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倶知安駅(函館本線) ~北海道のグルメバーガーはここにあり~

北海道南西部、渡島半島と積丹半島付け根辺りの内陸部に位置する倶知安町。南に羊蹄山、西にニセコ連峰の山々が連なる小盆地を中心に町域を持ち、隣のニセコ町と共にスキーを主軸にしたリゾート開発が進む地域で、国内はもちろんのこと多くの外国人観光客が訪れる北海道でも有数の観光地である。しかしこのコロナ禍で外国人観光客が激減して経済的に大きなダメージを受けているのだろう。しかしながら入国制限が緩和されれば徐々に回復の方向に向かうはずで、更に倶知安まで北海道新幹線が延伸開業すればコロナ禍以前を上回る発展が期待できる。倶知安の未来は明るい。

町の南に聳える羊蹄山は標高1898m、北海道を代表する名山として日本百名山に選定される。円錐形の成層火山で姿形が富士山によく似ていることから蝦夷富士とも称され、有史以降の記録に残る火山活動は無い。最後に噴火したのが約2500年前の山頂噴火で、約4000年前の噴火では溶岩流が倶知安町市街まで到達していたことがわかっている。羊蹄山に降り注いだ雪や雨は数十年かけて濾過され、山麓にミネラルを多く含んだ名水が湧く。

倶知安と書いて”くっちゃん”と読ませるこの難読地名はもちろんアイヌ語由来で、倶知安町のホームページによれば尻別川支流の倶登山(くとさん)川を指す「クッ・シャン・イ「くだの(ようなところ)を・流れ出る・ところ」が”クッシャニ”→”クドサニ”に転訛して倶登山川になり、その一方で”クッシャニ”が”クッチャン”に転訛して地名になったとされる。この””クッチャン”に”倶知安”の漢字をあてたのは明治期に当時の北海道庁参事官白仁武(しらにたけし)という人物。

倶知安町の玄関口をなす倶知安駅は虻田郡倶知安町南3条西4丁目に所在。明治37年(1904)北海道鉄道歌棄駅(現 熱郛駅)~小沢駅間の延伸開通に伴い一般駅として開業。大正8年(1919)京極軽便線(倶知安駅~ 京極駅間、後の胆振線)が開通し、2路線が乗り入れる乗換駅となった。昭和35年(1960)現駅舎に改築され、同59年(1984)貨物取扱い廃止、同60年(1985)荷物取扱い廃止、同61年(1986)胆振線が廃止となり駅舎に隣接していた1番線ホームが撤去された。平成22年(2010)駅そばの”倶知安そば”が閉店、同27年(2015)キヨスクも閉店したが、同28年(2016)北海道新幹線開業に合わせて駅舎内に倶知安観光協会の案内所が新たに設けられた。




空中写真_俱知安駅周辺_CHO769-C2-7_1976(昭51)
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO769-C2-7を基に作成
昭和51年(1976)撮影、俱知安駅周辺の空中写真。駅北側の函館本線から東方向にに胆振線が分岐する。


空中写真_俱知安駅_CHO769-C2-7_1976(昭51)
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO769-C2-7を基に作成
昭和51年(1976)撮影、俱知安駅の空中写真。現在に残る駅舎と構内跨線橋が見え、駅舎裏手正面に転車台があったことが確認できる。


倶知安駅
長万部駅から立ちっぱなしで約1時間半、定刻通りの15:02倶知安駅に到着。


倶知安駅
約5分後に小樽駅から来た普通列車が到着。この列車は折り返し15:17発小樽行普通になるので、長万部からやってきたほとんどの旅客はこれに乗り換える。


倶知安駅
小樽からやってきた旅客が下車。


倶知安駅
駅舎から旧ホームを跨いで新ホームに繋ぐ連絡通路。北海道新幹線札幌延伸に伴う倶知安の新駅建設工事がはじまり、令和3年(2021)10月末に在来線旧ホームが廃止、1・2番のりばは西側に新設されたホームに移転した。


俱知安駅新ホーム使用開始について
2022年5月現在の駅構内。現ホームと書かれているホームと構内跨線橋は立ち入りができなくなっていた。


倶知安駅
連絡通路より長万部方面の旧ホーム。


倶知安駅
連絡通路より小樽方面の旧ホーム。奥に構内跨線橋の階段。


倶知安駅
駅舎内改札口。


倶知安駅
みどりの窓口、自動券売機、そして駅スタンプ。


倶知安駅
駅スタンプは3種類。


倶知安駅
きっぷ運賃表。


倶知安駅
発車時刻表。1日に長万部方面7本、小樽・札幌方面13本の列車が発着。6:57発札幌行だけは快速のニセコライナーで他は全て普通列車。


倶知安駅
次は16:45発の小樽行に乗車するので1時間半の待ち。


倶知安駅
待合室。かつては駅そば屋やキヨスクがあったはずだが、今は一角に倶知安観光協会の案内所が設けられている。


倶知安駅
広々とした待合室にまばらなベンチ。ソーシャルディスタンスなんだろうか。


倶知安駅
北の大地の入場券。


倶知安駅前
駅前の様子。


倶知安駅
かつて函館本線と胆振線の接続駅で、特急北海や急行ニセコなどの停車駅だった倶知安駅。過去の栄光を感じさせる主要駅らしい佇まいをみせる。


倶知安駅
駅舎前には古そうな駅名標。レプリカなのかも。


石川啄木歌碑
真夜中の 倶知安驛に 下りゆきし 女の鬢の 古き痍あと

駅前交番前にある石川啄木歌碑。解説碑によれば、『石川啄木が函館から小樽に向かう列車で真夜中の倶知安駅を通ったのは明治40年(1907)9月14日の午前1時過ぎである。啄木はこの時の印象を短歌に詠んで歌集「一握りの砂」(明治43年10月)に収めた。』とある。函館から長い時間を列車に揺られての旅の途次、闇夜に眠る倶知安の町に消えゆく女性が印象的で、その心情に思いを馳せたのだろう。車窓から倶知安駅を眺める啄木、私にはそんな光景が目に浮かぶ。


倶知安駅
石川啄木が通り過ぎた当時の駅や町はどんな様子だったのだろうか。


ラーメン店なかま
時間もあるし小腹もすいたので何か食べようと町をぶらぶら。岩のりラーメンなる幟を立てるラーメン屋を発見、よし!これを食べようと店に入ろうとしたら準備中、泣く泣く断念。


倶知安十字街
駅前通りと国道5号の交差点、倶知安十字街をぶらぶら。


倶知安十字街
国道5号から小路に入り左手に大衆居酒屋マルキュー商店。惹かれるなー。


都通り
倶知安の夜の街、都通り。


都通り
都通り沿いにある梅寿し本店。


都通り
都通り沿いには多くのスナックがテナントに入る福井ビル。


都通り
都通りの名に相応しい”日本橋”というお寿司屋さん。


パティーダディーバーガー
都通りからメルヘン通りを西に向かって最後にたどり着いたのがここ。”パティーダディーバーガー”というハンバーガー店。営業中だったのでここで小腹を満たすことに。


パティーダディーバーガー
カウンターで”KINGダディー”というハンバーガーを注文。クラフトビールを飲みながら待つ。


パティーダディーバーガー
テーブルに置いてあったメニュー。


PATTY DADDY BURGER03
クラフトビールを半分飲み終えたところで注文したハンバーガーがやってきた。このボリューム感に味も抜群!また来たいと思わせる完成度の高いハンバーガーで、お腹も心も大満足。私にとって北海道のグルメバーガーはここにありって感じです。

パティーダディーバーガー(PattyDaddyBurger)
https://pattydaddyburger.mystrikingly.com/


倶知安駅
16:45発小樽行の発車まであと5分。急ごう。


倶知安駅
新ホームの1番のりばで発車を待つ16:45発小樽行。


倶知安駅
列車はJR北海道最新鋭のH100形気動車。


乗車券(五稜郭→旭川)
旭川に向けて倶知安から旅立つ。


訪問日:2022年5月2日(月)
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佐久駅(宗谷本線) ~駅舎は佐久ふるさと伝承館~

宗谷本線の起点旭川駅から北へ約154km、中川郡中川町の中央部に佐久駅がある。東西を山々に挟まれるわずかな平地に南北を縦断して天塩川が流れ、その右岸沿いに佐久駅を中心として佐久市街が形成される。市街から天塩川対岸に佐久橋を架けて安川地区と国道40号を繋ぎ、かつて安川地区には佐久中学校(1999年廃校)と佐久小学校(2006年廃校)があった。駅前には農業倉庫や旧佐久郵便局をはじめ藤田旅館、桐畑呉服店などの建物が残り、木材搬出で賑わった往時の町並みを僅かに残す。

長野県に同地名の佐久市があり何らかの関係があるのかと思ったが、特に歴史的に関係は無かったようで、地名の起源は市街北外れを流れるサツコタン川にあるという。アイヌ語の「サッ・コタン・ナイ(sak-kotan-nay、夏・部落・川)が地名の由来とされ、夏を意味する「サッ(sak)」が”さく”に転訛したものらしい。サツコタン川はアイヌ人が魚を多く獲ることができる夏場だけ川岸に部落を作り生活する場だったと伝わる。

佐久駅は大正11年(1922)鉄道省天塩線音威子府駅~誉平駅(後の天塩中川駅)間の開通に伴い一般駅として開業。昭和40年代初期には年間7万人以上もの乗車客があったが、過疎化から利用者減少が急激に進み同57年(1982)貨物取扱い廃止、同59年(1984)2月に荷物取扱いが廃止され11月には旅客業務を行う駅員配置も取り止めになり無人化。平成2年(1990)現駅舎の「佐久ふるさと伝承館」完成、同12年(2000)ダイヤ改正で急行宗谷の停車が終了し、今は1日に下り(幌延・稚内方面)3本と上り(音威子府・名寄方面)3本の普通列車が発着するのみ。JR北海道の調査で乗車人員1日平均3名以下の「極端にご利用の少ない駅」とされて廃止の危機にあったが、2021年4月より自治体管理に移行され当面は存続するもよう。




空中写真_佐久駅_CHO779-C5A-5_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO779-C5A-5を基に作成
昭和52年(1977)撮影、佐久駅周辺の空中写真。青緑屋根の木造駅舎、駅裏手に貨物ストックヤードが見える。駅前通りは天塩川に架かる瀬尾橋を経て国道40号につながる。瀬尾橋南側に架かるのが佐久橋で旧橋もまだ残存。


佐久駅_1985年頃
昭和60年(1985)頃に撮影した木造駅舎時代の佐久駅。


佐久駅
平成2年(1990)に完成した現在の佐久駅。


佐久駅
「佐久ふるさと伝承館」を併設する近代的な駅舎に変化を遂げた。


佐久駅
しかし利用者減少から駅としての機能が失われる日はそう遠くないのかもしれない。


佐久駅
稚内方面乗車口。


佐久駅
駅名標の行き先表記に”てしおなかがわ”が上貼りされているのは、平成2年(1990)に隣駅だった琴平駅が廃止されたため。


佐久駅
稚内方面乗車口付近より駅構内。ホームは2面2線。


佐久駅
駅舎側1番線ホームと2番線ホームを繋ぐ構内踏切。


佐久駅
構内踏切より音威子府・名寄方面。


佐久駅
2番線ホームより駅舎。


佐久駅
2番線ホームの外側(東側)には今は使用していないと思われる側線が残る。かつて写真左手には貨物ストックヤードが広がっていた。


佐久駅
2番線ホームより音威子府・名寄方面。


佐久駅
2番線ホーム外側の線路。錆びてはいるがまだ使えそう。


佐久駅
ホーム側より駅舎の中へ。


佐久駅
ソーシャルディスタンスとは無縁な誰もいない駅舎内。現役を引退した赤ポストに目が留まったが、その上の壁面には木材搬出で賑わった過去を偲ぶかのように木材運搬する馬ぞりの様子を描く。


佐久駅
駅舎内ホーム側。


佐久駅
駅舎内に展示する昔の農耕器具。


佐久駅
佐久で発見されたアンモナイト。


佐久駅
駅舎内には昔使われていた生活用具が多く展示され、駅と郷土資料館のコラボはとても興味深い施設となっているのだが…。


佐久駅
上り下りとも1日に3本の列車が発着で、鉄道を使ってここを訪れるにはハードルが高い。


佐久駅
きっぷ運賃表。


佐久駅
水彩画に描かれた前駅舎の正面。


佐久駅
こちらは構内側。


佐久駅
近い将来に廃止されるかもしれないが、伝承館としてここは残るだろう。


佐久駅前
駅より駅前通り。


佐久駅前
佐久駅前には農業倉庫や赤屋根黒壁の旧佐久郵便局が残り往時を偲ばせる。


佐久駅
駅前通りより佐久駅。


佐久駅前04
駅前通りと道道218号・541号の交差点。駅前通りを直進すると天塩川の土手に突き当たるが、一昔前まで瀬尾橋が架けられ国道40号と繋いでいた。


佐久駅前
旧佐久郵便局と佐久駅。


佐久駅前
駅前の道道沿いにある藤田旅館。


藤田旅館
玄関に老舗感が漂う。今も宿泊できるのかなあ。


藤田旅館
藤田旅館と旧佐久郵便局。町並みに往時の賑わいを留めている。


農業倉庫
藤田旅館向かいにあるレンガ造りの農業倉庫。


桐畑呉服店
佐久市街の道道218号沿いには桐畑呉服店の屋号を掲げる建物も。


佐久駅_2021年11月
昨年(2021)11月撮影、佐久駅を通過する特急サロベツ1号(稚内行)。かつては急行宗谷の停車駅だった佐久駅、駅舎は新しく佐久ふるさと伝承館に生まれ変わったが、今や1日に数本の普通列車が発着するのみ。駅としての存在意義を失いつつあり、少しでも長く存続してほしいと願うばかりだ。


訪問日:2022年5月3日(火)
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神路駅跡(宗谷本線) ~伝説の秘境駅と、北海道命名の伝説と~

宗谷本線の佐久駅から音威子府・名寄方面に向かう列車は、天塩山地を分断するかの如く渓谷を流れる天塩川の右岸を通って筬島駅に至る。18kmもの距離があるこの区間の天塩川右岸はまともな道すらない無人地帯となっているが、かつては途中に神路駅という有人の一般駅があり、周辺に農家や鉄道職員が住み小学校もあって小さな集落を形成していた。

天塩川右岸の神路地区について角川地名辞典より引用して紹介。
『地名はアイヌ語のカモイルウサンから転訛したもので、「神の天下る道」を意味する(中川町史)。大正11年国鉄天塩線が開通したとき駅名を神路と名付けた。 〔中略〕 天塩川の右岸は植民地で現在北海道大学演習林となっているが、林業労務者の確保と山火事予防の整備を目的として、大正8年(1919)から貸付けが始まり、大正末期には7戸が入植。この間大正11年(1922)国鉄天塩線が開通したことによって神路駅ができ官舎も建って、ホロモイ地区の住民が全戸駅周辺に転居した。』
なお文中にあるホロモイとは国道40号が通る天塩川左岸一帯を指す旧通称地名。昭和29年(1954)無人地区になっていたホロモイに開拓者5戸が入植、同38年(1963)5月神路大橋が開通し神路と国道40号が通るホロモイは陸路で繋がったが、開通から7ヶ月後の12月に突風により落橋した。住民の失望は大きく同40年(1965)に離農撤退を決め神路小学校が廃校、同42年(1967)最後の農家が撤退し後に鉄道官舎も消滅、駅だけが残る無人地区となった。

その後の神路駅は旅客駅としての使命を終え昭和49年(1974)貨物取扱い廃止、同52年(1977)信号場となり鉄道職員を運送する関係から仮乗降場として旅客扱いを継続しつつも、事実上列車交換の役割を担うだけとなった。昭和60年(1985)その使命すらも終えて廃止。現在神路の集落跡へアクセスする道も無ければ渡船も無く、駅が無くなったことで完全に陸の孤島と化している。




神路駅_USA-R327-86_1948(昭23)
空中写真データ:国土地理院 整理番号_USA-R327-86を基に作成
昭和23年(1948)撮影、神路駅周辺の空中写真。天塩川右岸の平坦地は大部分が農地で、駅西側の南北に道を通し小さな集落を形成していたことがわかる。左岸に国道はまだ通されていない。


神路信号場_CHO779-C5B-2_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 整理番号_CHO779-C5B-2を基に作成
昭和52年(1977)撮影、神路駅周辺の空中写真。住民の離農撤退から10年以上が経ち、駅舎と信号場関係の建物が残るだけで集落や農地は消え失せている。


神路駅_NHKアーカイブス_1977
1977年の神路駅(北海道)|NHKアーカイブス
信号場時代の貴重な映像が見られます。


神路大橋跡
天塩川左岸の国道40号より神路大橋跡を望む。対岸に橋脚が残されている。昭和38年(1963)に落橋して以来、再びここに橋が架けられることは無かった。



GooGleマップの航空写真から神路大橋跡。橋脚が崩落した状態で残っていることが確認できる。


国道40号・神路
神路地区、天塩川上流方面。


神路駅跡
対岸は神路の集落があった場所だが、今は訪れることが困難な無人地帯。宗谷本線を使って車窓から眺めるしかない。


国道40号・神路
神路地区、天塩川下流方面。


北海道命名之地
神路地区から天塩川上流の筬島方面へ約6Km、左岸にある北海道命名之地碑。


北海道命名之地
安政4年(1857)蝦夷地に渡った松浦武四郎はアイヌ人の人たちと共に天塩川を探査し「天塩日誌」を書き残す。その途次にオニサッペ(筬島の鬼刺川付近)でアイヌのアエトモ長老から聞いた話をヒントに”北加伊道”(ほくかいどう)を発想。明治期になって道名に関する意見書を提出し、幾つかあった候補から”北加伊道”が採用され、”加伊”の字に”海”をあて”北海道”という名が生まれた。


北海道命名之地02
北海道命名之地とされるこの場所は探査5日目に宿泊したと推定されている”トンベツホ”(音威子府村頓別坊)。解説板では「天塩日誌」より6月11日(調査5日目)の日記を意訳して紹介する。


北海道命名之地
天塩日誌マップ:宿営地推定箇所


北海道命名之地
カムイルウサン。神路の地名由来となった渓谷。


北海道命名之地
北海道命名之地碑から天塩川を望む。対岸に宗谷本線が通されている。


北海道命名之地09
天塩川下流方面。安政4年(1857)6月6日天塩川河口の”テシホ”に着いた松浦武四郎は、翌日からアイヌ人男性4名を案内役にして2艘の丸木舟を使って天塩川の探査を開始。ここに到達したのは調査5日目の6月11日だった。


北海道命名之地
天塩川上流方面。”トンベツホ”に宿泊した武四郎は次の”オクルマトマナイ”(美深町恩根内)に向けて川を遡る。


北海道命名之地
川べりには黒く大きな二枚貝の貝殻がたくさん。なんでだろう…。


北海道命名之地
水辺にも。


北海道命名之地
中にはまだ身が入っているものも。おそらく”カワシンジュガイ”。


北海道命名之地13
そして白骨化したエゾシカ。ヒグマの仕業なのか…、いったいこの場所で何が起きたのだろう。


訪問日:2022年5月3日(火)
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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