三菱大夕張鉄道 ~湖底に沈んだ炭鉱街と鉄路~
かつて夕張線の清水沢駅から大夕張炭山間(17.2km)を結び石炭と旅客をは運んだ三菱大夕張鉄道。昭和48年(1973)三菱大夕張炭鉱の閉山に伴い南大夕張~大夕張炭山間の9.6Kmが廃止、清水沢~南大夕張間(7.6km)の運行は三菱南大夕張炭鉱の石炭輸送と沿線住民の足として存続した。しかし昭和62年(1987年)相次ぐ閉山と合理化があって全線廃止に。平成2年(1990年)三菱南大夕張炭鉱も閉山して大夕張地域の過疎化が進む。平成27年(2015)夕張シューパロダムが完成し、従来からの大夕張ダムによりできたシューパロ湖の水域が拡大、南大夕張~大夕張炭山間の鉄路跡と共に沿線の炭鉱街は湖底に沈んだ。

かつて三菱大夕張鉄道の起点だった旧清水沢駅。駅舎と旧夕張支線ホームの間が不自然に離れているのは、三菱大夕張鉄道のホームがあった痕跡。

清水沢駅から2駅目、7.6km地点にあった南大夕張駅跡に。昭和48年(1973)南大夕張~大夕張炭山間が廃止されてからは、三菱大夕張鉄道の終着駅だった。

南大夕張駅跡にはホームと駅名標が残存し、かつて三菱大夕張鉄道を走り抜けた客車やラッセル車、石炭車が保存展示されている。

三菱大夕張鉄道で使われていた客車のスハニ6。正式名称がスハニ1形式スハニ6形客車なので、車体に記される形式はスハニ1となっている。

スハニ6は明治45年(1912)に製造されたオロシ9216が前身、後にスハニ19114となり、昭和26年(1951)三菱美唄鉄道に移り、荷物室の扉を塞ぐ改造を施してスハフ6に。同29年(1954)鋼体化、荷物室を復活させて今に残るスハニ6となり、同42年(1967)三菱大夕張鉄道に転籍した。

スハニ6の車内。

オハ1形式オハ1形客車。

オハ1は明治39年(1906)に製造されたネオ7が前身。ネオ7はネオ9037→スニ19952→スニ9282→オハフ8857と変遷し、昭和27年(1952)国鉄より三菱大夕張鉄道へ払い下げられた。

オハ1の車窓から。

ここにダルマストーブが設置されていた。

オハ1に乗車して南大夕張駅に着いたよ。気分はそんな感じ。

ナハフ1形式ナハフ1形客車。

ナハフ1は昭和12年(1937)製造のナハ1が前身。同31年(1956)に鋼体化、同42年(1967)車掌室が設けられてナハフ1となった。三菱鉱業の自社発注車。現在、内部の見学はできない。

キ100形式キ1形貨車。昭和15年(1940)製造、三菱鉱業の自社発注車。ラッセル式雪かき車として冬期に活躍した。

前面からキ1。厳寒にもめげそうにない逞しい顔をしてる。

セキ1形式セキ1形貨車とセキ1000形式セキ2形貨車。セキ1は明治44年(1911)製造、前身はオテセ9500形。後にオテセ11000形→セキ1形式セキ118に変遷、旭川電気軌道が買い取りセキ1になり、昭和29年(1954)三菱大夕張鉄道へ譲渡された。
セキ2は昭和9年(1934)の製造。国鉄セキ1000形セキ1217→旭川電気軌道セキ1001と変遷し、昭和29年(1954)三菱大夕張鉄道へ譲渡されセキ2になった。運炭は国鉄から乗入れする石炭車により行われていたので、両貨車とも社線内での自己消費用石炭運搬やバラストの散布に使用された。

南大夕張駅を後にして。

シューパロ湖の湖底に沈んだ明石町跡。

水かさが減り三菱大夕張鉄道の路盤跡が現れている。

これも三菱大夕張鉄道の路盤跡だろう。

湖面に姿を現した旧白銀橋。

旧国道と奥に新白銀橋。

旧白銀橋からの道と旧国道が接続するY字路にカーブミラーのようなものが残っている。

明石町駅跡付近の路盤跡と旧国道。

新白銀橋より明石町駅跡を望む。湖側の道が旧国道、その右隣りを並走する道が三菱大夕張鉄道の路盤跡。

明石町駅跡前。旧国道と駅前通り、駅前に形成した炭鉱街の区画が確認できる。

新白銀橋より千年町・大夕張炭山駅方面。湖側に旧国道、その左に三菱大夕張鉄道の路盤跡が並走する。

明石町~千年町間に残存する旧旭沢橋梁。

昭和4年(1929)大夕張炭鉱の北部開発に伴い南大夕張駅~ 通洞駅(後の大夕張炭山駅)間の9.6kmが延伸開通、これに伴い建造された旧旭沢橋梁。深い渓谷に架けられたラスド・ガーダー形式の美しい橋梁だ。

沢の上流部より旧旭沢橋梁を望む。今から約50年前にここを石炭貨車や客車を牽引するSLが走り抜けていたのだ。

夕張東高校の跡地にある”ふる里大夕張の碑”。シューパロ湖に沈んだ炭鉱街を偲ぶ。

空中写真データ:国土地理院 整理番号HO7213Y-C8-6を基に作成
昭和47年(1972年)撮影、明石町の空中写真。上が千年町・大夕張炭山駅、下が清水沢駅方面。駅の東側一帯に明石町の炭鉱街が形成、西側に夕張東高校があった。

散策中に現れたキタキツネ。悲壮な表情に見えたのは食料を得たいがためなのか、人や車を恐れず近づいてくる。

最後に鹿島地区の大夕張駅付近にあった鹿島小学校跡に。

何もなくなっている鹿島小学校跡。最盛期の鹿島地区は炭鉱街を形成し約2万人が住んでいた。鹿島小学校には2500人以上もの生徒が在籍していたという。シューパロダムの建設により平成10年(1998)全戸移転、小学校も廃校。廃校時の生徒数は12名だった。
撮影日:2019年8月7日(水)

かつて三菱大夕張鉄道の起点だった旧清水沢駅。駅舎と旧夕張支線ホームの間が不自然に離れているのは、三菱大夕張鉄道のホームがあった痕跡。

清水沢駅から2駅目、7.6km地点にあった南大夕張駅跡に。昭和48年(1973)南大夕張~大夕張炭山間が廃止されてからは、三菱大夕張鉄道の終着駅だった。

南大夕張駅跡にはホームと駅名標が残存し、かつて三菱大夕張鉄道を走り抜けた客車やラッセル車、石炭車が保存展示されている。

三菱大夕張鉄道で使われていた客車のスハニ6。正式名称がスハニ1形式スハニ6形客車なので、車体に記される形式はスハニ1となっている。

スハニ6は明治45年(1912)に製造されたオロシ9216が前身、後にスハニ19114となり、昭和26年(1951)三菱美唄鉄道に移り、荷物室の扉を塞ぐ改造を施してスハフ6に。同29年(1954)鋼体化、荷物室を復活させて今に残るスハニ6となり、同42年(1967)三菱大夕張鉄道に転籍した。

スハニ6の車内。

オハ1形式オハ1形客車。

オハ1は明治39年(1906)に製造されたネオ7が前身。ネオ7はネオ9037→スニ19952→スニ9282→オハフ8857と変遷し、昭和27年(1952)国鉄より三菱大夕張鉄道へ払い下げられた。

オハ1の車窓から。

ここにダルマストーブが設置されていた。

オハ1に乗車して南大夕張駅に着いたよ。気分はそんな感じ。

ナハフ1形式ナハフ1形客車。

ナハフ1は昭和12年(1937)製造のナハ1が前身。同31年(1956)に鋼体化、同42年(1967)車掌室が設けられてナハフ1となった。三菱鉱業の自社発注車。現在、内部の見学はできない。

キ100形式キ1形貨車。昭和15年(1940)製造、三菱鉱業の自社発注車。ラッセル式雪かき車として冬期に活躍した。

前面からキ1。厳寒にもめげそうにない逞しい顔をしてる。

セキ1形式セキ1形貨車とセキ1000形式セキ2形貨車。セキ1は明治44年(1911)製造、前身はオテセ9500形。後にオテセ11000形→セキ1形式セキ118に変遷、旭川電気軌道が買い取りセキ1になり、昭和29年(1954)三菱大夕張鉄道へ譲渡された。
セキ2は昭和9年(1934)の製造。国鉄セキ1000形セキ1217→旭川電気軌道セキ1001と変遷し、昭和29年(1954)三菱大夕張鉄道へ譲渡されセキ2になった。運炭は国鉄から乗入れする石炭車により行われていたので、両貨車とも社線内での自己消費用石炭運搬やバラストの散布に使用された。

南大夕張駅を後にして。

シューパロ湖の湖底に沈んだ明石町跡。

水かさが減り三菱大夕張鉄道の路盤跡が現れている。

これも三菱大夕張鉄道の路盤跡だろう。

湖面に姿を現した旧白銀橋。

旧国道と奥に新白銀橋。

旧白銀橋からの道と旧国道が接続するY字路にカーブミラーのようなものが残っている。

明石町駅跡付近の路盤跡と旧国道。

新白銀橋より明石町駅跡を望む。湖側の道が旧国道、その右隣りを並走する道が三菱大夕張鉄道の路盤跡。

明石町駅跡前。旧国道と駅前通り、駅前に形成した炭鉱街の区画が確認できる。

新白銀橋より千年町・大夕張炭山駅方面。湖側に旧国道、その左に三菱大夕張鉄道の路盤跡が並走する。

明石町~千年町間に残存する旧旭沢橋梁。

昭和4年(1929)大夕張炭鉱の北部開発に伴い南大夕張駅~ 通洞駅(後の大夕張炭山駅)間の9.6kmが延伸開通、これに伴い建造された旧旭沢橋梁。深い渓谷に架けられたラスド・ガーダー形式の美しい橋梁だ。

沢の上流部より旧旭沢橋梁を望む。今から約50年前にここを石炭貨車や客車を牽引するSLが走り抜けていたのだ。

夕張東高校の跡地にある”ふる里大夕張の碑”。シューパロ湖に沈んだ炭鉱街を偲ぶ。

空中写真データ:国土地理院 整理番号HO7213Y-C8-6を基に作成
昭和47年(1972年)撮影、明石町の空中写真。上が千年町・大夕張炭山駅、下が清水沢駅方面。駅の東側一帯に明石町の炭鉱街が形成、西側に夕張東高校があった。

散策中に現れたキタキツネ。悲壮な表情に見えたのは食料を得たいがためなのか、人や車を恐れず近づいてくる。

最後に鹿島地区の大夕張駅付近にあった鹿島小学校跡に。

何もなくなっている鹿島小学校跡。最盛期の鹿島地区は炭鉱街を形成し約2万人が住んでいた。鹿島小学校には2500人以上もの生徒が在籍していたという。シューパロダムの建設により平成10年(1998)全戸移転、小学校も廃校。廃校時の生徒数は12名だった。
撮影日:2019年8月7日(水)

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