長い道程を歩き続け、国府津から大磯宿へ
【2019年11月30日(土)旧東海道 小田原宿→大磯宿】
前の記事の続き。小田原宿から大磯宿への宿間距離は4里(約16Km)もあり、小田原から国府津まで随分と歩いてきたような気がするが、ここでは大磯宿までの中間地点にも満たない。江戸時代の男性は旅をすると1日で約10里(約40Km)を歩いたというから、このくらいの距離は屁の河童なのだろうが、現代人にとっては普通では歩かない距離。日が短い11月末だけに、国府津から大磯宿へ向けて歩みを早めて進めよう。

国道1号(東海道)の西前川信号。付近の民家前に双体道祖神がある。

西前川の双体道祖神。風化が進んでおり、見た目にかなり年月が経ってそう。

近戸神社バス停。近戸神社は旧前川村の鎮守で、近くに参道の入口がある。『新編相模国風土記稿』(1830~41年編纂)によれば、前川村は大山道(村東側で東海道より分岐)の人馬継立場で、特産品に蜜柑があり幕府へ献上。漁船25・押送船1艘を所持して農間に専ら漁業を行い、鮪を名産としていた。

近戸神社参道入口。

近戸神社参道。昔はここを直進して神社へ向かえたのだろうが、現在は途中で東海道本線に分断されている。

線路越しに近戸神社を望み。旧前川村の鎮守。

国道1号(東海道)路傍に双体道祖神と坂下道祖神碑。

双体道祖神と坂下道祖神碑。

前羽小学校前バス停。前羽という地名は明治22年に前川村と羽根尾村が合併して成立した村の名。

国道1号(東海道)から北へ分かれる旧大山道。山岳信仰(大山信仰)の対象、大山へ通じる古道である。

旧大山道入口に残る大山道道標。「大やまみち」「従是大山道」と刻み、道標上に不動明王像を置く。天保3年(1832)建立。その裏にある秋葉山常夜燈は文化11年(1814)建立。

旧大山道より国道1号。

旧大山道に入ってすぐ、路傍左に石仏群。

旧大山道の石仏群。おそらく道筋に点在していた石仏を集めたのだろう。

東海道・大山道の分岐点を過ぎれば車坂の上り。坂を上りはじめてすぐ左手路傍に「史跡車坂」碑がある。『新編相模国風土記稿』には、「海道中にて西に下れる一町許の坂あり。太田道灌の平安紀行に車坂の里と見えしは此所なり。『車坂と云ふ里にて夕立頻りに降りそへば、鳴神の聲もしきりに車坂、轟かし降る夕立の空。』又韓使来聘の時は此の地の路傍に休憩の茶屋を建つるを例となす。」と記す。

車坂途中にある東前川信号。

東前川信号より坂下方向。左手に相模湾と真鶴半島を望む景勝の地だ。

車坂上。

車坂上に鎮座する浅間神社。

町屋バス停。町屋は旧前川村小字の地名。

橘インター入口バス停。ここで小田原市から二宮町へ。

塔台橋交差点と塔台橋。ここを渡ると再び小田原市となり羽根尾地区に入る。橋下を流れる川は塔台川であるが、古く前川村では羽根尾川と呼ぶ。羽根尾川から中村川の間は押切という地名で旧羽根尾村の小字。

押切橋交差点。ここで再び二宮町に。

中村川に架かる押切橋。

押切橋上より中村川上流。河口付近は押切川とも呼ばれる。

中村川河口部。かつて約20mに及ぶ砂丘を押し切って相模湾に流入していたので押切川の名がついたともいわれる。

押切橋を渡ってすぐ、国道1号から押切坂の旧道が右に現れる。

押切坂旧道。

押切坂の途中にある双体道祖神。

押切坂上より旧梅沢の立場。

押切坂上にある松屋本陣跡(写真左手前)。ここは参勤交代の諸大名や公家などが休息に利用した小休本陣(茶屋本陣とも)で、梅沢の中心的存在だった。和田家が務め当主は代々”松屋作右衛門”を名乗った。

旧梅沢の立場は間の宿として賑わい、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べていた。

茶屋町自衛消防隊の倉庫横に”東海道一里塚の跡”碑。

ここが押切坂一里塚跡で、江戸日本橋から18里(約71km)、京三条大橋からは95番目で実測約445km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

国道へ合流したところに押切坂上バス停。

国道1号(東海道)の山西交差点。ここで国道から旧道が左に分かれる。当初の山西地区は川匂地区を含めて梅沢の里という地名で呼ばれ、寛永17年(1640)頃に2村に分かれて山西村と川匂村が成立した。『東海道分間絵図』(1669年~1679年頃の作成と推定、初版は1690年刊行)には当地を「梅沢」と記す。

山西交差点角にある石碑石仏群(双体道祖神3、道祖神碑、天社神講中碑)。

梅沢の旧道。

旧道筋にある等覚院。元和9年(1623)将軍家光が上洛の折、駕籠を止めてフジの花を見物したといい、古くからフジの名所として知られた。寛文年間(1661~73)頃に仁和寺宮がフジの花をご覧になり、”藤巻寺”の別号を与えたと伝わる。

等覚院の梵鐘。寛永8年(1631)の銘あり。二宮町重要文化財。

等覚院から東へ延びる旧道。

梅澤橋の親柱。梅沢川が道路下を流れており、暗渠となる前ここに梅澤橋が架けられていた。

旧道沿いのヤマニ醤油蔵元。

吾妻神社鳥居と参道。正面が吾妻山でその頂上付近に吾妻神社が鎮座する。

国道1号の梅沢交差点。この辺りが旧山西村(梅沢)の街村東端と思われる。この辺りから二宮村にかけて東海道の松並木が続いていた。

国道沿いには松並木の名残り。藤田電機前。

東海道松並木の名残り。二宮町社協前。

東海道本線二宮駅。

二宮駅入口交差点より国道1号大磯方面。この辺りの街道筋は『東海道分間絵図』を見ると「しほミ」とあり、江戸時代には一般に塩海(しぼみ)と呼ばれていたのだろう。現在地名は消え失せているが、葛川(くずかわ)に架かる橋名に名残りを見る。『新編武蔵風土記稿』には「古この海浜にて鹽(しお)を精製す、依ってこの名あり」と記す。

葛川右岸、国道1号の二宮交差点。

塩の精製が盛んだった歴史を伝える塩海橋。

塩海橋上より葛川下流。葛川は上流から井ノ口川・葛川・塩海川・宇田川と呼ばれている。

下町バス停。先に松並木の名残り。

東海道松並木の名残り。下浜町信号付近。

二宮町から大磯町に。

振り返って松並木の名残りを。

槇の木バス停。かつては松並木を過ぎれば街道沿いに国府新宿の町家が続いていた。

国府新宿福祉館前に道祖神が残る。

国府新宿福祉館前にある道祖神。

国道に面して立つ六所神社鳥居。

六所神社参道と御神木の大ケヤキ。樹齢600年。

源頼朝や小田原北条氏、徳川家康など多くの武将から崇敬を寄せられた六所神社。当初は柳田大明神と称したが、平安時代に相模国五社の御分霊を合せ祀り相模国総社となり、六所神社や国府六所宮と称すようになった。当地域には相模国の国府が置かれていたが、その所在地はいまだ不明だという。

開運おみくじ、強運おみくじ、恋鯉みくじ、3種類ものおみくじが。さすが相模国総社。

社殿の土台となっている野面積みの石垣。小田原北条氏の寄進というから400年以上前に築造されたもの。

『新編相模国風土記稿』より国府新宿の項によれば、元禄の郷帳には国府新宿村と記す。江戸より行程17里。戸数115。東西8町許。南北10町許。東海道東西にわたり村の中央を貫く。村の東にて北方に達する岐路あり。伊勢原道という。漁船4ありて漁業をなす。獲る所の魚は鱠(えそ)・白魚・鯖などなり。浦辺は袖ケ浦または淘綾浦(ゆるぎうら)と唱う。

国府新宿交差点。この辺りが国府新宿の東端。

国府新宿から国府本郷にかけて、往時を偲ぶ東海道松並木が片側だけに見られる。

松並木入口の路傍に双体道祖神。

国府本郷の東海道松並木。

国府本郷の東海道松並木。

松並木の路傍に道祖神碑。昭和十一年の銘あり。

国府本郷の松並木は全体的に松が若いので、近年に植樹されたものなのだろう。

松並木の東端にある国府本郷中丸の一里塚跡。江戸日本橋から17里(約67km)、京三条大橋からは96番目で実測約449km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

国府本郷を行く旧東海道。『新編相模国風土記稿』より国府本郷村の項に、「昔、当国の府庁をこの地に置かれし故、この称存するなり。されど昔のことを伝ふるものなし。」と記され、国府本郷という地名の由来になった相模国府が、すでに江戸後期には跡地が不明だったことがわかる。相模国府の所在地がいまだ謎のままなのも頷けよう。

不動川に向かって下る国府本郷の旧道。再び『新編相模国風土記稿』より国府本郷村の項によれば、江戸より行程17里。戸数114。東西11町余。南北20町許。東海道村の中程を貫く。当所は立場なり。村北の山間に秣(まぐさ)場あり。小字は中丸と馬場。海南方にあり。海浜を古、よろきの浜といふ。漁船2ありて農間には漁業をなす。獲る所の魚は鯵・鯖などなり。

国府本郷の東側を流れる不動川に架かる本郷橋。白に塗られた橋が印象的。『新編相模国風土記稿』には、「一は本郷川と唱へ、村の東を流れ、南方にて海に注ぐ。東海道の係る所に土橋を架す。中丸橋とも云ふ。この辺りの小字を以て呼べるなり。一は南川と唱ふ。南方を東へ流れ、海際にて本郷川に合す。」とあり、江戸時代後期にこの辺りの不動川は本郷川と呼ばれ、東海道に架かる橋は中丸橋、葛川は南川と呼ばれていたようだ。

不動川にて。

本郷橋東詰、大磯方面の旧東海道。左に大磯城山公園の台地が迫る。

城山公園前交差点。大磯城山公園の台地を切通して道を通す。『新編相模国風土記稿』の国府本郷村の項には、「切通、東方西小磯村堺、東海道往還なり。高さ八尺(約2.4m)、幅2間半(約5.5m)」とあり、ここが江戸後期の国府本郷村と西小磯村の境だった。

切通しの南側、城山公園内にある旧吉田邸(復元再建)。

旧吉田邸は戦後に第一次~第五次の2616日にわたって内閣総理大臣に在任した吉田茂の邸宅で、昭和20年(1945年)からここを本邸として晩年を過ごした。現在の副総理で財務大臣の麻生さんの祖父。閉館時間が迫っていたため内部を見学できず、改めて。

切通しを過ぎて切通橋を渡る。写真奥方向が切通しの国道1号(東海道)で、小田原方面。

切通橋の下を流れる血洗川。源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人、梶原景時の息子にまつわる伝説を残す。

西小磯を行く国道1号(東海道)。『新編相模国風土記稿』の西小磯村の項を簡略して、「古は大磯宿及び加宿東小磯共に一区たりしが、後大小二区に分れ、後又小磯の地を東西二区に分割せしことは大磯宿及び東小磯村の条に弁ぜし如し。江戸より行程16里30町。戸数139。広さ13町。・・・
東海道中央を貫く。村内切通開けざる前は北の方宇賀神森の後通り山に添ひて往還ありしと云ふ。今野道あり。大磯宿の条にも弁ぜし古東海道なり。岐路あり。伊勢原道と云ふ。小字中分より分かれて萬田村に達す。」
西小磯西端の切通しが開通する前は、北に山沿いを迂回して東海道が通されていたようで、江戸時代後期にその古道は野道と化していたらしい。

西小磯東端に鎮座する宇賀神社。

西小磯と東小磯の間に残る東海道松並木。

暗くなってしまい判りにくいが、道の両側に状態良く松並木が残っている。次は昼間に訪れよう。

大磯宿上方見附跡。ここが大磯宿京方(西側)出入口だったところ。

大磯宿夜景。

大磯宿は次の歩き旅で。

大磯駅より東海道本線高崎行に乗車して帰途につく。
【旧東海道歩き 第37日目】小田原駅→小田原宿→大磯宿→大磯駅 歩行距離約22km
前の記事の続き。小田原宿から大磯宿への宿間距離は4里(約16Km)もあり、小田原から国府津まで随分と歩いてきたような気がするが、ここでは大磯宿までの中間地点にも満たない。江戸時代の男性は旅をすると1日で約10里(約40Km)を歩いたというから、このくらいの距離は屁の河童なのだろうが、現代人にとっては普通では歩かない距離。日が短い11月末だけに、国府津から大磯宿へ向けて歩みを早めて進めよう。

国道1号(東海道)の西前川信号。付近の民家前に双体道祖神がある。

西前川の双体道祖神。風化が進んでおり、見た目にかなり年月が経ってそう。

近戸神社バス停。近戸神社は旧前川村の鎮守で、近くに参道の入口がある。『新編相模国風土記稿』(1830~41年編纂)によれば、前川村は大山道(村東側で東海道より分岐)の人馬継立場で、特産品に蜜柑があり幕府へ献上。漁船25・押送船1艘を所持して農間に専ら漁業を行い、鮪を名産としていた。

近戸神社参道入口。

近戸神社参道。昔はここを直進して神社へ向かえたのだろうが、現在は途中で東海道本線に分断されている。

線路越しに近戸神社を望み。旧前川村の鎮守。

国道1号(東海道)路傍に双体道祖神と坂下道祖神碑。

双体道祖神と坂下道祖神碑。

前羽小学校前バス停。前羽という地名は明治22年に前川村と羽根尾村が合併して成立した村の名。

国道1号(東海道)から北へ分かれる旧大山道。山岳信仰(大山信仰)の対象、大山へ通じる古道である。

旧大山道入口に残る大山道道標。「大やまみち」「従是大山道」と刻み、道標上に不動明王像を置く。天保3年(1832)建立。その裏にある秋葉山常夜燈は文化11年(1814)建立。

旧大山道より国道1号。

旧大山道に入ってすぐ、路傍左に石仏群。

旧大山道の石仏群。おそらく道筋に点在していた石仏を集めたのだろう。

東海道・大山道の分岐点を過ぎれば車坂の上り。坂を上りはじめてすぐ左手路傍に「史跡車坂」碑がある。『新編相模国風土記稿』には、「海道中にて西に下れる一町許の坂あり。太田道灌の平安紀行に車坂の里と見えしは此所なり。『車坂と云ふ里にて夕立頻りに降りそへば、鳴神の聲もしきりに車坂、轟かし降る夕立の空。』又韓使来聘の時は此の地の路傍に休憩の茶屋を建つるを例となす。」と記す。

車坂途中にある東前川信号。

東前川信号より坂下方向。左手に相模湾と真鶴半島を望む景勝の地だ。

車坂上。

車坂上に鎮座する浅間神社。

町屋バス停。町屋は旧前川村小字の地名。

橘インター入口バス停。ここで小田原市から二宮町へ。

塔台橋交差点と塔台橋。ここを渡ると再び小田原市となり羽根尾地区に入る。橋下を流れる川は塔台川であるが、古く前川村では羽根尾川と呼ぶ。羽根尾川から中村川の間は押切という地名で旧羽根尾村の小字。

押切橋交差点。ここで再び二宮町に。

中村川に架かる押切橋。

押切橋上より中村川上流。河口付近は押切川とも呼ばれる。

中村川河口部。かつて約20mに及ぶ砂丘を押し切って相模湾に流入していたので押切川の名がついたともいわれる。

押切橋を渡ってすぐ、国道1号から押切坂の旧道が右に現れる。

押切坂旧道。

押切坂の途中にある双体道祖神。

押切坂上より旧梅沢の立場。

押切坂上にある松屋本陣跡(写真左手前)。ここは参勤交代の諸大名や公家などが休息に利用した小休本陣(茶屋本陣とも)で、梅沢の中心的存在だった。和田家が務め当主は代々”松屋作右衛門”を名乗った。

旧梅沢の立場は間の宿として賑わい、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べていた。

茶屋町自衛消防隊の倉庫横に”東海道一里塚の跡”碑。

ここが押切坂一里塚跡で、江戸日本橋から18里(約71km)、京三条大橋からは95番目で実測約445km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

国道へ合流したところに押切坂上バス停。

国道1号(東海道)の山西交差点。ここで国道から旧道が左に分かれる。当初の山西地区は川匂地区を含めて梅沢の里という地名で呼ばれ、寛永17年(1640)頃に2村に分かれて山西村と川匂村が成立した。『東海道分間絵図』(1669年~1679年頃の作成と推定、初版は1690年刊行)には当地を「梅沢」と記す。

山西交差点角にある石碑石仏群(双体道祖神3、道祖神碑、天社神講中碑)。

梅沢の旧道。

旧道筋にある等覚院。元和9年(1623)将軍家光が上洛の折、駕籠を止めてフジの花を見物したといい、古くからフジの名所として知られた。寛文年間(1661~73)頃に仁和寺宮がフジの花をご覧になり、”藤巻寺”の別号を与えたと伝わる。

等覚院の梵鐘。寛永8年(1631)の銘あり。二宮町重要文化財。

等覚院から東へ延びる旧道。

梅澤橋の親柱。梅沢川が道路下を流れており、暗渠となる前ここに梅澤橋が架けられていた。

旧道沿いのヤマニ醤油蔵元。

吾妻神社鳥居と参道。正面が吾妻山でその頂上付近に吾妻神社が鎮座する。

国道1号の梅沢交差点。この辺りが旧山西村(梅沢)の街村東端と思われる。この辺りから二宮村にかけて東海道の松並木が続いていた。

国道沿いには松並木の名残り。藤田電機前。

東海道松並木の名残り。二宮町社協前。

東海道本線二宮駅。

二宮駅入口交差点より国道1号大磯方面。この辺りの街道筋は『東海道分間絵図』を見ると「しほミ」とあり、江戸時代には一般に塩海(しぼみ)と呼ばれていたのだろう。現在地名は消え失せているが、葛川(くずかわ)に架かる橋名に名残りを見る。『新編武蔵風土記稿』には「古この海浜にて鹽(しお)を精製す、依ってこの名あり」と記す。

葛川右岸、国道1号の二宮交差点。

塩の精製が盛んだった歴史を伝える塩海橋。

塩海橋上より葛川下流。葛川は上流から井ノ口川・葛川・塩海川・宇田川と呼ばれている。

下町バス停。先に松並木の名残り。

東海道松並木の名残り。下浜町信号付近。

二宮町から大磯町に。

振り返って松並木の名残りを。

槇の木バス停。かつては松並木を過ぎれば街道沿いに国府新宿の町家が続いていた。

国府新宿福祉館前に道祖神が残る。

国府新宿福祉館前にある道祖神。

国道に面して立つ六所神社鳥居。

六所神社参道と御神木の大ケヤキ。樹齢600年。

源頼朝や小田原北条氏、徳川家康など多くの武将から崇敬を寄せられた六所神社。当初は柳田大明神と称したが、平安時代に相模国五社の御分霊を合せ祀り相模国総社となり、六所神社や国府六所宮と称すようになった。当地域には相模国の国府が置かれていたが、その所在地はいまだ不明だという。

開運おみくじ、強運おみくじ、恋鯉みくじ、3種類ものおみくじが。さすが相模国総社。

社殿の土台となっている野面積みの石垣。小田原北条氏の寄進というから400年以上前に築造されたもの。

『新編相模国風土記稿』より国府新宿の項によれば、元禄の郷帳には国府新宿村と記す。江戸より行程17里。戸数115。東西8町許。南北10町許。東海道東西にわたり村の中央を貫く。村の東にて北方に達する岐路あり。伊勢原道という。漁船4ありて漁業をなす。獲る所の魚は鱠(えそ)・白魚・鯖などなり。浦辺は袖ケ浦または淘綾浦(ゆるぎうら)と唱う。

国府新宿交差点。この辺りが国府新宿の東端。

国府新宿から国府本郷にかけて、往時を偲ぶ東海道松並木が片側だけに見られる。

松並木入口の路傍に双体道祖神。

国府本郷の東海道松並木。

国府本郷の東海道松並木。

松並木の路傍に道祖神碑。昭和十一年の銘あり。

国府本郷の松並木は全体的に松が若いので、近年に植樹されたものなのだろう。

松並木の東端にある国府本郷中丸の一里塚跡。江戸日本橋から17里(約67km)、京三条大橋からは96番目で実測約449km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

国府本郷を行く旧東海道。『新編相模国風土記稿』より国府本郷村の項に、「昔、当国の府庁をこの地に置かれし故、この称存するなり。されど昔のことを伝ふるものなし。」と記され、国府本郷という地名の由来になった相模国府が、すでに江戸後期には跡地が不明だったことがわかる。相模国府の所在地がいまだ謎のままなのも頷けよう。

不動川に向かって下る国府本郷の旧道。再び『新編相模国風土記稿』より国府本郷村の項によれば、江戸より行程17里。戸数114。東西11町余。南北20町許。東海道村の中程を貫く。当所は立場なり。村北の山間に秣(まぐさ)場あり。小字は中丸と馬場。海南方にあり。海浜を古、よろきの浜といふ。漁船2ありて農間には漁業をなす。獲る所の魚は鯵・鯖などなり。

国府本郷の東側を流れる不動川に架かる本郷橋。白に塗られた橋が印象的。『新編相模国風土記稿』には、「一は本郷川と唱へ、村の東を流れ、南方にて海に注ぐ。東海道の係る所に土橋を架す。中丸橋とも云ふ。この辺りの小字を以て呼べるなり。一は南川と唱ふ。南方を東へ流れ、海際にて本郷川に合す。」とあり、江戸時代後期にこの辺りの不動川は本郷川と呼ばれ、東海道に架かる橋は中丸橋、葛川は南川と呼ばれていたようだ。

不動川にて。

本郷橋東詰、大磯方面の旧東海道。左に大磯城山公園の台地が迫る。

城山公園前交差点。大磯城山公園の台地を切通して道を通す。『新編相模国風土記稿』の国府本郷村の項には、「切通、東方西小磯村堺、東海道往還なり。高さ八尺(約2.4m)、幅2間半(約5.5m)」とあり、ここが江戸後期の国府本郷村と西小磯村の境だった。

切通しの南側、城山公園内にある旧吉田邸(復元再建)。

旧吉田邸は戦後に第一次~第五次の2616日にわたって内閣総理大臣に在任した吉田茂の邸宅で、昭和20年(1945年)からここを本邸として晩年を過ごした。現在の副総理で財務大臣の麻生さんの祖父。閉館時間が迫っていたため内部を見学できず、改めて。

切通しを過ぎて切通橋を渡る。写真奥方向が切通しの国道1号(東海道)で、小田原方面。

切通橋の下を流れる血洗川。源頼朝に仕えた鎌倉幕府の御家人、梶原景時の息子にまつわる伝説を残す。

西小磯を行く国道1号(東海道)。『新編相模国風土記稿』の西小磯村の項を簡略して、「古は大磯宿及び加宿東小磯共に一区たりしが、後大小二区に分れ、後又小磯の地を東西二区に分割せしことは大磯宿及び東小磯村の条に弁ぜし如し。江戸より行程16里30町。戸数139。広さ13町。・・・
東海道中央を貫く。村内切通開けざる前は北の方宇賀神森の後通り山に添ひて往還ありしと云ふ。今野道あり。大磯宿の条にも弁ぜし古東海道なり。岐路あり。伊勢原道と云ふ。小字中分より分かれて萬田村に達す。」
西小磯西端の切通しが開通する前は、北に山沿いを迂回して東海道が通されていたようで、江戸時代後期にその古道は野道と化していたらしい。

西小磯東端に鎮座する宇賀神社。

西小磯と東小磯の間に残る東海道松並木。

暗くなってしまい判りにくいが、道の両側に状態良く松並木が残っている。次は昼間に訪れよう。

大磯宿上方見附跡。ここが大磯宿京方(西側)出入口だったところ。

大磯宿夜景。

大磯宿は次の歩き旅で。

大磯駅より東海道本線高崎行に乗車して帰途につく。
【旧東海道歩き 第37日目】小田原駅→小田原宿→大磯宿→大磯駅 歩行距離約22km

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