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石狩沼田駅(留萌本線) ~かつて札沼線の終点だった駅~

石狩平野の最北部、町域南部に雨竜川が流れ肥沃な水田地帯を広げる沼田町。かつて町内には浅野炭鉱や雨竜炭鉱、太刀別炭鉱があり、炭鉱と稲作の町として発展してきた。しかし1960年代末に全ての炭鉱が閉山、その後は農業を基幹産業として水稲を中心に畑作物(麦・大豆・そば)を栽培し、近年では特産品のトマトジュースやケチャップの原料となるトマトをはじめ、ブロッコリーなどの生産も盛んに行なう。人口は石炭産出が全盛を迎えた1950年代の1万9千人をピークに減り続け、現在(2022年)は約3千人。しかしながら近年は都会から移住したい希望者の注目が高い町になっているようだ。

町名の由来は明治期に当地を開拓した沼田喜三郎という実業家、この人物は富山出身の元大工で明治15年(1882)49歳のときに北海道へ渡り、小樽で精米メーカーを起業し小樽における豪商の一人に数えられるまでに成功した。明治27年(1894)米作を目的に郷里から18戸を移住させ現在の沼田町域を開拓、それから16年後の同43年(1910)留萠線の深川駅~留萠駅間が開通し、沼田喜三郎所有の農場内に駅が設置され沼田駅と命名された。それから12年後の大正11年(1922)に自治体名が上北竜村から沼田村に改称。大正13年(1924)群馬県沼田市の上越線に同名の沼田駅が開業したため、”沼田”に旧国名を冠して駅名を”石狩沼田”に改称した。

昭和6年(1931)札沼北線の石狩沼田駅~中徳富駅(後の札沼線新十津川駅、2020年廃止)間が開通、同10年(1935)函館本線桑園駅までの路線が全通し、沼田町と札幌市を繋ぐ札沼線が誕生、石狩沼田駅は留萌本線と札沼線の接続駅となって全盛を迎える。しかし戦時中に不要不急路線として石狩当別駅~石狩沼田駅間が営業休止、昭和31年(1956)全線での営業再開となるが、札沼線が赤字ローカル線の廃止対象となり昭和47年(1972)6月に新十津川駅~石狩沼田駅間を廃止した。

新十津川~石狩沼田間の札沼線が廃止されて5ヶ月後の昭和47年(1972)11月に駅舎改築を改築し跨線橋を設置、同57年(1982)貨物扱い廃止、同59年(1984)荷物扱い廃止と共に旅客扱いが廃止され、旅客業務の駅員を配置しない無人駅になり、切符販売を簡易委託化。同63年(1988)再び窓口業務を行う駅員が配置され有人駅となるが、平成10年(1998)再び無人駅となり切符販売を簡易委託して現在に至っている。”北の大地の入場券”の販売駅で、駅窓口の他に近隣のセイコーマートでこの入場券を購入できる。




空中写真_石狩沼田駅_CHO7727-C3-16_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 整理番号_CHO7727-C3-16を基に作成
昭和52年(1977)撮影、石狩沼田駅周辺の空中写真。今に残っていない構内跨線橋や貨物用側線が見え、昭和47年(1972)に完成した現駅舎が確認できる。札沼線(新十津川~石狩沼田)廃止から5年が経ち、駅から分岐点にかけての路盤は道路に転用され、線路は既に消え失せている。


石狩沼田駅_1980年代
1980年代に撮影した石狩沼田駅。外装の色は違えど構造は今と変わらず、郵便ポストも今と同じ場所に設置されている。


石狩沼田駅
雪が降りしきる中、2022年を迎えた石狩沼田駅に。


石狩沼田駅
私が生まれた昭和47年(1972)に完成した駅舎を残す。だからなのか、昔からこの駅には親近感を覚える。


石狩沼田駅
駅前には電話ボックスがあり、令和になっても昭和の時代を感じる駅である。


石狩沼田駅前
元旦だけに駅前は行き交う人も車も無く静か。


石狩沼田駅
玄関フードに入って駅舎出入口。


石狩沼田駅
出入口扉の窓には”北の大地の入場券”ポスター。駅の切符売場とセイコーマート沼田店で販売しているとのこと。


石狩沼田駅
駅舎内改札口側。


石狩沼田駅
駅舎内出入口側。


石狩沼田駅
切符販売窓口や荷物扱い窓口、改札窓口が往時のまま原形を留めている。


石狩沼田駅
留萠鉄道炭礦線で活躍したクラウス15号蒸気機関車の写真を展示。


石狩沼田駅
現在は改札窓口がきっぷ売場になっているようで、窓口には「只今、切符販売員が不在となっております」との案内。駅舎内に人気が無く何でだろうと思っていたが、どうも悪天候で列車が運休になっているようだ。


石狩沼田駅
スタンプラリーのスタンプと共に置かれていた駅ノート。


石狩沼田駅
待合スペースに整然と並ぶベンチ。男女別にトイレがあり、伊藤園の自販機を設置。


石狩沼田駅
発車時刻表。1日に深川方面7本、留萌方面7本の列車が発着。


石狩沼田駅
きっぷ運賃表。上貼りされて納内~近文間の伊納(2021年3月廃止)が消されている。


石狩沼田駅
深川方面乗車口。


石狩沼田駅
留萌方面乗車口。


石狩沼田駅
かつて石狩沼田駅は単式ホームと島式ホームの2面3線を持つ列車交換が可能な駅だったが、現在は駅舎に隣接する単式ホーム1面1線だけを使う。しかしながら使われなくなった島式ホームは残存しており、そのホーム上にこの古びた駅名標が立つ。


石狩沼田駅
こちらは改札口上に掲げる現役の駅名標。


石狩沼田駅
駅舎端に自動車乗務員休憩室がある。これは札沼線(新十津川駅~石狩沼田)廃止後の代替輸送として運行していたJRバス石狩線の名残りらしい。


北の大地の入場券「石狩沼田駅」
セイコーマート沼田店で”北の大地の入場券”を購入できました!


訪問日:2022年1月1日(土)
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北秩父別駅(留萌本線) ~元仮乗降場は残った~

留萌本線における仮乗降場を出自とする駅の生き残り、北秩父別駅。かつて留萌本線には8ヶ所の仮乗降場が設けられ、現在残っているのはここ北秩父別駅と真布駅のみ。秩父別の北側にあることが駅名の由来で、周辺一帯は田園が広がる農村地帯。すぐ近くを深川留萌自動車道が通り、人気は無くとも車が走り抜ける音だけは聞こえてくる。JR北海道の調査で利用客が乗車人員1日平均1名以下の「極端にご利用の少ない駅」とされ、乗降客はほとんどいないようだ。そのため下り留萌方面7本のうちの5本、上り深川方面7本のうちの3本が通過。毎年3月のダイヤ改正で道内の駅が次々と廃止される昨今、この駅が廃止されず昭和の面影を留めたまま今に残っているのが不思議なぐらい。

北秩父別駅は雨竜郡秩父別町六条に所在。昭和31年(1956)留萠本線の北秩父別仮乗降場として旅客のみの扱いで開業、昭和62年(1987)経営がJR北海道に移ったことに伴い駅になった。1面1線の単式ホームに古びた待合所を設け、駅に隣接して秩父別1丁目踏切がある。




空中写真_北秩父別仮乗降場_CHO7727-C6A-19_1977(昭52)_02
空中写真データ:国土地理院 整理番号_CHO7727-C6A-19を基に作成
昭和52年(1977)撮影、北秩父別仮乗降場付近の空中写真。まだ深川留萌自動車道は建設されておらず、田園地帯にポツンと設けられる待合所とホームが見える。


北秩父別駅
猛烈に雪が降りしきる中、北秩父別駅に到着。


北秩父別駅
板張りの古びた待合所。


北秩父別駅
待合所出入口横に掲げる駅名標は仮乗降場時代のものだろう。


北秩父別駅
風雪が入り込み寒さを凌ぐには頼りない待合所内。


北秩父別駅
壁には何ゆえか千羽鶴が吊るされる。


北秩父別駅
発車時刻表。1日に深川方面4本、留萌方面2本の列車が発着。ただでさえ運行本数が少ない留萌本線にありながら、大半の列車が通過する。この現状を見るとホント、令和の時代までよく残ってくれたと感心してしまう。


北秩父別駅
きっぷ運賃表。上貼りされて納内~近文間の伊納(2021年3月廃止)が消されている。かつて北秩父別駅から深川駅で乗り換えて伊納駅へ行った人はいるのだろうか。


北秩父別駅
待合所内の周囲には板ベンチが巡らされ。


北秩父別駅
そのベンチ上に駅ノートを置く。


北秩父別駅
駅名標。


北秩父別駅
ホームより深川方面。特に冬場は秘境駅感たっぷり。


北秩父別駅
ホームより留萌方面。


北秩父別駅
秩父別駅に隣接する秩父別1丁目踏切。


北秩父別駅
秩父別1丁目踏切より北秩父別駅を望み。


北秩父別駅
奇跡的に雪が止み雲間から日差しが。


北秩父別駅前
踏切の向こうに見える道路橋が駅裏手を通る深川留萌自動車道。令和2年(2020)深川留萌自動車道は全線開通、これで鉄道は役目を終えてしまうのか。


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秩父別駅(留萌本線) ~昭和の木造駅舎を残し、平成に湧いた温泉に歩いて行ける駅~

石狩平野の最北部に位置する秩父別(ちっぷべつ)町。雨竜川が町域北辺を流れ沼田町との境をなす。肥沃な大地に恵まれた町域は7割を農地が占める優良な稲作地として知られ、水稲を主にしてそば・麦・大豆を生産し、近年ではブロッコリーを主に野菜や花などの作物を栽培する。町内中央部を横断して留萌本線と深川留萌自動車道が通り、秩父別駅と北秩父別駅の鉄道駅に高速道路の秩父別インターチェンジが設けられ、JRをはじめ民間4社のバスが乗り入れて札幌や旭川などの都市へと繋ぐ。比較的交通の便に恵まれた地域だが、昭和32年の7123人をピークにして人口は減少を続け現在約2300人で過疎化が進む。

秩父別町は明治28、29年(1895~96)にかけて400戸の屯田兵が入植して開拓したことにはじまり、同34年(1901)深川村から分かれて秩父別村が成立。アイヌ語の「チ・クㇱ・ペッ((我ら・通る・川)、或いは「チㇷ゚・クㇲ・ペッ(舟・通る・川)」から転訛して地名になったとされる。いずれにしても雨竜川に起源があるようだ。

明治43年(1910)留萠線の深川駅~留萠駅間開通に伴い筑紫駅(ちくしえき)が開業し、昭和29年(1954)駅名を筑紫駅から秩父別駅に改称。昭和46年(1971)駅舎を改築するも、利用者減少から同57年(1982)貨物扱い廃止、同59年(1984)荷物扱い廃止と共に旅客扱いが廃止され、旅客業務の駅員を配置しない無人駅となり切符販売を簡易委託化。昭和62年(1987)経営がJR北海道へ移行されて後に簡易委託も廃止された。現在は有人駅時代の木造駅舎を残し1面1線のホームを有する無人駅。

秩父別駅から歩いて6分程の場所に”秩父別温泉ちっぷ・ゆう&ゆ”がある。私にとっては車や鉄道を利用して何度も訪れているお気に入りの温泉だ。ここは平成2年(1990)に開業、単純温泉(弱アルカリ性低張性低温泉)とナトリウム-塩化物泉(低張性弱アルカリ性低温泉)の源泉を引き、ぬるま湯の源泉風呂は少し黄色味がかっている。温泉の効能云々よりも印象的なのが電気風呂、他に類をみない強い刺激に初めての方は驚かれるだろう。”整う”で今流行りのサウナや露天風呂も充実しており、留萌本線の旅を満喫して秩父別駅で下車し、町を散策しながら温泉で癒されてみてはいかが。

北海道秩父別温泉「ちっぷゆう&ゆ」
http://chipsk.jp/yuuyu/




空中写真_秩父別駅_CHO7727-C8-19_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 整理番号_CHO7727-C8-19を基に作成
昭和52年(1977)撮影、秩父別駅付近の空中写真。当時の駅構造は千鳥式に配された2面2線の相対式ホームを持っていた。秩父別温泉”ちっぷゆう&ゆ”はまだ無く、田園地帯となっている。


秩父別駅
有人駅時代のレトロな駅舎を残す秩父別駅。


秩父別駅
出入口上に掲げる駅名板も味があっていい。


秩父別駅前
駅前通りでは正月早々から雪かきで慌ただしい。


秩父別駅前
冬にここへ来るたびに同じ光景を見ているような気がする。


秩父別駅
本日は悪天候で列車が運休しており駅は静か。


秩父別駅
駅舎前には電話ボックスを設置しタクシー乗降所も。


秩父別駅
駅舎内待合室のベンチとストーブ。


秩父別駅
駅舎内出入口。


秩父別駅
かつて旅客業務を行っていた切符販売窓口や荷物扱い窓口が面影を留める。


秩父別駅
駅舎内改札口。


秩父別駅
きっぷ運賃表。


秩父別駅
発車時刻表。1日に発着する列車は深川方面7本だが、留萌方面は始発が通過するので6本の発着。


秩父別駅
旧切符売場にある本棚に駅ノートを置く。


秩父別駅
手作り感があって微笑ましい駅スタンプ。


秩父別駅
深川方面乗車口。


秩父別駅
留萌方面乗車口。かつては線路の右側奥に2番線ホームがあり、線路を横断する構内踏切が設けられていた。


秩父別駅
留萌方面乗車口より深川方面。


秩父別駅
深川方面乗車口より留萌方面。


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北一已駅(留萌本線) ~深名線宇津内仮乗降場から移設したと伝わる駅舎~

留萌本線起点の深川駅から一駅目となる北一已駅。田園地帯に有人駅時代の駅舎が佇むローカル線旅情を誘う素敵な駅である。北一已と書いて”きたいちやん”と読ませる難読駅名は、所在する旧地名の一已村(現 深川市一已町)にあり、その北方に位置することから”北”を冠して名付けられた。”イチヤン”は江戸期から見える地名で、アイヌ語の「イチャン(鮭・鱒の産卵場)」に由来。明治期に屯田兵が入って当地の開拓がはじまり、『角川日本地名大辞典』の”一已(北海道)”によれば「屯田兵第1大隊長渡辺水哉が明治30年一已小学校と命名したのに始まる(一已村農協発達史)」とあり、つまるところ開拓期に存在していた”イチヤン”という地域が開拓され、小学校新設にあたり屯田兵の渡辺さんが”一已”を当て字して名付けた学校名に地名の起源があるようだ。

北一已駅は明治43年(1910)留萠線の深川駅~留萠駅間が開通してから45年後の昭和30年(1955)、一般駅として開業。駅舎は昭和24年(1949)に一般駅から仮乗降場に降格した深名線宇津内駅の駅舎を移設したとされる。昭和59年(1984)荷物扱い廃止と共に旅客扱いが廃止され、旅客業務の駅員を配置しない無人駅となった。有人駅時代には相対式ホーム2面2線を有し、両ホームを繋ぐ構内踏切を設けていた。現在は単式ホーム1面1線に規模を縮小しながらも有人駅時代のレトロな木造駅舎を残すが、平成25年(2013)外壁が全面ボード張りに改装されてしまった。

当駅の駅舎が前身とする宇津内駅は知る人ぞ知る謎に包まれた伝説の駅で、朱鞠内湖(雨竜第一ダム)と宇津内湖(雨竜第二ダム)を連絡する水路トンネルの建設工事や木材搬出のため、昭和16年(1941)深名線に一般駅として開業した。この建設工事が終わると旅客と貨物の扱いが大幅に減少し、同24年(1949)仮乗降場へ降格して同31年(1956)頃に廃止された。宇津内駅が廃止されて65年以上、深名線(1995年廃止)が廃止されて25年以上が経ち、今や駅跡に近づくのが困難な程に自然に帰す地帯となっている。JR深名線資料館に宇津内駅の紹介はあるのだが、ここにすら写真が展示されておらず、「宇津内駅を利用した人、まだギリこの世にいる説」、水曜日のダウンタウンで検証してほしいぐらいだ。




空中写真_北一已駅_CHO7727-C10B-13_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 整理番号_CHO7727-C10B-13を基に作成
昭和52年(1977)撮影、北一已駅付近の空中写真。当時の駅構造は今に残る駅舎と2面2線の相対式ホームを持っていた。駅周辺は今と変わらない田園地帯で、駅北側の線路沿いに農業倉庫らしき建物が2棟見える。


北一已駅前通り
北一已駅へ向けて延びる駅前通り。


北一已駅
静かに2022年の正月を迎えた北一已駅。


北一已駅03
この駅舎が前身とした深名線宇津内駅が開業したのは今から80年前、北一已駅が開業したのが66年前であり、長い冬の風雪に耐え、様々な思いを胸に旅立つ人を見送ってきたのだろう。


北一已駅前
雪原が広がる駅前。


北一已駅
駅舎ホーム側。かつては改札をする駅員さんがここに立っていたのだろうな。


北一已駅
深川方面乗車口。


北一已駅
留萌方面乗車口。


北一已駅
昭和にタイムスリップしたかのような感覚に陥る。


北一已駅
深川方面乗車口より留萌方面。


北一已駅
まだ新しい駅名標。


北一已駅
改札口上に掲げる駅名板も新しい。


北一已駅
駅舎内出入口。


北一已駅
駅舎内改札口。


北一已駅
切符販売窓口と荷物扱い窓口の名残り。


北一已駅
飾り気のないベンチ。


北一已駅
ポツンとベンチ上に置かれていた駅ノート。


北一已駅
改札口左横の壁面に発車時刻表ときっぷ運賃表を掲げる。何ゆえか大きな鏡も。


北一已駅
きっぷ運賃表。


北一已駅
発車時刻表。1日に発着する列車は深川方面7本、留萌方面6本。


北一已駅前
1時間前猛烈に降っていたはずの雪が止み、嘘のように晴れ渡る駅前。


北一已駅
ひと時の斜陽を浴びて。


北一已駅
北一已駅を後に。


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深川駅(函館本線・留萌本線) ~かつて深名線の起点駅~

石狩平野の最北部、石狩川が市域中央部を東西に流れ、人口約2万人の都市を形成する深川市。石狩川の恵みを受ける肥沃な大地を持ち、農業を基幹産として水稲とそばを主にして小麦や大豆を生産する。幼少期を旭川で過ごした私にとって深川といえば”ウロコダンゴ”と”桜山レジャーランド”に”音江のおばさん”。ウロコダンゴは知る人ぞ知る深川名物で、母親が大好きな菓子だったのでよく食べた思い出深い和菓子。”桜山レジャーランド”は深川市内にあった遊園地で、当時旭川近辺には旭山動物園と桜山レジャーランドぐらいしか大規模な遊園地がなく、親に連れられて行った記憶が微かに残っている。”音江のおばさん”がいったいどういった関係の人で誰なのか記憶がないのだが、子供の頃によくこの名を聞いた。あれから40年近く経ち、今となってすごく気になる。

深川市内には三浦雄一郎氏が校長に就くクラーク記念国際高等学校(1992年開校)があり、平成26年(2014)に発足した硬式野球部が、平成28年(2016)夏の甲子園で北北海道代表として初出場を果たした。私としては甲子園の北北海道代表といえば旭川の龍谷や旭大高をはじめ、砂川北や滝川西のイメージが強く、わずか創部3年目でこれらの強豪校を退けての甲子園出場は快挙と言える。ここを出身校とするスノーボード選手の竹内智香さんは、2002年のソルトレークシティオリンピックに出場、2014年ソチオリンピック のパラレル大回転の代表となり銀メダルを獲得したことは記憶に新しい。諦めずに挑戦し続ける三浦雄一郎イズムが受け継がれているのだろう。

深川という地名の由来は諸説あるが、一説に市街北側を流れる大鳳川(おおほうがわ)にあるとされる。大鳳川はアイヌ語の「オオホ・ナイ(深い・川)」に由来、これを和訳して村名とし明治の開拓期に深川村が成立したという。明治31年(1898)北海道官設鉄道上川線の空知太駅(現 砂川市空知太)~旭川駅間の開通に伴い深川駅を新設、同43年(1910)留萠線の深川駅~留萠駅間が開通、大正13年(1924)雨龍線(後の深名線)の深川駅~多度志駅間 (14.0km) が開通し、3路線が乗り入れるターミナル駅になった。

昭和35年(1960)駅舎を改築し現駅舎が完成、同49年(1974)みどりの窓口が開設され、この頃に全盛を迎えたといえそうだ。昭和59年(1984)貨物取扱い廃止、同60年(1985)に荷物取扱い廃止、平成7年(1995)深名線が廃止され、深川駅は規模を縮小していく。深川市市勢ハンドブックによれば令和元年度は1日平均1041人の乗客があったが、令和2年度は新型コロナ感染拡大の影響なのだろうか、1日平均696人に急減している。



空中写真_深川駅周辺_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 地理院地図(電子国土Web)より作成
昭和52年(1977)撮影、深川駅周辺の空中写真。留萌方面の駅西側で留萌本線、駅東(旭川)側で深名線がそれぞれ函館本線から分岐して北へ延びている。


空中写真_深川駅_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 地理院地図(電子国土Web)より作成
昭和52年(1977)撮影の空中写真から深川駅を拡大。3面のホームに跨道橋や駅舎がある様子は今と変わらないが、駅裏手側に多くの側線があり貨物車両が待機しているようにみえる。


深川駅
斜陽に映える深川駅。


深川駅
駅舎改築から60年以上が経つが、外壁を綺麗に補修しており古さは感じない。


深川駅_1980年代
昭和57年(1982年)頃に撮影した深川駅。今と同じ駅舎なのだが、当時の方が古びた感じ。


深川駅
駅舎内改札口。


深川駅
元旦だけに深川物産館は休業。またウロコダンゴを買いにこよう。


深川駅
留萌本線は大雪の影響で最終の留萌行を除いてすべて運休。2022年初っ端から幸先が良くないなあ。


深川駅
発車時刻表。留萌本線は1日7本が発着、函館本線は発車ライラック・カムイ・宗谷・オホーツクの特急列車が発着しており、結構頻繁に列車がやって来る。


深川駅
きっぷ運賃表。


深川駅
深川駅の”北の大地の入場券”。冬の留萌本線を走るキハ54形の写真を採用している。


深川駅
待合室の窓から駅構内を。


深川駅前
深川駅前。


深川駅前
駅前通りの商店街は地方の元旦らしく静かだ。


深川駅前
駅横にある”ホッコンみほろ公園”。


深川駅前
公園内に鎮座する福富神社。


深川駅前
神社参道入口前にあるこの建物は何?入口上に”すきやき道場”の看板を掲げていたが。


深川駅前
丸善三番舘深川店。ここは旭川の銀座通り商店街に本店があって私にとって馴染み深い衣料品店。


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剣淵駅(宗谷本線) ~絵本の里の無人駅~

旭川から北へ約50km、名寄盆地の南部に位置し農業を基幹産業にして約2千9百人が暮らす剣淵町。町域中央部を天塩川支流の剣淵川が流れ、流域平地に広がる農地では米や小麦をはじめ馬鈴薯、豆類などが生産される。平成3年(1991)に約1万冊の絵本を収蔵して開館した”絵本の館”は同16年(2004)に新館がオープンし、ここを活動拠点にして「絵本の里」としての町づくりに取り組んでいる。

剣淵の地は古くケネフチ・ケヌプチ・ケノフチなどと称し、地名の由来は諸説あるがアイヌ語の「ケネ・二・ペッ(ハンノキ・林・川)」、或いは「ケネ・プチ(Kene-(pet)-puchi、ハンノキ・(川)・その川口」とされ、松浦武四郎の『天塩日誌』には「赤楊多きが故号る」と記される。”赤楊”とは日本全国で見られる落葉高木の”ハンノキ”のことで、水辺を好み低地の湿地や沼地などに多く見られる。

明治30年(1897)天塩国上川郡に士別村・多寄村・上名寄村と共に剣淵村が設置され、同32年(1899)剣淵原野と呼ばれた地に337戸の屯田兵が入植、剣淵戸長役場を設置し本格的な開拓がはじまった。明治33年(1900)北海道官設鉄道天塩線和寒駅~士別駅間の延伸開通に伴い剣淵駅を新設、同39年(1906)二級町村制が施行され自治体としての剣淵村が成立して発展が進んだ。大正4年(1915)に和寒村(現 上川郡和寒町)、昭和2年(1927)に温根別村(現 士別市温根別町)を分村し、昭和37年(1962)町制施行により剣淵町が誕生。しかしながら昭和29年(1954)の人口9530人をピークに人口は減少傾向に陥り、現在は約2900人で少子高齢化と過疎化が進む。

剣淵駅は上川郡剣淵町仲町に所在、明治33年(1900)「けぬふち」の平仮名表記で一般駅として開業し、同38年(1905)「けんぶち」に改められた。剣淵の玄関口として市街発展の中心的存在となり、旅客や貨物集散の要として機能する。しかしながら昭和40年代からモータリゼーションと過疎化の波が押し寄せ、昭和57年(1982)貨物取扱い廃止、同59年(1984)荷物取扱いと共に旅客扱いが廃止され、旅客業務の駅員を配置しない無人駅となり切符販売が簡易委託化。同61年(1986)閉塞が自動化されて運転要員もいなくなり完全に無人化した。同63年(1988)観光物産館とバスターミナルを併設する現在の駅舎に改築され今に至っている。




空中写真_剣淵駅_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 地理院地図(電子国土Web)より作成
昭和52年(1977)撮影、剣淵駅周辺の空中写真。有人駅時代の木造駅舎が見え、2面のホームを繋ぐ構内跨線橋は今と変わらない様子。駅裏手に木材貨物のストックヤードを設けている。


剣淵駅_1980年代
1980年代に列車内より撮影した剣淵駅。有人駅時代の木造駅舎だが、既に無人駅となっているのか、改札口に駅員の姿は見えない。窓横に掲げる駅名板は手書きっぽい書体に味があっていい感じ。


剣淵駅
令和4年(2022)1月2日の剣淵駅。


剣淵駅
昭和63年(1988)に完成した現駅舎。


剣淵駅
現駅舎は”絵本の里”をイメージできる外観ではなく、コストと耐久性を重視して建てられたのだろう。どうせなら天塩中川駅のように木造駅舎を改装し、絵本の幻想と歴史の対比を見せるような駅舎にしてほしかった。


剣淵駅前
駅前広場と簡易委託で切符販売する”丸八おざわ商店”(写真左端)。


剣淵駅前
駅前には旅館があり、その名も”駅前旅館”。


駅前旅館
新しい建物の駅前旅館は観光協会の紹介によれば「豚骨ベースの醤油ラーメンと豚角煮が乗った洋風カレーのセット(サラダ付)が大人気。」とのこと。気になったのでメモっておこう。


剣淵駅前通り
駅前通りは剣淵駅から温根別へ向けて延びる道道293号(温根別剣淵停車場線)。


けんぶちガイドマップ
駅前広場に設置する”けんぶちガイドマップ”。


剣淵駅
駅名表記の下には丸八おざわ商店で切符を簡易委託販売している旨の案内板。


剣淵駅
駅舎内ホーム側出入口。


剣淵駅
観光物産館の出入口。


剣淵駅
駅前側出入口。


剣淵駅
待合ベンチと掲示板の横に管理室出入口の扉。


剣淵駅
剣淵駅は”北の大地の入場券”の販売駅だった!駅前の丸八おざわ商店で購入できるらしいので後で立ち寄ってみよう。


剣淵駅
剣淵駅の歴史年表。


剣淵駅
大正9年(1920)頃の剣淵駅。これが開業当初の駅舎なのだろう。


剣淵駅
昭和50年代の剣淵駅。基本的な駅舎構造は大正期と変わっていないようにみえる。


剣淵駅
発車時刻表ときっぷ運賃表。


剣淵駅
発車時刻表。特急サロベツや宗谷は停車しないが、快速なよろの停車駅。下り名寄・稚内方面12本、上り旭川方面12本の列車が発着する。


剣淵駅
きっぷ運賃表。


剣淵駅
駅併設の観光物産館内にも待合ベンチを設置。


剣淵駅
観光物産館の窓より駅前通り。


剣淵駅
ベンチに腰掛けてひと休み。石油ストーブがあり寒さ対策もばっちり。


剣淵駅
観光物産館には”絵本の里”らしく絵本棚があり、特産品の展示ケースを置く。


剣淵駅
剣淵町の特産品についてはこちらから↓
http://www.kembuchi-kankou.com/specialty/


剣淵駅
観光物産館に駅ノートが置いてあった。


剣淵駅
ここにもありました、今日も頑張れ宗谷本線のタペストリー。できる限り私は応援します!


剣淵駅
1番ホームより名寄・稚内方面。


剣淵駅
ホーム側駅舎。前駅舎とは様相を随分と異にしてしまった。


剣淵駅
1番ホームに設置する駅名標と観光案内。


剣淵駅
”絵本の里けんぶち”の観光案内。


剣淵駅
1番ホーム名寄側の駅名標。


剣淵駅
行き先表記に上貼りされているのは、2021年3月に両隣の東六線駅と北剣淵駅が廃止されたため。


剣淵駅
1番・2番ホームを繋ぐ構内跨線橋。


剣淵駅
構内跨線橋内部。


剣淵駅
11:35発旭川行のH100形気動車が入線。


剣淵駅
次の和寒駅へ向けて発車。


剣淵駅
ディーゼル音は徐々に遠のく、巻き上げた雪煙を残して。


丸八おざわ商店
”北の大地の入場券”が欲しかったので丸八おざわ商店に。しかし扉が開かず、呼びかけにも応じる人もいない。年明けの2日だけに正月休みのようだ。近いうち改めてここに来よう。


訪問日:2022年1月2日(日)
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テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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