久留里城址 ~外曲輪・久留里市場~
久留里城三の丸を守るがごとく小櫃川右岸に縄張りが配されていた外曲輪。城の大外にあたり、久留里道からの出入口となる外張(戸張)門や追手(大手)門をはじめ、死者や罪人等を城外に出す不浄門を設け、曲輪内には二重櫓・藩校の三近塾・練兵場・厩・侍屋敷・御作事屋敷・倉屋敷等が設けられていた。現在は市街化されていないにも関わらず農地や宅地へと変貌を遂げてしまっており、往時の様子を何となく偲べる程度である。
大手門から小櫃川旧河道の右岸に沿って下流方向、外曲輪北端の”田丸家の銘水”辺りまで城を取り巻くように久留里道が通されていた。この道は房総往還の宿場町五井へと至り、江戸時代後期に藩主黒田氏が参勤交代に利用した。”田丸家の銘水”から城域を抜けて久留里道(現 国道410号)を久留里駅方面に進むと商店街に入る。この辺りは江戸期に城下の町人町として形成され、市場村や市場町とも称して発展、市場仲町河岸の小櫃川右岸に船着き場があり物資の集散地として賑わった。現在は久留里市場の地名を残しており、今も商店街には佇まいや屋号に往時を偲ばせる店が多く見られる。

三之丸門跡前、外曲輪にあった練兵場跡は”JAきみつ上総購買センター”の敷地になっている。

三之丸門跡前にある久留里城三の丸跡バス停。

練兵場跡の北隣にあった厩跡(写真右手)。

厩跡より三の丸方面。かつては正面に三之丸北櫓(太鼓櫓)が見えていたはず。

外曲輪不浄門跡。突き当りの右から左方向に進む道が大手門へ向かう旧久留里道で、写真手前辺りに不浄門が設けられていた。

大手門の北側、外曲輪の北西端に設けられていた二重櫓跡。写真正面の平地が二重櫓跡で、その奥側が小櫃川旧河道の谷。

二重櫓跡付近より大手門(追手門)を望む。右手の道が旧久留里道で、その左側は水堀跡。

旧久留里道より大手門(追手門)跡正面。奥の丘陵部が二の丸と本丸。

かつてここには城内への正面入口となる枡形と櫓門が設けられる大手門(追手門)があった。今となっては遺構を見ることはできず、想像を働かせるしかない。

大手門(追手門)より北方向、二重櫓にかけての水堀跡。

大手門(追手門)より南方向、水堀跡。

大手門(追手門)から外曲輪内に入って三の丸方面。この辺りは侍屋敷地だった。

外曲輪南西辺の水堀跡。道に沿って左側が水堀跡でかつては正面に二重櫓が見えていたはず。

搦手門跡。写真正面が城外からの入口と枡形跡で、枡形の左側に門が設けられていた。

外曲輪内より搦手門跡。遺構は完全に消失し、どこに何があったのかもわからない状態。

外曲輪に設けられていた藩校の三近塾跡(写真左手)。

不浄門跡から城外に出て旧久留里道を進み留里神社に。

随神門へ延びる参道階段前に石橋が架かる。

その石橋の下を流れる水路。水堀から小櫃川へ水を流していた放水路の名残り。

小櫃川旧河道へ流れ込む水路。

久留里神社の起源は平安時代の治安元年(1021)、千葉氏の祖となる平忠常が創建した細田妙見宮にある。治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総へ渡った源頼朝が当地にたどり着き、再起を図るべく戦勝祈願をしたという。戦国期には久留里一帯を領有した武田真勝や里見義堯をはじめ、江戸期に入って大須賀氏・土屋氏・黒田氏の歴代藩主から篤い崇敬を受けた。

久留里神社より薬師曲輪を望み。

久留里神社社殿。記憶に新しい2019年に千葉県で猛威を振るった台風15号、その暴風による倒木で拝殿が倒壊したため、現在は本殿だけが残っている状況。

拝殿再建義援金のお願い。

台風15号で倒木して残された切株。ここに立っていた木が拝殿方向に倒れたらしい。

久留里神社に掲げられていた写真より、在りし日の拝殿。幾ばくかの賽銭を投げ入れ復活することを祈願させていただきました。

久留里神社の北側、久留里道沿いにある”久留里街道沿いの銘水”。

久留里道(国道410号)を歩いて帰途につくべく久留里駅へ向かおう。

久留里市場の久留里道(国道410号)沿いにある雨城・城山最中店。久留里城は築城後に雨が多く降ったとか、城山によく霧がかかり雨が降っているように見えたとの伝説から”雨城”の異名を待つ。

久留里城下の町人町として発展してきた久留里市場。久留里道沿道には店構えや屋号に城下町だった時代を想像させる店が多く見られる。こちらは屋号が紙屋ながら金物を商う紙屋金物店。

老舗感漂う割烹旅館山徳。

寛永元年(1624)創業の吉崎酒造。多くの銘水井戸がある久留里には5軒もの造り酒屋がある。

こちらは藤平酒造の銘水。

”いせげん”の屋号を掲げる伊勢源呉服店。

蔵造り商家の佇まいを見せる木村屋金物店。

久留里城下の散策を終え久留里駅から帰途に。

しばし久留里線の鉄道旅を楽しんで木更津駅に着き。
訪問日:2021年5月4日(火)
大手門から小櫃川旧河道の右岸に沿って下流方向、外曲輪北端の”田丸家の銘水”辺りまで城を取り巻くように久留里道が通されていた。この道は房総往還の宿場町五井へと至り、江戸時代後期に藩主黒田氏が参勤交代に利用した。”田丸家の銘水”から城域を抜けて久留里道(現 国道410号)を久留里駅方面に進むと商店街に入る。この辺りは江戸期に城下の町人町として形成され、市場村や市場町とも称して発展、市場仲町河岸の小櫃川右岸に船着き場があり物資の集散地として賑わった。現在は久留里市場の地名を残しており、今も商店街には佇まいや屋号に往時を偲ばせる店が多く見られる。

三之丸門跡前、外曲輪にあった練兵場跡は”JAきみつ上総購買センター”の敷地になっている。

三之丸門跡前にある久留里城三の丸跡バス停。

練兵場跡の北隣にあった厩跡(写真右手)。

厩跡より三の丸方面。かつては正面に三之丸北櫓(太鼓櫓)が見えていたはず。

外曲輪不浄門跡。突き当りの右から左方向に進む道が大手門へ向かう旧久留里道で、写真手前辺りに不浄門が設けられていた。

大手門の北側、外曲輪の北西端に設けられていた二重櫓跡。写真正面の平地が二重櫓跡で、その奥側が小櫃川旧河道の谷。

二重櫓跡付近より大手門(追手門)を望む。右手の道が旧久留里道で、その左側は水堀跡。

旧久留里道より大手門(追手門)跡正面。奥の丘陵部が二の丸と本丸。

かつてここには城内への正面入口となる枡形と櫓門が設けられる大手門(追手門)があった。今となっては遺構を見ることはできず、想像を働かせるしかない。

大手門(追手門)より北方向、二重櫓にかけての水堀跡。

大手門(追手門)より南方向、水堀跡。

大手門(追手門)から外曲輪内に入って三の丸方面。この辺りは侍屋敷地だった。

外曲輪南西辺の水堀跡。道に沿って左側が水堀跡でかつては正面に二重櫓が見えていたはず。

搦手門跡。写真正面が城外からの入口と枡形跡で、枡形の左側に門が設けられていた。

外曲輪内より搦手門跡。遺構は完全に消失し、どこに何があったのかもわからない状態。

外曲輪に設けられていた藩校の三近塾跡(写真左手)。

不浄門跡から城外に出て旧久留里道を進み留里神社に。

随神門へ延びる参道階段前に石橋が架かる。

その石橋の下を流れる水路。水堀から小櫃川へ水を流していた放水路の名残り。

小櫃川旧河道へ流れ込む水路。

久留里神社の起源は平安時代の治安元年(1021)、千葉氏の祖となる平忠常が創建した細田妙見宮にある。治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総へ渡った源頼朝が当地にたどり着き、再起を図るべく戦勝祈願をしたという。戦国期には久留里一帯を領有した武田真勝や里見義堯をはじめ、江戸期に入って大須賀氏・土屋氏・黒田氏の歴代藩主から篤い崇敬を受けた。

久留里神社より薬師曲輪を望み。

久留里神社社殿。記憶に新しい2019年に千葉県で猛威を振るった台風15号、その暴風による倒木で拝殿が倒壊したため、現在は本殿だけが残っている状況。

拝殿再建義援金のお願い。

台風15号で倒木して残された切株。ここに立っていた木が拝殿方向に倒れたらしい。

久留里神社に掲げられていた写真より、在りし日の拝殿。幾ばくかの賽銭を投げ入れ復活することを祈願させていただきました。

久留里神社の北側、久留里道沿いにある”久留里街道沿いの銘水”。

久留里道(国道410号)を歩いて帰途につくべく久留里駅へ向かおう。

久留里市場の久留里道(国道410号)沿いにある雨城・城山最中店。久留里城は築城後に雨が多く降ったとか、城山によく霧がかかり雨が降っているように見えたとの伝説から”雨城”の異名を待つ。

久留里城下の町人町として発展してきた久留里市場。久留里道沿道には店構えや屋号に城下町だった時代を想像させる店が多く見られる。こちらは屋号が紙屋ながら金物を商う紙屋金物店。

老舗感漂う割烹旅館山徳。

寛永元年(1624)創業の吉崎酒造。多くの銘水井戸がある久留里には5軒もの造り酒屋がある。

こちらは藤平酒造の銘水。

”いせげん”の屋号を掲げる伊勢源呉服店。

蔵造り商家の佇まいを見せる木村屋金物店。

久留里城下の散策を終え久留里駅から帰途に。

しばし久留里線の鉄道旅を楽しんで木更津駅に着き。
訪問日:2021年5月4日(火)

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