士別駅(宗谷本線) ~木材集散地として賑わったのも今は昔~
旭川から北へ約50km、名寄盆地南部に市街を形成し約1万8千人が暮らす士別市。面積の75%を占める山林と天塩川や剣淵川がもたらす豊かな水と肥沃な土に恵まれ、農業・林業を主とした第一次産業が盛んな田園都市である。「試験研究のまち」「合宿の里」「サフォークランド」など様々な顔を持ち、実業団や大学など多くのスポーツ団体の合宿を受け入れ、またサフォーク羊を飼育生産し羊毛による工芸体験や地域羊肉のブランド化を推進する。出身著名人に元プロボクサーの輪島功一氏がおり、幼少期に樺太から引き揚げ士別高校を中退するまで士別で育ち、後にWBA・WBC世界スーパーウェルター級の王者にまで登り詰めた。変則技の”かえる跳び”は今でもよく知られるところ、また関根勤さんのモノマネでもお馴染みの人物である。
明治30年(1897)天塩国上川郡に多寄村・上名寄村・剣淵村共に士別村が設置され、同32年(1899)約100戸の屯田兵が入植し開拓がはじまる。同33年(1900)北海道官設鉄道天塩線和寒駅~士別駅間が延伸開通、同35年(1902)士別戸長役場が設置され、同39年(1906)二級町村制が施行され自治体としての士別村が成立。大正4年(1915)町制施行により士別町が成立し、大正期には澱粉製造や木材産出で発展が進む。昭和29年(1954)士別町・上士別村・多寄村・温根別村が合併して士別市が誕生、基幹産業を稲作中心の農業へ転換して発展を続けたが、昭和36年(1961)の人口41,218人をピークに人口は減少傾向に陥り、離農や都市部への労働力流出などにより過疎化が進み現在は約17,500人。
士別駅は明治33年(1900)北海道官設鉄道天塩線和寒駅~士別駅間が延伸開通に伴い一般駅として開業。駅名の由来となった士別という地名はアイヌ語で川の本流を意味する「シ・ペッ(大きい・川)」にあるとされる。大正期から昭和30年代にかけて士別軌道(士別~奥士別)が乗り入れて木材が盛んに運搬され、士別駅は木材の集散地として賑わった。昭和10年(1935)駅舎改築、昭和41年(1966)に鉄筋コンクリート構造の現駅舎に改築された。昭和60年(1985)荷物取扱い廃止、同61年(1986)貨物取扱い廃止。現在はみどりの窓口を設置する宗谷本線の主要駅であり、1日2往復(旭川~稚内)する特急サロベツと1往復(札幌~稚内)する特急宗谷が発着、待合室には駅そば屋と売店が設けられている。

空中写真データ:国土地理院 整理番号_USA-R327-9を基に作成
昭和23年(1948)撮影、士別駅周辺の空中写真。士別軌道が乗り入れ木材集散地として賑わった時代。駅裏手から北側一帯にかけて広大な貯木場が設けられている。

空中写真データ:国土地理院 整理番号_CHO7714-C6-15を基に作成
昭和53年(1978)撮影、士別駅周辺の空中写真。駅舎隣接の単式ホームと島式ホームを有する2面3線の駅構造は今と変わらないが駅裏手側(西側)に多くの側線と貨物ストックヤードが見え、駅北側一帯にあった貯木場は荒地のようになっている。その更に北側の一帯に日本甜菜製糖所の工場があり多くの専用線が引き込まれている。

2022年正月2日の士別駅。

田舎の正月だけに人影はまばら。

軽便鉄道からバス事業に転換した士別軌道のバスが到着。

駅前にある手打ちそば”たぬきや”。士別市の農産物は水稲・大豆・小麦に次いで”そば”が作付面積の4番手。近くに幌加内や江丹別といったそばの名産地があり、士別も例外なくそばの栽培に適した気候風土なのだろう。

なんと駅舎出入口横に昔懐かしい伝言板。

携帯電話やポケベルすら無かった時代、メッセージを伝えるために重宝された伝言板。もはやその機能を果たしていないようにみえるが、何ゆえスマホ時代の現代にこれを残しているのだろう。

駅舎に入って静寂の空間。

みどりの窓口と改札口。

駅長事務室の出入口。両隣の壁が掲示板として使われている。

学校PRと列車利用促進を目的に士別翔雲高等学校が作成したポスター。LINEでの母と娘のやり取り。士別駅での日常が表現さていて、いいね!

昔懐かしい列車の写真を掲示する。キハ54形の急行礼文。

札幌~稚内間を走行していたキハ400形の急行サロベツ。

急行宗谷とニセコエクスプレスが並ぶ珍しい写真。ニセコエクスプレスは主に新千歳空港や札幌とニセコを繋いだリゾート列車。どこの駅で撮影したのだろう。

駅スタンプ。

きっぷ運賃表。

発車時刻表。旭川・札幌方面15本、名寄・稚内方面15本の列車が発着。

駅舎内より駅前。

待合室より改札口を望み。

待合室の一角にある”フーズサービスささき”の売店。

売店の隣にはひっそりと駅そば屋。

正月2日ながら営業していた。きつねそばを食べよう。

きつねそばの出来上がりを待つ。先ほど購入した北の大地の入場券。

いかにも駅そばらしい見た目と味。昔懐かしいこの感じがいいんだよね。

店構えもいい。

12:20発名寄行の快速なよろ1号が発車。
訪問日:2022年1月2日(日)
明治30年(1897)天塩国上川郡に多寄村・上名寄村・剣淵村共に士別村が設置され、同32年(1899)約100戸の屯田兵が入植し開拓がはじまる。同33年(1900)北海道官設鉄道天塩線和寒駅~士別駅間が延伸開通、同35年(1902)士別戸長役場が設置され、同39年(1906)二級町村制が施行され自治体としての士別村が成立。大正4年(1915)町制施行により士別町が成立し、大正期には澱粉製造や木材産出で発展が進む。昭和29年(1954)士別町・上士別村・多寄村・温根別村が合併して士別市が誕生、基幹産業を稲作中心の農業へ転換して発展を続けたが、昭和36年(1961)の人口41,218人をピークに人口は減少傾向に陥り、離農や都市部への労働力流出などにより過疎化が進み現在は約17,500人。
士別駅は明治33年(1900)北海道官設鉄道天塩線和寒駅~士別駅間が延伸開通に伴い一般駅として開業。駅名の由来となった士別という地名はアイヌ語で川の本流を意味する「シ・ペッ(大きい・川)」にあるとされる。大正期から昭和30年代にかけて士別軌道(士別~奥士別)が乗り入れて木材が盛んに運搬され、士別駅は木材の集散地として賑わった。昭和10年(1935)駅舎改築、昭和41年(1966)に鉄筋コンクリート構造の現駅舎に改築された。昭和60年(1985)荷物取扱い廃止、同61年(1986)貨物取扱い廃止。現在はみどりの窓口を設置する宗谷本線の主要駅であり、1日2往復(旭川~稚内)する特急サロベツと1往復(札幌~稚内)する特急宗谷が発着、待合室には駅そば屋と売店が設けられている。

空中写真データ:国土地理院 整理番号_USA-R327-9を基に作成
昭和23年(1948)撮影、士別駅周辺の空中写真。士別軌道が乗り入れ木材集散地として賑わった時代。駅裏手から北側一帯にかけて広大な貯木場が設けられている。

空中写真データ:国土地理院 整理番号_CHO7714-C6-15を基に作成
昭和53年(1978)撮影、士別駅周辺の空中写真。駅舎隣接の単式ホームと島式ホームを有する2面3線の駅構造は今と変わらないが駅裏手側(西側)に多くの側線と貨物ストックヤードが見え、駅北側一帯にあった貯木場は荒地のようになっている。その更に北側の一帯に日本甜菜製糖所の工場があり多くの専用線が引き込まれている。

2022年正月2日の士別駅。

田舎の正月だけに人影はまばら。

軽便鉄道からバス事業に転換した士別軌道のバスが到着。

駅前にある手打ちそば”たぬきや”。士別市の農産物は水稲・大豆・小麦に次いで”そば”が作付面積の4番手。近くに幌加内や江丹別といったそばの名産地があり、士別も例外なくそばの栽培に適した気候風土なのだろう。

なんと駅舎出入口横に昔懐かしい伝言板。

携帯電話やポケベルすら無かった時代、メッセージを伝えるために重宝された伝言板。もはやその機能を果たしていないようにみえるが、何ゆえスマホ時代の現代にこれを残しているのだろう。

駅舎に入って静寂の空間。

みどりの窓口と改札口。

駅長事務室の出入口。両隣の壁が掲示板として使われている。

学校PRと列車利用促進を目的に士別翔雲高等学校が作成したポスター。LINEでの母と娘のやり取り。士別駅での日常が表現さていて、いいね!

昔懐かしい列車の写真を掲示する。キハ54形の急行礼文。

札幌~稚内間を走行していたキハ400形の急行サロベツ。

急行宗谷とニセコエクスプレスが並ぶ珍しい写真。ニセコエクスプレスは主に新千歳空港や札幌とニセコを繋いだリゾート列車。どこの駅で撮影したのだろう。

駅スタンプ。

きっぷ運賃表。

発車時刻表。旭川・札幌方面15本、名寄・稚内方面15本の列車が発着。

駅舎内より駅前。

待合室より改札口を望み。

待合室の一角にある”フーズサービスささき”の売店。

売店の隣にはひっそりと駅そば屋。

正月2日ながら営業していた。きつねそばを食べよう。

きつねそばの出来上がりを待つ。先ほど購入した北の大地の入場券。

いかにも駅そばらしい見た目と味。昔懐かしいこの感じがいいんだよね。

店構えもいい。

12:20発名寄行の快速なよろ1号が発車。
訪問日:2022年1月2日(日)

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