追分宿

そもそも追分とは道が二つに分かれることをいう。中山道と北国街道の分岐点にある追分宿は、江戸日本橋から20番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口712人、家数103軒、本陣1、脇本陣2、旅籠35軒。北国街道は善光寺を経て越後へ向かう脇街道であった。
碓氷峠の 権現様は 主のためには 守り神
浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿 持ちながら

追分宿は、知る人ぞ知る追分節発祥の地である。もともと馬子たちが馬を曳きながら唄っていた馬子唄を、浅間三宿の飯盛女たちが唄うようになり、三味線と合いの手も入って座敷唄として洗練され、追分節として成立していく。やがて追分節は北国街道を北上して伝播し、越後から北海道までの関東以北の各地に広まった。有名なものに江差追分などがある。
一節に「追分 枡形の茶屋で ホロと泣いたが 忘らりょか」とある。これは宿場の西外れにあった茶屋を唄ったものであるが、現在もこの茶屋の建物が現存している。ちなみに枡形とは宿場の入口に設けられた防衛施設のことで、道を鍵の手に曲げ石垣の土手を囲い、見通しがきかないようにしたもの。

既に18時を過ぎてしまった。宿内の散策は次の機会に譲ることにして、松葉屋の前から左に宿場を離れ、夕闇に暮れる落葉松林の別荘地を歩いて信濃追分駅へ向かう。駅に着くと次の軽井沢行きまでは1時間ほど時間がある。急速に色を失っていく浅間山をみながら、列車の到着を待っていた。
【第13日目】踏破距離 約8.8km(軽井沢宿→沓掛宿→追分宿) 日本橋から156.4km 京都まで378km
まだまだ先は長い・・・
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