久留里城址 ~二の丸・本丸~
江戸時代に黒田氏によって整備された久留里城は丘陵部の本丸に2層2階の天守、二の丸に長屋塀、西側平地部の三の丸に御館が設けられていた。二の丸に建てられていた長屋塀とは塀のことではなく、多門櫓のような長屋風の建物を指し、寛保年間(1741~44)に描かれた絵図に”長屋塀”と表記されていることからこの名称を使っているとのこと。諸道具を収納する倉庫として使われたと考えられている。明治5年(1872)廃城令により城の建造物は全て撤去、昭和30年(1955)になって国有地を譲り受けて城山公園に整備され、同54年(1979)本丸の天守台脇に模擬天守、二の丸に久留里城址資料館が完成した。

二の丸に隣接してすぐ下に配される薬師曲輪。

眼下にかつての三の丸や外曲輪を一望。

薬師曲輪に鎮座する雨城八幡宮。

里見北条古戦史。戦国時代の天文23年(1554)と弘治元年(1555年)、里見氏が拠る久留里城を北条氏が攻め、激しい攻防戦が繰り広げられた。

二の丸を囲む復元土塀。

新井白石の銅像。

明治時代中期頃に久留里の市場(現 久留里の商店街)に埋設されていた水道木管の一部。当時は自然木の中央部をえぐり貫いて水路を繋げ上水道を通していた。

上総掘り方式の井戸掘り櫓。明治時代中期に君津辺りで考案され、飲料水や灌漑用水をはじめ、石油や温泉発掘にも利用された。

久留里城址資料館に展示される久留里城の模型。外曲輪・三の丸側から丘陵部の二の丸・本丸を望む。

本丸側から外曲輪・三の丸方面。

久留里藩黒田家初代藩主、黒田直純公の肖像画。

資料館を出て本丸へ向かおう。奥に見える建物が資料館。

二の丸から本丸へ続く登城路。

本丸西側辺下に配される天神曲輪。

本丸入口手前にある2つの溜め井戸。それぞれ男井戸(おいど)・女井戸(めいど)と呼ばれる。戦国時代に北条氏から度々攻められここに籠城した里見氏にとって命を繋ぐ貴重な水場だった。江戸時代の黒田家が治めていた時代には、藩士の結婚式の折に新郎新婦がこの水を飲んで夫婦の誓いを交わしたという。

伝説によれば男井戸と女井戸は良弁(奈良時代の華厳宗の僧、東大寺の開山)により掘られたもので、当時は金剛水・胎蔵水と呼ばれていたという。

本丸南側辺下に配される波多野曲輪。

波多野曲輪。

そして、いよいよ本丸へ。

江戸期の天守台と昭和54年(1979)に建てられた模擬天守。

模擬天守の横に良好な状態で残される天守台。廃城時には2層2階の天守がここに建てられていた。

本丸北西側の土塁上にある丹生廟遺跡の碑。久留里藩主黒田家の藩祖、黒田直邦(久留里藩黒田家初代藩主、黒田直純の養父)が氏神として祀り崇拝していた丹生大神。黒田家を継いだ直純が沼田から久留里へ転封した際、直純は丹生大神を当地へ遷座した。久留里の民衆から干ばつの雨乞いや病気平癒が祈られ広く崇敬を集めたが、廃城後に忘れられた存在となり、大正時代になってこれを見かねた地元の有志が村社に遷した。「霊址蕪没に発し、石を建てこれを知らしむ」の文で締めくくられている。

模擬天守内で配られていた上総凧のミニチュア。江戸時代末期から伝わる当地の民芸品で、家を継ぐ男子の誕生や家屋新築等、祝い事に親族から贈られる風習があった。

模擬天守より本丸東側。

模擬天守より本丸西側の天守台。

模擬天守より本丸入口の登城路。

本丸東側に設置される「久留里城再建記念碑」(昭和54年建立)と土塀跡の解説板。

本丸後側の土塀跡。解説板には寛保3年(1743)の城絵図には本丸後側に土塀が描かれていないが、発掘調査により本丸後側にも土塀が築かれていたことが発掘調査で確認されたと説明する。

本丸北東辺下に配される弥陀曲輪。
これにて二の丸・本丸の散策は終わり。次は城山を降りて平地部の三の丸や外曲輪を見に行こう。
訪問日:2021年5月4日(火)

二の丸に隣接してすぐ下に配される薬師曲輪。

眼下にかつての三の丸や外曲輪を一望。

薬師曲輪に鎮座する雨城八幡宮。

里見北条古戦史。戦国時代の天文23年(1554)と弘治元年(1555年)、里見氏が拠る久留里城を北条氏が攻め、激しい攻防戦が繰り広げられた。

二の丸を囲む復元土塀。

新井白石の銅像。

明治時代中期頃に久留里の市場(現 久留里の商店街)に埋設されていた水道木管の一部。当時は自然木の中央部をえぐり貫いて水路を繋げ上水道を通していた。

上総掘り方式の井戸掘り櫓。明治時代中期に君津辺りで考案され、飲料水や灌漑用水をはじめ、石油や温泉発掘にも利用された。

久留里城址資料館に展示される久留里城の模型。外曲輪・三の丸側から丘陵部の二の丸・本丸を望む。

本丸側から外曲輪・三の丸方面。

久留里藩黒田家初代藩主、黒田直純公の肖像画。

資料館を出て本丸へ向かおう。奥に見える建物が資料館。

二の丸から本丸へ続く登城路。

本丸西側辺下に配される天神曲輪。

本丸入口手前にある2つの溜め井戸。それぞれ男井戸(おいど)・女井戸(めいど)と呼ばれる。戦国時代に北条氏から度々攻められここに籠城した里見氏にとって命を繋ぐ貴重な水場だった。江戸時代の黒田家が治めていた時代には、藩士の結婚式の折に新郎新婦がこの水を飲んで夫婦の誓いを交わしたという。

伝説によれば男井戸と女井戸は良弁(奈良時代の華厳宗の僧、東大寺の開山)により掘られたもので、当時は金剛水・胎蔵水と呼ばれていたという。

本丸南側辺下に配される波多野曲輪。

波多野曲輪。

そして、いよいよ本丸へ。

江戸期の天守台と昭和54年(1979)に建てられた模擬天守。

模擬天守の横に良好な状態で残される天守台。廃城時には2層2階の天守がここに建てられていた。

本丸北西側の土塁上にある丹生廟遺跡の碑。久留里藩主黒田家の藩祖、黒田直邦(久留里藩黒田家初代藩主、黒田直純の養父)が氏神として祀り崇拝していた丹生大神。黒田家を継いだ直純が沼田から久留里へ転封した際、直純は丹生大神を当地へ遷座した。久留里の民衆から干ばつの雨乞いや病気平癒が祈られ広く崇敬を集めたが、廃城後に忘れられた存在となり、大正時代になってこれを見かねた地元の有志が村社に遷した。「霊址蕪没に発し、石を建てこれを知らしむ」の文で締めくくられている。

模擬天守内で配られていた上総凧のミニチュア。江戸時代末期から伝わる当地の民芸品で、家を継ぐ男子の誕生や家屋新築等、祝い事に親族から贈られる風習があった。

模擬天守より本丸東側。

模擬天守より本丸西側の天守台。

模擬天守より本丸入口の登城路。

本丸東側に設置される「久留里城再建記念碑」(昭和54年建立)と土塀跡の解説板。

本丸後側の土塀跡。解説板には寛保3年(1743)の城絵図には本丸後側に土塀が描かれていないが、発掘調査により本丸後側にも土塀が築かれていたことが発掘調査で確認されたと説明する。

本丸北東辺下に配される弥陀曲輪。
これにて二の丸・本丸の散策は終わり。次は城山を降りて平地部の三の丸や外曲輪を見に行こう。
訪問日:2021年5月4日(火)

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