fc2ブログ

咲来駅(宗谷本線) ~かつて音威子府開拓の中心だった地~

音威子府駅から宗谷本線を旭川方面へ南下して4.6km、一駅目に咲来駅がある。中川郡音威子府村字咲来に所在、咲来と書いて”さっくる”と読ませる難読地名、その由来について角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『古くはサクルー・サクル・サツル・パンケサクル・パンケサツルなどともいい、作留とも書いた。大正元年咲来駅開設により咲来の表記が確立。地名は、アイヌ語のパンケサ・ルー(下流の夏路の意)に由来する(北海道蝦夷語地名解)。かつてパンケサックル川沿いにアイヌがオホーツク海側と往来していたことを物語る。江戸期の松浦武四郎「丁巳日誌」に「パンケサツル」「ヘンケサツル」が見える。』

明治37年(1904)パンケサックル駅逓所(翌年に常盤駅逓所と改称)を開設、同38年(1905)から入植が始まり、同40年(1907)咲来簡易教育所(後に咲来尋常小学校)を設置、同41年(1908)咲来団体地区に奈良・富山・秋田の団体が移住してきた。同44年(1911)東北帝国大学農科大学(現 北海道大学)付属天塩第1演習林看守所を設置、大正元年(1912)鉄道院宗谷線(現 宗谷本線)恩根内駅~音威子府駅間が延伸開通し咲来駅開業、天塩第1演習林看守所が派出所に改称し同3年(1914)上音威子府へ移転したが、鉄道開通により農作物や木材の集散地として市街地が繁栄、大正中期の商業関係20軒(内3軒が旅館)、大正12年(1923)には市街地に75戸・338人を数えた。

昭和10年(1935)に咲来の住民は253世帯・1591人(市街地は81世帯・458人)、同22年(1947)咲来中学校開校、同25年(1950)咲来石炭の採掘が始まるも同32年で終了する。同35年(1960)には266世帯・1364人(市街地は118世帯・490人)を数え市街地は最盛期を迎えるが、昭和40年代に入ってから離農が急増して同45年(1970)には21世帯・106人まで減少し過疎化が進む。昭和57年(1982)咲来駅の貨物取扱い廃止、同59年(1984)2月に荷物扱いが廃止され、11月には旅客業務の駅員を配置しない無人駅となった。

無人化後に木造駅舎が解体され貨車駅舎を設置、時期がはっきりしないが1990年代前半に貨車駅舎を撤去し現在の待合所が設けられた。JR北海道の調査(H28~R2の5ヶ年平均)で乗車人員1日平均1名以下の「極端にご利用の少ない駅」とされ廃止の危機にあったが、2021年度より地元自治体(音威子府村)による維持管理に移行した。




空中写真_咲来_CHO779-C8B-4_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO779-C8B-4を基に作成
昭和52年(1977)撮影、咲来駅周辺の空中写真。当時は千鳥式に配された相対式ホーム2面2線と、青っぽい屋根の木造駅舎を有する駅構造。天塩川の川岸に咲来小学校があった。


咲来駅_1980年代後半
1980年代後半に撮影した貨車駅舎時代の咲来駅。


咲来駅
旧駅前広場より咲来駅。現在は単式ホーム1面1線に待合所を有する無人駅。


咲来駅
ちょうど15:59発稚内行普通が到着。


咲来駅
列車の扉が開くも乗降客は無し。


咲来駅
次の音威子府駅へ向けて発車。


咲来駅
少々劣化気味の駅名標。


咲来駅08
駅名標より名寄方面。


咲来駅
稚内方面乗車口より名寄方面。


咲来駅
ホームより稚内方面。


咲来駅
待合所内には石油ファンヒーターらしき暖房を設置。


咲来駅
トイレも完備。


咲来駅
出入口。


咲来駅
鉤の手に配された待合ベンチ。


咲来駅
ベンチ上に駅ノート。


咲来駅
きっぷ運賃表。


咲来駅
発車時刻表。


咲来駅
何となく明るい雰囲気を感じる待合所だ。


咲来駅前
駅前には旧日本通運咲来営業所の建物がポツンと残る。


咲来駅前02
旧日本通運咲来営業所は夏場にライダーハウスとして再活用されている。


咲来駅
基礎を残す木造駅舎跡。


咲来駅
駅無人化後に木造駅舎が撤去され貨車駅舎を設けていた。


咲来駅
駅舎跡より稚内方面。


咲来駅前
咲来駅より駅前通り。


咲来駅前
音威子府側線路沿いにブルーシートに覆われる貨車が置いてあった。


咲来駅前
個人所有地のようで立入禁止。不法侵入者は警察に通報するとの警告が。なのでこれ以上近づけません。


咲来小学校跡
昭和52年(1977)撮影の空中写真に見えていた咲来小学校跡に。現在は天塩川の河川敷と堤防となって消失している。


咲来小学校跡
今は”楢の大樹の碑”が設置されて往時を偲ぶのみ。


咲来小学校跡
”楢の大樹の碑”


咲来市街
咲来市街より駅前通り(駅方面)。


咲来市街
かつては商店や旅館が軒を連ねた咲来市街だが、今も営業を続ける商業施設は無い。


咲来小学校
現在の咲来小学校。昭和60年(1985)咲来中学校跡地(1982年閉校)に校舎を新築、天塩川沿岸より移転してきた。


咲来小学校
校門のプレート。


咲来小学校
咲来小学校は平成19年(2007)に廃校、それから15年の月日が流れたが「思い出 感動 夢ありがとう 咲来小学校」の看板を今も掲げている。


咲来小学校
かつて子供たちが走り回ったであろう名残り雪のグランド。


咲来小学校
静寂に包まれたグランドから校舎を眺め、咲来を後に。


訪問日:2022年5月3日(火)
FC2ブログランキング
スポンサーサイト



テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

声問駅跡(天北線) ~声問海水浴場と駅跡は今~

特急宗谷に乗車したいがため8月朔日の月曜日、羽田空港で抗原定量検査を受けてコロナ陰性を確認し12:25発ANA573便稚内行に搭乗、約2時間のフライトを経て稚内空港へ。空港からフェリーターミナル行きのバスに乗車。南稚内駅から乗車するつもりの特急宗谷発車まで3時間あったので、天北線の声問駅跡を見ておこうと途中の声問局前停留所で下車することに。6~7分の乗車時間だったが運賃は一律料金のため700円、これならタクシーで移動してもよかったかなと少々後悔。

声問駅は大正11年(1922)鉄道省宗谷本線(後の天北線)鬼志別駅~稚内駅(現 南稚内駅)間延伸開通に伴い開業、昭和36年(1961)路線名が天北線に改称された。同48年(1973)荷物取扱い廃止、旅客扱いの駅員を配置しない無人駅となり切符販売を簡易委託化。同53年(1978)接続専用線車扱貨物のみ続けられていた貨物取扱いも廃止。平成元年(1989)天北線の廃線に伴い廃止された。

稚内市声問5丁目(旧 稚内市大字声問村字声問)に所在していたが、現在の駅跡地を含む線路跡は国道238号の新道に転用され遺構が何も残っておらず、旧駅前通りがわずかに駅が存在したことを物語っている。かつて駅北側の浜辺には声問海水浴場があり、夏でも寒々しいこんな海で誰が海水浴をするのだろうと思った記憶が残っている。

駅名となっていた地名の由来を角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『古くはコイトイともいった。宗谷地方北部、宗谷湾に面した声問川下流域。西側は声問岬が宗谷湾に突き出ており、南には大沼(シユブントウ)があり、声問川沿いに平地が広がる。地名はアイヌ語のコイトゥイエに由来し、波のため河口の砂場が切られた所を意味する(北海道蝦夷語地名解)。』




空中写真_声問駅_CHO772-C4B-4_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO779-C8B-4を基に作成
昭和52年(1977)撮影、声問駅周辺の空中写真。千鳥式に配された相対式ホーム2面2線、駅舎東側横に貨物用引込線、駅裏側に貨物用の副本線を有していた。


声問駅_1980年代撮影
1980年代に撮影した声問駅。昭和時代を感じる木造駅舎に車。3ドアのハッチバック、後輪のタイヤハウスが特徴的なこの車、何という車種なんだろう。


声問駅跡
国道238号より現在の声問駅跡。写真中央奥に延びる道が旧駅前通りで、その手前の歩道から車道にかけて駅舎が設けられていた。


声問駅跡
駅構内跡より浜頓別・音威子府方面。駅をはじめ線路跡は国道に転用され完全に消え失せている。


声問駅跡
駅構内跡より南稚内方面。


声問駅跡前
駅舎跡より旧駅前通り。


声問駅跡
旧駅前通りより駅舎跡。1980年代撮影の写真に近いアングル。かつては写真正面に駅舎があったが、想像しにくい現況なのでGoogleマップに駅舎跡を記しておく。


声問駅跡前
駅に向かって左手にある倉庫。昭和52年(1977)撮影の空中写真にも見える建物。


声問駅跡前
旧駅前通り沿いに数軒の民家があるが、簡易委託で切符販売をしていた目時商店は見当たらない。


声問駅旧駅前通り
駅跡を起点に延びる旧駅前通りは交差点を経て突き当りで海岸線の旧国道に突き当たる。この交差点で旧駅前通りと交差する道は旧国道以前の国道で、ここでは古国道として表記しておく。


空中写真_声問_USA-R3134-2_1949(昭24)
空中写真データ:国土地理院 整理番号USA-R3134-2を基に作成
昭和24年(1949)撮影、声問駅周辺の空中写真。駅前通りは国道に突き当たり丁字路を形成していた。


声問駅跡前
旧駅前通りと古国道の交差点より駅跡方向。


声問駅跡前
交差点角にはガソリンスタンドの廃墟。国道が付け替えられて車の往来が少なくなり廃業したのだろう。


声問停留所
旧国道沿いにある声問停留所。


声問停留所
運行予定時刻表。鬼志別・中頓別・音威子府方面へ1日4本のバスが発着。


声問停留所
声問停留所と声問海岸。


声問海岸
声問海岸にはかつて声問海水浴場を設けていたが、平成10年(1998)に閉鎖されたらしい。例え海水浴場が開設されても真夏に30℃を超えることがほぼない地域だけに、ここで泳ごうという猛者はそういないだろう。もしこの砂j浜にテントを設置するならテントサウナだな。海が水風呂の天然塩サウナになるだろう。


声問
旧国道から声問駅方面に延びる古国道。


声問橋停留所
声問橋東詰、旧国道沿いに声問橋停留所。


声問ふれあい橋
声問橋より声問川上流方向、声問ふれあい橋を望む。かつては声問ふれあい橋が架かっている地点に天北線の声問川橋梁が架けられていた。


声問小学校
声問小学校。ホームページによれば明治25年(1892)開校、現在の生徒数13名。


大徳寺
声問小学校から道道1133号を挟んで向かいにある曹洞宗の大徳寺。


大成寺
大徳寺の北側には真宗大谷派の大成寺。


天北線跡(声問~宇遠内)
大徳寺前を通る道は天北線が現役だった頃の旧道で、ここが天北線と交差していた踏切跡。旧道は国道に分断されるが、国道向こうの声問郵便局横に現れ続いている。


サニーマート志和
道道1133号旧道より国道方向。サニーマート志和があったのだが廃業しているようだ。


天北線跡(声問~宇遠内)
踏切跡より旧道(声問小学校方面)。


天北線跡(声問~宇遠内)
踏切跡より天北線跡(南稚内方面)。路盤の名残りが見られる。


天北線跡(声問~宇遠内)
道道1133号旧道の踏切跡より天北線を120m程南稚内方面へ行ったところ。国道から神社へ延びる参道。


天北線跡(声問~宇遠内)
参道と天北線が交差していた地点。ここに簡易な踏切が設けていたのだろう。


聲問神社
上写真の神社より更に天北線を150m程行くと声問神社がある。写真は天北線跡より参道を望む。


山田采麿翁顕彰碑
山田采麿翁顕彰碑。山田采麿は明治25年(1892)富山県より当地へ移住し、同31年(1898)声問神社を創設、初代神官に就いて声問の発展に尽力する。昭和23年(1948)逝去、平成4年(1992)この顕彰碑が建立された。


聲問神社
声問神社鳥居。


聲問神社
鳥居より参道石段と社殿。奥に境内社の相馬神社を祀る。


相馬神社
ひっそりと小社殿が佇む相馬神社。


食事・喫茶ハビィ
声問神社から国道を挟んで斜向かいに営業中の幟がはためく”食事・喫茶ハビィ”。ここで遅めの昼食とすることに。


食事・喫茶ハビィ
”食事・喫茶ハビィ”のメニュー。


食事・喫茶ハビィ
メニューを見て真っ先に目に飛び込んできて注文した”カレーラーメン”。


食事・喫茶ハビィ
日本人が大好きなカレーとラーメンが合体。当然ながら忖度なく美味しい。しかもライスまで出てきて締めのカレーライスを堪能できるという秀逸な一品。満腹で満足でした。


南稚内駅
声問から歩いて天北線跡を辿りながら南稚内駅へ。駅前のツルハドラッグで缶ビールを買って鉄道旅の準備を整え。


南稚内駅
17:48発札幌行特急宗谷の改札待ち。


南稚内駅改札口
特急宗谷はキハ261系特急気動車の「はまなす」編成。


南稚内駅
改札が始まり1番ホームへ。南稚内駅は開駅100周年を迎えていた。


南稚内駅
2番ホームに停車するキハ54形気動車。


南稚内駅
ピンクの特急宗谷が1番ホームに入線。


特急宗谷切符
旭川まで約3時間40分の鉄道旅。


特急宗谷車内
南稚内を出発し次は豊富。


特急宗谷
途中、鹿にぶつかって緊急停車したがほぼ定刻通りに旭川駅着。お疲れさまでしたー。


訪問日:2022年8月1日(月)
FC2ブログランキング

テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

深名線の廃線跡から ~2022夏~

2020年初頭にはじまった新型コロナ感染拡大から早いもので2年半、行動制限から夏に旭川へ帰省するのを控えていたため幌加内を訪れるのは約3年ぶり。深名線が平成7年(1995)に廃止されて27年、列車が走り抜けた大地はソバ畑の白い絨毯が広がり、ここに通されていた鉄路は幻になりつつある。そんな中で深名線の語り部が如く駅舎を残す添牛内駅と沼牛駅の今を。




添牛内駅
約7ヶ月ふりに訪れた添牛内駅。前回は深い雪に埋もれていたな。


添牛内駅
今に生き続ける築91年の木造駅舎。


添牛内駅
出入口横にポスターが貼ってあった。


添牛内駅
修繕のためクラウドファンディングで資金集めをしているようだ。老朽化が目立ち倒壊のおそれもあるだけに何とか成功してほしい。微力ながら私も応援します。

開業91年の添牛内駅|貴重な駅舎を皆さまと共に築100年を迎えたい
https://readyfor.jp/projects/soeusinaieki


添牛内駅
出入口扉に駅ノートのケースがぶら下がる。


添牛内駅
補修予定を知らせるパンプレット。


添牛内駅
駅舎内には昔の写真やスケッチがたくさん飾られていた。


添牛内駅
今年6月にイベントがあったようだ。


添牛内駅
駅舎横の窓より駅舎内をのぞき見。


添牛内駅
ホームより幌加内・深川方面。


添牛内駅
ホーム側の駅舎は屋根が壊れ壁面の経年劣化が進む。


添牛内駅
近い将来に改札口は復活するのだろうか。いや、してほしい。


添牛内駅
ホームより名寄方面。


添牛内駅15
以前はロケセットのように駅舎と共にあった駅前の山前家。近年に撤去されてしまい添牛内駅の魅力が一つ無くなった思い。9年前にタイムスリップして振り返ってみよう↓


添牛内駅_2013年8月
2013年8月に撮影した添牛内駅と山前家。


添牛内駅_2013年8月
山前ご夫妻は深名線廃止後に添牛内駅を守り続けてきた。


添牛内駅_2013年8月
駅前の花壇にコスモスが咲き誇る(2013年8月撮影)。


添牛内駅
そして現在、2022年夏の添牛内駅。かつて駅前にあった山前家は姿を消した。


添牛内駅
添牛内跨線橋より添牛内駅を望む。深名線の線路跡は雑草に覆われる。


せいわ温泉ルオント
添牛内から南下して”せいわ温泉ルオント”に。


せいわ温泉ルオント
2020年4月にリニューアルオープンしてから2度目の再訪。前回は7ヶ月の極寒の真冬だったな。


せいわ温泉ルオント
汗を流してラウンジでひと休み。ここのロケーションと温泉の匂いや泉質が好きで何度も来てしまう。


第3雨竜川橋梁
ルオントから南下して第3雨竜川橋梁へ移動。かつて訪れる人を迎えた花壇は雑草が生い茂り。


第3雨竜川橋梁
渡部義雄君弔魂碑。かつては解説板を設けていたのだが…。


第3雨竜川橋梁
渡部義雄君弔魂碑の裏面。「君は生命の言を保ちて世の光の如く此の時代に輝く」と刻む。渡部義雄氏は第3雨竜川橋梁の建設工事に携わった青年技師で、昭和6年(1931)作業中に川へ転落し殉職したという。享年29。この碑は昭和7年(1932)鉄道省北海道建設事務所員一同により建立された。


第3雨竜川橋梁
今は役目を終えて深名線の遺跡として残る第3雨竜川橋梁。ポンコタン渓谷に架かるこの橋梁を見れば当時の難工事をうかがい知る。建設工事に従事した先人たちの労苦に敬意を表したい。


第3雨竜川橋梁
第3雨竜川橋梁より名寄方面の路盤跡。


第3雨竜川橋梁
第3雨竜川橋梁北詰、深名線と旧国道が交差する踏切跡。


第3雨竜川橋梁
踏切跡より第3雨竜川橋梁。8年前にタイムスリップして振り返ってみよう↓


第3雨竜川橋梁_2014年8月
第3雨竜川橋梁(2014年8月撮影)。


第3雨竜川橋梁_2014年8月
幌加内技能協会設置の解説板(2014年8月撮影)。


第3雨竜川橋梁_2014年8月
渡部義雄君弔魂碑(2014年8月撮影)。


第3雨竜川橋梁_2014年8月
旧JR深名線第3雨竜川橋梁保存会設置の解説板(2014年8月撮影)。


沼牛駅
第3雨竜川橋梁から国道を約18km南下して幌加内町南端の沼牛へ。


沼牛駅
昭和4年(1929)に鉄道省雨龍線(後の深名線)の一般駅として開業した沼牛駅。


沼牛駅
平成28年(2016)クラウドファンディングにより資金を集め修繕がなされた。


沼牛駅
旧駅前通り。


沼牛駅
普段は駅舎内に入れないため窓から中をのぞき見。


沼牛駅
中に入りたいなあ。


沼牛駅
改札口側より駅舎内。


沼牛駅
駅裏手にはソバ畑が広がる。


沼牛駅
深名線が廃止されて27年経ったが今も駅舎が大切に保存されていることがうれしい。


沼牛駅
駅構内より幌加内方面。


沼牛駅
いつの間にか設置されていた腕木式信号機。


沼牛駅
駅前の建物は少しずつ減り寂しくなってゆく。


沼牛駅
駅前の農業倉庫3棟は健在。9年前の沼牛にタイムスリップして振り返ってみよう↓


沼牛駅_2013年8月
2013年8月の駅前通りと沼牛市街。


沼牛駅_2013年8月
沼牛駅(2013年8月撮影)


沼牛駅_2013年8月
当時の沼牛駅は物置として再利用され、駅舎横に養蜂場があった。


沼牛駅_2013年8月
駅より駅前通り(2013年8月撮影)。


沼牛駅_2013年8月
駅前の農業倉庫(2013年8月撮影)。


沼牛駅_2013年8月
駅構内より深川方面(2013年8月撮影)。


沼牛駅_2013年8月
駅構内より幌加内・名寄方面(2013年8月撮影)。


訪問日:2022年8月2日(火)
FC2ブログランキング

テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

政和アートFes ~2022~

幌加内町の政和地区に平成19年(2007年)廃校となった政和小学校がある。ここは校舎を再活用して毎年夏に政和アートFesが開催され、道内アーティストの作品を展示するとともにワルジカやソーバーマンといったオリジナルキャラクターが所々に登場して来訪者を楽しませる。私は2017年から毎年夏に訪れ童心に帰って楽しませてもらっていたのだが、2020年と21年は新型コロナ感染拡大による行動制限によって訪問を自重した。今年(2022)ようやく訪問する機会を得て3年ぶりに旧政和小学校へ。変わらぬ校舎に安堵しつつ玄関を入って迎えてくれたのが生後約1ヶ月という可愛い3羽の烏骨鶏、オスかメスなのかわからないらしく、これから成長して卵を産んでくれるのか、それともコケコッコーと鳴くのか…。

政和アートFes
http://seiwa-artfes.moo.jp/



霧立亭
旭川から車を走らせて江丹別峠を越え幌加内町へ。昼時だったのでまずは幌加内蕎麦を食ベようと添牛内の霧立亭に。駐車場に停められなかった車が路肩に並び随分と繁盛している様子。


霧立亭
平成14年(2002)旧添牛内郵便局を改装してオープンした霧立亭。


霧立亭
テーブルにあるメニューにあった1日限定20食の”ねむり雪そば”が気になったのだが、これは次の機会にとっておいて今回はノーマルの”ざるそば”を注文。


霧立亭
そしてお待ちかねの”ざるそば”がやって来た。


霧立亭
幌加内で食べる幌加内そば、サイコーだね!


添牛内駅
店を出て添牛内駅に。霧立亭で買った添牛内駅グッズ。


添牛内駅
クラウドファンディングを成功させて添牛内駅が後世に残ることを願う。


そばの花展望台
添牛内から政和北端の”そばの花展望台”へ移動。しかし3年ぶりに来てみたら展望台が撤去されていた。


そばの花展望台
前と変わらずソバ畑は眼前に広がる。


そばの花展望台
”そば処きたむら”の店舗や売店はこの四阿を残して姿を消し。


幌加内北村蕎麦神社
幌加内北村蕎麦神社だけは変わらず鎮座していた。


政和駅
政和駅跡へ。旧駅舎は倉庫に再利用され、外観に駅の面影をわずかに残す。


政和駅
駅舎改札口側。積雪により倒壊のおそれがあったのだろう、鉄骨で補強がなされていた。


政和駅前
政和駅跡前。駅前にあった幌加内町開基七十周年の記念塔はどこに行ってしまったのか、まだどこかに残存しているのだろうか。


政和駅前_2013年8月
在りし日の幌加内町開基七十周年記念塔(2013年8月撮影)。


政和アートFes
そして政和アートFesの会場、旧成和小学校に。私は旭川の東五条小学校が出身校なので、正直なところ何の縁もゆかりもない小学校なのだが、ここに来ると小学生だった頃の記憶が蘇る。体育館で手打ち野球で遊び、吹奏楽でアルトホルンを懸命に練習し、暖房用の石炭を石炭庫へ汲みに行ったり、そして大好きだった給食の揚げパンに三角形パックの牛乳。何故だか母校に戻ってきたような感覚に陥ってしまうのだ。

今年(2022年)楽しませてくれた政和アートFesを↓


政和アートFes


政和アートFes
体育館に展示されていたこれ、大好きな作品のひとつ。球がコロコロと複雑に組まれたレールの上を転がってゴールにたどり着いたらチーンと鳴り響く。コロコロ転がる球に最後まで諦めず頑張れと思わず声をかけたくなってしまう。しかもこの作品は球以外は全て鉄でできており、作者の技術と発想力が素晴らしいなと思う。


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes
ソーバーマンとワルジカが空を飛ぶ。


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes
黒板アートが新作になっていた!チョークでこれだけの表現ができるのがすごいと思う。


政和アートFes
未完成なところがこれまたいいんだよね。


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


政和アートFes


久々に母校の東五条小学校を訪ねて見たくなった。私が通っていた赤レンガ造りの校舎は改築され当時の面影を残しておらず、行ったところで自分の足跡を見つけることはできないだろうが、懐かしいと感じる場所が残っているかもしれない。あのペチカは今も残っているのだろうか…。

訪問日:2022年8月5日(金)
FC2ブログランキング

テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

多寄駅(宗谷本線) ~あの木造駅舎跡、今は踏切に~

2022年夏、宗谷本線士別駅から名寄駅間の各駅を訪ねてみることに。士別駅から名寄・稚内方面に向かって一駅目に下士別駅があったのだが、昨年(2021)3月のダイヤ改正に伴って廃止され、今は多寄駅が士別駅の隣駅となっている。多寄駅は士別市多寄町36線東3番地に所在、開業は明治36年(1903)で北海道官設鉄道天塩線士別駅~名寄駅間の延伸開通に伴い一般駅として設けられた。昭和57年(1982)貨物取扱い廃止、同59年(1984)荷物取扱い廃止と共に旅客扱いが廃止され、同61年(1986)閉塞が自動化されて運転要員もいなくなり完全に無人化した。同63年(1988)駅舎を現駅舎に改築、平成11年(1999)駅前通り(36線道路)を線路越しに延長するため、駅を南側に20m程移動して今に至っている。

駅名に付けれた地名の由来を角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『上川地方中央部、天塩川上流流域および同支流タヨロマ川流域。地名はアイヌ語のタヨロマペッ(林の中にある川の意)に由来する(北海道蝦夷語地名解)。文化13年の松前蝦夷地図や松浦武四郎「丁巳日誌」にタヨロマと見える。」




空中写真_多寄駅_CHO7714-C2B-5_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7714-C2B-5を基に作成
昭和52年(1977)撮影、多寄駅周辺の空中写真。国道から東へ延びる駅前通り(36線道路)の突き当りに木造駅舎があり、駅舎を境に千鳥式に配する相対式ホーム2面2線を有していた。


多寄駅_1980年代前半
1980年代前半に撮影した多寄駅。


多寄駅_1985年頃
1985年頃に撮影した多寄駅。写真の人物は中学生の私。


多寄駅
そして2022年現在の多寄駅。


多寄駅
昭和63年(1988)に改築され、平成11年(1999)駅前通りの延伸に伴い現在地へ移動した。


多寄駅
駅舎内には4席のベンチを設置。先客はいない。


多寄駅
ベンチ上に駅ノート。


多寄駅
発車時刻表。1日に名寄・稚内方面8本、旭川方面9本の列車が発着。最終は意外に遅く23:39発名寄行、どういった人たちが利用するのだろう。


多寄駅
きっぷ運賃表。


多寄駅
ホーム側出入口。


多寄駅
駅前側出入口。


多寄駅07
駅舎内に使途不明のドア。鍵が掛かっていて開かない。おそらく保線要員の控室があるのだろう。


多寄駅
先客は誰もいないと思ってたら、コオロギがいた。


多寄駅
ここは新型コロナ禍以前から時間が止まっているようだ。


多寄駅
名寄方面乗車口より名寄方面。駅横に見える36線踏切、その左側にあの木造駅舎があった。


多寄駅
ホームより旭川方面。


多寄駅
駅名標より名寄・稚内方面。


多寄駅
行き先表記の”しべつ”を剥がせば”しもしべつ”が書かれているはず。


多寄駅
駅舎より駅前。


多寄駅
11:19発旭川行普通が到着。


多寄駅18
車両は2020年に運用を開始したH100形気動車。DECMOという愛称が名付けられている。


多寄駅前
旧駅舎跡より駅前通り。


多寄駅
多寄駅はここまで、次の瑞穂駅に行こう。


訪問日:2022年8月2日(火)
FC2ブログランキング

テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

瑞穂駅(宗谷本線) ~駅名の由来に謎多き~

明治36年(1903)北海道官設鉄道天塩線(現 宗谷本線)士別駅~名寄駅間が延伸開通してから53年後の昭和31年(1956)、多寄駅~風連駅の間に瑞穂仮乗降場が新設された。開業当初は単式ホームを有するだけの簡素な仮乗降場だったと思われるが、昭和53年(1978)地元有志により待合所を設置。同62年(1987)国鉄分割民営化により経営がJR北海道へ移行したことに伴い瑞穂駅となって今に至っている。JR北海道の調査(H28~R2の5ヶ年平均)で乗車人員1日平均3名以下の「極端にご利用の少ない駅」とされながらも、一定の通学客利用かあるようで廃止対象から免れJRの管理において存続している。

瑞穂駅の所在地は士別市多寄町31線、士別市最北部の農村地帯にあり駅名にある”瑞穂”が近辺に全く見当たらない。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にある「瑞穂駅」によれば、駅名の由来は「当駅の所在する地区名(西瑞穂)より」とあり、瑞穂仮乗降所の新設当時に西瑞穂という地名が残っていたと思われる。士別市街から東へ約20km行った山間に瑞穂地区(現 士別市朝日町中央)があるのだが、瑞穂に西を冠して称するには随分と遠い。ちなみに瑞穂地区は明治末期に富山県から開拓者が入って越中獅子舞が伝えられ、昭和44年(1969)朝日町指定文化財(現 士別市無形文化財)となり、平成元年(1989)に「瑞穂獅子舞伝習館」が開館、踊り手が減り廃れつつある瑞穂獅子舞を伝承している。




空中写真_瑞穂仮乗降場_CHO7712-C18B-6_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7712-C18B-6を基に作成
昭和52年(1977)撮影、瑞穂仮乗降場周辺の空中写真。1面1線の単式ホームに待合所、今とさほど変わりはない。


瑞穂駅
花壇に色とりどりの花が咲き誇る瑞穂駅。


瑞穂駅
ここから見ると花壇には何かのメッセージのように”X”が見えた。エックスなのか、それともバツなのか…。


瑞穂駅
新しい感じの駅名標。駅名の由来となったとされる旧所在地名の西瑞穂、それならば駅名を西瑞穂とすべきと思うのだが、富良野線に”西瑞穂駅”があり、同駅名を避けるために瑞穂にしたのかとも思った。しかしこちらの方が開業が2年早い。ここの駅名由来は謎が多い…。


瑞穂駅
ホームより名寄方面。


瑞穂駅
ホームより旭川方面。


瑞穂駅
駅周辺一帯は田畑が広がる農村地帯。


瑞穂駅
車がある場所にはかつて自転車置き場が設けられていたようだ。


瑞穂駅
駅横を通る31線道路(国道40号方面)。


瑞穂駅
待合所へお邪魔しまーす。


瑞穂駅
ベンチ上に駅ノート。


瑞穂駅
冷暖房は無いが風雨を凌ぐには十分なスペース。真冬は相当にしばれそうだが…。


瑞穂駅
出入口を入って正面にきっぷ運賃表と発車時刻表を掲示。


瑞穂駅
1日に旭川・札幌方面4本、名寄・稚内方面4本の普通列車が発着。


瑞穂駅
運賃は名寄まで340円、旭川まで1680円。


瑞穂駅
ゴミ箱が設置されているのは珍しい。


瑞穂駅
待合所内より31線踏切。


瑞穂駅
待合所出入口横の外壁にあった標識。劣化が進んでいるが、昭和53年6月23日の日付が何とか読み取れる。


瑞穂駅
青ベースに白文字の駅名板。


瑞穂駅
最後に待合所よりホームを望んで。きちんと手入れされた素敵な花壇を見ると、地元の方に愛され守られていることをうかがう。駅は地域住民の交通の便を図ることはもちろんのこと、その土地の歴史を伝える役目も果たしているような気がする。


訪問日:2022年8月2日(火)
FC2ブログランキング

テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

風連駅(宗谷本線) ~樺太犬、風連のクマの出生地~

平成18年(2006)まで地方自治体として存在していた風連町。現在は名寄市と合併し自治体としての風連町は消滅したが、地名や駅名にその名をしっかり残している。その風連市街の中心に風連駅があり、風連の玄関口として長きに渡りその役割を果たしてきた。風連は稲作が盛んでもち米の産地として知られるが、私としては風連と言えば”風連のクマ”。クマと言ってもヒグマのことではない、風連生まれの犬に名付けられた名前である。

”風連のクマ”は私が小学生の時に映画館で見た南極物語(1983年公開)に登場し、初めてその名を知った樺太犬。昭和31年(1957)南極観測隊第1次越冬隊に同行し、南極で使役された後に悪天候による様々なトラブルから昭和基地に鎖で繋がれたまま置き去りにされた19頭のうちの1頭。1年後に派遣された第3次越冬隊が奇跡的に生存していたタロとジロの2頭に再会するという感動の実話を基に映画”南極物語”は制作された。そのタロとジロの父親が”風連のクマ”で、鎖を外して脱出はできたようだが、その行方は知れずで死体も見つからなかったらしい。

風連駅は名寄市風連町本町に所在、明治36年(1903)北海道官設鉄道天塩線(現 宗谷本線)士別駅~名寄駅間の延伸開通に伴い一般駅として開業。昭和57年(1982)貨物取扱い廃止、同59年(1984)荷物取扱い廃止と共に旅客扱いが廃止され切符販売を簡易委託化、同61年(1986)閉塞が自動化されて運転要員もいなくなり完全に無人化する。平成元年(1989)駅舎改築、同15年(2003)駅前の商店に簡易委託していた切符販売を廃止した。

駅名に付けれた地名の由来を角川日本地名大辞典より引用して紹介。
『上川地方北部、天塩川上流流域。アイヌ語のフーレベツ(赤い川の意)に由来する(アイヌ語地名辞解)。』
ちなみに風連駅が所在する地は駅開業当時の明治後期に多寄村に所属し、風連市街に多寄村役場が移転したことから駅名を”下多寄”へ改称する動きもあったようだが、昭和13年(1938)多寄村と風連村に分かれたことで風連駅の名は残り今に至っている。




空中写真_風連駅_CHO7712-C16A-20_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7712-C16A-20を基に作成
昭和52年(1977)撮影、風連駅周辺の空中写真。緑屋根の駅舎と構内跨線橋が見え、千鳥式に配された2面のホームは今と変わらない。島式ホームの右側に貨物車両が待避しているようようだ。


風連駅_1980年代前半
1980年代前半に撮影、有人駅時代の風連駅。改札する駅員が見える。


風連駅_1985年頃
1985年頃に撮影した風連駅。柱にしがみついている人物は中学生の私。駅舎の佇まいや自動販売機に昭和を感じる。


風連駅
そして2022年8月の風連駅。


風連駅
平成元年(1989)あの木造駅舎を撤去して現駅舎に建て替えられた。駅舎横に”さわやかトイレ”を設ける。


風連駅
駅舎内に入ればカラフルな4連ベンチが目に留まる。


風連駅
駅前側出入口。


風連駅
駅前側出入口を入って左側に掃除用具入と保線要員の控室らしき扉あり。


風連駅
ホーム側出入口。


風連駅
駅舎内が仕切られているのは何ゆえなのか…。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「風連駅」によれば、「1989年(平成元年):駅舎改築。風連町により開基90周年記念事業の一環で駅舎に展示室を合築し、水洗トイレを隣に新設」と書かれており、向こうは展示室を目的にしたスペースらしい。


風連駅
発車時刻表。1日に名寄・稚内方面12本、旭川・札幌方面12本の快速と普通列車が発着。名寄・稚内方面12本のうち11本が名寄行で、7:29発の普通だけが稚内行。


風連駅
きっぷ運賃表。名寄・稚内方面の運賃は名寄までしか記載が無く、ここから名寄の先へ行く旅客はほとんどいないのだろう。


風連駅
東風連駅を移設して名寄高校駅を設置する案内。


風連駅
展示室だったはずのスペースには新橋色のベンチが置かれ待合室として利用されている。


風連駅
結構広々とした展示室に特に展示は無いかな。


風連駅
駅構内は2面2線のホームと構内跨線橋を有し、駅舎と構内跨線橋の間に歩行者横断用の跨線橋が設けられている。


風連駅
真新しい1番ホームの駅名標。今年(2022年)3月に行き先表記が”ひがしふうれん”から”なよろこうこう”に変わった。


風連駅
1番ホーム駅名標より名寄・稚内方面。


風連駅
だいぶ年季が入った構内跨線橋。


風連駅
構内跨線橋内部。


風連駅
構内跨線橋より2番ホーム(名寄・稚内方面)。


風連駅
雑草に浸食されつつある2番ホーム(旭川方面)。


風連駅前01
風連駅前。国道40号に向かって駅前通りが延びる。左手にある特徴的な建物、現在は民家のようだが佇まいから想像するに昔は駅前旅館だったのではないだろうか。


訪問日:2022年8月2日(火)
FC2ブログランキング

テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

名寄高校駅(宗谷本線) ~東風連駅を移転して誕生した新駅~

今年(2022)3月12日、宗谷本線に誕生した名寄高校駅。その駅名が示す通り名寄高校への最寄り駅であり、これから宗谷本線の通学利用が増加することを期待できそう。これに伴い駅名を消したのが東風連駅、表向きは東風連駅を名寄駅方向に1.5km移転し駅名を名寄高校駅に変更するというものだが、東風連駅の構造物は何も移設されておらず事実上の廃止と言っていい。

東風連駅は昭和31年(1956)宗谷本線風連駅~名寄駅間に開業。旅客扱いのみの駅員無配置駅で待合所に隣接する民家が簡易委託先となり切符販売を取り扱っていたが、同61年(1986)簡易委託が廃止され完全な無人駅になった。当初は稚内方面に向かって右側に1面1線のホームと待合所を設けていたが、平成11年(1999)に線路を挟んで向かい側に移設。令和4年(2022)3月に移転して名寄高校駅に名を変え66年間にわたる歴史に幕を閉じた。




空中写真_東風連駅_CHO7712-C14-22_1977(昭52)
空中写真データ:国土地理院 整理番号CHO7712-C14-22を基に作成
昭和52年(1977)撮影、東風連駅周辺の空中写真。稚内方面に向かって線路右側にホームと待合所があり、現在とは位置が違っていることがわかる。待合所北東側に隣接する民家が簡易委託で切符を販売していたようだ。


東風連駅_2022年1月
2022年1月2日に訪れた時の東風連駅を。


東風連駅_2022年1月
「長い間お疲れ様 東風連駅」を掲げる待合所。


東風連駅_2022年1月
待合所内。


東風連駅_2022年1月
駅ノートもありました。


東風連駅_2022年1月
1日に名寄・稚内方面4本、旭川・札幌方面4本の普通列車が発着していた。


東風連駅_2022年1月
きっぷ運賃表。


東風連駅_2022年1月
待合所内出入口。


東風連駅_2022年1月
待合所の窓よりホームを望み。


東風連駅_2022年1月
名寄方面乗車口より旭川方面。


東風連駅_2022年1月
駅名標。


東風連駅_2022年1月
旭川方面乗車口より名寄・稚内方面。


東風連駅跡
現在(2022年8月)の廃止されて約5ヶ月が過ぎた東風連駅。


東風連駅跡
既に待合所は撤去されて無い。残されたホームの出入口は「線路横断禁止」を掲示し閉ざされていた。


東風連駅跡
こんな貼り紙が残されていた。描かれているのは山手線の電車?


第1風連旭名寄線踏切
東風連駅から名寄側にある第1風連旭名寄線踏切。


東風連駅付近
踏切のすぐ南側にある民家。佇まいを見るにかつては商店だったように見え、昭和61年(1986)まで切符販売をしていた簡易委託先はここなのだろう。


東風連駅跡
簡易委託先の旧商店より東風連駅。お花畑の向こうに用水路が流れており、その先に平成11年(1999)まで待合所が設けられていた。利用客は切符を買ってここを通り駅に向かったはず。


東風連駅跡
枠だけ残して駅名標は撤去されている。


名寄高校駅
そして東風連駅が移転して生まれ変わった名寄高校駅に。”Nステ”という愛称が名付けられた。


18線踏切
駅横の18線踏切。


名寄高校駅
駅の構造は1面1線のホームに待合所を設ける。


名寄高校駅
風雪を凌ぐには少々心もとない待合所。


名寄高校駅02
発車時刻表ときっぷ運賃表。1日に名寄・稚内方面12本、旭川・札幌方面12本の快速と普通列車が発着。東風連駅時代より発着本数が3倍にも増加、通学利用が大幅に増加することを見込んだのだろう。


名寄高校駅
待合所に掲示されていた東風連駅メモリアルボード。


名寄高校駅
メモリアルボードに開業当時の東風連駅が描かれていた。左が稚内・名寄方面、駅舎と言っても過言ではない立派な待合所、その左に隣接する建物は簡易委託で切符販売をしていたあの民家なのだろう。


名寄高校駅
旭川方面乗車口より名寄・稚内方面。


名寄高校駅
真新しい駅名標。


名寄高校駅
名寄方面乗車口より名寄・稚内方面。次の名寄駅までは2.1km。


名寄高校駅
名寄方面乗車口より旭川方面。


名寄高校駅09
駅より東側には田舎の風景が広がる。


名寄高校駅11
駅の西側には名寄高校。これから多くの生徒が宗谷本線を利用してくれたらいいなと思う。


訪問日:2022年8月2日(火)
FC2ブログランキング

テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

カレンダー
07 | 2022/08 | 09
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
最近の記事
カテゴリー
最近のコメント
データ取得中...
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

お気に入りブログ
ブログ内検索
QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター