箱根宿
【旧東海道歩き 第35日目】箱根町港バス停→箱根宿→畑宿(間の宿)→畑宿バス停
【2018年11月24日(土)旧東海道 箱根宿】

東海道五十三次之内箱根 湖水図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「箱根宿」より引用
東海道を京方から来れば相模国最初の宿駅であり、神奈川県としても最初の宿駅となる箱根宿。箱根峠越えの最中、標高725m地点の芦ノ湖畔に位置し、東海道53次の中で最も標高が高い場所にある。箱根宿が誕生するのは、箱根関所が開設する前年の元和4年(1618)、箱根峠越えの利便を図るため、三島と小田原から50戸ずつを移転させ、新たに宿場町を成立させた。徳川家康により五街道の宿駅伝馬制度が敷かれてから17年後のことになる。なお、箱根関所の開設は箱根宿成立以前の慶長年間(1596~1615)まで遡るとの説もある。
箱根宿は江戸日本橋から東海道五十三次を10宿目、京都三条大橋から44宿目。天保14年(1843年)当時の人口844人、家数197軒、うち本陣6、脇本陣1、旅籠屋36軒。小規模な山間の宿場ながら、6軒もの本陣があったのが特筆すべきところ、箱根峠越えが大難所だったうえに、箱根宿から東の小田原まで約16.6km、西の三島まで約14.8kmと距離が長く、ここで宿泊する大名が多くいたのだろう。京方より芦川町・三島町・小田原町・新町・新谷町と続く町並み、宿東方の新町と新谷町の境に箱根関所が設けられ、江戸に入る鉄砲と江戸から出る女性を厳しく監視した。名産品は寄木細工、甘酒や山椒魚が名物。広重は「東海道五十三次之内箱根 湖水図」の題で、芦ノ湖と天下の険と言われた箱根の山間を延びる石畳の東海道を描く。

箱根宿芦川町の京方(西)外れ、向坂の登り口。前回の歩き旅でここを降ってきた私は、路傍に並ぶ芦川の石仏群に迎えられた。本日はここがスタート、石仏様に見送られて。

箱根宿京方出入口だった芦川橋。

芦川橋袂から参道を延ばす駒形神社。駒ヶ岳の地主神”駒形大神”を祀る宿内の鎮守。

駒形神社参道入口前より箱根峠・向坂方面。

芦川町の町並み。中世の宿場はここにあったが、現在は中心部から外れて行き交う人も少なく、少々寂れた感じ。

旧東海道(静岡県道737号)と国道1号の合流地点。左が国道1号、右が芦川町の旧東海道(箱根峠・向坂方面)。

上写真の合流地点にある石仏と山の神・関白道碑。山の神碑には橋向町と刻まれ、付近に存在した町名と思われる。関白道碑には秀吉が小田原城攻略の際に開削した道で、鞍掛山十国峠旧登山道に通じているとの説明書きがあるが、詳細不明。これを調べてみるのも面白そう。

芦川入口バス停。この辺りが芦川町と三島町の境にあたる。

三島町、天野又左衛門本陣跡(写真左手前)前。三島町には2軒の本陣と脇本陣1軒が設けられていた。

箱根関所南交差点を左に曲がったところが箱根町港。ここは箱根駅伝往路ゴールで復路のスタート地点。

海賊船が係留する箱根町港。

箱根町港に隣接してある箱根駅伝ミュージアムと畔屋。

畔屋の場所が天野平左衛門本陣跡。三島町にあった本陣2軒のうちの一つ。

畔屋前、箱根宿の町並み(小田原・江戸方面)。畔屋が三島町の北(江戸方)端にあたり、その先から小田原町。

小田原町に入ってすぐ、写真左手に石内太郎左衛門本陣(鎌倉屋)、奥に向かって駒佐五右衛門本陣、川田覚衛門本陣が並び建っていたが、当時とは随分と様相が変わってしまったようで、本陣の遺構を見ることはなかった。

雲助だんご本舗の辺りが駒佐五右衛門本陣跡。

箱根ホテル辺りが川田覚衛門本陣跡。

箱根ホテル北側を流れる水路に架かる小田原橋。小田原町と新町の境にあたる。

小田原橋は長さ2m程の小さな橋ながら橋名を示すプレートがある。

新町に入って写真の横断歩道辺りで旧東海道は左へ鉤の手に曲がる。現在は国道1号が直進するが、かつては曲がり角辺りに高札場が設けられていた。

鉤の手から振り返って箱根宿。

鉤の手から関所へ向かう旧東海道と新町の町並み。

鉤の手付近にある箱根関所周辺散策図。箱根宿は本陣や脇本陣の跡地に標識が無く、この周辺散策図に示されているのみ。箱根の歴史は関所ばかりがクローズアップされ、宿場についてはおざなりにされているように感じた。6軒もの本陣があったのだから、せめて宿場の歴史的場所に解説板があってもよいのでは、と思う。

新町の町並み。正面には箱根関所の京口御門。

店構えが老舗らしい傳兵衛蕎麦。意外と創業は新しいのかも。

そして箱根関所京口御門の門前に。続きは次の記事で。
【2018年11月24日(土)旧東海道 箱根宿】

東海道五十三次之内箱根 湖水図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「箱根宿」より引用
東海道を京方から来れば相模国最初の宿駅であり、神奈川県としても最初の宿駅となる箱根宿。箱根峠越えの最中、標高725m地点の芦ノ湖畔に位置し、東海道53次の中で最も標高が高い場所にある。箱根宿が誕生するのは、箱根関所が開設する前年の元和4年(1618)、箱根峠越えの利便を図るため、三島と小田原から50戸ずつを移転させ、新たに宿場町を成立させた。徳川家康により五街道の宿駅伝馬制度が敷かれてから17年後のことになる。なお、箱根関所の開設は箱根宿成立以前の慶長年間(1596~1615)まで遡るとの説もある。
箱根宿は江戸日本橋から東海道五十三次を10宿目、京都三条大橋から44宿目。天保14年(1843年)当時の人口844人、家数197軒、うち本陣6、脇本陣1、旅籠屋36軒。小規模な山間の宿場ながら、6軒もの本陣があったのが特筆すべきところ、箱根峠越えが大難所だったうえに、箱根宿から東の小田原まで約16.6km、西の三島まで約14.8kmと距離が長く、ここで宿泊する大名が多くいたのだろう。京方より芦川町・三島町・小田原町・新町・新谷町と続く町並み、宿東方の新町と新谷町の境に箱根関所が設けられ、江戸に入る鉄砲と江戸から出る女性を厳しく監視した。名産品は寄木細工、甘酒や山椒魚が名物。広重は「東海道五十三次之内箱根 湖水図」の題で、芦ノ湖と天下の険と言われた箱根の山間を延びる石畳の東海道を描く。

箱根宿芦川町の京方(西)外れ、向坂の登り口。前回の歩き旅でここを降ってきた私は、路傍に並ぶ芦川の石仏群に迎えられた。本日はここがスタート、石仏様に見送られて。

箱根宿京方出入口だった芦川橋。

芦川橋袂から参道を延ばす駒形神社。駒ヶ岳の地主神”駒形大神”を祀る宿内の鎮守。

駒形神社参道入口前より箱根峠・向坂方面。

芦川町の町並み。中世の宿場はここにあったが、現在は中心部から外れて行き交う人も少なく、少々寂れた感じ。

旧東海道(静岡県道737号)と国道1号の合流地点。左が国道1号、右が芦川町の旧東海道(箱根峠・向坂方面)。

上写真の合流地点にある石仏と山の神・関白道碑。山の神碑には橋向町と刻まれ、付近に存在した町名と思われる。関白道碑には秀吉が小田原城攻略の際に開削した道で、鞍掛山十国峠旧登山道に通じているとの説明書きがあるが、詳細不明。これを調べてみるのも面白そう。

芦川入口バス停。この辺りが芦川町と三島町の境にあたる。

三島町、天野又左衛門本陣跡(写真左手前)前。三島町には2軒の本陣と脇本陣1軒が設けられていた。

箱根関所南交差点を左に曲がったところが箱根町港。ここは箱根駅伝往路ゴールで復路のスタート地点。

海賊船が係留する箱根町港。

箱根町港に隣接してある箱根駅伝ミュージアムと畔屋。

畔屋の場所が天野平左衛門本陣跡。三島町にあった本陣2軒のうちの一つ。

畔屋前、箱根宿の町並み(小田原・江戸方面)。畔屋が三島町の北(江戸方)端にあたり、その先から小田原町。

小田原町に入ってすぐ、写真左手に石内太郎左衛門本陣(鎌倉屋)、奥に向かって駒佐五右衛門本陣、川田覚衛門本陣が並び建っていたが、当時とは随分と様相が変わってしまったようで、本陣の遺構を見ることはなかった。

雲助だんご本舗の辺りが駒佐五右衛門本陣跡。

箱根ホテル辺りが川田覚衛門本陣跡。

箱根ホテル北側を流れる水路に架かる小田原橋。小田原町と新町の境にあたる。

小田原橋は長さ2m程の小さな橋ながら橋名を示すプレートがある。

新町に入って写真の横断歩道辺りで旧東海道は左へ鉤の手に曲がる。現在は国道1号が直進するが、かつては曲がり角辺りに高札場が設けられていた。

鉤の手から振り返って箱根宿。

鉤の手から関所へ向かう旧東海道と新町の町並み。

鉤の手付近にある箱根関所周辺散策図。箱根宿は本陣や脇本陣の跡地に標識が無く、この周辺散策図に示されているのみ。箱根の歴史は関所ばかりがクローズアップされ、宿場についてはおざなりにされているように感じた。6軒もの本陣があったのだから、せめて宿場の歴史的場所に解説板があってもよいのでは、と思う。

新町の町並み。正面には箱根関所の京口御門。

店構えが老舗らしい傳兵衛蕎麦。意外と創業は新しいのかも。

そして箱根関所京口御門の門前に。続きは次の記事で。

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