀、今は花菖蒲園として利用され水堀だったことを偲ばせている。

本丸堀跡の花菖蒲園。訪ねたのが5月初旬で、見ごろには少々早い。6月になると約一万株の花菖蒲が花を開かせる。

旧二の丸にあるイヌマキの古木。小田原市指定天然記念物(昭和49年指定)。

二の丸南東の隅にある平櫓。大正期まで城内に唯一残っていた江戸期の建物だったが、関東大震災で倒壊し後に再建された。現在の櫓は江戸期のものより一回り小さい。

旧二の丸銅門付近にある銅門の土塀模型。

土塀模型横には鋼門の柱を支えていたと伝わる礎石。箱根外輪山産出の安山岩。

二の丸から馬屋曲輪を繋ぐ出入口、銅門(櫓門)。二の丸の正門で、正規登城ルートにあたる。

銅門の名は扉の飾り金具に銅を使っていたことが由来とされる。

銅門枡形。現在の銅門は平成9年(1997)発掘調査の成果や絵図を参考にして復元された。

馬屋曲輪より住吉橋と銅門(内仕切門)。

銅門(櫓門)より住吉堀を望み。

銅門(櫓門)より常盤木門(写真奥)。あの門を潜り抜けた先が本丸。

本丸正面出入口の常盤木門と枡形。江戸時代初期には設けられていた門で、元禄16年(1703)の元禄地震で倒壊、宝永3年(1706)枡形門形式で再建された。明治3年(1870)小田原の廃城に伴い解体。

本丸より常盤木門。

かつて本丸御殿が設けられていた本丸。ここにあった御殿は徳川将軍家専用の宿所として使われたが、寛永10年(1632)の大地震で倒壊し、翌年に上洛する三代将軍家光の宿所として再建された。やはり他の建物と同様に元禄地震で倒壊、後に再建されることはなく現在に至っている。

現地解説板より、江戸時代前期の本丸(宮内庁図)。本丸御殿の間取りが詳細に描かれている。

本丸より天守閣。

本丸にある檻に入ったサル山。猿にとってはちょっと狭そう。

本丸裏口にあたる鉄門跡。本丸と御用米曲輪を繋ぐ門だったが、現在は消え失せている。

城の象徴的建物である天守閣。江戸期には”殿主”や”殿守”と記され、”天守閣”と呼ばれるのは明治期になってからのこと。小田原城の天守はご多分に漏れず元禄地震で倒壊したが、宝永2年(1705)に再建、明治3年(1870)に廃城されるまで存在した。現在の天守閣は昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート製で再建されたもので、平成28年(2016)に耐震性と展示に関して全面的なリニューアルが行われた。

天守閣最上階より本丸と常盤木門。

天守閣最上階より鉄門跡。

天守閣最上階より北西方向、八幡山古郭(戦国期の小田原城)の一つ、東曲輪を望む。

天守閣より箱根方面。写真中央付近、送電塔のある辺りが石垣山一夜城跡。

天守閣より南方向、相模湾と真鶴半島。

天守閣裏手にある”こども遊園地”。

現地解説板より、昭和30年頃の”こども遊園地”。小さな曲輪があったことがわるが、その機能は不明。江戸時代前期の小田原絵図には屏風岩と記されている。

上の写真と近いアングルで撮影。屏風岩の曲輪にあった遊具は撤去されているが、豆汽車の線路だけは今もそのまま。

屏風岩の曲輪跡より天守閣。屏風岩の曲輪は八幡山古郭の最前線にあり、おそらくは”武者溜り”の役割がったのではないか。江戸期には無用の長物と化していたのだろう。

屏風岩の曲輪より豆汽車を眺め。

豆汽車の線路は郭をぐるっと一周。

屏風岩から本丸南側へ移動。小田原市立図書館辺りが旧南曲輪で、左上が本丸、本丸堀跡に道が通されている。

関東大震災で滑り落ちた本丸石垣。この辺りは奇跡的に石積みが崩れずに滑り落ちたため、往時の姿が見られる部分。

現地解説板より、往時の本丸石垣と現況の比較をわかりやすく図示している。

本丸堀跡。左が図書館で旧南曲輪。

旧南曲輪に建つ小田原市郷土文化館。

早川石丁場群の切石。かつて箱根外輪山の早川に面した山腹には石垣用の石を切り出す”石丁場”が広く分布して存在し、現在は総称して早川石丁場群と呼ぶ。江戸時代初期に早川石丁場群で産出された切石は江戸城の石垣に使用された。

小田原城散策を終え、二の丸東堀筋を歩いて小田原駅へ向かう。

帰りの新幹線内にて。お土産の蒲鉾と晩飯の鯛めし。
撮影日:2019年5月1日(水)
そして現代のサラリーマンにも通じるところもあろう「小田原評定」、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で、北条方は城下町全体を空堀と土塁で囲む総構えを築き籠城。しかし援軍を見込めず勝機が見出せない状況で、和睦か抗戦かの対策について何度も評議を続けたが、むなしく時が流れるだけで結論に至らず。その間に秀吉は約15万もの大軍で城を包囲、石垣山一夜城を築くなどして長期戦に備える徹底抗戦の構えを見せ、遅きに失してついに北条氏は降伏した。四代目当主の氏政とその弟氏照は切腹、五代当主氏直は高野山蟄居となり、関東で一大勢力を誇った北条氏は滅びた。この故事から長いだけで結論が出ない会議を指して「小田原評定」と比喩する。
さてさて、小田原城散策の続き。旧御用米曲輪から弁天曲輪を経て二の丸、そして本丸へ。

線路沿いの神奈川県道73号を歩いて御用米曲輪に。ここは本丸北側の下に位置し、米などを保管する蔵が設けられていた。

御用米曲輪北側の土塁に鎮座している蓮池弁財天。北条氏康が江の島の弁財天を勧請したことに始まりがあるとされる。

小田原城絵図(文久図)より、 御用米曲輪と弁才天曲輪。かつては弁才天曲輪の北側に蓮池と呼ばれる天然の水堀があり、その池の中島に弁財天が祀られていたようだ。

弁財天通り路傍にある弁財天の旧町名碑。

蓮池の弁財天が鎮座していた中島があったであろう場所。見ての通り蓮池は完全に消滅している。

弁才天曲輪への出入口だった辺り。奥方向が城内、かつては右手が蓮池、左に二の丸堀、往時の面影を想像し難い現況。

弁才天曲輪跡。周囲の水堀や空堀がほぼ失われている。

弁財天曲輪と二の丸を隔てていた二の丸堀跡。かつては水堀だったが、今は水を失い堀の形状がわかる程度に整備されている。

旧二の丸より弁財天曲輪の東端。堀や土塁が失われており、往時を想像するのは難しい。

学橋より北方向の二の丸堀。

学橋より南方向の二の丸堀。右手に二の丸隅櫓、奥に馬出門へ架かる”めがね橋”が見える。

本丸堀と旧二の丸。二の丸には二の丸御殿が設けられていた。

現地解説板より、江戸時代前期の二の丸御殿(宮内庁図)。藩主の居館を兼ねて行政を担った建物で、寛永年間(1624~44)頃が最も規模が大きく壮麗だったが、元禄16年(1703)の元禄地震で倒壊し焼失、後に再建されて徐々に増築したものの、以前の規模には戻らなかったという。明治3年(1870)小田原が廃城となり解体された。

本丸と二の丸を隔てていた本丸堀、今は花菖蒲園として利用され水堀だったことを偲ばせている。

本丸堀跡の花菖蒲園。訪ねたのが5月初旬で、見ごろには少々早い。6月になると約一万株の花菖蒲が花を開かせる。

旧二の丸にあるイヌマキの古木。小田原市指定天然記念物(昭和49年指定)。

二の丸南東の隅にある平櫓。大正期まで城内に唯一残っていた江戸期の建物だったが、関東大震災で倒壊し後に再建された。現在の櫓は江戸期のものより一回り小さい。

旧二の丸銅門付近にある銅門の土塀模型。

土塀模型横には鋼門の柱を支えていたと伝わる礎石。箱根外輪山産出の安山岩。

二の丸から馬屋曲輪を繋ぐ出入口、銅門(櫓門)。二の丸の正門で、正規登城ルートにあたる。

銅門の名は扉の飾り金具に銅を使っていたことが由来とされる。

銅門枡形。現在の銅門は平成9年(1997)発掘調査の成果や絵図を参考にして復元された。

馬屋曲輪より住吉橋と銅門(内仕切門)。

銅門(櫓門)より住吉堀を望み。

銅門(櫓門)より常盤木門(写真奥)。あの門を潜り抜けた先が本丸。

本丸正面出入口の常盤木門と枡形。江戸時代初期には設けられていた門で、元禄16年(1703)の元禄地震で倒壊、宝永3年(1706)枡形門形式で再建された。明治3年(1870)小田原の廃城に伴い解体。

本丸より常盤木門。

かつて本丸御殿が設けられていた本丸。ここにあった御殿は徳川将軍家専用の宿所として使われたが、寛永10年(1632)の大地震で倒壊し、翌年に上洛する三代将軍家光の宿所として再建された。やはり他の建物と同様に元禄地震で倒壊、後に再建されることはなく現在に至っている。

現地解説板より、江戸時代前期の本丸(宮内庁図)。本丸御殿の間取りが詳細に描かれている。

本丸より天守閣。

本丸にある檻に入ったサル山。猿にとってはちょっと狭そう。

本丸裏口にあたる鉄門跡。本丸と御用米曲輪を繋ぐ門だったが、現在は消え失せている。

城の象徴的建物である天守閣。江戸期には”殿主”や”殿守”と記され、”天守閣”と呼ばれるのは明治期になってからのこと。小田原城の天守はご多分に漏れず元禄地震で倒壊したが、宝永2年(1705)に再建、明治3年(1870)に廃城されるまで存在した。現在の天守閣は昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート製で再建されたもので、平成28年(2016)に耐震性と展示に関して全面的なリニューアルが行われた。

天守閣最上階より本丸と常盤木門。

天守閣最上階より鉄門跡。

天守閣最上階より北西方向、八幡山古郭(戦国期の小田原城)の一つ、東曲輪を望む。

天守閣より箱根方面。写真中央付近、送電塔のある辺りが石垣山一夜城跡。

天守閣より南方向、相模湾と真鶴半島。

天守閣裏手にある”こども遊園地”。

現地解説板より、昭和30年頃の”こども遊園地”。小さな曲輪があったことがわるが、その機能は不明。江戸時代前期の小田原絵図には屏風岩と記されている。

上の写真と近いアングルで撮影。屏風岩の曲輪にあった遊具は撤去されているが、豆汽車の線路だけは今もそのまま。

屏風岩の曲輪跡より天守閣。屏風岩の曲輪は八幡山古郭の最前線にあり、おそらくは”武者溜り”の役割がったのではないか。江戸期には無用の長物と化していたのだろう。

屏風岩の曲輪より豆汽車を眺め。

豆汽車の線路は郭をぐるっと一周。

屏風岩から本丸南側へ移動。小田原市立図書館辺りが旧南曲輪で、左上が本丸、本丸堀跡に道が通されている。

関東大震災で滑り落ちた本丸石垣。この辺りは奇跡的に石積みが崩れずに滑り落ちたため、往時の姿が見られる部分。

現地解説板より、往時の本丸石垣と現況の比較をわかりやすく図示している。

本丸堀跡。左が図書館で旧南曲輪。

旧南曲輪に建つ小田原市郷土文化館。

早川石丁場群の切石。かつて箱根外輪山の早川に面した山腹には石垣用の石を切り出す”石丁場”が広く分布して存在し、現在は総称して早川石丁場群と呼ぶ。江戸時代初期に早川石丁場群で産出された切石は江戸城の石垣に使用された。

小田原城散策を終え、二の丸東堀筋を歩いて小田原駅へ向かう。

帰りの新幹線内にて。お土産の蒲鉾と晩飯の鯛めし。
撮影日:2019年5月1日(水)

スポンサーサイト