本石倉駅(函館本線) ~石倉町発祥の地~
渡島管内の函館本線にある5駅が2022年3月のダイヤ改正に合わせて廃止される。その5駅は森町の石谷駅と本石倉駅、七飯町の池田園駅と流山温泉駅に銚子口駅である。廃止前にその最後の雄姿を見ておきたいと、年末年始の休暇を利用して上野駅6:38発の新幹線はやぶさ1号(新函館北斗行)に乗車して函館入り。当日中に全ての5駅へ足跡を残すには鉄道利用では難しく、車での移動を選択。トヨタレンタカー函館駅前でレンタカーを調達して、国道5号を北上し先ずは函館から最も遠い本石倉駅に向かう。
本石倉駅は茅部郡森町石倉町に所在、山と海に挟まれた僅かな平地に函館本線と国道5号が通り、石倉漁港を中心にして海岸沿いに集落を形成する小さな漁村といった風情。昭和19年(1944)本石倉信号場として開業したのが始まり、同23年(1948)に旅客取扱いの仮乗降場となるが、利用者がほとんどいなかったのか同39年(1964)再び信号場に。同48年(1973)旅客扱いを再開し、同62年(1987)国鉄民営化により事業がJR北海道へ継承されたことを機に本石倉駅となった。仮乗降場を出自にする無人駅ながら複線化されている区間のため2面2線のホームに大きめの待合所を設ける。JR北海道の調査で利用客が乗車人員1日平均3名以下の「極端にご利用の少ない駅」とされ、2022年3月のダイヤ改正に合わせて廃止される。
駅名の由来は所在地名に”本”を冠したもの。石倉という地名は江戸期から見える地名で、北埋調報247「森町 石倉1遺跡 -北海道縦貫自動車道(七飯~長万部)埋蔵文化財発掘調査報告書-」にその地名由来について詳しく書かれていたので引用する。
【石倉の元の地名は「シュウンナイ」という。アイヌ語の「ショ」(滝・裸岩)「ウン」(…のある所)「ナイ」(川・沢)の意である。現在の本石倉(ほんいしくら)にそそぐ小川から得た名という。
…(中略)…
「シュウンナイ」がどのような経緯で「石倉」となったのかは不明であるが、天明4(1784)年の『北藩紀略』には「イシクラ」、寛政3(1791)年の菅江真澄の「えぞのてぶり」には「石倉」という地名が登場している(竹内編 1987)。安政3(1856)年の記述である『竹四郎廻浦日記 巻の三十』には「石クラ」として「…此処も文化頃人家七軒有し由なるが当時四軒、人別三十二人有。…」との記述があり(松浦著・高倉編 1978)、『渡島日誌 巻の四』には同様の記述に苛斂誅求により人口が減ったとの解説が加えられている(松浦著・秋葉解読 1988)】
引用文にある「苛斂誅求」とは”かれんちゅうきゅう”と読み、税金や借金などを容赦なく厳しく取り立てることを意味する四字熟語。松浦著とは松浦武四郎による著書のこと。この引用文によれば、石倉の旧地名がアイヌ語由来の「シュウンナイ」で、本石倉に注ぐ小川に得た名だということから、石倉に「本」を冠した理由は発祥の地でることにあるのかもしれない。もしくは石倉の漁港や集落が隣の石倉駅よりもこちらの本石倉駅近くにあり、元々の石倉の意で当地を本石倉という地名で通称していたとも考えられる。地元の方に聞けばこの謎はあっさり解決するのかもしれないが…。

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7617-C13-13を基に作成
昭和51年(1976年)撮影、本石倉仮乗降場付近の空中写真。駅構造は現在と変わっていない。

長万部方面のホーム出入口横に待合所を設ける。

古そうだがなかなか立派な待合所。

待合所のホーム側出入口。その扉横にはかつて駅名板を掲ていた痕跡が。

駅と山に挟まれた僅かな平地に石倉郵便局がでーんと構える。

長万部方面ホームの駅名標。

駅名標より函館方面。

長万部方面ホームより長万部方面。

そこそこに広々とした待合所内。

出入口は2か所。

発車時刻表ときっぷ運賃表。

ここを訪れた人たちが思いを綴る駅ノート。その横にはこの待合所をモチーフにしたスケッチを写真立てに置く。列車の到着を待つギターを持った女の子、これからどこに行くのだろうか、そんな幻想を抱く光景が描かれる。

本石倉駅の国道側。待合所から函館方面のホームにアクセスするにはこの線路下の車道を通らなければならない。これでは待合所でのんびり列車を待っていたら乗り遅れてしまうだろう。

国道側より本石倉駅。

函館方面ホームへアクセスする階段。

函館方面ホームより函館方面。線路の先に第4石倉トンネルが見える。

函館方面ホームより石倉郵便局。

函館方面ホームより長万部方面。線路の先に第5石倉トンネルが見える。

この駅はもうすぐ消えてしまうのか…。無くなる前に来れてよかった。

最後に本石倉駅を通過する特急北斗10号。
訪問日:2021年12月28日(火)
本石倉駅は茅部郡森町石倉町に所在、山と海に挟まれた僅かな平地に函館本線と国道5号が通り、石倉漁港を中心にして海岸沿いに集落を形成する小さな漁村といった風情。昭和19年(1944)本石倉信号場として開業したのが始まり、同23年(1948)に旅客取扱いの仮乗降場となるが、利用者がほとんどいなかったのか同39年(1964)再び信号場に。同48年(1973)旅客扱いを再開し、同62年(1987)国鉄民営化により事業がJR北海道へ継承されたことを機に本石倉駅となった。仮乗降場を出自にする無人駅ながら複線化されている区間のため2面2線のホームに大きめの待合所を設ける。JR北海道の調査で利用客が乗車人員1日平均3名以下の「極端にご利用の少ない駅」とされ、2022年3月のダイヤ改正に合わせて廃止される。
駅名の由来は所在地名に”本”を冠したもの。石倉という地名は江戸期から見える地名で、北埋調報247「森町 石倉1遺跡 -北海道縦貫自動車道(七飯~長万部)埋蔵文化財発掘調査報告書-」にその地名由来について詳しく書かれていたので引用する。
【石倉の元の地名は「シュウンナイ」という。アイヌ語の「ショ」(滝・裸岩)「ウン」(…のある所)「ナイ」(川・沢)の意である。現在の本石倉(ほんいしくら)にそそぐ小川から得た名という。
…(中略)…
「シュウンナイ」がどのような経緯で「石倉」となったのかは不明であるが、天明4(1784)年の『北藩紀略』には「イシクラ」、寛政3(1791)年の菅江真澄の「えぞのてぶり」には「石倉」という地名が登場している(竹内編 1987)。安政3(1856)年の記述である『竹四郎廻浦日記 巻の三十』には「石クラ」として「…此処も文化頃人家七軒有し由なるが当時四軒、人別三十二人有。…」との記述があり(松浦著・高倉編 1978)、『渡島日誌 巻の四』には同様の記述に苛斂誅求により人口が減ったとの解説が加えられている(松浦著・秋葉解読 1988)】
引用文にある「苛斂誅求」とは”かれんちゅうきゅう”と読み、税金や借金などを容赦なく厳しく取り立てることを意味する四字熟語。松浦著とは松浦武四郎による著書のこと。この引用文によれば、石倉の旧地名がアイヌ語由来の「シュウンナイ」で、本石倉に注ぐ小川に得た名だということから、石倉に「本」を冠した理由は発祥の地でることにあるのかもしれない。もしくは石倉の漁港や集落が隣の石倉駅よりもこちらの本石倉駅近くにあり、元々の石倉の意で当地を本石倉という地名で通称していたとも考えられる。地元の方に聞けばこの謎はあっさり解決するのかもしれないが…。

空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7617-C13-13を基に作成
昭和51年(1976年)撮影、本石倉仮乗降場付近の空中写真。駅構造は現在と変わっていない。

長万部方面のホーム出入口横に待合所を設ける。

古そうだがなかなか立派な待合所。

待合所のホーム側出入口。その扉横にはかつて駅名板を掲ていた痕跡が。

駅と山に挟まれた僅かな平地に石倉郵便局がでーんと構える。

長万部方面ホームの駅名標。

駅名標より函館方面。

長万部方面ホームより長万部方面。

そこそこに広々とした待合所内。

出入口は2か所。

発車時刻表ときっぷ運賃表。

ここを訪れた人たちが思いを綴る駅ノート。その横にはこの待合所をモチーフにしたスケッチを写真立てに置く。列車の到着を待つギターを持った女の子、これからどこに行くのだろうか、そんな幻想を抱く光景が描かれる。

本石倉駅の国道側。待合所から函館方面のホームにアクセスするにはこの線路下の車道を通らなければならない。これでは待合所でのんびり列車を待っていたら乗り遅れてしまうだろう。

国道側より本石倉駅。

函館方面ホームへアクセスする階段。

函館方面ホームより函館方面。線路の先に第4石倉トンネルが見える。

函館方面ホームより石倉郵便局。

函館方面ホームより長万部方面。線路の先に第5石倉トンネルが見える。

この駅はもうすぐ消えてしまうのか…。無くなる前に来れてよかった。

最後に本石倉駅を通過する特急北斗10号。
訪問日:2021年12月28日(火)

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