fc2ブログ

深名線の廃線跡から ~2023夏 第三雨竜川橋梁から沼牛駅へ~



深名線が廃止されて28年が経ちほとんどの橋梁が撤去され消失している中、今でも唯一残されているのが第3雨竜川橋梁。雨煙別駅~政和温泉駅間の雨竜川に架けられ、昭和6年(1931)の建設工事中には青年技師が川に転落して死亡しており、今も橋梁北詰に弔魂碑を残す。その第3雨竜川橋梁から幌加内方面へ南下して沼牛駅まで、深名線の廃線跡を辿りながら。


第三雨竜川橋梁03
旧国道から第3雨竜川橋梁にかけて約70mの路盤を残す。


第三雨竜川橋梁08
旧国道の踏切跡。政和方面へ延びる路盤は自然に還り消失している。


第三雨竜川橋梁01
第3雨竜川橋梁北詰、深名線の路盤跡と渡部義雄君弔魂碑。


第三雨竜川橋梁07
渡部義雄君弔魂碑。第3雨竜川橋梁の建設中に殉職した青年技師を弔う。北海道の廃線跡を巡っていると、多くの犠牲のもとに鉄道が敷設されてきた歴史を知る。


第三雨竜川橋梁02
2014年に訪れた時には素敵な花壇が設けられていたが、今は草生し悲しい状況。近年に解説板も撤去された。


第三雨竜川橋梁05
レールは撤去されているが往時の姿を留める第3雨竜川橋梁。


その第3雨竜川橋梁から幌加内方面へ約5km、雨竜郡幌加内町字雨煙別に設けられていた雨煙別駅。過疎化の進行で利用者が減少、深名線廃止より5年早い平成2年(1990年)廃駅となった。駅は消失しており旧駅前に残る農業倉庫だけが往時を偲ぶ。

雨煙別駅跡01
雨煙別駅前に残る農業倉庫。奥方向の道の突き当りに雨煙別駅があった。


雨煙別駅跡02
道の突き当りの草むらになっている所が駅舎跡。かつてはそれなりの集落を形成し小学校や神社まであった雨煙別、深名線よりひと足早く廃駅となり姿を消した。


雨煙別駅から幌加内方面へ約4.3km行ったところに設けられていた上幌加内駅。仮乗降場を出自にし単式ホームと待合所を設けるだけの無人駅だった。
上幌加内駅跡01
ホームの構造部分と線路を少しだけ残す上幌加内駅跡。


上幌加内駅跡02
上幌加内駅跡より幌加内・深川方面。


上幌加内駅跡03
上幌加内駅跡より雨煙別・名寄方面。


上幌加内駅跡04
駅前にある「圃場整備竣工記念 緑郷浴萬民」碑。昭和48年(1973)から始まった農地の区画整理が竣工したことを記念し同58年(1983)に建立された。


上幌加内駅跡05
田園地帯にポツンと形跡を残す上幌加内駅。深名線の歴史を伝える貴重な存在である。


幌加内市街の中心にあり町の玄関口をなした幌加内駅。深名線の途中駅では最も乗降客が多く、昭和59年(1984)まで駅員を配置していた。無人駅になる前の昭和50年代後半、日糧パンに勤めていた父親が駅舎内の売店にパンを配達していたことを記憶しており、売店があったことは確か。それがキヨスクだったのかは覚えていない。

幌加内駅古写真
JR深名線資料展示室の展示パネルより。在りし日の幌加内駅。


幌加内駅跡02
平成7年(1995)深名線の廃線と運命を共にした幌加内駅。廃止後に駅舎バス待合所に転用されたが、平成12年(2000)火災により焼失した。


幌加内駅跡03
駅跡には線路や駅名標のモニュメントを置き往時を偲ぶが、駅の痕跡は完全に消え失せている。駅跡裏手では厳寒まつりが開催され短い夏を謳歌するように多くの人で賑わっていた。


幌加内駅跡04
2013年頃まで営業を続けていた駅前の旧松家食堂。私としては一番お気に入りの幌加内そばだった。


幌加内駅から深川方面へ2駅目の沼牛駅。”おかえり沼牛駅実行委員会”がクラウドファンディングで支援金を募り、平成28年(2016年)に改修された。それから7年の年月を経て。

沼牛駅01
春夏秋冬で違った姿を見せる沼牛駅、何度訪れても飽きさせない


沼牛駅02
駅前に残る3棟の農業倉庫。深名線と沼牛駅を物語るに相応しい。


沼牛駅04
マンスリーサポーターを募集する貼り紙。深名線を今に語る貴重な沼牛駅、その歴史を末永く伝えてほしいと願う。

北海道の豪雪地帯、旧・深名線「沼牛駅」木造駅舎を継続して守りたい!
https://readyfor.jp/projects/numaushi_eki


沼牛駅03
窓越しに駅舎内を覗くと。どこから仕入れたのか、小型エンジンを搭載するトロッコが置いてあった。いつの日か構内に線路が復元されこのトロッコが走る姿を見られるのだろうか。


沼牛駅05
沼牛駅構内。線路が無いのがやはり寂しい。


沼牛駅06
復元された駅名標の枠。


沼牛駅07
駅構内より幌加内方面。


沼牛駅08
かつて商店があり市街を形成した駅前。近郊には沼牛小学校(2002年閉校)があった。今は過疎化が進み数軒の民家が残るのみ。


沼牛駅09
令和2年(2020)に設置された腕木式信号機。


沼牛駅10
次に訪ねるのは年末になるかな。きっと豪雪に耐える姿が見られるのだろう。


訪問日:2023年8月15日(火)
FC2ブログランキング
スポンサーサイト



テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

上名寄駅跡・矢文駅跡・岐阜橋駅跡(名寄本線) ~2023夏~



名寄本線起点の名寄駅から2駅目にあった上名寄駅。一つ手前の中名寄駅は名寄市に所在したが、当駅は上川郡下川町に所在した。下川町西部に位置する上名寄地区は中央を名寄川が横断して流れ沖積平野を形成、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「下川町」によれば、「1901年(明治34年)岐阜県郡上郡高鷲村および北濃村(いずれも現郡上市)から25戸の開拓団が名寄原野16線~19線に集団移住する(開拓元年)。」とあり、下川町で最も早く開拓が始まった地域である。

上名寄地区には12線に上名寄駅、16線に矢文駅、19線に岐阜橋駅の3駅があり、中でも大正8年(1919)名寄線名寄~下川間開通に伴い上名寄駅が開業したことで、鉄道輸送による木材搬出が盛んとなり駅周辺に市街を形成、木工場や澱粉工場などが建設され賑わいをみせた。斜陽の時代を迎えて昭和35年(1960)貨物取扱い廃止、同53年(1978)荷物取扱い廃止に併せて旅客取扱いが廃止され無人駅となり、平成元年(1989)名寄本線の全線廃止に伴い廃駅となる。

空中写真_下川_USA-R327-LR-26_1948(昭23)02
空中写真データ:国土地理院 整理番号下川_USA-R327-LR-26_を基に作成
昭和23年(1948)撮影、上名寄駅周辺の空中写真。駅の裏手と西側に広大な敷地を持った土場が見え、木材が山積みになっているのだろう。駅舎から国道に向かって駅前通りが延び、国道沿い南側には家が建ち並び市街が形成されている。


空中写真_名寄_CHO7712-C14-30_1977(昭52)03
空中写真データ:国土地理院 整理番号名寄_CHO7712-C14-30_を基に作成
昭和52年(1977)撮影、上名寄駅周辺の空中写真。無人駅になる1年前に撮影されたもの。千鳥式に配された相対式ホームと駅舎が見えるが、かつて駅裏手と西側にあった土場は消え失せている。市街東側の国道は新道に付替えられているが、わずかに旧道の路盤が確認できる。


中線跨線橋01
名寄本線(中名寄~上名寄)跡より上名寄方面、中線跨線橋を望む。


中線跨線橋02
中名寄駅と上名寄駅の中間地点に位置する中線跨線橋。上を跨ぐのは国道239号。


中線跨線橋03
中線跨線橋下より中名寄方面。


中線跨線橋04
中線跨線橋下より上名寄方面。


上名寄駅跡01
駅跡前の国道沿いにある上名寄12線バス停留所。


上名寄駅跡02
上名寄駅跡を示す駅名標のレプリカ。


上名寄駅跡03
裏面には沿革が記される。訪れた人にとってこういった配慮は有難い。


上名寄駅跡09
駅跡前、バス停留所の裏手には新しい下川町新規就農促進住宅。農業後継者の定住を目的として平成29年度に建てられた。


上名寄駅跡13
上名寄12線バス停留所と下川町新規就農促進住宅。


上名寄駅跡05
停留所待合室内。


上名寄駅跡06
ベンチにはお洒落な市松模様のマットが敷かれていた。


上名寄駅跡04
駅跡前より国道239号下川方面。店は無いが自販機を置く建物があり、奥左手に上名寄郵便局がある。


上名寄駅跡07
駅跡前より国道239号名寄方面。かつての賑わいを想像するには難しい現況。


上名寄駅跡12
停留所裏手。駅跡や駅前通りは野っ原と化し遺構は何も残っていない。


上名寄駅跡11
駅跡より下川方面。


上名寄駅跡10
駅跡より名寄方面。かつて広大な敷地を有した土場は見る影もない。


大正8年(1919)名寄~下川間が開通してから37年後、昭和31年(1956)16線に矢文仮乗降場が設けられ、同34年(1959)駅に昇格。単式ホーム1面1線を有するだけの無人駅だった。駅から約600m(徒歩8分)の場所に上名寄小学校(2003年廃校)があった。

空中写真_名寄_CHO7712-C14-32_1977(昭52)03
空中写真データ:国土地理院 整理番号名寄_CHO7712-C14-30_を基に作成
昭和52年(1977)撮影、矢文駅周辺の空中写真。16線道路の踏切から名寄方に向いて線路右側に単式ホームを設けていた。待合所は無い。


矢文駅跡03
国道より南へ延びる16線道路。かつては右手奥の畑になっている辺りにホームが見えていたはず。


矢文駅跡01
16線道路の踏切跡より名寄方面。路盤跡は農道と化し右側にあったはずの駅は農地となり跡形もない。


矢文駅跡02
踏切跡より下川方面。


矢文駅跡04
踏切跡より16線道路国道方面。


上名寄神社
16線道路の南端にある上名寄神社。立入禁止となっていて社殿を見ることができず。もうここには神様が鎮座されていないのだろうか。


昭和31年(1956)矢文駅と共に開業した岐阜橋駅。仮乗降場として19線に設けられ、同34年(1959)駅に昇格。駅名の由来は19線道路の名寄川に架けられた岐阜橋にある。この橋名は明治期に入植した岐阜の開拓団が名付けたものといい、現在の永久橋に引き継がれている。

空中写真_名寄_CHO7712-C15-33_1977(昭52)03
空中写真データ:国土地理院 整理番号名寄_CHO7712-C15-33_を基に作成
昭和52年(1977)撮影、岐阜橋駅周辺の空中写真。19線道路の踏切から下川方に向いて線路左側に単式ホームを設けていた。ホーム入口付近に待合所がみえる。


19線道路
19線道路南端より北方に延びる同道路。途中の道路右脇に岐阜橋駅、約1.0km先に名寄川が流れ岐阜橋が架かる。


岐阜橋駅跡01
19線道路の踏切跡より下川方面。倉庫手前辺りが岐阜橋駅跡。ホームや待合所は跡形なく消失している。


岐阜橋駅跡02
岐阜橋駅跡付近より名寄方面の路盤跡。


岐阜橋駅跡03
国道付近より19線道路。かつては左手に岐阜橋駅が見えていたはずだ。


訪問日:2023年8月15日(火)
FC2ブログランキング

テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

下川駅跡(名寄本線) ~2023夏~



スキージャンプ界のレジェンド葛西紀明を生んだ町、下川。町内のスキー場には幾多の名選手を輩出してきたジャンプ台が設置される。現在は人口約3千人の小さな町であるが、大正15年(1926)珊瑠鉱山が操業を開始し金や銀を産出、昭和16年(1941)には下川鉱山が操業を開始して銅・亜鉛を産出し、林業の発展も相まって同35年(1960)には1万5千人を超える人口を有していた。しかし栄華は長く続かない。昭和58年(1983)下川鉱山が休山、同61年(1986) 珊瑠鉱山が休山して人口が激減、更には平成元年(1989)交通インフラの要だった名寄本線が廃止され、過疎化が進む。

下川駅は大正8年(1919)名寄線名寄~下川駅間開通に伴い終着の一般駅として開業、翌年(1920)に上興部まで延伸開通しその中間駅となった。昭和9年(1934)珊瑠森林鉄道(1956年廃止)が開業、同17年(1942)中名寄森林鉄道(1959年廃止)が開業して木材集散地として駅は賑わいをみせ、町と共に駅も全盛を迎える。しかし1960年代から始まったモータリゼーションの進展と過疎化の進行から利用者は減少の一途を辿り、昭和57年(1982)貨物取扱い廃止、同62年(1987)荷物取扱い廃止、平成元年(1989)ついには名寄本線が全線廃止という運命を辿る。

空中写真_下川_USA-R327-45_1948(昭23)04
空中写真データ:国土地理院 整理番号下川_USA-R327-45_を基に作成
昭和23年(1948)撮影、下川駅周辺の空中写真。駅北側と南側に広大な土場があり山積みの木材で埋め尽くされている。北側土場には珊瑠森林鉄道、南側土場には中名寄森林鉄道を引き込んで盛んに木材が集めれられ、下川駅から鉄道輸送により搬出していた。

空中写真_名寄_CHO7712-C15-36_1977(昭52)03
空中写真データ:国土地理院 整理番号名寄_CHO7712-C15-36_を基に作成
昭和52年(1977)撮影、下川駅周辺の空中写真。森林鉄道が廃止されて20年近く経ち、広大な敷地を持っていた土場は一部が宅地化され、保管される木材もかなり減っている。木材需要が減り鉄道輸送も下火となっていることをうかがう。


下川駅跡01
ここが下川駅跡。かつては写真中央の交差点手前辺りに駅舎を構えていた。


鉄道記念碑
駅跡前、平成5年(1993)下川町により建立された鉄道記念碑。名寄本線の沿革を刻む。


まちおこしセンター「コモレビ」
駅跡前にある”まちおこしセンター「コモレビ」”。


下川駅跡04
駅跡より南側、下川町スキー場へ延びる道路。かつての土場は完全に消え失せている。


下川駅跡02
駅跡より興部方面。線路跡はふるさと道路に整備された。


下川駅跡03
駅跡より名寄方面。


にぎわいの広場01
駅跡より少し名寄側、にぎわいの広場に静態保存されるキハ22形気動車2両。


にぎわいの広場03
ここに保存される2両は昭和40年(1965)製造、北海道内を駆け巡り名寄本線の廃止と共に廃車となった。


にぎわいの広場04
下川行の行先プレート。


にぎわいの広場05
下川の短く暑い夏空の下、朱色の車体が映える。


にぎわいの広場06
今にも下川駅へ入線していきそうな光景だ。


にぎわいの広場07
ひと気が無く少々寂しい”にぎわいの広場”。


にぎわいの広場08
”にぎわいの広場”より下川町スキー場のジャンプ台。シーズンになれば未来のオリンピック選手が練習に励むのだろう。


下川町バスターミナル
駅跡前にある下川町バスターミナル合同センター。


下川町バスターミナル02
下川町バスターミナル合同センターに設けられる鉄道記念ホール。


下川町バスターミナル03
鉄道記念ホールでは下川駅をはじめ名寄本線に関連する資料を展示する。以下、展示写真をピックアップして紹介。


下川駅_下川バスターミナル_01
下川駅廃止年の平成元年(1989)に撮影、駅員のみなさん。


下川駅_下川バスターミナル_02
昭和55年(1980)撮影の下川駅。


下川駅_下川バスターミナル_03
薄く雪化粧された夕暮れ時の下川駅。初雪が長く寒い冬の到来を告げる中、降車客が足早に構内踏切を渡る。自分の部屋に飾りたいぐらいにすごく素敵な写真だ。


下川駅裏土場風景_S40年_鉄道記念ホール
昭和40年(1965)撮影、下川駅裏の土場。木材が山積みされる往時の貴重な写真。


下川町バスターミナル04
漫才師”おぼんこぼん”のサイン色紙。平成9年(1997)下川に訪れたらしい。「水曜日のダウンタウン」で仲直り企画をずっと見てきただけに、思わず目が留まってしまった。


下川町バスターミナル05
定期券や切符の展示。名寄本線を使い下川から名寄へ通っていた高校生は結構いたのだろうな。


下川町バスターミナル06
これからも忘れません!名寄本線。


下川町バスターミナル07
上名寄跨線橋のプレート。上名寄跨線橋は上名寄~矢文間の中間、国道239号と名寄本線の交差点に架けられていた。国道の整備により跨線橋が撤去され、取り外したプレートを展示している。


下川町バスターミナル08
下川駅に代わり今はここがまちの玄関口である。


訪問日:2023年8月15日(火)
FC2ブログランキング

テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

上駒駅跡・中頓別駅跡(天北線) ~2023夏~



天北線起点の音威子府駅から8駅目、37.4km地点にあった上駒駅。枝幸郡中頓別町字上駒に所在し、昭和30年(1955)に仮乗降場として1面1線の単式ホームが設けられのがはじまり。平成元年(1989)国鉄分割民営化により経営がJR北海道へ移行したことに伴い駅へ昇格。平成元年(1989)名寄本線全線廃止に伴い廃駅となった。


空中写真_中頓別_CHO776-C11-19_1977(昭52)03
空中写真データ:国土地理院 整理番号中頓別_CHO776-C11-19_を基に作成
昭和52年(1977)撮影、上駒駅周辺の空中写真。国道より線路に向かって駅へアクセスする短い小路があり、その右手の線路北側に単式ホームを設けていた。現在、駅付近の路盤跡は国道になっている。


上駒駅跡04
この辺りが上駒駅跡。路盤は国道に付け替えられ完全に消失している。道路標識から少し先の国道上にかつては単式ホームがあったはず。


上駒駅跡02
上駒駅跡より中頓別方面。


上駒駅跡01
上駒駅跡より音威子府方面。


上駒駅跡前02
駅跡付近より国道275号を音威子府方面。国道右側の斜面沿いに旧国道の路盤を残す。


上駒バス停留所03
上駒駅跡近くにある上駒バス停留所。


上駒バス停留所02
上駒という停留所名は何とか読み取れるが、時刻表の破損が著しく何時にバスが来るのかがわからない。


上駒バス停留所01
上駒バス停留所より音威子府方面。


頓別川の上中流域、宗谷地方南部の山間に町域を持つ中頓別。町の中央部には松音知(マツネシリ)岳と敏音知(ピンネシリ)岳が横たわる。明治30年代に頓別川で砂金が見つかり多くの人が入って砂金ブームが訪れ、そんな中の同34年(1901)楢原民之助という人が現在の市街地に入って農耕をはじめたことが中頓別開拓の先駆とされる。明治末期の頓別原野区画割によりその中央に位置することから中頓別という地名が誕生する。

大正5年(1916)宗谷線小頓別駅からの延伸開通に伴い終着の一般駅として中頓別駅が開業、同7年(1918)宗谷線が浜頓別まで延伸開通しその途中駅になった。昭和5年(1930)音威子府から幌延を経由するルートが宗谷本線となり、浜頓別経由のルートは北見線に改称、それから31年後の同36年(1961)天北線に改称される。同50年(1975)中頓別駅は鉄筋コンクリート製の駅舎に改築されたが、利用者が減少から同59年(1984)貨物と荷物取扱い廃止、平成元年(1989)天北線の全線廃止に伴い廃駅となった。

空中写真_中頓別_USA-R327-118_1948(昭23)04
空中写真データ:国土地理院 整理番号 中頓別_USA-R327-118を基に作成
昭和23年(1948)撮影、中頓別駅周辺の空中写真。駅舎は昭和9年(1934)に改築された木造駅舎なのだろう。駅前側には建物が密集して市街を形成、駅裏手から南側の線路沿いにかけては大規模な木材の土場が設けられ木工場の敷地にもなっている。林業が盛んであたことをうかがう。


空中写真_中頓別_CHO776-C10B-9_1977(昭52)03
空中写真データ:国土地理院 整理番号 中頓別_CHO776-C10B-9_を基に作成
昭和52年(1977)撮影、中頓別駅周辺の空中写真。駅舎は昭和50年(1975)に改築した鉄筋コンクリート造り。駅裏手から南側の線路沿いにかけて大規模な木材の土場は健在で木工場も30年前より多くあるように見える。しかし保管される木材は明らかに少なくなっており、トラック輸送への転換期にあることをうかがう。


中頓別バスターミナル01
中頓別駅跡に建てられた中頓別バスターミナル。


中頓別バスターミナル17
バスターミナルを中心にキハ22形気動車を静態保存し天北線メモリアルパークとして整備されている。


中頓別駅跡01
静態保存されるキハ22形気動車は車体を青色に塗り直したオリジナルカラー。


中頓別駅跡03
車体前には腕木式信号機を置く。


中頓別駅跡04
塗装が剥げ劣化が著しい。


中頓別駅跡02
NPO法人中頓別町まちづくり協議会がキハ22再生プロジェクトを立ち上げ、支援金や作業員、アイデアなどを募集。この車体を国鉄色に塗り直し後世に残そうとしている。


中頓別駅跡06
このまま朽ち果てさせるにはもったいない。


中頓別駅跡08
中頓別駅構内跡より浜頓別方面。


中頓別駅跡10
かつて浜頓別方面へ延びていた鉄路や路盤は完全に消失している。


中頓別駅跡09
中頓別駅構内跡より音威子府方面。かつて駅裏から南側にかけての広大な土場は見る影もない。


中頓別バスターミナル09
中頓別バスターミナルの1階はバス待合室と乗車券販売窓口、2階には鉄道記念館を設けている。


中頓別バスターミナル10
鉄道記念館では天北線関連の資料を展示する。


中頓別バスターミナル11
展示棚の上に歴代駅長の名前。大正5年(1916)に開駅してから平成元年(1989)の廃駅に至る73年間、27名の方が駅長を務めた。最後の27代駅長、森下保さんはご健在なのだろうか。そんなことを思ってしまう。


中頓別バスターミナル02
以下、中頓別バスターミナル鉄道記念館の展示写真より。これは最終運行日のお別れ列車。


中頓別バスターミナル06
昭和50年(1975)に改築された鉄筋コンクリート造りの最後の駅舎。この駅舎、何度か訪れてるんだけど何ゆえか自分で撮った写真が残ってないんだよなあ…。


中頓別バスターミナル16
これも最終運行日に撮られた写真なのだろう。


中頓別駅跡前01
中頓別駅跡前。


中頓別駅跡前02
中頓別町の観光案内図。明治30年代、頓別川において砂金ブームに沸いた中頓別。現在も頓別川支流のペーチャン川に砂金掘体験場があり観光客を呼ぶ。


中頓別市街01
駅跡より旧駅前通り。


中頓別市街02
旧駅前通りは道道399号に指定されており中頓別停車場線の名を残す。


中頓別市街03
駅が無くなって34年が経ち市街地は寂れた。


中頓別駅跡前03
道道399号より駅跡の中頓別バスターミナル方面。かつては多くの人や車が行き交ったであろう駅前通り、今やほとんど車が通らずひと気も無い。鉄道が無くなるというのはこういうことなのだ。


訪問日:2023年8月16日(水)
FC2ブログランキング

テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

カレンダー
09 | 2023/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
最近の記事
カテゴリー
最近のコメント
データ取得中...
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

お気に入りブログ
ブログ内検索
QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター