化粧そばを食べて、いざ平塚宿へ
【2020年1月12日(日)旧東海道 大磯宿→平塚宿】
大磯宿江戸見附跡を出て化粧坂(けわいざか)を緩やかに下る。その途中にあるのが車屋という蕎麦処。化粧坂から旧街道情緒が漂う店の佇まいと軒先にある水車が印象的。車屋名物の”化粧そば”を食べて、いざ平塚宿へ向かおう。

大磯宿江戸見附跡を出て松並木が続き、200m程行ったところで旧道は東海道本線に分断されるが地下道で通行可能。

東海道本線を過ぎれば化粧坂(けわいざか)の緩やかな下り。

雨の夜は 静けかりけり 化粧坂 松の雫の 音はかりして
化粧坂路傍にある大磯八景碑。大磯八景は明治40年(1907)頃に第5代大磯町長の宮代謙吉が名所8ヶ所を選んで絵葉書にしたのが始まり。昭和12年(1937)大磯小学校2代校長の朝倉敬之が自作の歌を刻んでそれぞれに碑を建立した。これはその一つ。現在は1基の碑が失われ、7基がそれぞれの場所に残っている。

路傍にある「東海道五十三次之内大磯 虎ヶ雨」案内板。

化粧坂の一里塚跡。解説板があるのみで塚は残存していない。江戸日本橋から16里(約63km)、京三条大橋からは97番目で実測約453km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

化粧坂の一里塚跡に設ける解説板。

右手に坂名の由来となった化粧井戸。

これが今に残る化粧井戸。鎌倉時代に大磯の中心は化粧坂にあったとの説があり、虎御前が付近に住みここの井戸水を汲んで化粧をしたと伝わる。

化粧坂下の沿道、趣ある佇まいの車屋。ここで昼飯にしないわけにはいかない。

車屋で注文した化粧そば。冷ソバの上にに大根おろしが白粉のようにかけられ、カニカマやら水菜、なめこ、刻みのりで化粧を施す贅沢な一品。ご馳走さまでしたと、満足に店を後にしました。

化粧坂下、旧道と国道1号が合流する地点には化粧坂バス停。

国道1号沿いにある虚空蔵堂。虚空蔵と熊野権現を祀る。

現地解説板より虚空蔵堂のイラスト。江戸時代に大名行列はここで下馬し、東照大権現(徳川家康)を併せ祀る高麗寺(現 高来神社)に対し最敬礼をしたという。

神武天皇時代の創建という古社中の古社、高来(たかく)神社。高麗(こま)山南麓に鎮座する。奈良時代に山頂の高麗権現と下宮の千手観音を併せ祀り高麗寺別当の所管とした。鎌倉時代には北条政子が安産祈願、同時代には大磯の虎御前がここに出家したという。

高麗山に向かって延びる高来神社参道。

二の鳥居右手には慶覚院。慶長18年(1613)創建で高麗寺の末寺。元は大磯の北下町にあったが、明治23年(1890)大火に遭って現在地へ移転した。

慶覚院仁王門。

高来神社は寛永年間(1624~44)に東照大権現が併せ祀られ、江戸時代にはここを通行する諸大名が下馬して最敬礼したという。明治元年(1868)神仏分離令と廃仏毀釈によって高麗寺は廃寺となり、高麗神社だけが残された。同30年(1897)高来神社に改称。

旧観音堂の高来神社下宮。

下宮裏手、高麗山の登山口にある平嘉久社。登山道は男坂と女坂の2ルートがあり、山頂の高来神社上宮(社殿は消失)に通じる。毎年4月の高麗寺祭では山神輿が行われ、下宮の御霊を神輿に移し山頂の上宮まで神輿が担ぎ上げられる。

境内にて。アカハラでしょうか。

高麗の国道1号沿いにある茅葺屋根の民家。

平塚入道(了源)が開基した善福寺。浄土真宗本願寺派。平塚入道は父が曽我十郎、母を虎御前とされ、親鸞上人が国府津での布教の折に教化を受けた。

この先で花水川に架かる花水橋を渡る。

高麗山東麓を流れる花水川。『新編相模国風土記稿』(1830~41年編纂)には、「此川名は、昔河辺に桜樹多くありて、流水花を浮べるより起れりと云」と記す。

花水橋東袂にある平成の一里塚。現代の東海道を歩く旅人の休憩所として設けられた。

国道1号の相模貨物駅前交差点。

大磯町から平塚市へ。
大磯宿江戸見附跡を出て化粧坂(けわいざか)を緩やかに下る。その途中にあるのが車屋という蕎麦処。化粧坂から旧街道情緒が漂う店の佇まいと軒先にある水車が印象的。車屋名物の”化粧そば”を食べて、いざ平塚宿へ向かおう。

大磯宿江戸見附跡を出て松並木が続き、200m程行ったところで旧道は東海道本線に分断されるが地下道で通行可能。

東海道本線を過ぎれば化粧坂(けわいざか)の緩やかな下り。

雨の夜は 静けかりけり 化粧坂 松の雫の 音はかりして
化粧坂路傍にある大磯八景碑。大磯八景は明治40年(1907)頃に第5代大磯町長の宮代謙吉が名所8ヶ所を選んで絵葉書にしたのが始まり。昭和12年(1937)大磯小学校2代校長の朝倉敬之が自作の歌を刻んでそれぞれに碑を建立した。これはその一つ。現在は1基の碑が失われ、7基がそれぞれの場所に残っている。

路傍にある「東海道五十三次之内大磯 虎ヶ雨」案内板。

化粧坂の一里塚跡。解説板があるのみで塚は残存していない。江戸日本橋から16里(約63km)、京三条大橋からは97番目で実測約453km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。

化粧坂の一里塚跡に設ける解説板。

右手に坂名の由来となった化粧井戸。

これが今に残る化粧井戸。鎌倉時代に大磯の中心は化粧坂にあったとの説があり、虎御前が付近に住みここの井戸水を汲んで化粧をしたと伝わる。

化粧坂下の沿道、趣ある佇まいの車屋。ここで昼飯にしないわけにはいかない。

車屋で注文した化粧そば。冷ソバの上にに大根おろしが白粉のようにかけられ、カニカマやら水菜、なめこ、刻みのりで化粧を施す贅沢な一品。ご馳走さまでしたと、満足に店を後にしました。

化粧坂下、旧道と国道1号が合流する地点には化粧坂バス停。

国道1号沿いにある虚空蔵堂。虚空蔵と熊野権現を祀る。

現地解説板より虚空蔵堂のイラスト。江戸時代に大名行列はここで下馬し、東照大権現(徳川家康)を併せ祀る高麗寺(現 高来神社)に対し最敬礼をしたという。

神武天皇時代の創建という古社中の古社、高来(たかく)神社。高麗(こま)山南麓に鎮座する。奈良時代に山頂の高麗権現と下宮の千手観音を併せ祀り高麗寺別当の所管とした。鎌倉時代には北条政子が安産祈願、同時代には大磯の虎御前がここに出家したという。

高麗山に向かって延びる高来神社参道。

二の鳥居右手には慶覚院。慶長18年(1613)創建で高麗寺の末寺。元は大磯の北下町にあったが、明治23年(1890)大火に遭って現在地へ移転した。

慶覚院仁王門。

高来神社は寛永年間(1624~44)に東照大権現が併せ祀られ、江戸時代にはここを通行する諸大名が下馬して最敬礼したという。明治元年(1868)神仏分離令と廃仏毀釈によって高麗寺は廃寺となり、高麗神社だけが残された。同30年(1897)高来神社に改称。

旧観音堂の高来神社下宮。

下宮裏手、高麗山の登山口にある平嘉久社。登山道は男坂と女坂の2ルートがあり、山頂の高来神社上宮(社殿は消失)に通じる。毎年4月の高麗寺祭では山神輿が行われ、下宮の御霊を神輿に移し山頂の上宮まで神輿が担ぎ上げられる。

境内にて。アカハラでしょうか。

高麗の国道1号沿いにある茅葺屋根の民家。

平塚入道(了源)が開基した善福寺。浄土真宗本願寺派。平塚入道は父が曽我十郎、母を虎御前とされ、親鸞上人が国府津での布教の折に教化を受けた。

この先で花水川に架かる花水橋を渡る。

高麗山東麓を流れる花水川。『新編相模国風土記稿』(1830~41年編纂)には、「此川名は、昔河辺に桜樹多くありて、流水花を浮べるより起れりと云」と記す。

花水橋東袂にある平成の一里塚。現代の東海道を歩く旅人の休憩所として設けられた。

国道1号の相模貨物駅前交差点。

大磯町から平塚市へ。

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