大磯宿
【旧東海道歩き 第38日目】大磯駅→大磯宿→平塚宿→平塚駅
【2020年1月12日(日)旧東海道 大磯宿】

東海道五十三次之内大磯 虎ヶ雨
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「大磯宿」より引用
令和2年正月明けの週末、約ひと月半ぶりに大磯宿に立つ。正月休みで鈍った体を立て直すべく、旧東海道をウォーキングしようと。旧東海道歩きで東京から初めて新幹線を使わずに東海道本線で移動、ゴールが近くなったことを実感しつつ大磯駅に着いた。空模様はまずまずの曇り、暖冬のおかげで寒くはない。真冬ながら上々のウォーキング日和といってよいだろう。潮の匂いを感じながら、大磯宿を探索して次の平塚宿を目指すことにしよう。
大磯宿は江戸日本橋から東海道五十三次を8宿目、京都三条大橋から46宿目。天保14年(1843年)当時の人口3056人、家数676軒、うち本陣3、脇本陣なし、問屋場2、大旅籠屋5、中旅籠屋19、小旅籠屋42軒。江戸方より山王町・神明町・北本町・南本町・南茶屋町・南台町と続く町並みで、西外れの東小磯村を加宿とした。北本町と南本町に本陣があり、両町のそれぞれに北組(山王町・神明町・北本町)と南組(南本町・南茶屋町・南台町)の問屋場が設けられていた。南茶屋町では毎年12月24日に市が立てられ正月用の飾品を商った。名物は西行餅と花水団子。
南台町を流れる鴫立沢は西行が訪れ短歌を詠んだとの言い伝えが室町時代からあり、寛文4年(1664)この故事に因み小田原に住む祟雪という人物が草庵を結び「鴫立沢」の標石を建てた。その標石に「著盡湘南清絶地」と刻んだことから、”湘南”という名称が発祥したとされる。現在の当地には鴫立庵があり、江戸時代中期に大淀三千風が建てた庵室、三世庵主鳥酔が明和2年(1765)に増築したと伝わる俳諧道場等が残る。
広重は「東海道五十三次之内大磯 虎ヶ雨」の題で、大磯宿江戸見附辺りから雨が降り注ぐ宿場町の様子を描いている。副題の”虎ヶ雨”にある”虎”とは、鎌倉時代に伊豆の豪族、曾我十郎祐成の恋仲だった”虎御前”という遊女のこと。十郎祐成と弟の五郎時政(曾我兄弟)は自らの命を顧みず父の仇である工藤佑経を討ち果たす。しかし十郎祐成は仇討ちの最中に命を落とし、五郎時政は捕らえられ斬首となった。幕府により隠されていたこの事件を物語として世に広めたのが虎御前とされ、江戸期に『曽我物語』の題材となって能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵に取り上げられ民衆の人気を得た。事件が起きた旧暦5月28日頃、大磯辺りで降る雨を虎御前の涙雨として”虎ヶ雨”と呼んだという。

約一月半ぶりに大磯へ。まずは大磯宿西外れ、東小磯の東海道松並木へ向かおう。

滄浪閣前交差点より旧東海道の歩き旅を再開。

交差点南側が伊藤博文の旧邸宅”滄浪閣”の敷地。隣接して旧大隈重信邸や旧陸奥宗光邸があり、一帯を大磯邸園と称する。大磯の地は明治期以降に避寒地として盛んに別荘が建てられた。

滄浪閣向かいに鎮座する宇賀神社。

松並木の中にあった切り株。松並木が整備されて400年、江戸期から旅人を見守ってきた古松は近年に松くい虫の被害に遭って姿を消しつつある。

東小磯の東海道松並木。未来永劫、この景観を残してほしい。

大磯宿京方入口の上方見附跡を望む。

上方見附跡に設ける解説板。

上方見附跡から南側、東海道を外れて”こゆるぎの浜”へ。

”こゆるぎの浜”は平安時代に小淘綾ノ磯(こよろぎのいそ)と称して万葉集や古今和歌集に詠まれた歌枕の地で、大磯から国府津辺りにかけての海岸一帯を指すといわれる。

こゆるぎの浜より箱根の山々を望み。

大磯宿の旧東海道に戻り、島崎藤村邸へ行ってみよう。

上方見附跡の北側にある島崎藤村邸。

島崎藤村は日本人なら誰もが知る昭和の文豪。中山道馬籠宿の本陣に生まれた人で、私は日本橋から旧中山道を歩いて馬籠宿に辿り着く頃に小説『夜明け前』を読んだ。主人公は本陣を務めた藤村の父をモデルにしており、山間の宿場町が明治維新を迎えてどんな状況だったのかをうかがい知る一冊である。

島崎藤村邸の中には入れないが、外から家の中を見ることできる。

藤村は昭和16年(1941)にここへ移住し最晩年を過ごした。同18年(1943)死去、享年71。最期に残した言葉は「涼しい風だね」だったという。遺体は大磯の地福寺に葬られた。

上方見附跡付近、旧南台町の国道1号(東海道)。

国道1号(東海道)に架かる鴫立橋。現代の車社会に憚りながら。

鴫立沢右岸にひっそりと佇む鴫立庵。

心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮
西行法師が大磯辺りで詠んだといわれる歌。鴫立庵は江戸時代初期に小田原の崇雪(そうせつ)という人物がここをその比定地として鴫立沢の標石を建て、五智如来の石仏を運んで草庵を結んだのがはじまり。後に俳人の大淀三千風が鴫立庵主第一世として入庵、日本三大俳諧道場に数えられて現在に至っている。

初代庵主の大淀三千風が元禄年間(1688~1704)に建てた円位堂。現在に残る建物は建築当初のもので、西行法師の等身大坐像を安置する。

円位堂に安置される西行法師の等身大坐像。

崇雪が小田原から運んできた五智如来像。

鴫立庵の庭、”蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)の蛙”のオブジェが置かれている。このオブジェは第15世庵主の原昔人(はらせきじん)が、正岡子規に贈った高さ7センチの蛙の置物を高さ1メートルに拡大して復元したもの。

鴫立庵の敷地を流れる鴫立沢。ここを流れる水の行く先が気になって海岸へ。

相模湾に向かう鴫立沢の河口付近。

上流方向はこんな感じ。ちょっとした渓谷。

浜辺に出た沢水は水溜まりをつくって細々と海を目指すが…。

海を目前にして、

水は途絶えた。

海岸から国道1号に戻って湘南発祥之地碑。崇雪は鴫立庵を開いた際、「鴫立沢」の標石を建て、裏面に「著盡湘南清絶地」と刻んだ。 「ああ、しょうなんせいぜつち」と読み”湘南”という地名の発祥とされている。

高札場跡。

井上蒲鉾店前から旧道が右に分れる。

旧道は左へ曲がり。

再び国道1号に合流する。左手先が百足屋旅館跡(新島襄終焉の地)。

百足屋旅館跡に隣接して南組(南本町・南茶屋町・南台町)の問屋場跡がある。

照ケ崎海岸入口交差点付近にある「大磯照ヶ﨑海水浴場」道標。照ヶ﨑海水浴場は医師の松本順(良順)が海水浴の効能を認め、明治18年(1885)に日本で初めて海水浴場を開いたところ。松本順(良順)は徳川家茂と慶喜の元侍医で新選組の近藤勇とも親交が深く、維新後には軍医総監を務めた。

明治24年創業の老舗和菓子店”新杵”。虎子饅頭と西行饅頭を買おうと思ったが、虎子饅頭は人気のようで売り切れ。西行饅頭を購入して店を後に。どうしても虎子饅頭が食べてみたかったので、後日大磯の知人に頼んで買ってきてもらいました。
「大磯 新杵」Facebook
https://www.facebook.com/oisoshinkine/

虎子饅頭の元祖で老舗和菓子店だった讃岐屋。天保年間(1830~44)創業だという。照ヶ﨑海水浴場が開設されるに伴い虎子饅頭の製造販売をはじめた。今は残念ながら廃業してしまった様子。

大内館が南本町の石井本陣跡。大磯宿は所々の史跡に解説板等が設けられているが、何故かここにはない。

老舗感たっぷりの食材店”和泉常”。明治初期創業、大磯で初の精肉店だったという。日・月曜が定休日のため本日は休業。
いづ常
https://idutsune.weebly.com/

中南信用金庫前にある「大磯小学校発祥之地・尾上本陣跡」碑。明治末期,に旧本陣・尾上邸に私塾が開かれ、これが後の大磯小学校になった。そのため尾上本陣跡が大磯小学校発祥の地とされている。

尾上本陣跡右横から延びる地福寺参道。

地福寺。島崎藤村夫妻の墓碑がある。

古伊勢屋前に本陣の解説板が立つ。ここが小島本陣跡。

解説板より、小島本陣絵図。建坪は246坪あり、大磯宿で最大規模を誇る本陣だった。天保7年(1836)の大火で他の本陣とともに焼失し、後に規模を縮小して再建。幕末には往時の規模を取り戻していたという。

富久寿司。店舗右隣りに北組問屋場跡を示す解説板が立てられている。

「此辺大磯宿北組問屋場の史跡」解説板。往時の様子がイラストで紹介される有難い配慮。

大磯宿北組問屋場跡の全景。

国道1号沿いの延台寺入口に鎮座する穐葉神社。

穐葉神社の奥にある延台寺。門前には「曽我兄弟霊像 十郎祐成身代り 虎御石」と刻む大きな碑がある。

虎御石とは平安時代末期に大磯の山下長者の娘で虎という女性の生き石といわれる。虎が生まれてからの成長と共に石も大きくなったという。虎は日本三大仇討ちの一つ”曾我兄弟の仇討ち”で知られる曾我十郎と恋仲だったとされ、曾我十郎が仇である工藤祐経の追手に襲われたとき、この石が身代わりとなって十郎を守ったという。そのため「十郎の身代わり石」とも呼ばれる。
万治年間(1658年~61年)刊行の東海道名所記に、「虎が石とて、丸き石あり。よき男のあぐれば、あがり。あしき男のもつには、あがらずといふ。色ごのミの石なりと、旅人はあざむきかたる。」とあり。江戸期には大磯の名所となっていたことがわかる。現在は毎年5月末に開催される”虎御石まつり”の際、虎御石がご開帳される。

延台寺境内にある小さな墓碑、これは大磯宿遊女の墓。江戸時代に宿場の遊女は亡くなると、身寄りもなく無縁仏となって人知れず葬られることも多かったが、延台寺檀徒に縁のあった遊女は墓地に丁重に埋葬されたという。何とも切ない裏の歴史を垣間見る思い。

延台寺から大磯郵便局前を通り。

大磯入口交差点に架かる大磯駅前歩道橋より大磯宿(京・小田原方面)。

大磯駅前歩道橋より大磯宿(江戸・平塚方面)。旧東海道が国道1号となったため、宿場の面影は薄い。

神明町の氏神、神明神社。享保年間(1716~36)に現在地に遷座し町名の発祥となった。現在の社殿は昭和5年(1930)の再建。

神明神社境内にて。

明らかに不審者を見る目つき。

三沢橋交差点。ここに三沢橋という小さな橋が架かっている。江戸時代には石橋が架けられていた。

三沢橋の旧欄干。

三沢橋を渡り桶文風呂住設の先で国道から旧道が左に分れる。

大磯宿東(江戸方)端の旧山王町に鎮座する日枝神社。

日枝神社境内には庚申塔等の石仏が集められている。

柳島屋青木酒店前を行く旧東海道。

江戸見附付近、沿道に松並木が現れる。

ここが大磯宿東側出入口の江戸見附跡。

江戸見附跡より大磯宿方面。広重が描いた大磯宿の浮世絵がこの辺り。かつて見付石垣に高札と傍示杭が設けられていた。
【2020年1月12日(日)旧東海道 大磯宿】

東海道五十三次之内大磯 虎ヶ雨
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「大磯宿」より引用
令和2年正月明けの週末、約ひと月半ぶりに大磯宿に立つ。正月休みで鈍った体を立て直すべく、旧東海道をウォーキングしようと。旧東海道歩きで東京から初めて新幹線を使わずに東海道本線で移動、ゴールが近くなったことを実感しつつ大磯駅に着いた。空模様はまずまずの曇り、暖冬のおかげで寒くはない。真冬ながら上々のウォーキング日和といってよいだろう。潮の匂いを感じながら、大磯宿を探索して次の平塚宿を目指すことにしよう。
大磯宿は江戸日本橋から東海道五十三次を8宿目、京都三条大橋から46宿目。天保14年(1843年)当時の人口3056人、家数676軒、うち本陣3、脇本陣なし、問屋場2、大旅籠屋5、中旅籠屋19、小旅籠屋42軒。江戸方より山王町・神明町・北本町・南本町・南茶屋町・南台町と続く町並みで、西外れの東小磯村を加宿とした。北本町と南本町に本陣があり、両町のそれぞれに北組(山王町・神明町・北本町)と南組(南本町・南茶屋町・南台町)の問屋場が設けられていた。南茶屋町では毎年12月24日に市が立てられ正月用の飾品を商った。名物は西行餅と花水団子。
南台町を流れる鴫立沢は西行が訪れ短歌を詠んだとの言い伝えが室町時代からあり、寛文4年(1664)この故事に因み小田原に住む祟雪という人物が草庵を結び「鴫立沢」の標石を建てた。その標石に「著盡湘南清絶地」と刻んだことから、”湘南”という名称が発祥したとされる。現在の当地には鴫立庵があり、江戸時代中期に大淀三千風が建てた庵室、三世庵主鳥酔が明和2年(1765)に増築したと伝わる俳諧道場等が残る。
広重は「東海道五十三次之内大磯 虎ヶ雨」の題で、大磯宿江戸見附辺りから雨が降り注ぐ宿場町の様子を描いている。副題の”虎ヶ雨”にある”虎”とは、鎌倉時代に伊豆の豪族、曾我十郎祐成の恋仲だった”虎御前”という遊女のこと。十郎祐成と弟の五郎時政(曾我兄弟)は自らの命を顧みず父の仇である工藤佑経を討ち果たす。しかし十郎祐成は仇討ちの最中に命を落とし、五郎時政は捕らえられ斬首となった。幕府により隠されていたこの事件を物語として世に広めたのが虎御前とされ、江戸期に『曽我物語』の題材となって能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵に取り上げられ民衆の人気を得た。事件が起きた旧暦5月28日頃、大磯辺りで降る雨を虎御前の涙雨として”虎ヶ雨”と呼んだという。

約一月半ぶりに大磯へ。まずは大磯宿西外れ、東小磯の東海道松並木へ向かおう。

滄浪閣前交差点より旧東海道の歩き旅を再開。

交差点南側が伊藤博文の旧邸宅”滄浪閣”の敷地。隣接して旧大隈重信邸や旧陸奥宗光邸があり、一帯を大磯邸園と称する。大磯の地は明治期以降に避寒地として盛んに別荘が建てられた。

滄浪閣向かいに鎮座する宇賀神社。

松並木の中にあった切り株。松並木が整備されて400年、江戸期から旅人を見守ってきた古松は近年に松くい虫の被害に遭って姿を消しつつある。

東小磯の東海道松並木。未来永劫、この景観を残してほしい。

大磯宿京方入口の上方見附跡を望む。

上方見附跡に設ける解説板。

上方見附跡から南側、東海道を外れて”こゆるぎの浜”へ。

”こゆるぎの浜”は平安時代に小淘綾ノ磯(こよろぎのいそ)と称して万葉集や古今和歌集に詠まれた歌枕の地で、大磯から国府津辺りにかけての海岸一帯を指すといわれる。

こゆるぎの浜より箱根の山々を望み。

大磯宿の旧東海道に戻り、島崎藤村邸へ行ってみよう。

上方見附跡の北側にある島崎藤村邸。

島崎藤村は日本人なら誰もが知る昭和の文豪。中山道馬籠宿の本陣に生まれた人で、私は日本橋から旧中山道を歩いて馬籠宿に辿り着く頃に小説『夜明け前』を読んだ。主人公は本陣を務めた藤村の父をモデルにしており、山間の宿場町が明治維新を迎えてどんな状況だったのかをうかがい知る一冊である。

島崎藤村邸の中には入れないが、外から家の中を見ることできる。

藤村は昭和16年(1941)にここへ移住し最晩年を過ごした。同18年(1943)死去、享年71。最期に残した言葉は「涼しい風だね」だったという。遺体は大磯の地福寺に葬られた。

上方見附跡付近、旧南台町の国道1号(東海道)。

国道1号(東海道)に架かる鴫立橋。現代の車社会に憚りながら。

鴫立沢右岸にひっそりと佇む鴫立庵。

心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮
西行法師が大磯辺りで詠んだといわれる歌。鴫立庵は江戸時代初期に小田原の崇雪(そうせつ)という人物がここをその比定地として鴫立沢の標石を建て、五智如来の石仏を運んで草庵を結んだのがはじまり。後に俳人の大淀三千風が鴫立庵主第一世として入庵、日本三大俳諧道場に数えられて現在に至っている。

初代庵主の大淀三千風が元禄年間(1688~1704)に建てた円位堂。現在に残る建物は建築当初のもので、西行法師の等身大坐像を安置する。

円位堂に安置される西行法師の等身大坐像。

崇雪が小田原から運んできた五智如来像。

鴫立庵の庭、”蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)の蛙”のオブジェが置かれている。このオブジェは第15世庵主の原昔人(はらせきじん)が、正岡子規に贈った高さ7センチの蛙の置物を高さ1メートルに拡大して復元したもの。

鴫立庵の敷地を流れる鴫立沢。ここを流れる水の行く先が気になって海岸へ。

相模湾に向かう鴫立沢の河口付近。

上流方向はこんな感じ。ちょっとした渓谷。

浜辺に出た沢水は水溜まりをつくって細々と海を目指すが…。

海を目前にして、

水は途絶えた。

海岸から国道1号に戻って湘南発祥之地碑。崇雪は鴫立庵を開いた際、「鴫立沢」の標石を建て、裏面に「著盡湘南清絶地」と刻んだ。 「ああ、しょうなんせいぜつち」と読み”湘南”という地名の発祥とされている。

高札場跡。

井上蒲鉾店前から旧道が右に分れる。

旧道は左へ曲がり。

再び国道1号に合流する。左手先が百足屋旅館跡(新島襄終焉の地)。

百足屋旅館跡に隣接して南組(南本町・南茶屋町・南台町)の問屋場跡がある。

照ケ崎海岸入口交差点付近にある「大磯照ヶ﨑海水浴場」道標。照ヶ﨑海水浴場は医師の松本順(良順)が海水浴の効能を認め、明治18年(1885)に日本で初めて海水浴場を開いたところ。松本順(良順)は徳川家茂と慶喜の元侍医で新選組の近藤勇とも親交が深く、維新後には軍医総監を務めた。

明治24年創業の老舗和菓子店”新杵”。虎子饅頭と西行饅頭を買おうと思ったが、虎子饅頭は人気のようで売り切れ。西行饅頭を購入して店を後に。どうしても虎子饅頭が食べてみたかったので、後日大磯の知人に頼んで買ってきてもらいました。
「大磯 新杵」Facebook
https://www.facebook.com/oisoshinkine/

虎子饅頭の元祖で老舗和菓子店だった讃岐屋。天保年間(1830~44)創業だという。照ヶ﨑海水浴場が開設されるに伴い虎子饅頭の製造販売をはじめた。今は残念ながら廃業してしまった様子。

大内館が南本町の石井本陣跡。大磯宿は所々の史跡に解説板等が設けられているが、何故かここにはない。

老舗感たっぷりの食材店”和泉常”。明治初期創業、大磯で初の精肉店だったという。日・月曜が定休日のため本日は休業。
いづ常
https://idutsune.weebly.com/

中南信用金庫前にある「大磯小学校発祥之地・尾上本陣跡」碑。明治末期,に旧本陣・尾上邸に私塾が開かれ、これが後の大磯小学校になった。そのため尾上本陣跡が大磯小学校発祥の地とされている。

尾上本陣跡右横から延びる地福寺参道。

地福寺。島崎藤村夫妻の墓碑がある。

古伊勢屋前に本陣の解説板が立つ。ここが小島本陣跡。

解説板より、小島本陣絵図。建坪は246坪あり、大磯宿で最大規模を誇る本陣だった。天保7年(1836)の大火で他の本陣とともに焼失し、後に規模を縮小して再建。幕末には往時の規模を取り戻していたという。

富久寿司。店舗右隣りに北組問屋場跡を示す解説板が立てられている。

「此辺大磯宿北組問屋場の史跡」解説板。往時の様子がイラストで紹介される有難い配慮。

大磯宿北組問屋場跡の全景。

国道1号沿いの延台寺入口に鎮座する穐葉神社。

穐葉神社の奥にある延台寺。門前には「曽我兄弟霊像 十郎祐成身代り 虎御石」と刻む大きな碑がある。

虎御石とは平安時代末期に大磯の山下長者の娘で虎という女性の生き石といわれる。虎が生まれてからの成長と共に石も大きくなったという。虎は日本三大仇討ちの一つ”曾我兄弟の仇討ち”で知られる曾我十郎と恋仲だったとされ、曾我十郎が仇である工藤祐経の追手に襲われたとき、この石が身代わりとなって十郎を守ったという。そのため「十郎の身代わり石」とも呼ばれる。
万治年間(1658年~61年)刊行の東海道名所記に、「虎が石とて、丸き石あり。よき男のあぐれば、あがり。あしき男のもつには、あがらずといふ。色ごのミの石なりと、旅人はあざむきかたる。」とあり。江戸期には大磯の名所となっていたことがわかる。現在は毎年5月末に開催される”虎御石まつり”の際、虎御石がご開帳される。

延台寺境内にある小さな墓碑、これは大磯宿遊女の墓。江戸時代に宿場の遊女は亡くなると、身寄りもなく無縁仏となって人知れず葬られることも多かったが、延台寺檀徒に縁のあった遊女は墓地に丁重に埋葬されたという。何とも切ない裏の歴史を垣間見る思い。

延台寺から大磯郵便局前を通り。

大磯入口交差点に架かる大磯駅前歩道橋より大磯宿(京・小田原方面)。

大磯駅前歩道橋より大磯宿(江戸・平塚方面)。旧東海道が国道1号となったため、宿場の面影は薄い。

神明町の氏神、神明神社。享保年間(1716~36)に現在地に遷座し町名の発祥となった。現在の社殿は昭和5年(1930)の再建。

神明神社境内にて。

明らかに不審者を見る目つき。

三沢橋交差点。ここに三沢橋という小さな橋が架かっている。江戸時代には石橋が架けられていた。

三沢橋の旧欄干。

三沢橋を渡り桶文風呂住設の先で国道から旧道が左に分れる。

大磯宿東(江戸方)端の旧山王町に鎮座する日枝神社。

日枝神社境内には庚申塔等の石仏が集められている。

柳島屋青木酒店前を行く旧東海道。

江戸見附付近、沿道に松並木が現れる。

ここが大磯宿東側出入口の江戸見附跡。

江戸見附跡より大磯宿方面。広重が描いた大磯宿の浮世絵がこの辺り。かつて見付石垣に高札と傍示杭が設けられていた。

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