酒匂川を越え相模湾の潮風を感じながら
【旧東海道歩き 第37日目】小田原駅→小田原宿→大磯宿→大磯駅
【2019年11月30日(土)旧東海道 小田原宿→大磯宿】
久々に旧東海道歩き。早いもので小田原に辿り着いてから半年以上が過ぎ、ゴールの日本橋を間近にして随分とサボってしまった感がある。東京駅8:56発の東海道新幹線こだま641号に乗車して9:30小田原駅着、初春から晩秋へと夏を飛び越えて季節を変えた小田原に降り立つ。小田原城大手口跡から御成道(現 国道1号)を歩いて小田原宿新宿町(現 小田原市浜町)まで移動、新宿交差点から旧東海道に歩みを戻す。
小田原宿江戸口見附を出て間もなく行く手に酒匂川が流れている。現在は酒匂橋で何事もなく渡河できるが、江戸時代には江戸防衛上の理由から渡し舟が禁じられていたため、渇水期の10月~2月は仮橋を架け、春から夏にかけては川越人足による徒歩渡しで旅行者を渡河させていた。広重は「東海道五十三次之内小田原 酒匂川」の題で、酒匂川を徒歩渡しで渡る旅人の光景を描いている。酒匂川を越えれば東海道は相模湾に沿って山王、網一色、酒匂、小八幡、国府津、前川、押切、梅沢(立場)、元梅沢、国府新宿(立場)、国府、小磯の街村や立場を経て大磯宿に至っていた。

半年ぶりに小田原駅に降り立って。まずは駅前の北条早雲公にご挨拶。

駅から小田原城大手門跡に移動。

大手門跡から東方面の国道1号。江戸時代には小田原城への御成道だった。ここを進んで前回の歩き旅のゴールとなった江戸口見附跡へ向かおう。

国道1号(旧御成道)筋にある唐人町の解説道標。小田原北条氏時代に中国人が小田原に漂着して居住した地なので、唐人町という町名の由来になったと考えられている。

旧東海道と国道1号(旧御成道)の分岐点、新宿交差点。

国道1号(東海道)沿いの浜町バス停。この辺りは江戸期に新町と称した小田原宿の一町。江戸時代前期に大手口が変更されて東海道が北側に付け替えられた際、新たに町を形成したところ。

小田原宿江戸方(東側)出入口の江戸口見附跡。現在は国道1号に浜町歩道橋が架かっている。

浜町歩道橋袂にある新宿公民館。先端を切られているが大きな松が立つ。

浜町歩道橋から江戸・大磯方面。かつて街道筋には山王松原と呼ばれる松原が広がっていた。

山王松原(現 小田原市浜町4丁目)にある宗福寺。

宗福寺の東隣り、山王川右岸に鎮座する山王神社。

山王神社の由来を記す解説板。旧社地(北条氏時代の小田原城山王曲輪袖ノ池南、所在地不明)に星月夜ノ井戸があったことから星月夜ノ社とも呼ばれ、慶長18年(1613)に現在地へ移ったという。寛永元年(1624)江戸初期の朱子学者、林羅山が山王神社境内にて星月夜の詩を詠んだ。

境内にある星月夜碑。林羅山が詠んだ星月夜の詩を刻む。

境内にそびえる松。山王松原の名残りを感じよう。

山王神社境内東側に流れる山王川。

相模湾に注ぐ山王川河口。

山王川を優雅に泳ぐ鯉。

山王橋東詰、国道1号沿いにある山王バス停。

山王小学校入口信号。かつてはこの辺りが山王原村と網一色村の境だった。

山王小学校前、戎社(えびすやしろ)から上杉龍若丸墓(写真前方の御堂)を望む。戎社は天智天皇の第一皇子、大友皇子(弘文天皇)を祀る。大友皇子は弟の大海人皇子(後の天武天皇)と皇位継承をめぐる争いの末に敗れて自害。この争いが壬申の乱(672)である。大友皇子の死後、その霊を祀るべく小澤伊豫掾という人物をはじめとする3名が皇子の神像を彫刻して祀ったことに起源があるらしい。

御堂の中に安置されている上杉龍若丸墓(中央の五輪塔)。この墓の主は関東管領で平井城主上杉憲政の嫡男。天文20年(1551)龍若丸が13歳ぐらいの時、北条氏康に居城の平井城を攻められ、落城寸前に和解の使者として従臣6名と共に小田原へ出向いた。しかし氏康は後顧の憂いを断つため、神尾治部右衛門に暗殺を命じて龍若丸を斬殺。後に神尾治部右衛門は癪病で死んだ。この祟りとも思える一事を知った地元民が龍若丸の五輪塔を建て供養したという。

常剱寺入口交差点。ここで国道1号から旧道が右に分かれる。

旧網一色村(現 小田原市東町)を行く旧道。

旧網一色村(現 小田原市東町4丁目)にある新田義貞の首塚。南北朝時代に足利尊氏と対立して越前国藤島で敗死した新田義貞、その首は京に送られ晒された。宇都宮泰藤という義貞の家臣が京でこれを奪い返し、義貞の本国である上野国(群馬県)に持ち帰ろうとしたところ、ここ網一色村で病に倒れやむを得ず義貞の首を埋葬したと伝わる。

旧道は鉤の手に左へ曲がり。

千貫橋の古い欄干が残る。

千貫橋は延宝7年(1679)に架けられた石橋。木橋から石橋に架け替えられたとき、千貫文(非常に高価なことの意)もの費用がかかったことに名の由来があるとされる。

現在橋の下を流れていた川は西側が暗渠と化しているが、東側では水を見ることができる。

土木センター入口交差点で国道1号に分断された旧道、再び現れて(写真中央の奥へ延びる小路)酒匂川へ向かう。

酒匂川西岸(右岸)を行く旧道。

旧道筋にある八幡神社(御霊八幡宮)。

八幡神社境内には新田義貞を祀る新田神社がある。

八幡神社前、酒匂川に向かって延びる旧道。

酒匂川西岸(右岸)。この辺りからが酒匂川の渡し跡。

京・小田原側から酒匂川の渡し跡を望む。

酒匂橋上より酒匂川上流方向。富士山の頂上部がひょっこりと姿を現す。

酒匂橋上より酒匂川の渡し跡。江戸時代に川越人足が連台や肩車に乗せて旅人を渡河させていた。そんな様子を想像するだけでも楽しい。

酒匂橋東詰。江戸時代にこの辺りは酒匂川の河原だったのだろう。

菊川に架かる連歌橋。この辺りが酒匂村(現 小田原市酒匂)側の川越し場跡にあたるはず。

旧酒匂村の京方(西側)端にある法船寺。

国道1号筋、酒匂の町並み。酒匂の地名は鎌倉時代に記された「吾妻鏡」に見られる。源義経が平宗盛父子を護送した折、酒匂駅に着いたことを書いていおり、平安時代末期には東海道の宿駅として酒匂は成立していた。現在の小田原市保健センター周辺には鎌倉幕府の浜辺御所と呼ばれる将軍の休泊施設があったとされている。

国道1号から延びる妙蓮寺参道。その入口に古そうな道祖神が残る。

国道1号沿いにある酒匂不動尊。

酒匂不動尊から国道1号を挟んで斜向かいに児童養護施設”ゆりかご園”。この長屋門は江戸時代後期の建築で旧川辺本陣の遺構だという。

”ゆりかご園”の東隣りにある大見寺。ここにある小嶋家の宝篋印塔と五輪塔が小田原市指定重要文化財。

何となく上輩寺に立ち寄ってみる。何だか理由がわからないが、酒匂地区には寺社がとにかく多い。

旧酒匂村の江戸方(東側)、酒匂経営住宅入口交差点。

旧酒匂村江戸方(東側)外れに東海道の名残り松。かつては酒匂村から小八幡村(現 小田原市小八幡)の間は松並木の東海道だった。

安池建設工業の社屋前に二宮金次郎像。さすが、ゆかりの地。

印刷局前バス停。日本銀行券等を製造する国立印刷局小田原工場の最寄りにあるバス停。

酒匂・小八幡間に残る東海道松並木。往時の様子は十分に感じられる。

今となっては路傍の道祖神が見守るのはクルマ。

酒匂に残る東海道松並木(大磯・江戸方面)。

上写真の地点より小田原・京方面。

酒匂小学校バス停。

松並木が途絶えて路傍に漁場前バス停。近くの浜辺に地引網漁の漁場でもあるのだろうか。

旧小八幡村(現 小田原市小八幡)を行く国道1号。当初の小八幡村は巡礼道沿いに集落を形成、寛永年間に東海道筋へ移ったとされる。『新編相模国風土記稿』(1830~41年編纂)によれば、漁船を8艘所持して農間に漁業を行ない、東海道筋に立場が設けられていたことを記す。

小八幡にある唯一の寺社、三宝寺。

小八幡の鎮守、八幡神社へ続く参道。

参道入口付近にある宮の前バス停。

小八幡3丁目交差点。この辺りが小八幡の一里塚跡。江戸日本橋から19里(約75km)、京三条大橋からは94番目で実測約440km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。
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小八幡の一里塚跡付近には一里塚バス停。奥に名残り松。

森戸川に架かる親木橋。ここを越えれば旧国府津村(現 小田原市国府津)。

国道1号の岡入口信号付近。旧国府津村は『新編相模国風土記稿』によれば、農間に漁船13艘を持って漁業を行ない、海浜790間を持ち場として地引き網漁も行っていた。

勧山信楽院真楽寺。浄土真宗大谷派。元は聖徳太子の開基にして天台宗、後に親鸞上人の布教により浄土真宗に改宗した。南東の海岸側に親鸞上人草庵の旧跡”勧堂”がある。

樹齢370年ぐらいと推定される”真楽寺のボダイジュ”。『新編相模国風土記稿』には「菩提樹、親鸞手植えのものと云、囲七尺」との記述がある。

ここが勧堂旧跡。親鸞上人が国府津での布教の折、勧堂(すすめどう)を建てたとされる。

勧堂旧跡より相模湾を望み。

国府津駅前を行く国道1号(東海道)。

国道沿いに明治21年創業と書かれた国府津館の看板が目に留まり。

こちらの看板には相模湾活魚料理・ご宿泊とあるが…。

国府津館の敷地入口は閉ざされる。2014年頃に火災があって廃業したらしい。

東海道本線の国府津駅。御殿場線の起点。コンクリート製4階建ての立派な建物ながら、なんとも地味で無味乾燥な駅舎である。

西湘バイパスの高架下に広がる国府津海岸。

釣り人を眺めながら、しばし休憩。次の記事へ続く。
【2019年11月30日(土)旧東海道 小田原宿→大磯宿】
久々に旧東海道歩き。早いもので小田原に辿り着いてから半年以上が過ぎ、ゴールの日本橋を間近にして随分とサボってしまった感がある。東京駅8:56発の東海道新幹線こだま641号に乗車して9:30小田原駅着、初春から晩秋へと夏を飛び越えて季節を変えた小田原に降り立つ。小田原城大手口跡から御成道(現 国道1号)を歩いて小田原宿新宿町(現 小田原市浜町)まで移動、新宿交差点から旧東海道に歩みを戻す。
小田原宿江戸口見附を出て間もなく行く手に酒匂川が流れている。現在は酒匂橋で何事もなく渡河できるが、江戸時代には江戸防衛上の理由から渡し舟が禁じられていたため、渇水期の10月~2月は仮橋を架け、春から夏にかけては川越人足による徒歩渡しで旅行者を渡河させていた。広重は「東海道五十三次之内小田原 酒匂川」の題で、酒匂川を徒歩渡しで渡る旅人の光景を描いている。酒匂川を越えれば東海道は相模湾に沿って山王、網一色、酒匂、小八幡、国府津、前川、押切、梅沢(立場)、元梅沢、国府新宿(立場)、国府、小磯の街村や立場を経て大磯宿に至っていた。

半年ぶりに小田原駅に降り立って。まずは駅前の北条早雲公にご挨拶。

駅から小田原城大手門跡に移動。

大手門跡から東方面の国道1号。江戸時代には小田原城への御成道だった。ここを進んで前回の歩き旅のゴールとなった江戸口見附跡へ向かおう。

国道1号(旧御成道)筋にある唐人町の解説道標。小田原北条氏時代に中国人が小田原に漂着して居住した地なので、唐人町という町名の由来になったと考えられている。

旧東海道と国道1号(旧御成道)の分岐点、新宿交差点。

国道1号(東海道)沿いの浜町バス停。この辺りは江戸期に新町と称した小田原宿の一町。江戸時代前期に大手口が変更されて東海道が北側に付け替えられた際、新たに町を形成したところ。

小田原宿江戸方(東側)出入口の江戸口見附跡。現在は国道1号に浜町歩道橋が架かっている。

浜町歩道橋袂にある新宿公民館。先端を切られているが大きな松が立つ。

浜町歩道橋から江戸・大磯方面。かつて街道筋には山王松原と呼ばれる松原が広がっていた。

山王松原(現 小田原市浜町4丁目)にある宗福寺。

宗福寺の東隣り、山王川右岸に鎮座する山王神社。

山王神社の由来を記す解説板。旧社地(北条氏時代の小田原城山王曲輪袖ノ池南、所在地不明)に星月夜ノ井戸があったことから星月夜ノ社とも呼ばれ、慶長18年(1613)に現在地へ移ったという。寛永元年(1624)江戸初期の朱子学者、林羅山が山王神社境内にて星月夜の詩を詠んだ。

境内にある星月夜碑。林羅山が詠んだ星月夜の詩を刻む。

境内にそびえる松。山王松原の名残りを感じよう。

山王神社境内東側に流れる山王川。

相模湾に注ぐ山王川河口。

山王川を優雅に泳ぐ鯉。

山王橋東詰、国道1号沿いにある山王バス停。

山王小学校入口信号。かつてはこの辺りが山王原村と網一色村の境だった。

山王小学校前、戎社(えびすやしろ)から上杉龍若丸墓(写真前方の御堂)を望む。戎社は天智天皇の第一皇子、大友皇子(弘文天皇)を祀る。大友皇子は弟の大海人皇子(後の天武天皇)と皇位継承をめぐる争いの末に敗れて自害。この争いが壬申の乱(672)である。大友皇子の死後、その霊を祀るべく小澤伊豫掾という人物をはじめとする3名が皇子の神像を彫刻して祀ったことに起源があるらしい。

御堂の中に安置されている上杉龍若丸墓(中央の五輪塔)。この墓の主は関東管領で平井城主上杉憲政の嫡男。天文20年(1551)龍若丸が13歳ぐらいの時、北条氏康に居城の平井城を攻められ、落城寸前に和解の使者として従臣6名と共に小田原へ出向いた。しかし氏康は後顧の憂いを断つため、神尾治部右衛門に暗殺を命じて龍若丸を斬殺。後に神尾治部右衛門は癪病で死んだ。この祟りとも思える一事を知った地元民が龍若丸の五輪塔を建て供養したという。

常剱寺入口交差点。ここで国道1号から旧道が右に分かれる。

旧網一色村(現 小田原市東町)を行く旧道。

旧網一色村(現 小田原市東町4丁目)にある新田義貞の首塚。南北朝時代に足利尊氏と対立して越前国藤島で敗死した新田義貞、その首は京に送られ晒された。宇都宮泰藤という義貞の家臣が京でこれを奪い返し、義貞の本国である上野国(群馬県)に持ち帰ろうとしたところ、ここ網一色村で病に倒れやむを得ず義貞の首を埋葬したと伝わる。

旧道は鉤の手に左へ曲がり。

千貫橋の古い欄干が残る。

千貫橋は延宝7年(1679)に架けられた石橋。木橋から石橋に架け替えられたとき、千貫文(非常に高価なことの意)もの費用がかかったことに名の由来があるとされる。

現在橋の下を流れていた川は西側が暗渠と化しているが、東側では水を見ることができる。

土木センター入口交差点で国道1号に分断された旧道、再び現れて(写真中央の奥へ延びる小路)酒匂川へ向かう。

酒匂川西岸(右岸)を行く旧道。

旧道筋にある八幡神社(御霊八幡宮)。

八幡神社境内には新田義貞を祀る新田神社がある。

八幡神社前、酒匂川に向かって延びる旧道。

酒匂川西岸(右岸)。この辺りからが酒匂川の渡し跡。

京・小田原側から酒匂川の渡し跡を望む。

酒匂橋上より酒匂川上流方向。富士山の頂上部がひょっこりと姿を現す。

酒匂橋上より酒匂川の渡し跡。江戸時代に川越人足が連台や肩車に乗せて旅人を渡河させていた。そんな様子を想像するだけでも楽しい。

酒匂橋東詰。江戸時代にこの辺りは酒匂川の河原だったのだろう。

菊川に架かる連歌橋。この辺りが酒匂村(現 小田原市酒匂)側の川越し場跡にあたるはず。

旧酒匂村の京方(西側)端にある法船寺。

国道1号筋、酒匂の町並み。酒匂の地名は鎌倉時代に記された「吾妻鏡」に見られる。源義経が平宗盛父子を護送した折、酒匂駅に着いたことを書いていおり、平安時代末期には東海道の宿駅として酒匂は成立していた。現在の小田原市保健センター周辺には鎌倉幕府の浜辺御所と呼ばれる将軍の休泊施設があったとされている。

国道1号から延びる妙蓮寺参道。その入口に古そうな道祖神が残る。

国道1号沿いにある酒匂不動尊。

酒匂不動尊から国道1号を挟んで斜向かいに児童養護施設”ゆりかご園”。この長屋門は江戸時代後期の建築で旧川辺本陣の遺構だという。

”ゆりかご園”の東隣りにある大見寺。ここにある小嶋家の宝篋印塔と五輪塔が小田原市指定重要文化財。

何となく上輩寺に立ち寄ってみる。何だか理由がわからないが、酒匂地区には寺社がとにかく多い。

旧酒匂村の江戸方(東側)、酒匂経営住宅入口交差点。

旧酒匂村江戸方(東側)外れに東海道の名残り松。かつては酒匂村から小八幡村(現 小田原市小八幡)の間は松並木の東海道だった。

安池建設工業の社屋前に二宮金次郎像。さすが、ゆかりの地。

印刷局前バス停。日本銀行券等を製造する国立印刷局小田原工場の最寄りにあるバス停。

酒匂・小八幡間に残る東海道松並木。往時の様子は十分に感じられる。

今となっては路傍の道祖神が見守るのはクルマ。

酒匂に残る東海道松並木(大磯・江戸方面)。

上写真の地点より小田原・京方面。

酒匂小学校バス停。

松並木が途絶えて路傍に漁場前バス停。近くの浜辺に地引網漁の漁場でもあるのだろうか。

旧小八幡村(現 小田原市小八幡)を行く国道1号。当初の小八幡村は巡礼道沿いに集落を形成、寛永年間に東海道筋へ移ったとされる。『新編相模国風土記稿』(1830~41年編纂)によれば、漁船を8艘所持して農間に漁業を行ない、東海道筋に立場が設けられていたことを記す。

小八幡にある唯一の寺社、三宝寺。

小八幡の鎮守、八幡神社へ続く参道。

参道入口付近にある宮の前バス停。

小八幡3丁目交差点。この辺りが小八幡の一里塚跡。江戸日本橋から19里(約75km)、京三条大橋からは94番目で実測約440km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

小八幡の一里塚跡付近には一里塚バス停。奥に名残り松。

森戸川に架かる親木橋。ここを越えれば旧国府津村(現 小田原市国府津)。

国道1号の岡入口信号付近。旧国府津村は『新編相模国風土記稿』によれば、農間に漁船13艘を持って漁業を行ない、海浜790間を持ち場として地引き網漁も行っていた。

勧山信楽院真楽寺。浄土真宗大谷派。元は聖徳太子の開基にして天台宗、後に親鸞上人の布教により浄土真宗に改宗した。南東の海岸側に親鸞上人草庵の旧跡”勧堂”がある。

樹齢370年ぐらいと推定される”真楽寺のボダイジュ”。『新編相模国風土記稿』には「菩提樹、親鸞手植えのものと云、囲七尺」との記述がある。

ここが勧堂旧跡。親鸞上人が国府津での布教の折、勧堂(すすめどう)を建てたとされる。

勧堂旧跡より相模湾を望み。

国府津駅前を行く国道1号(東海道)。

国道沿いに明治21年創業と書かれた国府津館の看板が目に留まり。

こちらの看板には相模湾活魚料理・ご宿泊とあるが…。

国府津館の敷地入口は閉ざされる。2014年頃に火災があって廃業したらしい。

東海道本線の国府津駅。御殿場線の起点。コンクリート製4階建ての立派な建物ながら、なんとも地味で無味乾燥な駅舎である。

西湘バイパスの高架下に広がる国府津海岸。

釣り人を眺めながら、しばし休憩。次の記事へ続く。

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